神と人麻呂の運命 二 州柔(つぬ)の歌(『古代に真実を求めて』第五集)へ

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お断り:この懇親会での談話は2001年のものです。古田氏の史料批判はさらに進展しており、現在の考えと同一ではありません。


古田武彦講演 二〇〇一年七月一日(日) 懇親会 改題

柿本朝臣人麻呂 州柔つぬの歌

 卷二、百三十一番から百四十番(A、B、Cは古田の付けた記号)
 柿本朝臣人麻呂、石見國より妻に別れて上り来る時の歌、并短歌二首
 A(百三十一番)
 石見の海 角の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと
                    [一云][礒なしと]
 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし
 潟は なくとも 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる
 [一云][礒は]
 玉藻沖つ藻 朝羽振る 風こそ寄せめ 夕羽振る 波こそ来寄れ 波のむた
 か寄りかく寄り 玉藻なす 寄り寝し妹を 露霜の
    [一云][はしきよし 妹が手本を]
 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび
 かへり見すれど いや遠に 里は離りぬいや高に 山も越え来ぬ
 夏草の 思ひ萎へて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山
 反歌二首
 (百三十二番)石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 (百三十三番)笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば
 或る本の反歌に曰く
 (百三十四番)石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも
 B(百三十五番)
 つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石(いくり)にぞ 深海松生ふる
 荒礒にぞ 玉藻は生ふる 玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の
 深めて思へど さ寝し夜は 幾だもあらず 延ふ蔦の 別れし来れば
 肝向ふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど 大船の 渡の山の
 黄葉の 散りの乱ひに 妹が袖 さやにも見えず 妻ごもる 屋上(やがみ)の
                        [一云][室上山]
 山の 雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠らひ来れば 天伝ふ
 入日さしぬれ 大夫と 思へる我れも 敷栲の 衣の袖は 通りて濡れぬ
 反歌二首
 (百三十六番)青駒が足掻きを早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける
                  [一云][あたりは隠り来にける]
(百三十七番)秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む
                 [一云][散りな乱ひそ]
 或る本の歌一首、并短歌
 C(百三十八番)
 石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと
 人こそ見らめ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
 鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に か青なる 玉藻沖つ藻
 明け来れば 波こそ来寄れ 夕されば 風こそ来寄れ 波のむた
 か寄りかく寄り 玉藻なす 靡き我が寝し 敷栲の 妹が手本を 露霜の
 置きてし来れば この道の 八十隈ごとに 万たび かへり見すれど
 いや遠に 里離り来ぬいや高に 山も越え来ぬはしきやし
 我が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山
 反歌一首
 (百三十九番)石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 右、歌躰同じといえども句々相替れり。因りて此に重ねて載す
 柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子(よさみのおとめ)、人麻呂と相別るる歌一首
 (百四十番)な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ
 原文
 A(百三十一番)
 石見乃海 角乃浦廻乎 浦無等 人社見良目 滷無等
         [一云][礒無登]
 人社見良目 能咲八師 浦者無友 縦畫屋師 滷者
         [一云][礒者]
 無鞆 鯨魚取 海邊乎指而 和多豆乃 荒礒乃上尓 香青生
 玉藻息津藻 朝羽振 風社依米 夕羽振流 浪社来縁 浪之共
  彼縁此依 玉藻成 依宿之妹乎
 [一云][波之伎余思 妹之手本乎]
 露霜乃 置而之来者 此道乃 八十隈毎 萬段
 顧為騰 弥遠尓 里者放奴 益高尓 山毛越来奴
 夏草之 念思奈要而 志<怒>布良武 妹之門将見 靡此山
 反歌二首
 (百三十二番)石見乃也 高角山之 木際従 我振袖乎 妹見都良武香
 (百三十三番)小竹之葉者 三山毛清尓 乱友 吾者妹思 別来礼婆
 或本反歌曰
 (百三十四番)石見尓有 高角山乃 木間従文 吾袂振乎 妹見監鴨
 B(百三十五番)
 角<障>經 石見之海乃 言佐敝久 辛乃埼有 伊久里尓曽 深海松生流
 荒礒尓曽 玉藻者生流 玉藻成 靡寐之兒乎 深海松乃
 深目手思騰 左宿夜者 幾毛不有 延都多乃 別之来者
 肝向 心乎痛 念乍 顧為騰 大舟之 渡乃山之
 黄葉乃 散之乱尓 妹袖 清尓毛不見 嬬隠有 屋上乃
                   [一云][室上山]
 山乃 自雲間 渡相月乃 雖惜 隠比来者 天傳
 入日刺奴礼 大夫跡 念有吾毛 敷妙乃 衣袖者 通而<沾>奴
 反歌二首
 (百三十六番)青駒之 足掻乎速 雲居曽 妹之當乎 過而来計類
                     [一云][當者隠来計留]
 (百三十七番)秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之<當>将見
                     [一云][知里勿乱曽]
 C(百三十八番)
 或本歌一首并短歌
 石見之海 津乃浦乎無美 浦無跡 人社見良米 滷無跡
 人社見良目 吉咲八師 浦者雖無 縦恵夜思 潟者雖無
 勇魚取 海邊乎指而 柔田津乃 荒礒之上尓 蚊青生 玉藻息都藻
 明来者 浪己曽来依 夕去者 風己曽来依 浪之共
 彼依此依 玉藻成 靡吾宿之 敷妙之 妹之手本乎 露霜乃
 置而之来者 此道之 八十隈毎 萬段 顧雖為
 弥遠尓 里放来奴 益高尓 山毛超来奴 早敷屋師
 吾嬬乃兒我 夏草乃 思志萎而 将嘆 角里将見 靡此山
 反歌一首
 (百三十九番)石見之海 打歌山乃 木際従 吾振袖乎 妹将見香 右歌躰雖同句々相替  因此重載
 柿本朝臣人麻呂妻依羅娘子与人麻呂相別歌一首
 (百四十番)勿念跡 君者雖言 相時 何時跡知而加 吾不戀有牟
 
