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筑紫舞上演 解説・筑紫舞宗家・・・西山村光寿斉(『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』)


市民の古代第12集 1990年 市民の古代研究会編
  ●よみがえる筑紫舞

洞窟に舞う人々

 

筑紫舞宗家 西山村光寿斉

神迎えの舞 筑紫舞 西山村光寿斎

 「おん使者」はんが久しぶりに家にやって来たのは昭和十一年の秋だった。いつものように門口で「太宰府よりのおん使者、参りました」と口上を述べて、「ご無沙汰しとります。お変わりございませんか」と入ってくるのもいつもの通り。いつもと違っていたのは、検校のそばへ直ぐに行き、小声で何か話をしていることであった。その夜の夕食のとき、検校が父に「五日後に九州へご一緒していただけませんか? 本場で筑紫舞をご覧戴きたいのですが・・・・・」と言う。父は「わしはよろしけど、光子がナアー・・・・・学校も休まんならんし・・・・・どないする?」と私に聞いた。その年の正月に肋膜炎をやって、学校も時々休んで、試験だけで進級していた私だったので、学校を休むことは平気だったが、九州と聞いて何だか日本の果てに行くような気がして、すこしためらったが、検校の真剣な顔と物言わぬケイさんのすがりつくような眼を見ると、断るのが悪いような気がして、「行ってもええ」と言ってしまった。翌日から母がバタバタと旅行の支度をしていたが、稽古は相変らずで手抜き無し。二日ほどして、おん使者はんは「ひと足お先に・・・・・あちらでお待ちしてます」と帰っていった。
 いよいよ九州へ行く日が来た。当時、私の家では奄美大島と商取引があって、大島行きの船があったので、船で門司まで行くことにした。朝早く立って、夕方太宰府天満宮近くの温泉へ泊まった。今から考えると二日市温泉である。
 差いた翌日、おん使者はんが迎えにきた。そこからゆっくり走る汽車に乗り、しばらくして小さな駅に着いた(後の調査で福間駅ということである)。駅でしばらく立っていたが「歩きましょう」と検校が先に立って歩きだした。が、十歩も行かぬうちに馬が引いた車が来たのである。
 おん使者はんが「あ・・・・・来た、来た、来ました・・・・・」と、止まってくれたその車に乗れというので、やれやれ歩かずにすんだと乗り込んだ。これも後の古田先生(古田武彦氏)の調査で、“福間〜津屋崎間の馬車鉄道”と言うことだが、その当時の私は農家の人の馬車と思っていた。なぜならば、私にとって、馬車とはシンデレラの乗るような美しく飾ったものと思い込んでいたからである。
 車の中は両側に幅の狭いベンチのような腰掛けが向かいあってあり、馭者は小父さんが一人。その馭者とおん使者はんが話をしているのが農作物のこと等であったので余計、農家の馬車と思い込んだのであろう。
 のどかな田園風景の中、馬車はパカパカと走る。道端から男の子が二人走って出て、ピョイと車の後ろに腰掛けた。神戸っ子の私には、その頃はもう珍しい、和服を短く着てカバンを肩から斜めにかけている、三年生か二年生くらいの男の子だった。
 馭者の小父さんが気付いて、「コラーァ、降りんか・・・」と言うとピョイと飛び降りて歩き出した。段々小さくなって行くその子達の姿を見ながら、「この小父さん、私ら乗せてくれたのに、あの子らも乗せてやればいいのに、意地悪やナァ」と思った。ちゃんとした交通機関とは知らなかったからである。
 やがて馬車は、家が少しある所へ止まった。「さあ、降りて・・・・・」と言われて一行は馬車を降りると、馬車はもと来た道を引き返して行くのが見えた。
 一行というのは、私・父・菊邑検校・ケイさん・うちの番頭・山村ひさ、それと迎えにきたおん使者はんである。
 その降りた場所に後日談がある。昭和五十七年頃、古田先生が必死になって現地調査をされ、やっとその馬鉄を見つけられたのであるが、その時「その馬鉄は、津屋崎という所が終点のはずですが・・・・・・引き返したように見えたのでは・・・・・」と聞かれたが、私はやっぱり降りた所が終点のような気がしていた。だから「途中の終点みたい・・・・・」と答えると、古田先生は苦笑していられたが、その後、その馬車の写真を掲載許可のため、津屋崎町役場に行き、何気なく私の言ったことを話されると、役場の年とった人が「その人の言うことは事実ですよ。なぜならば、昭和九年頃から廃止になるまで、岩屋不動、つまり宮地嶽までで引き返していましたから・・・・・」と言われて驚いた、と言われたときは、自分の記憶が満ざらでもないとちょっと得意になったものである。

