日本国際教育学会第17回大会                                             2006年11月26日
自由研究発表 (於)東北大学教育学部

『東日流外三郡誌』の世界

ー東北学の原点を探るー

西 村 俊 一(東京学芸大学)

 はじめに

 現在、国会では「教育基本法」改正に向けての審議が進められている。そこで特に注目されるのは、教育の目的として「我が国と郷土を愛する態度を養う」ことを明記する方向にあることである。心身一如を前提に「形」を整えることで「心」を直すというのが日本の修養の伝統でもあるから、これが被教育者の具体的な「態度」に解釈を施し「心」を縛ることになるのは必定である。これは、現行法が教育行政は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」としている文言を消去する動きと相まって、大きな危惧を抱かせずにはいない。
 確かに、「愛国心」や「郷土愛」の涵養が国民教育の基本であること自体については、高踏的な国家解体論者でもない限りそれを認めない者はないであろう。ただ、ここで問題とされるべきは、その「愛」の内実を政治権力が規定することの不当性である。また、教育行政は「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」とする文言の消去は、教育と教育研究がこれまで以上に強く経済界の「市場原理」に支配される危険性を孕むという意味で、到底是認し難いところである。
 ちなみに、これまで筆者が日本国際教育学会大会において行った「自由研究発表」には、次の二つが含まれている。
(1).第10回大会(於:同志社大学)
日本国の原風景ー『東日流外三郡誌』に関する一考察ー
(『北東北 郷村教育』第7・8号、北東北郷村教育学院、2000年、収録)

(2).第14回大会(於:中部大学)
「揺らぐ日本古代史学と国際教育の対応ー若干の事例調査を踏まえてー」(『国際教育研究』第24号、東京学芸大学国際教育センター国際教育研究室、2004年、収録)

  これらは、経済の「グローバル化」に伴ういわゆる「アイデンティティー・ゲームの時代」(松本健一の言)の到来に遭遇し、日本と日本人のアイデンティティーを再確認する必要を感じての試みであった。しかし、それを通じて痛感させられたのは、最大の「偽書」とされ、平安時代の紫式部さえ「かたそばぞかし」との侮蔑の言を以て突き放した『日本書紀』の「万世一系」史観が、政官界は言うに及ばず学界や報道界を含む社会全体をなおも強固に支配している現実であった。それは保守派のみならず進歩派にまで及んでいるのである。
 上記(1).の論文に関しては、直ちに、原田実編『津軽発〈東日流外三郡誌〉騒動ー東北人が解く偽書問題の真相』(批評社、2000年)や安本美典編『季刊邪馬台国』79号、梓書院、2003年4月)など偽書派による右翼がらみのセンセーショナルな批判の俎上に乗せられたほか、インターネットによる執拗な攻撃にもさらされることになった。
 また、上記(2).の論文で扱った考古学における「理化学的年代測定」の問題に関しては、長年にわたって遺跡捏造を見逃して来た日本考古学協会が、本年の年次大会(2006年5月27〜28日、於:東京学芸大学)の特別企画として取り上げるに至ったが、そこでは紛糾回避への配慮が最優先され、新たな研究への画期となるにはほどお遠いものに終わった。学界さえこの体たらくであるから、この度の「教育基本法」改正の結果は、今後の政治権力による「官製ナショナリズム」の唱導を待つまでもなく、すでにお見通しとも言えるのである。