 日本書紀天智紀元年十二月
 冬十二月丙戌の朔に、百済王豊璋、其の臣佐平福信等、狭井連名を闕せり。朴市田来津(えちのたくつ)議りて曰く、「此の州柔(つぬ)は、遠く田畝に隔りて、土地磽[石角](やせ)たり。農桑の地に非ず。是拒き戦う場なり。此に久しく処らば、民飢饉ゑぬべし。今避城(へさし)に遷るべし。避城は、西北は帯ぶるに古連旦[水徑*]の水を以てし、東南は深泥巨堰の防に拠れり。繚すに周田を以てし、渠を決りて雨を降らす。華実の毛は、三韓の上腴なり。衣食の源は、二儀の[こざと編奥]品なり。雖地卑れりと曰ふとも、豈遷えざるや。是に、朴市田来津(えちのたくつ)独り進みて諫めて曰はく、「避城と敵の所在る間と、一夜に行くべし。相近きこと甚し。若不虞有らば、其れ悔ゆとも及び難からむ。夫れ飢は後なり、亡は先なり。今敵の妄(みだり)に来らざる所以は、州柔(つぬ)、山険を設け置きて、尽に防禦として、山峻高しくして[渓谷*]隘ければ、守り易くして攻め難きが故なり。若し卑き地に処(を)らば、何を以てか固く居(を)るて、揺動かずして、今日に及ばましや。」遂に諫(いさめ)を聴かずして、避城(へさし)に都す。

[水徑*]は当て字です。行人編の代わりに三水編です。
 [渓谷*]は当て字です。三水編がありません。
 
 まず『万葉集』の説明の前に『日本書紀』の州柔(つぬ)について述べてみます。
 白村江の戦いという海戦。それに先だって陸戦が行われています。前年の冬から早春。その陸戦が行われました。つまり唐と新羅の連合軍に対して、百済と倭の連合軍がどう戦うかという問題です。百済側は避城(へさし)で戦うべきだと主張します。それに対して、日本側の現地の責任者である朴市田来津(えちのたくつ)が反論するわけです。つまり避城(へさし)は確かに豊かなところですが、敵(この場合は新羅だと思いますが)に近すぎる。一夜で敵が押し寄せる国境に近い。これに対して州柔(つぬ)は山険しく谷深く守りやすく、攻めにくいところですから州柔(つぬ)城を推薦します。ですが百済王は避城(へさし)に決めました。しかし戦いが始まると結局、州柔(つぬ)城まで退きますという話につながっていきます。それで白村江の戦いの後の、最後の百済の都は『日本書紀』によれば州柔(つぬ)城であり、百済の最後も、この州柔(つぬ)城の陥落をもって百済の滅亡となります。そこに州柔(つぬ)が出てきます。これが記憶に残っていました。
 この州柔(つぬ)を、『万葉集』のどこかで見たなと思って調べてみたら、人麻呂の歌にたくさん出てくる。
 