     【公 源 氏】
【解説】作詞・作曲年代不明の極秘曲であり極秘舞でもある。宮廷舞踊の形式を残していると思われる振りで、非常にむつかしい間の筑紫舞。
           (西山村光寿斉)
【歌詞】
一、風に散るもみじは 軽し春の色を
  岩根の松に 懸けて見ましや
  とにかくに 忘れぬ花の面影

二、人目なく 人目なく 忘れたる宿は
  橘の 花こそ軒の端となりけれ
  昔を偲ぶほととぎす

三、おのずから おのずから 春待つ園は
  我が宿の もみじを風の伝にだに見よ
  籬(ませ)に寄せしいろいろ

四、氷とじ 氷とじ 岩間の水は行きやらで
  空澄む月の影ぞ流るる
  影こそ流れ 流るれ

楽・跋/飽かざりし 花ももみじも忘られて
   眺め明石の雪のあけぼの
   深き契りは朽ちせぬ縁なるべし

 降りて少し歩くと山道があり、そこを上っていった。上がり口に低い柿の木があり、色の悪い柿の実が一つぶらさがっていた。私が手を伸ばしてそれをとろうとすると、いつになく、おん使者はんがきびしい声で「今日の貴女はそんなことをしてはいけません。柿がいるなら後でいくらでもご馳走します」と言う。別に柿が欲しくて取ろうとしたのではないのに・・・・・と思ったが、あわてて手を引っ込めて後に続いた。道のあちらこちらに蛇が出ているように見えたので「きゃー、蛇・・・・・」と言うと、いつの間にか菜っ葉服を着た四十歳位の人が一行の中に混じっていて、その人が「蛇と違いますよ、木の根が出ているんで・・・・・」と木の枝でたたく格好をした。よく見ると、本当に木の根がウネウネとまるで蛇のように出ている。なんて田舎だろうと思いながら、山道を少し登ると、いきなり平らな場所へ出た。そこには十二、三人位の男たちが集まっていた。
 いい和服の上下を着たふっくらした小父さん、菜っ葉服を着てゾーリを履いている人、シマの木綿の着物を着た人等と、服装も、年齢もまちまちの人が集まって、にこやかに話をしていた。
 広い平地の左奥にポッカリと大きな穴のあいた岩屋があった。珍しくて、中をのぞいてみると、奥深く、人が何人も入れそうな気がした。
 集まっていた男たちの中で、一番年寄った身体の小さなおじさんが、どこからか風呂敷包みを何個も持ってきて、人々に「ハイ、これ・・・・・」と、一人ずつに渡している。見ていると、風呂敷の中には油紙に包まれた汚い衣服が入っていた。
 着ていた衣服を脱いでわざわざその衣服に着替えている間、私は広場の端まで出て大きく息を吸った。瀬戸内海のおだやかな海しか見たことのない私にとって、彼方に広がる海は荒々しく、大きな猛々しい男の感じがした。
 「これが玄海灘っていう海なんだ・・・・・」やはり九州へ来たんだ。初めて九州の土を踏んでいる自分を強く感じたのである。