1、日本及び日本人のルーツと東北の歴史
 ここにおいて、あらためて確認しておくべきことがある。それは、日本と日本人のアイデンティティーの追求は、各自の自己確認の営みと不可分であるという意味で、本来、全ての日本人が関わるべきものである、ということである。そもそも、日本と日本人は、どのようにして形成されたのか。「大宝律令」(701年)以後、幾内に「大和朝廷」の確立をみたことについてはほとんど異論は存在しないが、それ以前はいかなる経過をたどって来ていたのか。これらの問題の解明に欠かせないのが九州と東北の古代史の解明である。
 九州は、『記紀』神話においても「天孫降臨」の地及び「神武東征」の出立地とされている。その意味では、九州が日本の王権の発祥地であることについての異論は存在しない。しかし、その後の「邪馬壱国」の卑弥呼と壱与、崇神天皇、倭王武、天武天皇などの根拠地、及び、何時の時点で日本の王権が畿内中心へ移行したのかについては大きく見方が分かれている。その中、古田武彦の「九州王朝」説は、662年の白村江における敗戦が「九州王朝」の滅亡と畿内王権の成立の契機となったとする点で、畿内中心の「万世一系」史観に対する最も鋭いアンチ・テーゼとなっている。創価学会の池田大作も、その若い時代のエッセイ「批判と研究」(『週間読売』、1972年1月15日)では、その様な古田武彦の主張に注目し好意的評価を与えていた。
 他方、東北については、その縄文時代は「三内丸山遺跡」に示される様に比較的豊かで安定した生活を営み、また、その弥生時代は「垂柳遺跡」に示される様に予想外に早い水田稲作の伝播に始まっていたことが知られるに至っている。しかし、「空白の古代・中世」の言葉に象徴される様に、その後の東北の歴史に関してはそれを窺う史料は極めて乏しい。むしろ、日本征服の途次九州の「豊」地域と何らかの関わりを持ったかに思われる崇神天皇による「四道将軍」の派遣、倭王武による「東の毛人五十五国」の征服、古墳時代の早期に前方後円墳が北陸系土器を伴って一時仙台・会津・米沢などの奥深くまで進出している事実、遣唐使による蝦夷の随伴など、九州ないし畿内の動きに関わる諸史料と考古学的な発掘調査結果にその断片を求める以外になかった。この様な状況で戦後出現したのが『東日流外三郡誌』(注1)を含む一群の「和田家文書」(青森県五所川原市飯詰)であった。
 
2、和田喜八郎の死去と『東日流外三郡誌』
 『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家文書」は、主に蝦夷の安倍・安東・秋田家の族譜と事績に関わるものであって、その一族の栄光と苦難の歩みが綴られている。日本の王権による征夷活動に耐えて江戸期まで存続した秋田家は、1602年(慶長7年)に常陸国宍戸五万石へ移封され、さらに1645年(正保2年)には磐城国三春五万五千石へと移封された。「和田家文書」は、その三春藩主秋田倩季の求めに応じて、秋田土崎湊の秋田孝季と津軽飯詰の庄屋和田長三郎吉次の両人が、1789年(寛政元年)から1822年(文政5年)の間に調査記述したものとされている。その中の荒唐無稽と思われた諸記述が、その後の考古学的発掘調査で裏付けられたことも幾度かあった。この一群の「和田家文書」について、その史料的価値をいち早く認定したのも同じく古田武彦であった。しかし、それが「邪馬台国」論争に惨敗し私怨をつのらせていた安本美典などを激しい偽書キャンペーンに駆り立てる結果になる。
 その後続けられて来た激しい真書・偽書論争やそれに関係する訴訟の経緯については、前掲(1).の論文において詳述しているので、ここでは繰り返さない。また、筆者はその訴訟には関係していないが、最高裁判決の詳細は『判例タイムズ』(1998年9月号)の法律家による判例紹介などが参考になるであろう。なお、偽書派の筆者の論文に対する批判・攻撃については、「和田家文書」はあくまで現代人和田喜八郎単独の偽作だとの断定に基づき、その全てを即刻破棄する様に要求するものであり、しかも極めて品位を欠く言辞に彩られたものでもあったため、これまで完全に無視し続けて来た。
 しかしながら、その後、偽書派は、和田家の家屋の詳しい実地調査の結果、それまでの主張が完全に裏付けられたと主張する記事を写真入りで掲載したりして、なおも激しい偽書キャンペーンを続けている。実は、1999年9月に和田喜八郎が急逝し、和田家の家屋敷が他人の手に渡ったのである。また、学術書の体裁をとった久野俊彦・時枝努編『偽書学入門』(柏書房、2004年)も、一群の「和田家文書」を偽書の一つとして取り上げ、「偽作者ではないかと取り沙汰された所蔵者の没後、散逸」(p.217)などの事実に反する記述を行うに至っている。そのため、ここでは、あえて一言して置かざるを得ない。
 第一に、筆者は、真書派の人々と共に、和田喜八郎の死去に至るまで常に徹底した実地調査を続けて来た。その証拠に、和田家の屋根裏の土壁に大きな破壊の跡も残っていたはずである。ところが、偽書派は、それまで「和田家文書」自体も和田家の家屋も実見調査する機会をほとんど持たぬまま激しい偽書キャンペーンを続けて来ていたのである。笑止千万と言うしかない。
 第二に、全ての「和田家文書」は、和田喜八郎の死後、藤本光幸家(青森県南津軽郡藤崎町)に有償で引き取られており、散逸などしてはいない。筆者や真書派の人々のこの様な多面的努力は、ひとえに、現存の「和田家文書」の完全な保存を図り、かつ、「寛政原本」の遺りを発見することへの強い願いもあってのことであった。

