法隆寺は観世音寺の移築か〈その一〉

多元 No.43 Jun.2001


「多元的古代」研究会・関東 機関誌TAGEN


法隆寺は観世音寺の移築か

〈その一〉

茅ヶ崎市 大越邦生

 平成四年『東京古田会ニュース』に連載された論文を本誌に再掲し、しかる後に、私の海外赴任によって中断した主題を続編として第四章より掲載する。


     はじめに

 古田武彦氏の論文『法隆寺釈迦三尊像の史料批判ー光背銘文をめぐって』(「仏教史学研究」第二十六巻第二号)が発表されるやいなや、斑鳩の法隆寺は九州王朝との関連でがぜん注目されることとなった。従来だれしも近畿勢力圏での制作を疑うことのなかった釈迦三尊像が九州王朝中枢域で誕生したこと、しかもそのモデルとなった人物こそが隋書倭国伝に登場する多利思北孤だったという結論は、その説得力ある論証ゆえに私たちにより大きな衝撃を与えることとなったのである。さらに追い打ちをかけるように私たちを驚かせたのは、古田氏の結論を補足するかのように、釈迦三尊像を本尊とする法隆寺自体にまでその疑いを発展させた論が出現したことである。『法隆寺は移築されたー太宰府から斑鳩へー』米田良三著(新泉社)がそれである。この本の登場によって、近畿勢力圏の中枢なる斑鳩、さらに聖徳太子ゆかりの寺院の内部に九州王朝の影をみた我々は、さらに法隆寺そのものが九州王朝の観世音寺の移築という新局面に対面させられることとなったのである。
 はたして「法隆寺=観世音寺」説は成立するのであろうか。その検証が本論の趣旨である。私は、本論で米田氏の論点のひとつひとつを検討し批判することよりも、まず観世音寺移築説を前提にして考え、その時生じる矛盾点があればそれを明らかにしていくつもりである。また、最終的には私なりの観世音寺論を展開したいと考えている。
 ここで、まず先に結論を述べさせてもらうなら、私は法隆寺が観世音寺の移築であってもいつこうにかまわないと考えている。移築説は決して成立不可能ではない。いや、むしろ心情的には移築説を支持したい気持ちが強い。だが、「移築の可能性がある」ということと、「移築である」と断言することには天地の開きがある。私は、歴史学が空想小説でない以上、「法隆寺が観世音寺の移築である」と断ずるまでには、まだ越えねばならない多くのハードルがあることを指摘したいのである。


     一 概念の混乱

 本論の前にどうしても米田氏の立てた命題の不確かさを指摘しておかなけれぱならない。この不確かさは本書の中で氏には知られていて、私たちには十分知らされていない事項である。この点を整理することによって初めて問題の本質が明らかになると考える。

  『法隆寺は移築された』の示す基本命題は、「法隆寺西院伽藍は、太宰府観世音寺の移築である」ということに尽きる。この命題にこそ混乱の芽が胚胎していると思われる。それはまず続日本紀にある次のような記事との矛盾である。

○(観世音寺の)完成をみないため寺の造営工事を促す。和銅二(七〇九)年
○弘福・法隆二寺に斉を設置く。霊亀七(七一五)年
○僧満誓を寺(観世音寺)の造営に当らせる。養老七(七二三)年

 観世音寺・法隆寺・観世音寺の記事を年代順に並べてみた。お断わりしておきたいが、これらの記事はほんの一例である。観世音寺と法隆寺の記事は、続日本紀の中でこのような形で並列しながら続くのである。つまり両寺は併存していたのである。それにもかかわらず、なぜ前記のような命題を立てることが可能なのか。それは米田氏の次のような文章が明らかにしている。

「六七九年の食封停止の直前に観世音寺の大和への移築が決定したと思われる。(中略)観世音寺を解体した全ての資材が大和の地に到着したのは六八五年頃と思われる」(九九ぺージ)