 (百三十一番)「石見の海 角(つの)の浦廻を 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと・・・」
 (百三十二番)「石見のや高角山の木の間より・・・」
 (百三十四番)「石見なる高角山の木の間ゆも・・・」
 (百三十五番)「つのさはふ 石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ 深海松生ふる 荒礒にぞ 玉藻は生ふる ・・・」
 (百三十八番)「石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと・・・角の里見む  靡けこの山」
 
  このように「角 津野 つの」がたくさん出てきます。この「つの」と「つぬ」は同じ言葉でしょうが、この「角(つの)」と百済の都である州柔(つぬ)とは関係があるのではないか。そのように考え始めた。
  そのような考えでこれらの歌を見ていくと、これらの歌の理解には変なところがいろいろある。たとえば最初の百三十八番です。
 
 「石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ よしゑやし  浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも・・・」
 
 この歌が歌われた「角 つの」は、山陰第一の川が流れ込んでいる江の川(ごうのかわ)のある島根県石見、江津(ごうつ)市 都野津(つのつ)町と考えられています。「都野津(つのつ)」とは海岸ですが、「津」にもう一回最後に「津」が付いてある。ですから港の津であることは間違いがない。これを「角 津野 つの」と言っているとすれば、そこに浦はない。潟はない。そのように歌うのはおかしい。しかし現実には浦も潟もある。それで従来の万葉学者はどのように解釈しているかと言いますと、良い潟や浦がない。つまり潟も浦があっても、絶景あるいは、すばらしい名勝である潟や浦はない。見るべき浦もない。見とれるような潟もない。そのような苦心の解釈を行っている。
  それから石見に「高角(たかつの)山」がない。岩波古典大系の注釈では
 
