親鸞思想ーその史料批判 親鸞研究の根本問題 ー三つの提起ー

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著
明石書店

親鸞研究の根本問題
    ー三つの提起

     一

 かって親鸞研究は論争の花園であった。
 大正年間の喜田貞吉と本田辰次郎・梅原真隆等の激烈な応答 (1)、昭和二十年代より三十年代前半にかけて服部之総を発起点とする護国思想論争 (2)など、絢爛(けんらん)たる論争の熱気が今もそれら論文の紙背には満ちている。
 前者は親鸞の主著、「教行信証」の成立、さらには親鸞その人の人格の“信憑性”めぐって、後者は明治以降、「親鸞思想の眼目」として宗門によって“宣布”された「親鸞の護国思想」なるもののありなしや、をめぐって、諸学者は情熱的に討論したのである。

 しかるに近年 ー 一九七〇年代ー その熱気は斯界から去った。宗門内・外の諸学者をまきこんで、いそいで筆硯に向かわしめるような緊急の問題性、そのようなものをもはや親鸞思想ははらんでいないのであろうか。すべては“解決ずみ”で、真(ま)っ向(こ)から“争う”には大人気なきものと化し去ったのであろうか。それどころか、親鸞思想はすでに明白にされたもの以外、さらに人々の心裏をついて現代のさ中に立ちあらわれるべき、“新しき異形(いぎょう)”をもはやもちあわせていないのであろうか。

 それならばよい。 ーだがしかし、もう一つの事情がある。研究場裏から次々と“去られた”人々の多いことだ。往年、文書研究の「権威」として、親鸞文書に臨み、古くは服部や新しくは筆者などと激論を交わされた赤松俊秀氏は幽冥に去られた。「『自然法爾』消息の成立について (3)」の論文をはじめ、幅広い視野から親鸞をとりまく社会と思想動向を円転たる達文によって活写された森龍吉氏も、忽然として逝かれた。さらに数々の問題性をもつ親鸞資料を発掘して世に提示された日野環 (4)氏や歎異抄研究の「泰斗」として久しく斯界に臨み、最後に筆者と激越の論争を交わされた多屋頼俊氏等も隠遁の地に赴かれた。そのさい多屋氏と筆者と共に鼎立の論陣を張られた宮地廓慧も、遠く北米の地に晩年の地を移されたようである (5)。幸いに斯界の書誌等の研究をリードされた龍谷大学の宮崎円遵氏や小川貫弌氏、また大谷大学(現奈良大学)の藤島達朗氏等は御健在ではあるものの、老域の大家、あえて火中の論争裏に新たに身をおこうとはされぬかに見える。
 このような方々が生きた論争場から相継いで“去られた”あと、親鸞研究は不幸にも、一見冬枯れた廃園のような趣を仮に呈しているのではあるまいか。未来への親鸞思想の問いかけ、その課題が累々と園内に遺置された中で ー (6)

 けれどもこの一両年、入園の新しい扉が回転し、若々しい研究者が再び誇りやかに登場しはじめたようである (7)。わたしはそれらの論文に接しつつ、この稿を執筆しうるを幸いとする。
 したがって枝葉末節の叙述に非ず、未来の研究への一刺激として(それぞれの詳細な論証は格別稿に委ね)、今は簡明に現今の問題点の本質をつくこととしよう。これを一の問題提起として、諸家の批判をうれば幸いである。


     二

 まず「本尊」問題。
 近来、「浄土真宗」内 (8)で、宗議上の論争がある。一の親鸞会 (9)は、「御本尊は『名号にせよ』と教示なされた親鸞聖人に背いて、本願寺は木像を本尊としているのは、重大な誤りである。(10)」と主張して本願寺を攻撃し、他の本願寺側は、これを非としている。(11)
 わたしにとっては当然ながら、宗門上・法義上の争いは、一切関知するところではない。ただこの現実の争点を一契機として、親鸞思想の根本性格に関わる「本尊」問題を究明してみよう。

 第一に肝心の点は、“親鸞の第一史料(12)において、「本尊」の語は用いられていない”この一事である。教行信証・漢文と和文の小冊子・書簡・和讃等、かかる用語の出現すべき、いかなる直接史料にも、この一語は一切あらわれていない。 ー これが動かせぬ基本事実である。

 この点、従来の研究者に一種の錯覚を与えてきたのは、覚如の左のような記述であった。

A「聖人のおおせにいはく、本尊・聖教をとりかえすこと、はなはだしかるべからざることなり。・・・・・・本尊・聖教は衆生利益の方便なれば、親鸞がむすびをすてゝ他の門室にいるといふとも、わたしに自尊すべからず」(口伝鈔)