3、「寛政原本」と「明治写本」をめぐる問題
 筆者は、前掲(1).の論文において、偽書派が「寛政原本」や「明治写本」の存在を想定した上で「偽書」論を提起するのであれば、「偽書」の定義を含め幾分か議論の余地は残る、と書いている。そもそも、それらは初めから聞き取りや書写に基づく二次資料の集積とされて来ているものだからである。しかし、他方、

1,庄屋の蔵などに保存されている和紙に墨書された地方文書などは、一般に保存状態が大変良好で、それほど書写を繰り返す必要があるとは考えられない。

2,和田喜八郎自身は「和田家文書」の内容を信じて金属探知機による埋蔵金探しなどを続けていたが、その「寛政原本」の存否に関する言動は必ずしも誠実なものには感じられない面があった。

3,筆者も、真書派の人々と共に、和田家の石塔山や家屋敷の徹底調査を続けたが、結局、「寛政原本」の遺りを発見することは出来なかった。

 この段階で考え得るケースは、次の三つであった。 1).和田家の屋根裏は保存条件が悪いため実際に書写による更新を必要とし、その書写後「寛政原本」は全て廃棄された。 2).「寛政原本」は安倍・安東の埋蔵金のありかを示す古地図などを含めて存在するが、和田喜八郎が秘匿したままとなっている。 3).元々「寛政原本」は存在せず「明治写本」が原本である。
 この中、筆者は 1).の可能性が高いと判断したが、古田武彦は 2).の可能性が高いと判断している気配であった。さらに、筆者が 3).の可能性についても考えてみたのは、「和田家文書」の中に、明治の藩閥政治を厳しく糾弾した「三春民権党」を名乗る文書などが含まれていたためである。
 三春藩は、周知の通り、東北における自由民権運動を主導した藩であり、その中から、後に国会議員として田中正造らと共に活動する河野広中なども輩出している。そして、青森県の五所川原方面には、その自由民権運動の下部組織が二つも存在した事実があった。そこで三春の「自由民権運動資料館」や郡山の古書店などを巡って極力その関係を探ってみた。しかし、自由民権運動が生起するに至る三春藩の内部事情や各地の下部組織の活動の詳細を示す史料は無きに等しく、遺憾ながら未だ何らの成果も得ていない。
 『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家文書」を幾度も実見して来た者としては、その文書量があまりに厖大で内容も多岐にわたるものであることから、現代人和田喜八郎単独の偽作によるものとする偽書派の主張は、到底認めることが出来ない。一般に、和田喜八郎との接触が頻繁であった真書派の人々は同人の能力をさほどのものとは評価せず、偽書派は同人が単独でも「和田家文書」を偽作し得る能力を有すると高く評価している。これは一種の逆説である。筆者自身は、前掲(1).の論文において、それが和田喜八郎の偽作であるとすれば、その周辺に大きな偽作集団が相当長期にわたって存在し続けたと考えるしかない、と書いた。明治期における各地域の文化水準や志気は今日想像する以上に高い。実際には、和田喜八郎の周りに大きな偽作集団が存在し続けた気配はないため、一応明治期の自由民権運動関係者が何らかの先行史料を用いて工作を行った可能性も探ってみたのである。