 「○高角山ー高い都津の地にある山の意か。江津市の島星山との説がある。」
 
 とある。しかし「島星山」なら、そのように書けばよいのであって、「高角(たかつの)山」と書く必要はない。
 それでいろいろ考えているうちに、今は結論から述べますが、どうもこの「角 つの」は、実は百済の「つの つぬ」ではないか。そういう思いもかけない結論になってきた。
 百済の「州柔(つぬ)」はどこかはっきり分かりませんが、岩波古典大系の注釈にある朝鮮半島南側の地図が出ていますが、そこに「金堤」があります。その「州柔(つぬ )」はその「金堤」の北の方らしい。ですが、この地図では「州柔(つぬ)」は書いていません。書いていないということは、明確に場所は分からないということです。「金堤」は「州柔(つぬ)」より南の方角にあると書いてある。それで『日本書紀』の内容を見るかぎりは、「州柔(つぬ)」は海に面してはいない。むしろ山に囲まれている。「山峻高しくして[渓谷*]隘ければ」とあるとおり、山城のような地形で海に面していないと受け取れる。そうしますと、「石見の海 津の浦をなみ 浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと・・・」は江津(ごうつ)市の「つの」には当たらないけれども、百済の「州柔(つぬ)」なら当てはまる。どうも人麻呂は、二つの「つの つぬ」を比べて歌っているようだ。そのように考えてきた。
 それで決定打は、どうも歌われた順番が違っているように思われる。
 それはA(百三十一番)、B(百三十五番)、C(百三十八番)としますと、B(百三十五番)に「つのさはふ石見の海の 言さへく 唐の崎なる 海石にぞ ・・・」とあります。「言さへく」というのは、言葉が通じない。これは「唐の崎なる」に掛かります。これは従来の解釈では、「唐の崎」の理解に困っていまして、たとえば島根県迩摩郡仁摩町宅野の海上の唐島、そこのことだろうと理解しています。しかしそのような理解なら、そこを唐島の岬を「唐崎」と呼ぶならば、淡路島の岬はみな淡路崎と呼ばれることになりますが、そんな話は聞いたことがない。ですから島の名前と岬の名前を混線しないとうまく理解できない。ですから正確に当てはめるものがない。また那賀郡国府町唐鐘浦島等、他の解釈でもおなじだ。
 ところがこれは文字どおり百済・朝鮮半島のことなら、言葉が通じないなら文句がない。ここで朝鮮半島のことだと、人麻呂が予告しているのではないか。
 それで最終段階で感じましたのは、最初の「つのさはふ 角<障>經」、これの読みが決定的におかしい。そこに原文・漢字表記をあげましたが、「障 さ」はよいが、「經」に「はふ」という音はない。これは「つのさはふ」ではない。
 それで「障 さ」の意味を考えてみますと、「へだてる まもり とりで こじろ 障塞 障 子城也」とあるとおり、「障 さ」は砦のことである。「つのさ 角<障>」は「州柔(つぬ)城」を表している字面ではないか。「經」は「ふる」なら読めるので、これを「つのさふる 角<障>經」と読んでみました。
 それで結論的に言いますと「石見の海」ですが、これを我々は島根県石見の真向かいの海だと思いやすいですが、ここではそういう意味でない。なぜかと言いますと人麻呂は百済にいる。その自分と島根県石見にいる恋人とその間の海を、指してこう詠んだと考えます。そのように、いろいろな過程を経て考えを進めてきた。ですから「つのさふる石見の海・・・」の意味ですが、あなたとの間に石見の海(玄界灘)が(お城のような)おおきな障害がありますよ。そのような意味だと思います。
 もう一つは「大夫と 思へる我れも」の「太夫」。律令制ですとその官位は五位以上。人麻呂が五位以上ではないかという話はここから出てきた話かも知れませんが。私はむしろ『魏志倭人伝』の「使太夫」ではないか。それだともっと身分は上ですが。この歌では人麻呂が自分の身分を「太夫」だと言っています。その身分で自分は百済に来たと歌っています。
 それを具体的に言っているのが(百三十六番)「青駒が足掻きを早み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける」です。ここでは「青駒が足掻きを早み」とあり、自分は馬に乗ってきた。この時代に馬に乗ってくるのですから、かなりの身分でないと乗れない。「雲居」は天子の宮殿を指しているようです。天子の宮殿をはなれて、自分は馬に乗ってやってきた。宮殿を出てきて、妹(妻)と一緒に住んでいたところがあったのでしょうか、そこを過ぎてきた。
 そして人麻呂が妻と別れた後、妻は故郷の石見に帰ったようです。
 百三十五番では「妻ごもる 屋上(やがみ)の[一云][室上山]」と書いてあります。島根県江津(ごうつ)市の近くの松川町には「八神(やがみ)」があります。もちろん近くに室神(むろかみ)山があります。それでB群の百三十四番から百三十七番は、自分が都を離れた後、その恋人は石見に帰った。その石見の恋人に対して送った歌ではないか。
 まずそのように考えた。
 もう一つ言いますと、百三十五番の「 唐の崎なる 海石にぞ 辛乃埼有 伊久里尓曽」ですが、原文・漢字表記の「伊久里」を「海石(いくり)」と読んで岩礁海底の岩のことだと理解しています。今でも岩礁を「くり」と読んでいる用例が岩波古典大系の注に出ています。しかし私はこれを「伊久里 いくり」は地名ではないかと思います。はたして『三国史記』地理四に「買仇里(アイクリ)」と読む地名があり、「海の島なり」と書いてあります。同じく未詳地名として並んでいるなかで「郁里阿 イクリア」と読むのでしょうが、そういう地名が書いてあります。ですから「伊久里 いくり」は韓国の地名ではないか。
  それからC(百三十八番)にいきまして、ここの中程に「海辺を指して 柔田津」と「柔田津(にぎたつ)」が出てくる、私は証明を今は省略しますが、これは結論から言って、今の九州佐賀県有明海の「柔田津(にぎたつ)」ではないか。ここから倭国の軍船が、白村江の戦いに出ていっている。その時に作っている。、ですから都(太宰府?)にいた人麻呂の奥さんがきっと柔田津に見送りに来ているのです。ですから「柔田津の  荒礒の上に」という表現になっている。それが済んだ後、今は郷里の石見の角(都野津 つのつ)の里へ帰っている。だから「里離り来ぬ  いや高に 山も越え来ぬはしきやし 我が妻の子が 夏草の 思ひ萎えて 嘆くらむ 角の里見む 靡けこの山」となる。
 こう考えてきました。