“覚如は親鸞思想の無二の祖述者”そのように見なす信仰者の立場からは、右の史料こそ“文句のない証言”として見えるであろう。けれども、冷静な史料批判の立場からは、これはうけいれがたい。なぜなら同じく口伝鈔に、

B「下野国さぬきというところにて恵信御房の御夢想にいはく『堂供養するとおぼしきところあり、・・・・・それに絵像の本尊二鋪(ふく)かゝりたり・・・・・・・その形態躰(ぎょうたい)ましまさざる本尊を、人ありてまた人に、あれはなに仏にてしまぞやと問(とふ)。・・・』

の一文があるが、これがあの恵信尼文書を元にした、覚如の造文であることを疑う人はあるまい。(13)

ところが、当の恵信尼自身の文書では、

C「ゆめをみて候しやうは、だうくやう(堂供養)かとおぼへて、・・・よこさまにわたりたるものに、ほとけをかけまいらせて候が、一たい(体)は・・・いま一たいはまさしき仏の御かほにてわたらせ給候しかば、これはなにほとけ(何仏)にてわたらせ給ぞと申候へば、申人はなに人ともおぼえず、・・・」

とあって、当該部分に「本尊」の用語は全く出現しない。すなわち覚如の造文は、原文の“忠実な叙述”というよりは、“自家の用語(「本尊」等)をもってした書き換え”という手法に立っていることが判明する(14)。この点、先のAの文と対応すべき歎異抄第六条にも、一切この「本尊」の語は姿を見せていないことが、思いあわせられよう。

 これはもちろん、“叙述の一手法”であって、必ずしも覚如の造文法が、責められるべきものではあるまい。と同時に、これらの覚如史料をもって、“親鸞が「本尊」の語を用いた”証拠となしえぬこと、それは火をみるより明白である。逆に親鸞自身の第一史料が疑いなく明示するように、“親鸞は自己の文章において「本尊」の語を用いていない” ーこの一事が重要である。

 さて親鸞の著述に『尊号真像銘文』がある。この「尊号」(「南無阿弥陀仏」)こそ後代(覚如・蓮如等)において「本尊」と呼ばれたものだ。次の「真像」もまた、通常では「本尊」に当たりうること、奇しくも、先の恵信尼文書(C)から覚如文献(B)への書き換えを明示するとおりである。(15)
 したがって右の親鸞の著述は『本尊銘文』と簡明に呼び変えても、さしつかえないように見える。ところが親鸞はそう呼ばず『尊号真像銘文』という、いわば“冗長な呼び名”にとどまっている。彼は「本尊」という単語を知らなかったのであろうか。そんことはありえない。なぜならこの語は、仏教上の主要述語の一つである上、彼の筆写した『西方指南抄』にも、この語は明確にあらわれているのであるから(16)。したがって“親鸞は、知りながら敢えて注意深くこの「本尊」という語の使用を避けている。”そのように解するほかはないのである。ーなぜか。

 この問いに対し、親鸞自身は直接答えていない。代わってわたしが“推察”してみよう。
 「本尊」の語の意義は次のようだ。 ー「信仰・祈祷の対象として、寺院に安置する仏・菩薩」(広辞苑)。すなわち本尊の語は、「寺院」の存在を前提にしているのである。ところが東国の親鸞集団は少なくとも通例の「寺院」の存在を自明の前提にしてはいなかった。むしろ旧来の寺院に依拠せず、粗末な家屋や堂舎を依拠点にした。また、時として転転と場所を移動した。ささやかな集会、それが通常の活動拠点だったのである。親鸞がこのような東国の親鸞集団に向けて送った小冊子・書簡類の中に、「本尊」の語が使われていないこと、それは偶然か。否、むしろ必然である。そこ関東の地は、真言や天台等の諸寺院の中の、伝統を負うた諸「本尊」の例立する、にぎにぎした仏域だった。そしてそれらのすべてに“背を向けて”原初親鸞集団は貧しき呱々の声をあげていたのであるから。