 続日本紀に観世音寺が初めて表れる大宝元(七〇一)年のはるか以前に観世音寺は九州から斑鳩の地に運ばれたと著者は述べているのである。
 しかし、一方、観世音寺の終局は『扶桑略記』や『堂塔損色勘文』に次のように語られている。

 ○講堂、塔が焼亡康平七(一〇六四)年
 ○金堂、戒壇、南大門、回廊等倒壊
            康和元(一〇九九)年

 ということは、続日本紀や他の文献が示す観世音寺は、氏が述べる観世音寺とは別の存在ということになる。つまり、法隆寺となった観世音寺とは、これら文献に登場する以前の、いうならば「第一次観世音寺」とでもいうべき寺院ではないだろうか。さらにいうなら、法隆寺もまた火災により焼失したことが知られている。結論、氏の命題は次のように書き直されなければならないだろう。「第二次法隆寺は、第一次観世音寺の移築である」では、氏の主張する命題に導入した仮説「第一次観世音寺」とはいつたい何物であろうか。命題を立て直すことにより、混乱は解消されるが、次のようないくつもの疑問が生じてくるのである。

  1. 絵図は第一次、第二次どちらの伽藍を描いたものか。
  2. 文献にも遺跡にも出現しない第一次観世音寺が、いったい「観世音寺」の寺院名で呼ばれたのか。
  3. 現在の寺院跡は第二次観世音寺のものである。ではその下層から第一次観世音寺の存在を示すいかなる痕跡が認められるのか。


     二 絵図は何を語るか

 観世音寺にー次、二次の伽藍があるという仮説を立ててきた。すると、絵図についても二つの可能性が生じることになるが、もしこの絵図をもって観世音寺と法隆寺の比較を行おうとするのなら、絵図が第一次観世音寺を描いていたときに限られるだろう。なぜなら、先述したように第二次観世音寺と法隆寺は併存していたからである。ここでもあえて絵図が第一次観世音寺を描いていたという仮定に立とう。その場合、次のような疑問が生じるのである。

1)中門中央の柱
 米田氏は述べる。
 「描かれた中門は桁行四間、梁間三間で二層の建物であり、入口の中央に柱が立っている。この姿は法隆寺の中門を描いた場合と同じである」(四三ぺージ)

 氏は観世音寺絵図の中門が桁行四間と述べているが、私には何度見直してみても中門は桁行五間にしか見えない。これは私の眼の錯覚であろうか。いや、そうではない。その証拠に、中門二階の桁行を数えてみてほしい。二階の桁行は五間である。それについては誰しも見誤りはないだろう。一階と二階の桁行が違っていることもまた考えにくいことから、観世音寺絵図中門の一階は、二階と同様に桁行五間とみられるのである。観世音寺の中門は、法隆寺のように中央に柱を置く形式ではなく、正面に二本の柱を置く形式をとっているのである。では、桁行五間の中門は例がないのかというと、「飛鳥時代の寺院の門は三間、奈良時代に入ると五間の門が建てられるようになる」というほどその事例は多い。観世音寺中門が五問だとしても、決して特別視するにあたらないのである。
 
2)金堂・五重塔
 法隆寺の金堂と五重塔はその裳階の存在が美術的価値を一層高らしめているといわれている。石田茂作が法隆寺の七不思議にこの裳階をあげていることも故なきことではない。ところで、この裳階が絵図に存在しない。
 そればかりか、二層であるはずの法隆寺金堂が、絵図では一層の建物になっているではないか。ディテールの描写ならともかく、これだけの力量を持つ古図の描き手がこのような決定的な過ちをおかすとは。仮にそれが米田氏の述べるような「本当の姿を描くことがタブーであったかのような、何か特別な制約のもとに描かれ」(四三ぺージ)たのだとしても、二層の建物を一層で描くことにどのような意味があるのだろうか。例えぱ、絵図には中門が二層に描かれているが、意図的に金堂を一層に描き変えた作者が、なぜ中門を二層のままにしておいたのかという疑問にもなるのである。健全な理性からはおよそ理解しにくいことではなかろうか。
 
