親鸞思想 ーその史料批判ー 史料批判の方法について あとがき

親鸞思想

その史料批判
古 田 武 彦 著

明石書店

親鸞研究の方法

史料批判の方法について
ー建長二年文書(三夢記)をめぐって

 わたしの研究には、一定の文献処理上の原則が存在する。

 それは、わたし自身にとっては、単なる常識的な事がらに属する。しかし、それはしばしば学界の「定説」に相反している。否、むしろつぎのように言うべきであろう。わたしにはもっとも自然な理解方法による帰結と見えるものが、意外にも学界の「定説」と相矛盾するとき、そのときわたしは研究を開始する、と。

 この問題について、つぎに簡明にのべよう。わたしたちの眼前に、一個の文献が存在する。それは一個の対象物(Gegenstand)である。これに対する、わたしたちの人間の側の方法はいかにあるべきだろうか。その対象の中に、わたしたち現代の人間にとって疑問とすべき点が見出されたとき、あるいはその対象全体が疑わしく見えたとき、直ちにわたしたちはその対象の価値を否定し去ってはならない。すなわち、対象全体の信憑性を否定したり、(後代の偽作と見なす)、その対象の不可解に見える部分を改めたり(原文改定)、その記事を作者の迷蒙に帰因せしめたり(原文杜撰説)してはならないのである。

 もしかりに、そのような論断をくださねばならぬときは、あくまで、そのための「必要にして十分な論証」が要請されねばならぬ。それを徹底して行うことなく、不十分な根拠に基づく「憶測」や二、三の微証を手がかりした「推定」によって、右のような論断を行ってはならない。

 そのさい、わたしたち研究者の明徹した視野をしばしばさえぎるものに、「定説」がある。学界の「定説」や「通念」は、従来の研究史の総体的な帰結として、貴重な「遺産」である。ーそれゆえ、しばしば生きた研究の新しい進展の妨害物となるのである。なぜなら、そのいわゆる「定説」や「通念」は、過去の研究史上、必ずしも必要にして十分な論証を経過してきていない場合があるからである。

 ことに歴史学の場合、現代は、その直前に当たる封建期という、各文献の「不可侵の権威」が強調されすぎた長い期間に対する、反省期に当たっている。否、なお明治以降の時期においてすら、諸権威(たとえば天皇家や本願寺教団の権威)の圧力は、文献に対する疑いの目すら封殺してきた実績をもっているのである。それゆえ、近代史学者は、これら権威を背景にした文献に対する「疑いの目」を宝とした。これはまことに正しい。しかしながら、その反面、「必要にして十分な論証」なしに疑い、その疑いが啓蒙主義的なムード(権威をバックにして作製され、もしくは保持されてきた文献を疑惑の目で見ることが「科学的」もしくは「近代的」な態度であるというムード)支えられて、学界に「定説」化する、という傾向も絶無ではないのである。

 これは、決して“疑いすぎることは災いである”といった「復古主義」的な研究思想をのべているものではない。あくまで徹底して疑い、必要にして十分な、確固たる根拠をもって断固否定すべきである。それなしに、ムード的にもしくは薄弱な論拠をもって否定すべきでない、というにつきるのである。なぜなら、そのような薄弱な「否定」は、人間のもつ強靭な否定の精神への尊重では決してない。逆に、否定的ムードという初歩的な精神領域に満足することに停滞する、浮薄な精神である。

 このような研究史上の精神領域に位置するわたしたちにとって、文献を根本的に再検証し、従来のいわゆる「定説」に向かって大胆な疑いの目を向ける、それが不可欠の課題とならざるをえないであろう。その場合の具体的な作業はつぎのようである。

 一個の史料に対し、その全体もしくは部分を既成の「定説」が疑っているとき、その「定説」の“疑い”の根拠を再検証する。そしてその“疑い”が単なる思いつきや二、三の微証にしか手がかりをもたぬ薄弱「推定」ではないか、どうかを、客観的に洗い直す。そしてそこに「必要にして十分な論証」が成立していないとき、わたしたちは敢然と「定説」に反して、その史料に対する「無実の容疑」を解き放たねばならぬ。

 このことは、逆の場合、すなわち定説が一個の史料をうたがいなしと信憑しているにも関わらず、その史料の信用すべからざる事実を発見したとき、必要にして十分な論証をもってその史料の信憑性を勇敢に否認するーこれと本質的に同じ、人間精神の行為なのである。

 わたしの研究経験においては、最初に歎異抄末尾の「流罪記録」において、“その全体の信憑性を疑われている”というケースを見た。次いで三国志魏志倭人伝において「邪馬壹国」の場合は、その「壹」が誤写として「臺」に書き換えられ、それが「定説」化しているという現状に直面した。一定部分の信憑性が疑われていたという事例である(『「
邪馬台国」はなかった』参照)。

 今、この論文(1)の場合 、建長二年文書(「三夢記」所載)が、その全体の信憑性が疑われていたのである。
そしてこの文書を偽作視する、従来の「定説」の論拠を検証して、それが全く薄弱な根拠の上にしか立っていないことを発見した。その上、この文書の内容が先ず鎌倉初期の文書として、さらに親鸞の真作文書としてまさに十分な適格条件を具有していることを論証したのである。