    三

 つづいて「本尊」問題の新たな局面をさぐってみよう。
 親鸞集団の中で、「本尊」の用語を使ったことが文献上確認される、最初の人は誰か。それは覚如ではない。親鸞の弟子にして親鸞集団のリーダーであった性信である。その史料は『親鸞聖人血[月永]文集』だ。
 この文集は、ながらく本願寺系の学者によって、偽作視されてきた。“覚如の唱えた三代の伝持(親鸞ー如信ー覚如)論の「模倣」であり、唯善事件集結(一三〇九)後、退勢に陥った横會根門徒(性信系集団)の手による偽作”そのように推定されてきたのである。(17)
 けれどもその後、血[月永]文集蓮光寺本(18)の出現によって、右の推定が当たっていなかったことが明らかにされた(19)。ただ、このわたしの提議に対し、何の反論も行わぬまま、右の推定を「定説」とし、これに依拠して立論する研究者を時に見るのは、わたしにとっては“あさましき”研究状況と見える。(20)
 ともあれ、今わたしは蓮光寺本による親鸞聖人血[月永]文集をもって、性信の真作とし、正嘉年間の(一二五七)頃の成立と見なしているのであるから、当然ながらこの立場から論をすすめよう。(反論ある研究者は、遠慮なく、これに反論されよ。)

 その中に次の一文がある。

 「教行信証六末云・・・(中略(1))・・・右以此真文性信所尋申早預本尊也、源空聖人奉親鸞聖人本尊銘文・・・(中略(2)(21))」

 ここにはまさに「本尊」「本尊銘文」の語が出現している。では、この本尊とは何を指すか。

(一)「本尊の銘文」として(2)「若我・・・南無阿弥陀仏、釈善信」の詞句(右の中略(2)を提示している。したがって(2)部分は「銘文」であって、「本尊」ではない。

(二)親鸞の教行信証中の文(右の中略(1))では、右の(2)は、「真影の銘」と記されている。すなわち「真影の銘=本尊の銘文」であるから、性信がここで「本尊」と呼んでいるのは、「真影」(親鸞が筆写した法然の真影)である。

(三)以上によって、性信は“法然の真影”を「本尊」と呼んでいたことが判明する。

 この帰結は、現代の真宗系学者にとっては、一見“肯(あな)うべからざる”帰結と見えるであろう。なぜなら現代の真宗系諸寺院では、「本尊」とは“名号に非ずんば、南無阿弥陀仏の木像や画像”これが常識だからである。
 けれども、逆にわたしは想起する、親鸞の左の和讃を。

 阿弥陀如来化してこそ
 本師源空としめしけり
 化縁すでにつきぬれば
 浄土にかえりたまひしき
            <浄土高僧和讃 源空聖人>

 ここでは法然は「生ける阿弥陀」に他ならぬ。では、浄土の阿弥陀は「本尊」であっても、此土に「生ける阿弥陀」は「本尊」たりえないのか。そう直截に反問されれば、いかなる真宗諸知識も言に窮しよう。“いや源空和讃は「文飾」にすぎぬ。あまり真面目にとってはならぬ。”そういった親鸞の真面目な和讃「軽蔑」の言辞に奔らざる限り。
 後代の評価はさもあらばあれ、親鸞在世当時の“真面目な”働き手たる性信にとって、旧寺院に飾られた「本尊」(当然その中には「阿弥陀仏像」もありうる)と同じく、あるいはそれ以上に、「生ける阿弥陀」たる法然の像、しかも傾倒せる恩師親鸞が、若き日法然その人の許可を得て模写したという、その「真影」も、何物に劣らず、「本尊」の名にふさわしいものだったのではなかろうか。(22)


   四

 以上の帰結は新たな問いを生み出す。“性信は、なぜ「本尊」の語を使ったのか”と。人が一つの単語を使うとき、必ずその実体が背後にある。それが通則だ。すなわち性信が「本尊」の語を使ったとき、性信は“親鸞の模写した法然の真影”を「本尊」として実際に使用していた、そう考えるほかない。
 ということは、先の論述のしめす通り、また「本尊」という単語の語義がしめす通り、この術語は、ある種の「寺」(もしくは“固定した礼拝の堂舎”)の存在を背景としている。したがって“性信は「本尊」と見なすべきものをもっていた”という命題は必然的に“性信は「寺」のごときものをもっていた”ーーそういう帰結、未知の認識領域へと至り着かざるをえないのである。この興味深き問題については、別稿で詳述しよう(23)