3)回廊
 現在の太宰府観世音寺の本堂は元禄二年に再建されたものとされている。さて、この本堂の裏手に回ると多くの礎石が堂を取り巻いているのがわかる。これが旧観世音寺講堂の跡であり、福山敏男氏の伽藍復元図によると、この講堂に回廊が続いていたことになっている。今、問題にしている絵図も、講堂と回廊の関係においてはほぽ同様の形式といえよう。
 絵図が第一次観世音寺を描いているとしたなら、法隆寺も同様の回廊配置でなければならないだろう。しかし、法隆寺の伽藍配置はよく知られているように、金堂と塔を内にして回廊がそのまわりを囲む形式であり、講堂は回廊の外に配置されていたのである。地下調査では、昭和二三年に講堂の前面で北面回廊が確認され、昭和五五年には旧回廊の基壇幅六・五メートルが確認されている。法隆寺の回廊配置と第一次観世音寺の絵図は、このような違いがあるのである。
 さて、絵図を第一次観世音寺、つまり法隆寺西院伽藍を描いたものと考えたことによってこれだけの矛盾が生じてきた。絵図を移築説の根拠にすることは、このように無理がある。これを「法隆寺=観世音寺説」をとる識者はどのように解決するのであろうか。


     三 物は何を語るか

1論証過程について

 いよいよ問題の核心に入ろう。
 私が,「法隆寺「観世音寺説」の最も成立しにくいと考えるのが、この「物」と論証の分野である。しかし、米田氏の移築説の根拠もまたこの部分に立脚しているのである。先に述べた絵図などが情況証拠とすると、ここではいよいよ物的証拠と論証が決め手となるだろう。そこでまず、氏の「法隆寺=観世音寺説」の物的根拠をみることにしよう。

  1. 基壇(金堂・五重塔)
 法隆寺を正面から見たとき、基壇羽目石の石積みが金堂では小口が見え、五重塔では小口が見えない構造になっている。これは法隆寺金堂がもともと、現在の方位から九十度回転した方位で建築されたことを示唆している。

  2. 束(金堂内陣小壁間)
 金堂内陣に小壁を区切る束がある。そのうち、東面北より第四の位置にある束の南面上角に「巳五内」の墨書が残されている。「巳五内」は現法隆寺金堂の方位ではなく、金堂がかつて九十度回転した方位で建築されたことを示唆している。

  3. 須弥山(五重塔)
 塔内部に作られた須弥山のうち、東面する物の天井部分に西面と同質の土が使用されていた。これは須弥山が東西入れ替えられた結果と考えられ、この須弥山の配置替えは、塔と金堂の向き合う方位が逆転したため生じたものと推察される。このことはかつて五重塔と金堂がその東西の位置を逆にして建築されたことを示唆している。

 以上が米田氏の「法隆寺=観世音寺説」の物的根拠である。これを私は便宜上「基壇・束・須弥山の事実」と呼んでおきたい。米田氏はこの事実から「法隆寺=観世音寺説」の結論を導くわけであるが、その論証過程に問題があると考える。氏の論理展開を追ってみよう。

A (前提)基壇・束・須弥山の事実

B法隆寺金堂は、かつて現方位でなく、九十度回転させた方位で建築された。

C法隆寺の金堂と塔は、かつて現位置関係になく、東西逆の位置で建築された。

D法隆寺のかつて建築されたであろう当初の姿は、東に塔、西に(東面する)堂を配する伽藍配置であった。

E九州太宰府の観世音寺は、東に塔、西に(東面する)堂を配する伽藍配置であった。

Fよって、法隆寺は観世音寺の移築である。

 さて、ここではAーFの論証過程のうち、B・Cが示しているのは、金堂の方位及び堂塔の位置関係のみであることを確認してもらいたい。そこには九州から近畿への空間的移動を立証するいかなる証明も含まれていない。そして、Eで観世音寺が突如として登場してくるのである。つまり、Eは類推により導かれたとしか考えられず、Dの次にEが来る必然性が見あたらないのである。