 これに対して、「定説」に立つ論者はつぎのように反駁するかもしれぬ。“いやしくも「定説」を破るには、もっと明確な証拠が必要だ”と。これはつまりは“親鸞の真筆(もしくはそれに準ずる高弟の筆写)でないから、信用しがたい”ということとなろう。しかしこの論者は忘れている。「親鸞聖人後消息集」や「末燈鈔」などは、親鸞の真筆の類なきままに「親鸞の真作書簡の集成」とされて、誰人にも疑われていないことを。さらに大きく忘れている。偽作視する根拠は決して確証たりえぬ、薄弱なものにすぎなかったことが証明された今、再び「偽作説」を復活させるためには、まさにその「復活意図者」に対して、「必要にして十分な論証」がきびしく要求される、という肝要の一点を。それなしに、「従来、定説であった」という“過去の栄光”のみ依拠して偽作視を立言するとは、結局「新たな権威主義」の樹立にほかならず。もはや何の学問的発言でもありえないのである。すなわち、わたしたちは「史料に依拠する」立場を堅持するのであり、「学界に依拠する」立場を排するのである。(「邪馬台国」の例、省略)。

 いかに「定説」が圧倒的多数の信望を長期間にわたってえていようとも、いったん史料の原文面の事実に即した理解が提出された以上、右の論証を避けることは、とうてい許されないのである。なぜなら加勢する人数の多少に関わらず、それは一個の史料に対して人間のなすべき不可避の義務、もっと端的にいえば“史料に対する、人間の最低の礼儀”に属するからである。

                      一九八一・一清書

(1)「若き親鸞の思想」『親鸞思想ーその史料批判』本書所収


あとがき

  一

 本巻にはわたしの主書『親鸞思想ーその史料批判』と共に、親鸞研究の方法論に関する諸篇、また「悪人正機説」をめぐる一稿も収録された。若き日々の挑戦の稿であるが、ここにわたしの研究の軌跡がしめされている。
 本巻の「新たな眼睛」となった二篇、それは、それぞれ山田雅教氏(建長二年文書<三夢記>)と平松冷三氏(親鸞伝絵)の批判に対する回答(再批判)である。
 ここには、わたしの研究方法と従来の学問の方法とのちがい、それが鮮明に表現されている。


  二

 右とは異質の一稿、それは「真実の出発点」と題する講演である。本願寺山口別院で行われたものだ。
 広島と長崎における原爆投下、それは人類の未来史をしめす事件だった。その宗教的、思想史的意義に、あえてふれたのである。
 後生の、若い研究者の続出に期待したい。


  三

 失われた研究者がいた。故、河田光(てる)夫氏である。非差別民を原点とし、その視点から親鸞と彼をめぐる諸史料(「屠沽(とこ)の下類」等)を分析した。すぐれた学究だった。
 当明石書店から上辞された『河田光夫著作集』(三巻)にも、その特色はよくあらわされている。新しい史料の発掘にも、すぐれていた。わたしより十二才若い俊秀である。だが、すでに亡(な)い。


 四
 最近、論語の中の次の一説に注目した。

「一箪(たん)の食(し)、一瓢(ぴょう)の飲、陋巷(ろうこう)に在り。(下略)」

 孔子の、その弟子、顔回に対する賞讃である。「賢なる哉、回や」の句が、前後にくりかえしされている。
 この「陋巷」とは、何か。多くの注釈書の説くような、単なる“貧しい裏長屋”なのか。わたしには「?」だった。
 「陋宗(ろうそう)とは、」とは、“いやしい家がらの人々”だ。いうなれば、“(中国流の)非差別の人々”だ。顔回は、その「血すじ」の若者だったのである。

 その若者に、孔子は心から“ほれこん”だ。自己の学問の将来のすべてを託したのだ。だが、その顔回が夭折した。孔子は、うちのめされた。

 「天、予れを喪(ほろ)ぼせり」

は、孔子の“決定的な嘆き”の表現だった。

 その「滅亡した学問」のあと、「儒教」は再生した。いわゆる「国教」として。「主君に対する忠節」が、その教説の核心におかれたのである。漢代の儒教、南宋の朱子学、江戸時代の儒教、そしてその中から誕生した「勤皇の諸学派」、それらは果たして「孔子の目」から見たとき、何だったのか。あの「孔子から顔回に託された真の学問」の「目」からは、果たして何物でありえたのか。

 三千年の歴史は今、わたしたちに鋭く問いかけているのではあるまいか。

 教行信証における、親鸞のおびただしい聖句引用類集は、奇しくも、彼独自の訓方による論語の一説で終結されている。「鬼神」について、弟子の子路が孔子に問うた一句である。
 親鸞と孔子、この両者の間に「屠沽」や「陋巷」云々にしめされたような、共通の問題意識が流通していたこと、それは偶然でないであろう。

 古今東西の古典批判、さらには本質的な歴史批判のために、本書がその研究史上の一礎石となれば、私にとってこれ以上、望むところはない。

 ただ畏(おそ)るべき後生を信じたい。

                   二〇〇二年十月二十六日 記


目次そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編2 親鸞思想ーその史料批判ーと同じです。

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