    五

 次は「証文」と「目安」問題に移ろう。
 歎異抄中、最大の論争点となってきたのは、次の一句である。

「大切ノ証文トモ少々ヌキイテマヒラセサフラフテ目ヤスニシテコノ書ニソエマヒラセテサフラフナリ。」

 この「大切ノ証文」に当たるものとして、あるいは最初の十條説(多数説)、あるいは散逸説(了祥)、あるいは末尾の二条説(多屋氏)などが相対立して今日に至っていた。これに対し、わたしは本抄に添付された流罪記録中に「・・・云々」として、点々と挿入されている文書類(「流罪の下知状」等)がこれに当たる(流罪記録全体としては「目安=訴陳状」の形式の一部)ことを論証したのであった(24)
 昭和三十年以来のわたしの諸提起の中で、近来もっとも応答者に恵まれたのは、この分野であろう。たとえば細川行信氏の「『歎異抄』の『大切ノ証文』について(25)」や重松明久氏の「歎異抄の構成について(26)」等がこれである。

 先ず、細川氏の場合。
 妙音院了祥の散逸説を継承し、右の一句でしめす唯円の文書は「既に蓮如の書写以前に散逸し、その具体的内容を知ることが出来ない」とされる。けれども「こんにち高田派本山、専修持に所蔵される親鸞筆の『経釈要文』をはじめ、真仏筆の『経釈文聞書』や顕智の『抄出』『見聞』『聞書』などより、その類型だけは一応の想定が可能ではなかろうか。」というのである。
 では、細川説と先行の了祥の差異はどこか。それは流罪記録に対する判断である。了祥の場合、散逸した聖教類と共に、この流罪記録は唯円が「私ニソエ」たものとしながらも、これを「大切ノ証文」の一部と見なしている。ところが細川氏の場合、流罪記録をもって「本文の後に、唯円が書き添えられたものであろうか」として、
その原存在性を認めながら、これを「大切ノ証文」からは除外されたのである。すなわち、右のような“散逸した聖教類”のみがこれに当たり、それは現在はすべて現存しない、というのである。いわば了祥の散逸説をさらに、“純化”したもの、といいうるかもしれぬ。
 この細川説の場合、その“純化”によって、誰にも見やすい難点がかえってあらわになったようである。なぜなら一方で、明白に本書に現に“副(そ)えられ”ていて、本文と異なり一種異彩を放つ流罪記録について、著者(唯円)がこれに一言もふれず、他方では百パーセント付載物としては現存しない「無存在の聖教類」をもって“実は本書に副えられて”いて、著者が「ソエ」たと、明記したもの、と“仮想”せざるをえない点である。「そのような齟齬(そご)もありうる」と弁ずるとしても、率直にいって史料事実上の矛盾である。少なくとも割り切れぬ“しこり(27)”を残すもの、といわざるをえないであろう。


    六

 次に重松論文を見よう。
 氏は本書中に「唯円が証文といい、又は単に書名乃至著者名をあげた計六例」が「大切ノ証文」に当たる、とされた。すなわち

(1) 「経釈をよみ学ぶといへども・・・順次の往生いかゞあらんずといふ証文をさふらうべきや」 ー親鸞書簡(及び法然の「一枚起請文」)

(2) 「諍論のところにはもろもろの煩悩おこる。智者遠離すべきよしの証文さふらにこそ」 ー『宝積経』(往生要集、所引。細川氏等はこれを「七箇条の起請文」の第二条にもとづくとする)

の著名の二つの引文と共に、本書中の (3) 親鸞書簡(くすりあらばとて・・・) (4) 唯信鈔(弥陀いかばかりの・・・) (5)親鸞和讃(金剛堅固の・・・) (6)善導の金言(自身はこれ現に・・・)の四引用句がこれである。

 けれども、ここにも見やすき難点がある。

 <その一>本書中のさ中に存在するものを「コノ書ニソエマヒラセテ」といいうるか、という問題である。氏は「添加の意味に解し、本文中に加えられているものと解すべきであろう」「付録的という意味に解すべきでなく、添加的に文章中に挿入した、という意味と受け取るべきであろうと思われる」と重ねて述べておられるけれども、そのような実例を出しておられない。もちろん単に、「添加」と意の実例というのでなく、当の本のさ中に引き文したものを「コノ書ニソエ」といっている、同時代(平安末〜鎌倉期)の用例である。
 なぜなら従来の論者のすべてが、右のような氏のあげた用例は百も承知ながら、これに「大切ノ証文」を当てえなかったのは、一に右のような困難点のためだった。だから氏が改めてこれを「新説」として提示しようとされる以上、他のいかなる論証にもまして、この一点についての十二分の挙例・引証こそ必要不可欠なはずだからである(28)

 <その二>氏のあげられた (1) (2)の例は、いずれも「・・・といふ証文」「・・・よしの証文」とあって、いずれも“取意”ないし“要略”であり、決して直接法の引用ではない。これに対し、大切の証文を「コノ書ニソエ」といった場合、「添付」であるからやはり「直接引用」の趣が強いこと、誰しも直截に認めざるをえぬところである。この点も、一弱点となろう。