《論証過程》

法隆寺は観世音寺の移築か〈その一〉論証過程
 さて、DーFの展開に対する反論を、具体的な事例で述べよう。

 まず、第一に、観世音寺と同じ伽藍配置をとる寺院の存在を問題にしなければならない。現在知られている寺院だけでも、野中寺・川原寺・南滋賀廃寺・崇福寺(関西)、多賀城廃寺(東北)、陣内廃寺(九州)等あげられるが、DからEをもってくる論法からすると、これらの寺院名をEに代入して、例えば「法隆寺=陣内廃寺説」を導くこともまた可能なことを知らなけれぱならない。

 第二は、D・EからFを導く過程の論理の飛躍の問題である。もしFの結論を導くなら、その間に「伽藍配置が一致すれば寺院は同一である」とする前提がなければならない。しかし、そのような法則はこれまでの古代寺院研究からは導かれないのである。
 研究史上、有名な「薬師寺論争」がある。優美な三重の塔で知られる奈良の薬師寺は、かつて飛鳥から移築された寺院であるか否かを問う論争が展開されたことがある。その時、論争の根拠となった藤原京の伽藍跡と平城京の薬師寺は、伽藍配置どころか、礎石の柱幅の間隔まで一致していた。また、同箔瓦も多数出土していた。それは後に述べるような、法隆寺と観世音寺の比ではない。しかし、それほどの決め手があつても、薬師寺移築論争の決着は未だついていないのである(移築説は後退の傾向にある)。「法隆寺=観世音寺説」を支持する人は、ぜひこの研究成果に学んでもらいたい。

 第三に、法隆寺の釈迦三尊像の存在から類推した場合の問題である。先の古田氏の研究でも検証されたように、釈迦三尊像は近畿王朝の聖徳太子ではなく九州王朝の多利思北孤がモデルとなっていた。そこで「釈迦三尊像=九州王朝制作説」に基づき、「法隆寺=九州王朝創建説」を類推したとしよう。しかし、九州内にある古代寺院であるからといって、法隆寺の移築元を「観世音寺」に限定する方法が、はたして学問的であるといえるだろうか。九州内には、寺院名こそ知られていないが、数多くの古代寺院阯がある。現在、これら九州王朝の寺院阯と推定されるもののほとんどが綿密な発掘調査がなされていない状況にある。例えぱ、古田氏の提起によってその存在が明らかにされた九州王朝の寺院・筑紫朝倉郡の長安寺をはじめとして、太宰府西辺の塔原廃寺や杉塚廃寺など、はたして観世音寺と同じ伽藍配置でなかったという確証があろうか(肥後の陣内廃寺は観世音寺と同じ伽藍配置)。法隆寺はこれら九州王朝の寺院からの移築だったのかもしれない。こういった可能性が検討されずして「観世音寺の移築」と断定することに疑問はないだろうか。


2瓦と礎石の状況

 「法隆寺=観世音寺説」を出土物や伽藍阯の面から検証してみよう。法隆寺が観世音寺の移築であることを前提にすると確実に矛盾する点がある。「観世音寺から法隆寺の同笵瓦を一点も検出せず」の事実である(太宰府近辺の瓦窯跡からも検出されていない)。両寺院が同一なら、同じ笵で作った瓦が存在していて当然ではないか。いや、逆にこのような移築説では、同笵瓦のような証拠を提示して語ることこそ必要とされるのではないだろうか。
 ともあれ、観世音寺から同笵瓦の破片一辺すら出土しないのはなぜだろう。法隆寺が観世音寺として太宰府の地に営まれていたならば、「建設」「維持」「移築」の過程で瓦の消耗があったはずである。それを、ただの一つの瓦をも破損することなく、また破片すら残さずに建築・運営・運搬すること、それがはたして可能だったのだろうか。その一方で、観世音寺阯から老司ー式瓦(観世音寺の創建瓦といわれる)が大量に出土している状況をどのように理解すればいいのだろうか。
 さらにもう一つ、不思議な事実がある。観世音寺と同笵の瓦が近畿、それも法隆寺からではなく飛鳥川原寺から出士することである(正確には川原寺の創建瓦が観世音寺から一点出土)。そのような例からしても、「観世音寺の瓦を残さず移動したために瓦の痕跡を止めなかった」または「瓦は移動することがなかった」という考え方には無理があるように思える。移築した先の法隆寺で同笵瓦が見つからず、川原寺でそれが出土する、この事態はむしろ川原寺と観世音寺が同時期に、同系等の技術者集団により建築されたことを示唆しているようにみえる。先述した、太宰府観世音寺と飛鳥川原寺との伽藍配置の一致もそのことと無関係ではないのかもしれない(このことについては後述する)。ともかく「同笵瓦存在せず」の事実は「法隆寺=観世音寺説」を支持していない。