 いつまでも海を見つめている私を、「仕度出来ましたので・・・・・・」と一人の人が呼びに来た。岩屋の方を見ると、いつの間にか入口の両端に笹が立て掛けてあり、二本の笹の間に縄が渡され、御幣がぶら下がっている。その下で検校とケイさんが私を待っていた。あわてて傍へ行くと、「さあ・・・・・」と先に立って洞窟の中に入って行く。私達も判らぬまま中に入って行った。
 驚いたことに、いつの間に運んだのであろう、箏(といっても普通の琴の三分の二程の長さで、左右の幅がかなり違っていた。後で筑紫箏と聞いた)が一面、竹を三〇センチ位に切って、先が細くささらになっているのをもった人、ツヅミか大カワか判らない打つ物等を持った人が岩肌にもたれて座っている。
 私達は向かい合う形で、岩の凹みのところにムシロが敷いてあって、そこに小さくなって座った。検校は、と見ると、一番奥にケイさんとともに座っている。前に何も置いていないので、今日は私達と同じお客なんだろう。後で山村ひさが不満そうに「九州くんだり迄呼んでおいて、何も弾かはらんなんて失礼でんナ・・・・・」と父に言うと、父は「あれはあれでええんやろ、判らんことに口出しなはんナ」とたしなめた。
 やがて、一同が検校に対してうやうやしく一礼すると舞いだした。“とうとうたらり、たらりら・・・・・”と始まったので“翁”だな、と思ったが、それは十三人立ちだった。中心になる翁が一番年よりのお爺さんで、歯が悪いので名乗りの時に何を言っているのか判らなかったが、後に武智先生・古田先生達に思い出せ、思い出せとせつかれて、フト思い出したが、「アサクラの翁」か「タカクラの翁」かそんな感じだったが、未だに判然としない。
 始まりだして少しすると、真ん中のその翁が座って動こうとしない。傍らの翁が「オトよ・・・・・オトよ・・・・・」と呼ぶと、女の仕草で、又天年寄りが出てきて、その翁の後ろから覗き込んだり、ひざにもたれたりすると、なにか誘惑しているようだった。すると真ん中の翁が立ち上がって歩き出す。
 そのオトなる人物はピョンピョンと飛ひ上がるように、いわゆるルソン足の連続で一周して、引っ込む。舞は続けられていく。やがて終わると、今度は又初めから“とうとうたらり・・・・・”から七人立ちの翁が演じられた。これは整然とキッチリ一曲舞われたが、今まで汚ならしいおじいさん達と思っていた人達が、まるで桧舞台の役者のように胸を張り、キチッと腰を落とし、間の取り方、決まり方、子供の私の眼で見ても、素晴らしい舞振りだった。
 十三人も七人も舞うとなると、その洞窟は狭かったが、気がつくと、箏を弾いている人がいつの間にか舞う方に回っていたり、つまり、地方(じかた)と舞人が常に交替しているので、舞っている人は六、七人位だったろう。それに幅の狭いところで、横に半円を描いて舞っているので、私の目の前へ寄ってくる。思わず見上げると、スーと、自然に下がるといった流れの中で、何の不自由さも感じさせず、しかも人無きが如く無我で舞っているその姿は、神そのものであり、映画で見るようなかがり火をたいて、その炎のあかりに照らされている顔は、又、奈良で見た仏像のような気がした。