 以上の二点、いやしくもこの「大切ノ証文」問題を“静思”した、いかなる研究者も、一度は脳裏をよぎった問題なのではあるまいか。したがって氏の再論が望まれる。


     七

 両氏の論文を通観して、わたしの特記すべきは次の三点だ。

(一)昭和四十五〜六年、中外日報における多屋・宮地氏との鼎論の中で、わたしは「口伝と証文」の差異を力説した(29)。「口伝」とは“文書によらず、口づから師匠から弟子へと伝えられたもの(言葉)”であり、「証文」とは、“証拠として信憑すべき文書”である(一に公的な下知状や起請文や書状、二に経典)。「中世」においてこの「口伝」と「証文」の二者は乱るべからざる対蹠(たいせき)的概念・用語であった。したがって歎異抄中の最初の十条(多数説・宮地説)や末尾の二条(30)(多屋説)は、いずれも「口伝」であって「証文」とは呼びえぬ、と。このわたしの提言のもつ道理は、幸いに細川・重松の両氏によってうけ入れられたかに見える。僭越ながら、研究史上の一前進と証しうるであろう。

(二)両氏とも、流罪記録をもってほぼ「唯円の自記」として認めておられる。この一点の立証こそ、わたしの一連の論証にとって第一の焦点をなすものであったから(31)これを喜びとする。

(三)反面、両論文とも、「証文」の一語に目を奪われて、一方の肝心の用語「目安」に対して十分の追跡が行われていないように思われる。細川論文ではこれにほとんどふれることがない。また重松論文では、「このさい、目安というのは、従来大谷系において、目あて、標準と解したのが、妥当とすると思われる。」といわれるものの、その実例をあげておられない。「ソエル」問題と同じく、同時代の実例をあげ、自家の論証の裏付けとする、これが論証を堅実ならしめ、相互の論争を一段と有効にするため、何よりの要務ではあるまいか。氏が反面、わたしの「証文=文書類」の用例を補強する、同時代の実例をあげてくださっただけに、目安の「自家の用法」をあげておられない点、一層奇異に見えたのである。

 この問題に関して、わたしとしては新たに提起すべき興味ある視点を有するのであるが、これは別稿にゆずりたい。


    八

 最後のテーマは「親鸞思想の機軸」問題だ。
 この初夏、わたしは久しく待った、若き研究者の論文に出会う喜びをえた。平雅行氏の「中世的異端の歴史的意識ー異端教学と荘園制的支配イデオロギー(32)ー」がこれである。氏は黒田俊雄氏の、中世の支配体制としての「顕密体制」論を背景とし、それに対する「異端教学」として、親鸞思想の位置づけを試みられた。その中であるいは家永三郎氏の思想史学の方法を批判し(33)、あるいは永田広志・服部之総・川崎庸之助氏等の、親鸞をとりまく時代論の批判を意欲的に実行された。(34)
 中でも、本稿でとりあぐべきは、「第四節、屠沽下類のわれら」と題する項目下で展開された議論である。氏は、わたしの若き日の論稿「親鸞の悪人正機説について」(日本歴史九五号、昭和三十一年)をとりあげられた(35)。そこでわたしは親鸞の『唯信鈔文意』中の「具縛の凡夫、屠沽下類・・・かようのあきびと・猟師・さまざまのものは、みないし・かはら・つぶてのごとくなるわれらなり」の一節に注目していた。そして親鸞自身及びこの『文書』の送付対象たる「ゐなかの人々」が、この「われら」の一語で要約されている点を指摘した。そしてこれはいわゆる悪人正機説を前提にした聖人・善人批判と共に、「朝廷・領家・地頭・名主への仮借なき弾劾への理論的基礎を構成せしめた」ものであり、もって親鸞思想の核心をなすところとした。

 この点を平氏はとりあげられ、この「屠沽の下類」のテーマをさらに敷衍(ふえん)し、展開しようとされたのである。その上で、親鸞が『一念他念文意』の中で、

「是人といふは是は非に対することばなり。真実信楽のひとおば是人とまふす、虚仮疑惑のものおば非人といふ、非人といふは、ひとにあらずときらひ、わるきものといふなり。是ひとはよきひととまふす」