 つぎに百三十九番の歌ですが、これは読めずに従来はどう理解したらよいか困っている歌です。
 
 (百三十九番)石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
 
 それでこの歌は、「打歌(ウッタ)」の存在に困っている。それでは「打歌 タカ」と読めるだろう、それなら地名にあるだろうと考えました。私もこれは「打」は濁音で「ダ」と普通使いますが、むしろ「タ」と読んだほうが読める。なぜなら「打」は諸橋大漢和辞典ではツ音の「テイ、チョウ」で、音では「タ」です。普通  の音で「タ」と読めます。ですから「打歌 タカ」と読みます。
 この「打歌 タカ」、これがどこか分からない。これは私は韓国の地名ではないかと考えます。ですから一例として『三国史記』地理四に「東牟河」があります。これは韓国語でどう読むか分かりませんが。ですから人麻呂は百済の地名を「打歌 タカ」のように受け取った。「打歌」そのものは、明らかに「打ち歌う」という意味を込めて、漢字の字面を当てています。発音として、「ハッ」「タッ」等に近い音。それを聞いた人麻呂が発音を「タッカ タカ」のように受け取っのではないか。
 そうしますと「高角山(たかつのやま)」と言っているのも、それと同じではないか。そういう問題が出てきます。
 それと時間の順序で最後に歌ったと私が考えているA(百三十一番から百三十三番)群の歌。これはC群の歌と良く似ているが、少しづつ違っている。たとえば柔田津(にきたつ)を渡津(わたつ)に替えて読んでいると思います。
 A(百三十一番)には「・・・鯨魚取り 海辺を指して 柔田津の 荒礒の上に・・・」とあり、ここにも柔田津(にきたつ)がありますが、ここも原文では「和多豆(ワタヅ)」ですから、インチキというか無理なので読めない。「和」は「ニキ」とは普通読めない。それをC(百三十八番)の歌の「柔田津」合わせて、「和多豆(ワタヅ)」をむりやり「ニキタツ」と読んでいる。私はやはりこれは「ワタヅ」だろう。それならきちんと石見江津市に、渡津(わたつ)町があります。ですから「和多豆 渡津 わたつ」で良いと思います。
 ですからC(百三十八番)で、人麻呂が妻と別れたとき九州佐賀県有明海の「柔田津(にぎたつ)」という出発地の地名だったのを、A(百三十一番)ではもう一回今度は郷里の石見に帰っている。そのような意味を込めて、「渡津(わたつ)」という形に言いなおした。そのように理解すれば良いのではないか。
 ですから「鯨魚取り 海辺を指して」と出てくる語句は、やはり朝鮮半島の南岸と、日本列島北岸を挟んで表現して使われていると思います。
 結論として、これらの歌を人麻呂は朝鮮半島・百済の州柔(つぬ)城で作った。そして相手方は、石見にある同じ都野津(つのつ)の里にいる恋人に対して作った歌。「つのさふる」は堅固な障壁の意味です。
 私は初め「太夫」という使者として百済に行ったのではないかと考えました。しかし、よく読んでいると必ずしもそうではないと考えてきた。なぜかと言いますと妹(妻)が、非常に心配している。自分のことを考えて、生きて戻れるか憂鬱(ゆううつ)になっているだろうと書かれている。百三十八番最後に「夏草の思ひ萎へて 偲ぶらむ 妹が門見む 靡けこの山」と書かれてある。使いに晴れがましく行っているなら、そんなに心配はする必要はない。ですからやはり白村江の戦い、まだ始まってはいないけれども。女性の直感で再び会えないだろうと考えたかも知れない。
 それで再び会えないだろう、そのような調子で心配しているだろう。百済への使者の歌よりも、白村江の戦いが対応する。
 それでこの歌は人麻呂が百済の州柔(つぬ)城近辺で作った歌。石見の都野津(つのつ)にいる妻に対して読んだ歌。現在そのようになってきました。
 それで岩波古典文学大系を編集した大野晋さんに、「州柔」に対して「ツヌ」と読んで良いかと聞きました。これがこの問題の基本ですから。これが違いますという話になると困るので。大野晋さんに電話をかけましたが、話をしている内に思い出して来られ、問題の箇所は「州柔(つぬ )」に絶対間違いありませんという御返事だった。「州柔」と書いて「つぬ」です。なぜならば「州」を「つ」と読むことは、『続日本紀』・『日本書紀』でも幾つも書かれてあり、まず問題はありません。それから「柔」については少しは考えられたが、この字は「ニュウ」・「ジュウ」の二つの音がありますが、この場合は南朝系列の呉音に連なっているので「ニュウ」である。そうしますと「ニュウ」のほうからすると、まず「ヌ」と読みます。写本を調べられて、そのような御返事を頂いた。それで誰か「州柔(つぬ)」と読んだ先輩がいるのかと聞きましたが、そうではなくて岩波日本古典文学大系を編集した大野晋さんの一つの判断のようです。それは現在も間違っていないという判断でした。結局『日本書紀』を丹念に編集するとき調べたようです。
 (その他に、私と同年で向日町にいる朝鮮史の井上秀雄さんにもお聞きして、多分「州柔(つぬ)」と読むだろうという判断を頂いています。)
  現代の韓国語では少し違うようです。「州」は「チュ」に近い発音のようです。「ツ」と「チュ」は違います。現代韓国語辞典類をいろいろ調べてみましたが、直接当てはまる発音はありません。それでやはりこれは大野さんの言うように、現代韓国語を当てはめて読んだのではなくて、むしろ大野さんの言われるように古写本を突き止めていった結果としての音です。
 それで意外や意外、このような結論になりました。