     【七 夕】
一、万代の秋ごとに、君ぞ見るべき七夕の
  契りは久し行き合ひの、
  夕べの雲の上にて。

二、九重の庭に咲く、薫り満ちぬる菊の香に、
  千歳の秋をや重ぬらむ、
  君が齢ぞ知るべし。

三、治まれる代の静けさは、なほ幾千代と聞こゆなる、
  こや松虫の音に立てて、
  呼ぼう声にぞあるらむ。

 終わった後、神事のような儀式があって、皆そろそろ外へ出るので、私達も後に続いて「今の真ん中の人、あの人はこの前の奉納のとき、あの山のむこうの山の上なんやけど、木組みしていて落ちて腰を打ちましてナア、モッコに乗せて山を降りたそうで・・・・・それからそれからやっぱり腰が痛むらしいです。前はそらもう、いい舞を舞う人だったけど・・・・・」とか、「あの三番目に座っていた人、クジュウ?から、こちらの人は京都から・・・・・あの人は日向から・・・・・」といろいろ教えてくれるが、京都以外の地名は全然分からぬまま、「ふんふん」と聞いていた。
 又、今まで舞っていた人々は、舞うまでは私達を無視しているかのような態度だったのに、終わって外に出たとたん、私に優しく次々と声をかけてきた。私はフト、常に菊邑検校が言っている、「筑紫舞は人に見せるもんやない、神に捧げるものです。何人いようと皆、神のご相伴(しょうばん)です。人が何と思おうと、神様が満足なさればそれで宜しい」という言葉を思い出した。「そうだ、私達はお相伴だったんや、そやから物言わへんかったんやナ」と考えると、別に腹も立たなかったが、終わったとたんに、皆がニコニコし乍ら、あれこれと話しかけて来るのには困った。言葉がよく判らないし、世間話のできる年でもないし、でも悪いかナと思って、愛想笑いなどして相手をしていたが、しばらくすると、岩穴の入り口の所にムシロを敷き詰め、いつ来たのか、おばあさんのような人が白い着物を着て、頭に手拭をかむり、手に風呂敷包みを下げて、人々の間に混じっていろいろと指図しているのが見えた。
 「さあ、こちらへ座って・・・・・」と言われて、一番前に一人座らされ、不安になって父たちを探すと、離れたところに固まって、こちらを見ている。
 「お父さーん」と呼ぶと、父は「言われた通りにしてあげなはれ」と、こちらへ来てくれない。仕方なく一人座っている前に、舞った人達が並んで座っている。おばあさんの風呂敷包みを開けると、重箱と青い七〜八センチ位の葉っぱが何枚か入っていて、私の横に小さな手桶に水が入って置いてある。私は何が始まるんだろうと、半ば面映ゆいような気持ちで、皆と向かいあっていると、おん使者はんがそばへきて、重箱を開けた。中には白むし(白いオコワ)が入っている。彼はまず一枚の葉っぱに、手を手桶の水でぬらして、一つまみオコワをつまんで葉の上に乗せて、「さあ之を一人ずつ渡してください」と言う。私は退屈しているから遊んでくれているんかナと思って皆の方を見ると、一同が手を差し出して、「たまわれ、たまわれ」と声を出した。
 一枚の葉を取って、教わった通りに手をぬらして、オコワをつまみ乗せると、一番前に居た人が進み出て、おし戴いて、受け取った。次々と十三、四人に渡していった。
 だんだん面白くなって、ピッチが早くなっていったが一通り終わると、今度は素焼きの盃をフトコロから出して、「おみきをたまわれ」と言う。手桶の横に半紙を敷いて、さっき洞窟のなかの神前と見えた所に供えてあった、お酒の入った徳利のようなものが置いてあった。
 私は「いや・・・・・」と言った。お酒をつぐのは、水商売の女の人のすることと思っていたからである。しかし、なおも彼等は口々に「たまわれ、たまわれ」と言ったが、私は強く、「いやや・・・・・」と叫んだ。
 すると、岩穴の入り口に座っていた検校が、突然大きな声で、「あせるでない」と怒鳴った。一斉に皆が黙ってしまった。意味は判らないが、何か儀式であったらしい。父は何も言わなかったが、多分すべてを承知していたのだと思う。後に、宮地嶽神社の神官に聞くと、それは“オガタマ”という榊に似た葉であるという事である。

     【むら時雨】
【解説】・・・筑紫よりの迎えの船を待つ物語。地唄としても現在は珍しいものである。
           (宗家 西山村光寿斉)

【歌詞】。
ながながに契(ちぎ)らじ物をあだ人の、
憎からざりし言の葉を、
思い初(そ)めしも世の中に。
我ればかりかは、白露の、
消よ消なん身はいとわねど、
君はよそにや逢阪の関。
行くも帰るも忍ぶ身は、
せめて情けの糸によるものなら
わかでありもせぬ。
何を思いにや焦がれてもゆる野辺の狐火。
さよ更(ふけ)て、衛士(えじ)の焚(た)く火かつくしの船か。
我も焦がれて夜となく、
昼ともわかで今は只、
想い絶えなんとばかりを、
人伝てにだにいふよしも、
松は連なや村時雨。
染めてもそまぬ常磐木の、
春の若葉も哀れをかけよ。
君はいつしか秋風の
吹しく野辺のくずの葉の、
怨みながらも逢夜またるる。