とのべ、世上の評価を逆転していることを指摘された。すなわち旧仏教になずみ、専修念仏を疑惑し、弾圧する上層者こそ「非人」であり、専修念仏をうけ入れる、「屠沽の下類」たる「われら」こそ「是人」だ、という一八〇度の用語転換が、親鸞によっていとも軽やかに、そして大胆に行われている。その点を氏は指摘された。鋭き着眼といわねばならぬ。

 このような「屠沽の下類」と「非人」に対する親鸞の一方の逆転的把握は、他方の「主上・臣下、背法違義」の論理と深くかつ鋭く対応し、契合している。 ーっここに親鸞思想の脊梁(せきりょう)が存在する。

 なぜなら、世上の常識においては、「主上・臣下」は常に「法」を履行し、「義」を施行する側の者であった。いいかえれば、必ず彼等は「是人=よき人」以外ではありえなかったのである。しかし今(末法濁世の今)、ことは逆転した。彼等為政者は法然や専修念仏者に迫害を加え、「背法違義」の徒、すなわち「非人=わるきもの」と化するに至った。これが親鸞の明示した根本の批判である。
 この「屠沽の下類」云々の文言(聞持記等の引文(36))も、「背法違義」の文言(37)も、共に教行信証中に疑うべくもなく明記されている。したがって眼(まなこ)をそらざず教行信証を読む人ならば、右の基本の論理構造、時代批判の構造が、親鸞思想の核心に存在すること、それを否定しうる人はいないのである。

 しかるに封建期(江戸時代)及び明治以降の本願寺の理解は、これに反した。あるいは「主上・臣下、背法違義」の一句を教学の「わく外」に置き、あるいは「屠沽の下類」の基軸をなす「賎民」層をもって、「われら」ならぬ、「かれら」のごとく(差別的に)扱って怪しまなかった。

 そのような「(伝統の)教学」、そのような「(歴代の)上人」、そのような「(類代の)檀家」であるならば、口に“親鸞聖人讃仰”をいかに呼号していようとも、実は「ありのままの親鸞思想」とは、その本質において何の関係もない。一介の孤立たる探究者たるわたしの目には、そのようにしか見えないのである。そしてこの一点こそ、凡百の親鸞研究家の敢えて触れざるところ、この親鸞研究の根本問題を、
若き研究者の論稿を機縁として、ここに明示しうることを幸いとする。

 しかもこのような根本の視座から見るとき、親鸞思想は、平氏の取られた立場のような“「中世」の顕密体制下の異端教学”たる性格に決してとどまるものではない。古代より現代に至るまで、日本列島に一貫する「尊卑体制」、すなわち上に神聖なる概念としての「天皇」や「神君(38)」たち、下にいやしむべき観念として、さまざまの名称を付せられてきた(39)「賎民」たち、という基本構造に対する、決定的な思想的批判者、真の誇りある「異端」としての思想、それをわたしは日本思想史上、親鸞思想の基本の位相として厳しく確認せざるをえないのである。


    九

 以上、近年の係争点や研究論文に関連して、親鸞研究の基本をなす、三個の問題点を提示した。

 第一の「本尊」問題では、“「本願寺以前」の問題を、「覚如以後」の文献や用語で解しようとしてはならぬ”これが方法上の根本問題であった。無論、親鸞の時代は「本願寺以前」に属するのである。
 散漫なる日常言辞の間においては、必ずしもそのような厳密さは要求されぬかもしれぬ。しかしながら“親鸞の時代の、親鸞の真実を厳しく求める”この根本のテーマを見失わない限り、右の方法上の用意は不可欠である。
 ここには、ここから発して、多様な新テーマの展開すべき、未来の沃野(よくや)がある。

 第二の「証文と目安」問題では、わたしの提起に対する批判的論文をえたことを喜びつつ、これに対する再批判の眼目のみをしるした。これは紙数の制約のためであるから、当然改めて詳論する。
 ここにおける方法上の基本問題、それは次のようだ。

 “唯円の用いた単語や語法は、唯円の生きた時代(鎌倉期)の文献上にひろく同例を探り、その実例から、実証的にその意義を帰納せねばならぬ”と。

 また本稿ではふれえなかったけれども、同時代の文書様式や筆跡面からの精緻な追跡も不可欠である。
 これらの点、研究者にとって絶好の試金石だ。多くの若き研究者のエネルギーの傾注せられんことを望む。