4、東北学の魁としての『北東北郷村教育』誌
 筆者は、あたかもマルクス主義者の巣窟のごとき観を呈していた時期の東京大学教育学部と同大学院に学びその助手も務めたが、その流行思想に乗った観念的な学風には強い抵抗感を拭えなかった。そのため、初学の頃からフィールド・ワーク重視の研究を志す様になり、国内外においてそれを積極的に展開すると同時に、学生や院生への指導・助言においてもそのことを心がけた。その中、国内については、沖縄に続いて深入りすることになったのが東北であった。前掲の『北東北郷村教育』誌(1996年創刊、秋田県)は、その軌跡を証するものの一つである。
 ちなみに、その後、山形県の私立大学である東北芸術工科大学の東北文化研究センターが、「新たなる列島の民族史的景観が拓かれる」とのキャッチフレーズを掲げて、『東北学』誌(1999年創刊)を刊行するに至った。その編集責任者である赤坂憲雄は、中央の大手新聞などで、その着眼の独創性と活動の地域的広がりを誇示している。しかしながら、同人がそこから秋田県を秘かに除外せざるを得なかったのは、それに先行する『北東北郷村教育』誌が存在するからにほかならない。また、その編集は、『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家文書」に関する限り、早くから偽書派の浸潤を受け、その直接考証に踏み込む努力は回避する結果になっている。しかし、その様な臆病な姿勢では、「新たなる列島の民族史的景観」を拓くことなど期待しようもないであろう。
 また、日本と日本人のアイデンティティーの追求のために九州と東北の古代史に眼を向けるとき、強く印象に残るのは、東アジア全域における活発な民族移動と交流の痕跡である。724年(神亀元年)に大野朝臣東人が建立したとされている宮城県の「多賀城碑」にも「鞋鞨国界去三千里」の字句が見られる。それは、当時、交流地域としてロシア極東の沿海州が視野に含まれていたことを示している。現在の日本が「単一民族国家」か否かについては議論もあるが、少なくともその歴史的形成に多くの周辺諸族が関わって来た事実は否定出来ない。前掲『北東北 郷村教育』誌の刊行に関わる研究活動に中国人学者などの参加を求めたのもこの様な視点に立ってのことであった。つまり、日本と日本人のアイデンティティーの追求は、今や内国的視野のみでは叶えられず、国際的次元を加味せざるを得ないと言うことである。

 おわりに
 実は、和田喜八郎と『東日流外三郡誌』を含む一群の「和田家文書」に久しく温かな理解を示し続けた人々の中には、首相安倍晋三のご母堂も含まれていた。それは「和田家文書」を安倍家の先祖たちのたどった歩みを記述したものと判断してのことであろう。和田喜八郎の葬儀には同人から香典も寄せられている。
 ここであらためて想起されるのは、首相小泉純一郎と首相安倍晋三の両人が、畿内に成立した「大和朝廷」にとって久しく「抵抗勢力」であり続けた薩摩と蝦夷を出自としている事実である。その意味で、本来、この両人には新たなアイデンティティー確認への局面転換を期待し得なくもなかったのである。しかるに、現実には、両人は「官製ナショナリズム」形成の先鋒を演じる次第となっている。日本をめぐる東アジア状勢が予断を許さないものになっているのも確かであり、外交戦略として歴史を弄ぶ江沢民路線などが悪質なものであることも否定は出来ない。しかし、両人が、それなりに成熟した民主主義国の日本において新興独立国まがいの「官製ナショナリズム」形成の先鋒を演じるというのは、やはり皮肉な展開と言うほかない。
 本来なら、薩摩や蝦夷などの「まつろわぬ民」の歴史の背後にまで踏み込んでこそ、「グローバル化」に耐え抜く強靭な日本と日本人のアイデンティティーの確認が可能になるのではあるまいか。政治家にその機微をわきまえることを要求するのは酷なことかも知れない。しかし、そのもたらす危険は、むしろその様な新たな再確認への志向を抑圧し、『記紀』の「万世一系」史観に固執する方向に向かうことである。しかし、それはあまりに安直かつ時代錯誤的で、全く将来展望がないのである。ましてや、「君が代」・「日の丸」に批判的な現場教師の大量処分といった昨今の乱暴な行政手法が今後さらに強化されるなどは真に論外と言うべきである。
 現在、日本の教員養成系大学や学部には、教科教育中心の旧師範学校的なものへ回帰・収縮する動きが見られる。それは、大学改革への強い政治圧力とその圧力に対抗する見識を欠いた大学人が両々相まって招いている事態である。そして、その技術主義教育論の偏重の狭間で存立の危機にさらされているのが国際教育研究にほかならない。この動きには特に警戒が必要である。「教育基本法」改正に対処するには、学校現場と教員養成系大学・学部の足腰はあまりに弱い。筆者は、近々停年を迎えるが、そのことが大変気がかりであり、深い憂慮を禁じ得ない。(注2)


(注1)「東日流」は「つがる」と読み、「津軽」を意味する。
(注2)拙文は日本国際教育学会における「自由研究発表」のレジュメに若干の修正・加筆を行ったものである。


日本国の原風景 へ

闘論 へ

ホームページへ

 連絡先 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp

制作 古田史学の会 
著作 西村 俊一