 秋晴れの陽の高いうちに山に上ったが、すべて終わったときは海の上の空はきれいに夕焼けで、だいぶ時間がたっていたらしい。また全員で山を下った。
 歩きながら、皆楽しそうに話をしていたが、京都からきたという和服を着た人が、「あさってクジがあるんで今夜もう発(た)たなきゃ」と話していた。私が父に「クジって何?まさかくじ引き引かんならんいう事ちがうわナァ」と言うと、父は「多分、公事(くじ)と書くクジやろ、裁判の事やがな、あの人、公証人か弁護士か、そんな職業と違うか」と言う。私はそんな立派な職業持っている人が何でまた九州まで来て、あんな汚い衣装着けて舞を舞うんだろう? と不思議な気がした。
 それに全員がすごく上品て、行儀の良い穏やかな達ばかりだった事も不思議だった。父も同じ思いだったらしい。「皆、立派な人やナァ」とつぶやくように言った。そして番頭に、酒を買って届けるように言いつけていた。まだ後に残っている人が居ると思っていたのだろう。「へい」と番頭は走ってどこかの酒屋で酒を買い込んで来て、すぐに元の洞窟の前へ行ったが、誰も居ず、ついさっきまでそんな儀式めいた事があったなんて、気配も無かったという。「狐につままれたようだしたは・・・・:」と後で言っていた。
 三々五々歩いている人達がいろいろ話をしていたが、「もうオヤカタさまの前で舞うことはないだろうナァ、こんだけそろう事もないかも知れんし・・・・・・」という話がいつまでも私の耳に残った。しかし、その人達のつき合い方は、私の知っている小父さんや、小母さん達とは全く違っているように思えた。久しぶりだろうに、特別にベタベタなつがしがる事も近況を語る事、家族の話をする事もなく、それでいて、ぴったり心が通じあっているように見えた。別れもまた淡々としていたが、一番年をとったお爺さんだけが、坂の途中で止まって、「ほんならこれで・・・・・」と手を振っていたが、夕陽にキラリと涙のようなものが光って見えた。
 ふり返って手を振っていた人達の目も、心なしか潤んでいるような気がした。一人、おん使者はんだけがニコニコして、私に「ご苦労さんでしたなア、駅までご一緒しましょう、ハイヤー呼んでありますから・・・・・」と検校、ケイさんと共に送ってくれたが、その時は検校たちは九州に残った。
 私達は別府へ回って、温泉に泊まり、別府から船で神戸へ帰った。別府の宿でも、帰りの船の中でも、私も父も何となく無口になっていた。いったいあれは何だったのだろう? 私の役目は何だろう。私の頭の中はそんな思いで一杯だった。父は何を考えていたのかわからないが、やはり何かかみしめているみたいだった。そんな中で、むしょうにあの人達が恋しくなったのは不思議であるが、それほど感激していたのかもしれない。
 文明開花の神戸へ帰りついたとたんに、何かが、つい先ほどまでのことが、夢の中の出来事のような気がしてきた。あの、山の中での荘厳な舞、現代人ばなれした人々、やさしい目、何だか夢の中と現実が、入れ替わり、立ち変わり、私の頭の中を交替している。一週間ほどぼんやりしていたが、父に「あの人達どないしてるやろ、もう普通の人に混じって暮らしてるんやろか? ひょっとして、あの人達神さんと違うやろか?」と言うと、「ま、それに近い人達やろナ」と言った。
 二週間ほど過ぎた頃、また、菊邑検校とケイさんがやって来た。九州での出来事には一切ふれずに、私に「さあ、ぼつぼつ翁にかかりましょう」というので、ハッと十三人立ちを思いだした。「一番初めに舞いはったやつやろ? あんないやらしいのはいややわ、いらん」と言うと、「あれは、その時の宰領(さいりょう)さんをもてなすもんです。真ん中にいた人がそうです。まあ、お前さんなら五人立ちまでですなア」。私はばかにされたような気がして“五人立ちでも七人立ちでもやってやる”と思った。おかしなことに、九州へ行ってからはケイさんの態度が変わった。それまでは検校の言いつけで、私に手ほどきをしていたのが、積極的に私の世話をしだした。そして、またいろんな人が九州から、うちへ来だしたのである。