 それで問題なのは、このように前書きがぜんぜん信用できないとなると、もう一度全ての歌を再検討しなければならない。そうなりますと人麻呂がなくなったときの歌もどうも違うみたいだ。今まで前置きを信用して考えていた。私も含めてそうだった。『人麻呂の運命』(原書房)まで書いておきながら、このようなことをいうのも変なのですが。
 たとえば二百二十五番の歌ですが、それで考えてみると最後の歌は変なのです。
 
 (二百二十五番)直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
 
 人麻呂が死んだというのに、直会いに行くことは出来ないとか、あなたが死んだら石川の雲が立ち渡ってほしい。それを見て、あなたを偲びますとか。 石川と与佐美はそんなに離れていない。私は鴨山を浜田城のなかと考えましたが、それにしてもそんなに離れてはいない。同じ石見のなかです。行くのに何日もかからない。一日で行ける場所です。それを旦那が死んだのに逢うわけには行かないと書かれてある。逢わずに雲が立ったら偲(しの)ぼうと思う。よそよそしいと思いませんか。
 
 (二百二十四番)今日今日と我が待つ君は石川の貝に交りてありといはずやも
 
 二百二十四番もそうです。この歌も私もふくめて理解に苦しんでいた。前書きをとれば何のことはない。今日こそは、今日こそは帰ってくると息咳切って心配していたいるのに、聞けばあなたは石見の貝に交じって遊んでいるではないか。このように心配していたのに、あなたは遊んでいて、心配していた私はどうなるの。現在でもそのような光景はよくある。そのようにも受け取れる。前置きを前提に解釈すれば、解釈に大変困ったが、前書きをとれば何の問題もなくなる。
 
 (二百二十三番) 鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
 
 そのように考えてみれば、やはり臨終の歌もおかしい。人麻呂じしんの臨終の歌も、自分で痛んだ歌にしては、はっきり言えば人麻呂にしては平凡すぎる。普通に理解すれば、これは仁徳の奥さんである磐(いわの)姫が歌った歌の一節の「岩根し枕ける」を受けている。あなたのことをいつまでも、思い続けていましょう。それを受けてあなたのことをいつまでも思い続けている私のことを知らないで、私の帰りが遅いと待っているでしょう。そのような平凡なよくある光景の理解となる。

 この歌も人麻呂の絶筆というか遺言の歌にすれば平凡すぎる。みんなそう思っていた。ところがこれは前書きを信用するという前提で理解してものであり、前書きが信用できないとなれば、こちらが勝手に理解に苦しんでいた。それにしかならないという問題が出てくる。


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