 瓦の検討から伽藍阯の問題に移ろう。移築説の論証過程Eを思い出してもらいたい。「観世音寺は、東に塔、西に(東面する)堂を配する伽藍配置であった」というものであった。さて、この観世音寺の伽藍配置はどのようにして求められたのであろうか。もちろん過去の伽藍がこの形状で残っているわけでもなく、また観世音寺の発掘調査をしてみても、旧地表の削除、礎石の移動などから基壇を確認することもままならない状態である。実際に我々に知られている伽藍の全体像は、観世音寺資材帳(延喜五年成立)及び、伽藍阯の一部発掘を基に福山敏男氏らによって復元されたものである。とまれ、移築説の依拠する観世音寺伽藍配置が、現在の伽藍阯の状況から復元されている事実に注目しなければならない。さらに確認しておきたいこと、それは「復元された伽藍阯が第一次観世音寺のものではない」という事実である。なぜなら、現在の伽藍阯の上に法隆寺の金堂や塔などの建物がそのまま乗らないからである。観世音寺伽藍阯のうち比較的保存状態のよい塔礎石で検証しよう。
 観世音寺の塔は、康平七(一〇六四)年に火災で焼失して以来、一度も再建されたことがない。その塔の礎石のうち原状の位置とみられているのが、心礎を含む五個の礎石である。これらを基に塔の規模を復元した鏡山猛氏は、塔の初層一辺の長さを十九・五尺としている。法隆寺西院伽藍を含む他の寺院の初層一辺の長さと比較してほしい。

法隆寺二十一・六尺
法輪寺二十一・○尺
法起寺二十一・○尺
川原寺十九・八尺
観世音寺十九・五尺
当麻寺十七・○尺

  ご覧の通り、観世音寺の塔の大きさは、法隆寺よりもむしろ飛鳥川原寺の塔の規模によく合致しており、他の寺院よりひとまわり小さかったことが判明する(これは絵図が示す塔の印象ともよく一致している)。

 最後に講堂についてふれよう。観世音寺講堂の旧構は寺院阯中で最も保存状態がよく確実な遺構といわれている。礎石が東西に八個、南北に五個並んでいるので、桁行七間梁間四間の建築であったことがわかっている。絵図にもそのように描かれている。一方、法隆寺酉院伽藍の講堂はどうであろうか。建造当初の法隆寺講堂は桁行八問梁間四間の建築であった(現講堂は桁行九間であるが、それは後世になって増設されたものである)。法隆寺の講堂が第一次観世音寺のものなら、桁行七間でなけれぱならないであろう。ここでも法隆寺西院伽藍と第一次観世音寺の礎石及ぴ絵図とでは違いが生じているのである。
 さて、「塔の初層一辺の長さ」と「講堂の桁間」が示す事実は、伽藍阯の礎石が、そのままでは第一次観世音寺の検証に使えないことを語っている。では、伽藍阯を根拠に第一次観世音寺の存在を主張する「法隆寺=観世音寺説」の論者は、一体いかなる方法で太宰府に建つ法隆寺の姿を再現することができるのであろうか。

〈以下、次号〉

(編集部より一本論文は東京古田会ニュース二九号、三〇号、三二号からの転載です)


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