     【夕(ゆふべ)の雲】
うしと見るも月の陰 嬉しと見るも月の影。うす雲の棚びきて。心のいろぞほのめく。
ゆかり嬉しきおもかげ。
ひきとめし袖の香忘られぬ。
情(なさけ)にあはれを知るもことわり。
あふことにしぐれてふかくそむる紅葉(もみじば)ふきちらず。山風ごころなきもうらめし。よもすがらつくづくとありしよのことおもひ寝の。夢に見ゆるおもかげ。
如何(いか)して我(わが)がねやへくることの嬉しさ。
はかなくも夢さめて。
かすかに残るともしび。夢に見しふしども。
さめていぬたるふしともかはらぬぞ。
かなしきさめて姿のなければ。
まぼろしの姿も夢路ならではいかでみん。
絶(たへ)てかはさぬ言葉もあつさにかけてかはさむ。

 九州へ行った翌々年だったか、正月の三日の日におん使者はんが一人やってきた。当時商家では、家に入ったすぐのところにお飾りをかざり、前に「名刺受け」と年賀帖が置いてある。正月しか休めない家人を起こさないで、年賀に来た人が名刺を置き、名刺の無い人は年賀帖に署名をして帰るのである。夜それを見て、「あ、誰それはんが来はったナァー」と通じるのである。三日の雑煮が終わって、いい着物を着せてもらっているところへ「おめでとうさんで・・・・・」と、おん使者はんが入ってきた。女中が「いやァ、珍しい。検校はん居てはらしまへん時においでやなんて、せっかくやさかい、年賀書いておくれやす」と言うと、「さいですか、ほんなら・・・・・」と筆で達筆に「筑紫斉太郎」と書いた。今から考えると、筑紫の斉太郎か、亦、苗字が筑紫か判らないし、本名かどうかも判らないが、女中が「へえー、さい太郎はんですか?」と聞くと、「いえ、トキ太郎と読みます」と答えていた。それからは、おん使者はんは、トキ太郎はんになったのである。その時は「上方にちょっと用がありまして・・・・・せっかくやからちょっとご挨拶に・・・・・」と言って、泊まらずに帰った。
 九州からいろいろな人が来たと言ったが、洞窟で会った人は一人も来なかった。検校の稽古は段々と追い詰められるように激しくなり、太平洋戦争に入ってからは、なかなか汽車の切符が買えぬこともあって、一度来たら一年中ほとんど家に居て、毎日毎日、次々と稽古させられた。
 昭和十八年の秋の終わり頃、検校は「もう全部伝えました。しっかりと体に入れて、後々まで残して、伝えてください、私はもうおいとま致します」と母に言った。母は驚いて、「そんな・・・・・、九州へ帰りはっても、食べ物にも不自由しはるやろし、ここに居てはったら何とかなりますし、戦争がかたづくまで、居てておくれやす」と涙声で引き留めたが、「いえ、お伝えするものが無い身でお世話にはなれません」と頑として聞かず、切符の手配を頼んで、私と別れの盃をした。その時は私も「いやや」と言わず、ちゃんと御酌をしたが、初めて検校に激しい愛情を感じた。思わず「おっしよさん居って・・・・・・」と叫んだ。傍でケイさんが目頭をぬぐっていた。その日から二日後に切符が手に入ったので、検校達は旅立ったが、「今日は送らんで下さい。ここでお別れします」と、送らせなかった。私達は家の外に出て、ケイさんと検校の後ろ姿を見送ったが、私の目に、二人の回りを、あの洞窟で舞った人々が嬉しそうに取りまいて共に歩いている幻を見たのである。姿が見えなくなるまで見送った後、家の中に飛んで入って、身も世も無く、泣いて泣いて涙で顔がぐちゃぐちゃになるほど泣きつづけた。母も泣いていた。
 昭和二十年四月に、友人が長崎で検校に会ったと言って訪ねてきた。その時友人が「何かみっちゃんにおことづけは?」と聞くと、「いえ、何もありません。私があの人ですから・・・・・・」と言ったという。友人は「情の無い人」ときめつけていたが、私には痛いほどその言葉は判った。十二年間もつきあった者で無ければ、検校を理解できないであろうことも・・・・・。