 第三の「親鸞思想の機軸」問題。わたしの二十年余の提起に対し、多く親鸞研究の大家たちはこれを“黙殺”されることが多く、わたしの深く遺憾とするところであった。しかるに今回平氏の好論文を得て、これを紹介しつつ本稿を草したえたことを喜びとする。宗門内の研究が往々狭小な視野にこもりやすいのに比し、平氏は「中世」の支配体制下の親鸞思想、という広い視座に立たれた。そこに新たな“発見”も生じえたのであろう。
 もちろん、この問題においても、残された課題は数多い。たとえば日蓮や道元や法然系他集団等(40)との比較、旧仏教思想の再検証等々がそれである。

 ここにあげた論文以外にも、新たな機運は生まれつつある(41)。再びささやかな論争が斯界の研究水準を高める日、その日をわたしは待望し、一旦本稿の筆を閣くこととする。



(1) 古田『親鸞思想ーその史料批判』本書所収。六〇〇ページ参照。

(2) 赤松秀俊、二葉憲香、三品彰英、笠原一男、道端道秀の諸氏及び筆者等。

(3) 史学雑誌六〇の七、昭二六。

(4) たとえば「三河上宮寺蔵聖教断簡について」(『親鸞聖人』大谷大学編、所収)等。

(5) 古田「口伝と証文」(正続)参照(『親鸞思想』所収)

(6) たとえば古田「親鸞研究の根本問題ー九つの問い」(家永三郎教授東京教育大学退官記念論集ー『古代・中世の社会と思想』三省堂刊、所収)参照。

(7) たとえば本稿でふれた平雅行氏の論文等。

(8) 東西本願寺はそれぞれ「浄土真宗」内の一派に属する。

(9) 「浄土真宗親鸞会」(富山県高岡市芳野三二の二)(高森顕徹氏)

(10)親鸞会著『(親鸞会と本願寺の主張)どちらがウソか』一ページ。

(11)たとえば西本願寺の伝道院所属の紅煤英顕氏は次のようにのべておられる。「宗祖が本尊として扱ったということがはっきりわかるもので現存するものは真蹟の名号本尊七幅だけである。しかし宗祖の滞在していた稲田の草庵の本尊は聖徳太子であったといわれ、下野高田の如来堂(専修寺)には現に一光三尊の阿弥陀仏像が安置されており、又、恩師法然上人は形像を本尊としていたことは明らかなことから、宗祖が名号だけを本尊として形像を全く廃捨したとは考えられない。蓮如上人も『御一代記聞書』に「他流には名号より絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」と述べてはいるが、これは木像や絵像を本尊として全く認めないというのではない。事実、蓮如上人の下付した絵像の本尊が現存している。又、覚如上人や存覚上人においても、名号本尊がすすめられてはいるが、絵像や木像を本尊として認めないというのではなく、絵像や木像を本尊として認めている文もある。」(紅煤英顕「高森親鸞会の組織と教義上の問題点」)

(12)親鸞自身が書いた文献

(13)夢を見た場所については、「常陸の下妻と申候ところに境の郷」(恵信尼文書)と「下野国左貫」(口伝鈔)とのちがいがあるが、説話内容はほぼ同じである。

(14)親鸞も「西方指南抄」中の七箇条起請文末尾の連署中の自書名の「僧[糸卓]空」を後の「善信」に書き換えている。

インターネット事務局注記2003.11.16

[糸卓]空(親鸞の最初の僧名)の[糸卓]は、糸偏に卓です。

(15)この点、覚如が「名号」以外をも「本尊」と呼んでいることは明瞭である。

(16)親鸞は「西方指南抄」の「法然聖人御説法事」の中で、次の用例を書写している。

 1. 「ただし、真言宗の中に五種の法あり、その本尊の身色、法にしたがふて各別なり」

 2. 「十万の行者の本尊のために、小身を現じたまへる化仏あり」

 3. 「娑婆世界の衆生、往生の行を修せしむとするにその本尊なし。・・・鶏頭摩寺の五通の菩薩の曼陀羅といへる、すなわちこれなり」

4. また智光の曼陀羅とて、世間に流布したる本尊あり」

(17)親鸞聖人全集書簡篇解説

(18)『親鸞思想』(第二篇第一章第二節、附篇第二節)参照。2003.11.10訂正済

(19)『親鸞思想』(第二篇第一章第二節、附篇第二節)参照。2003.11.10訂正済

(20)たとえば山本充郎「歎異抄成立についての一つの試論」(日本歴史三一六号、一九七四年九月)

(21)注(18)参照。蓮光寺本以外では、種々の“書き変え”が見られる。

(22)後代の真宗教団内の目からは、あまりにも“突飛すぎる”このような「本尊」の語の使用を、後代の真宗教団内の人間(「偽作者」)がなしうるものではないであろう。逆に「生ける阿弥陀仏たる法然の直弟子」として、親鸞に傾倒した東国の門弟集団、そのリーダーたる性信たちによってのみ、“語られえた”独自の「本尊」の用法と見られよう。