     【須 磨】
【解説】・・・筑紫舞のうち、「安芸より東、近江より西」の神舞と聞いている。八橋十三曲の第十曲で「夕顔の曲」「須磨の曲」ともいう。極秘曲ともされ、舞も極秘舞神曲となり、見せるものではなく、神に奉納する典型的な舞である。
          宗家 西山村光寿斉
【歌詞】
一、須磨と言ふも浦の名
      明石といふも浦の名
  更級(さらしな)の月とともにながめて
      いざや帰らん

二、春に寄せし心もいつしか秋に移らふ
     黒木赤木の籬(ませ)の内に
  よしある花のいろいろ

三、きりぎりす 夜すがら何を恨み集(すた)くぞ
      我も思ひに堪へかねて
  いとど心の乱るるに

(四歌略)

五、三五夜中の新月
      隈(くま)なきぞおもしろき
  千里(ちさと)のほかの人までも
      さぞや眺め明かさむ

 昭和四十五年頃から、筑紫舞をちょこちょこと、東京や大阪の舞台で舞ったことから、故武智鉄二氏はじめ、学者や文化庁の目に止まり、後、古田先生の研究の一つとして、私の話から、まず昭和十一年に来たという洞窟を探しだされた。馬鉄の件から糸口を見つけ、その洞窟は宮地嶽神社の上の、大塚古墳であることが判明した。
 宮地嶽神社は大きな神社である。私が不思議でならないのは、私が舞った時に、全然、神社の存在を知らなかったことである。道端の小さな社にでも手を合わせて通る人々が、何のご挨拶もせず、私にも教えようとしなかったお社。なぜだろう、と言って、全ての神社に礼を尽くしたわけではなかったが・・・・・。
 神戸でもあちこちの神社、それも、宮司さんのいないような神社とか、宮司さんがいても、人里離れたお宮とかに私を連れて奉納舞をさせた。けっして、こちらから頼みこんで舞ったのではなかった。もっとも、父が一度、神戸の敏馬(みるめ)神社の神楽殿での奉納をみてから、神舞のとりこになり、何処ぞの神社に修復は無いか、お祭りは、と目の色を変えて探し回り、酒を奉納しては私を舞わせだした時は、検校もいやとは言わず何処ででも舞わせたので、当時は、私はどこの神社でもいいのだと思っていた。
 昭和五十五、六年頃、古田先生が甘木の方で講演をされたとき、会場から一人の男の方が「自分が中学一年生の時、それらしい舞の奉納を柿原古墳の前で見た記憶がある」と名乗り出て下さったと聞いて、やはり! と思った。御祭神に関係があったのだと気づいた。遠い祖霊に捧げていたのだと。
 昭和五十七年に、宮地嶽神社の上の古墳へ確認のため古田先生に連れて行かれた。現在では不動さんとして、すっかり変わっていたので、最初はとまどいを感じたが、中に入って岩膚を見たとき、一気に五十年さかのぼってしまうほど、まざまざと当時の様子がよみがえってきた。
 検校の座っていた奥、私達が座ったくぼみ、そして箏を前にしていた人、今、そこにあの人たちがいて、箏を弾き、舞いをしているような幻に、思わず涙が出てきたほどの懐かしさであった。
 幸い、宮地嶽神社の宮司が当神社に関係の有無に関わらず、一番近い所にいる私たちが習って、何とか残すことに努力を致しましょうと言って下さったので、「翁・五人立」の奉納を機に伝承に通い出したのである。五年間の契約でということで教えたが、契約という形の伝承を、検校が喜んでくれているか否かはわからない。が、私にはまだまだ広く世に広め、多くの人々に筑紫舞を伝え、心に刻み込んでいただく使命が残っているような気がする。また、それを見込んで、私一人にあの人たち全員の命の証を注ぎこんだのであろう。そして、あの洞窟で舞った人の誰かが、九州からわが家へわざわざ、型を見せに来てくれた、比丘尼組(びくにぐみ)の女の人の誰かが・・・・・まだ現世に残っていて、私の懸命にしている姿を、あの優しい眼差して、そっと見ていて下さっているかも知れない。
 いま、私は、別れたときの検校の年になっている。そして、当時の私のような若い娘たちに教えている。その若い娘たちが、また、私の年になって・・・・・そんな輪廻を考えると、大昔の人々が、この舞を、そんな気持ちで伝え伝えして来たんだナと・・・・・やっと判ってきたような気がする。
 玄海灘を海へ向かって、大きく袖を広げ、「オーッ」と神呼びをしていた人の後ろ姿、また、終わって後、夕日に向かって頭を下げていた人々、神々しいまでに安らかな顔々々。
 若い娘たちに、筑紫舞を教えながら、最近特に、新鮮にその時のありさまが思い出されてくるのは、やはり年だろうか:・・・・。(終)

     【乙 の 組】
【解説】作曲年代不詳、古八橋流秘曲とされるもので、唯受一人(伝承者その人ひとりのみ許)の極秘曲。舞も同様であるが、海を越えて出かけた男を待つ、妻または娘・母を表していると聞いている。
           (宗家・西山村光寿斉)

【歌詞】
一、いざさらば 涙くらべむほととぎす
  我は昔の偲ばれて
  夜もすがら夢も結ばぬ。

二、命あらむ限りは 馴し君の面影を
  何としてかは忘れむと
  思へばいとどゆかしき。

三、思いを人に知らせじと 心に深く包めども
  恋しさいや増して
  我とこぼれる涙かな。

四、袖にふれし移り香も 落つる涙にそそがれて
  形見に残る色だにも
  失せて思いの増さりけり。

五、はかなきは 世の中の憂き身に積ふ柴舟の
  たかぬ先よりこがれ行く
  この身は何となるべき。

六、波にゆらるる浜千鳥 逢う夜は難し我が袖の
  あと踏みつけよあわれにも
  せめてとりみても忍ばむ。

 

〔後述〕「光寿斉のひとりごと」

 一、鴻臆館が大和朝廷の迎賓館であったと聞いて、「年に一回か二回、高位高官の前で舞えば、一年間食べられた。」と言った検校の言葉を思い出した。ひょっとしたら“翁”とか“石橋”とかいうような形のくぐつ舞は、そういう人達の前で舞っていたのではないだろうか・・・・・。

 二、せんだって、古田先生が『二中歴』という書物に載っていた、一部分を見せて下さったが、その中に「結縄、刻木を文字となす・・・・・」とあるのを見て、やっぱり、菊邑検校や、あの仲間の人たちは、古代のしきたりをそのまま継承していたのだと思った。検校が「竹生島」(ちくぶしま)振り付けの際、麻紐を出させて、結び目で間を残しているのを見て、文字の代わりをすると聞いていたことが本当だったのだなアと・・・・・・。

 三、七〇〇年代?の頃だったかに、「新羅人来りて、筑紫より播磨を焼く」と記されてあるのを見て、どうして九州の筑紫舞を神戸の神社で舞わせたり、神戸っ子の私に舞を教えたんだろうという謎が少し解けたような気がする。古代から、筑紫と播磨は密な関係があったのでは・・・・・と。
  ーー その他、いろいろ、検校は少しも私にいいかげんなことは言っていなかった証が、つぎつぎと出て来るので、やはり、思い切って九州へ来てよかったと思う。


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筑紫舞上演 解説・筑紫舞宗家・・・西山村光寿斉(『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』)

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