(23)『親鸞思想』本書所収。七五六ページ参照。2003.11.10訂正済

(24)『親鸞思想』第二篇第二章第二節。2003.11.10訂正済

(25)大谷学報。第五十三巻第一号、昭四八、六月三〇日。

(26)日本歴史第三八四号、一九八〇年五月号。

(27)なお、細川氏の論証中、一個の問題をあげておこう。氏は親鸞書簡(血[月永]文集第三通)中の「おほかたは、唯信抄・自力他力の文・後世ものがたりのききがき・一念他念の証文・唯信鈔の文意・一念他念の文意、これらを御覧じながら」の文をあげ、「このうち、『一念他念分別事』を『一念他念の証文』と呼ばれている」といわれ、これをもって「聖覚と隆寛の著書」なども、唯円によって「大切ノ証文」と呼ばれえた証拠とされた。しかし、これは微妙な論旨の“ずれ”が存在する。なぜなら親鸞が「この文どもは、これ一念の証文なり」(一念他念文意)といっているのは、「恒願一切臨終時・・・」などの経典の「文」のことである。「一念他念『文』意」の「文」もこれだ。決して「一念他念分別事」という“隆寛の文章”を指しているのではない。したがって、“聖覚の「唯信鈔」や、隆寛の「一念他念分別事」の類がもとは副えられているて、これを唯円は「大切ノ証文」と呼んだのだろう”という細川氏の論断の中には、いささか“論証のずれ”が存在する。

(28)氏は血[月永]文集(二)所収の消息の「慈信ほどのまうすことに、常陸・下野の念仏者の、みな御こころどものうかれはてて、さしもたしかなる証文を、ちからをつくしてかずあたまかきまいらせ候には、それをみなすてあふてをはしまし候ときこえ候へば、ともかくもまふすにをよばず候。・・・」を例にとり、「唯円が『大切ノ証文』を目安として、この書にそえたというのも、親鸞が『ちからつくしてかずあたまかきまいらせ候』とするのと、対応する表現であろう」といわれるけれども、この親鸞の文は、別段この書簡中に引文した「証文」の文言を、「この書簡に添えた」といっているわけではないから、今の問題点に対する回答となりえないことは明白である。

(29)注(5) 論文。

(30)「聖人のつねのおほせには、弥陀の五劫思惟の願・・・」「「聖人のおほせには、善悪のふたつ惣じてもて存知せざるなり・・・」の二つの親鸞の言葉。

(31)『親鸞思想』第二篇第二章第二節。

(32)史林六三巻三号、一九八〇年五月。

(33)家永三郎『中世仏教思想史研究』「思想史学の立場」(史学雑誌五八ー五)

(34)永田広志『日本封建イデオロギー』服部之総『親鸞ノート』川崎庸之「いわゆる鎌倉時代の宗教改革について」(歴史評論一五号)

(35)当論文は、紙数制約によって行文不十分のため、論旨を更に十二分に展開することを期し、『親鸞思想』には収載しなかった。ところがその後、古代史研究に入り、所期を果たせぬまま、今日に至っていた。

(36)元昭律師「具縛ノ凡愚屠ノ下類刹那ニ超越スル成仏之法ナリ」聞持記「屠ハ謂宰(ツカサ)殺(ト)ルヲ沽ハ即醢*売如シ此ノ悪人止由テ十念便得超往[山/豆]非スヤ難信ニ」(教行信証信巻、親鸞聖人全集三八〇ページ)

インターネット事務局注2003.11.10
醢*は、右の変わりに因。
[山/豆]は、山偏に豆。

(37)教行信証後序(親鸞聖人全集三八〇ページ)

(38)徳川家康の尊称。

(39)たとえば「非人」等。

(40)平雅行氏の「法然の思想構造とその歴史的位置」ー中世的異端の成立ー」(日本史研究一九八、一九七九年二月)もその一例であろう。

(41)たとえば山本充朗氏の「中世東国の農民についての一考察」(日本歴史第三七七号、一九七九年一〇月)や河田光夫氏の諸論考(未発表)がある。(『河田光夫著作集』<1・2・3>明石書店刊、等参照ー後記


内容は古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

新古代学の扉 事務局  E-mail sinkodai@furutasigaku.jp



著作集2目次に戻る

ホームページに戻る


制作 古田史学の会