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連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡

第四回

古田武彦

  一

 松本清張さんへのお人柄に深くふれえたのは、なんと言ってもあの、推理小説界にとって不幸な事件のおかげでした。
 それは、昭和四十八年十二月に出た、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』です。光文社のカッパブックスとしてたちまち版を重ね、一大ベストセラーとなったのです。
 わたしは早速読みました。その二年前、『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、昭和四十六年十一月刊)を出していましたから、当然このテーマには強い関心をもっていた上、わたしは年来高木彬光ファンでした。
 その一番の理由は、昭和二十六年、雑誌『宝石』に掲載された『わが一高時代の犯罪』でした。高木氏が学生時代をすごした旧制第一高等学校の校舎を舞台とした、一篇の名作でした。推理小説そのものとしてのトリックは簡単で、これを「他愛もない」と評することも当然できるかもしれません。しかし、そこに展開された、一高生の青春群像の姿はまことに魅力的でした。それも、いわゆる「軍国主義」の時代的な流れの中で、それに抗し、中国人留学生を守る日本の若者たち、わたしは酔い痴れたように読みふけったものです。
 というのも、わたし自身、熱狂的な、一高への「隠れファン」だったせいでしょう。「鳴呼玉杯に花うけて」や「友の憂いに吾は泣き」「烟(けむり)争う花霞」などの寮歌を口ずさみつつ、勉強に没頭しました。それが昭和十年代の少年のわたしでした。後から振り返れば、それは大変な時代でした。否、当時でも、小学一年生のとき、隣のクラスの担任が突然学校から消えてしまったのです。噂に聞くと、血盟団の右翼運動に参加するため、「学校の教師なんか、していられるか」ということだったようです。二十代半ばの若い先生でした。中年だった、わたしのクラスの担任は、二クラスかかえて四苦八苦、苦労されていました。
 けれども、幼いわたしには、それも馬耳東風、ひたすら漢文や各科目を無我夢中で勉強し続けていたのです。父親の反対で「東京留学」は叶いませんでしたが、その時代に培った勉学は、今もわたしの内部を確かに支えています。

  二

 わき道にそれてしまいましたが、わたしは高木氏の新著を一気に読み終わったとき、深刻な「?」にとらわれました。なぜなら、高木氏のトリック解決、正確には主人公の天才神津恭介が「解決」した、と特筆大書されてあるところ、それはわたしが二年前に出した本、「手法」をまさに移し変えたものだったからです。「盗用」です。
 しかも、わたしの本の書名も、著者名も、その一切「ナシ」です。わたし以外の人々、たとえば宮崎康平氏の『まぼろしの邪馬台国』や、原田大六氏、榎一雄氏など、大々的に紹介してあるのです。
 わたしの本から「移され」た痕跡は各所にありました。
たとえば、
 「一・・・『魏志・倭人伝』の重要部分には、いっさい改訂を加えないことと、万一改訂を必要とするときは、万人が納得できるだけの理論を大前提として採用すること。
 二・・・古い地名を持ち出して、勝手きままに、原文や国名にあてはめないこと。」(一四頁)
 「不弥国は邪馬台国の玄関のようなところにあったとしか思えない。」(一八六頁)
等々。それはいずれもわたしや松本清張さんのような先行者の主張と同一、もしくは「近い」ものですね。
 さらに、いわゆる「二倍年暦」や「短里」の問題なども、論旨を変えながら、「はめこまれ」ています。
 けれども、何よりのキイ・ポイントは、「陸行一月、水行十日」の問題です。従来、近畿大和や九州の筑後山門など、各論者が各自改変して利用してきたこの一句を、先頭にあげた「改訂を加えない」まま、天才神津恭介が見事解決したと称する「決め手」、それが何と、わたしが本で展開したのと同一の手法なのです。
 帯方郡から、一部「水行」を交えながら、大部分の「陸行」を韓国内部の行程と見なす。わたしの解読の根本の立場です。これをそのまま採用しています。そしてそれが総里程の「一万二千余里」と「等距離」を示すもの。そう解したのです。わたしの本以前に、このような「解読」はありませんでした。
 ところが、神津恭介のこの提案を相手の推理作家の松下研三は絶賛するのです。
 「『どうだね? 僕の考えは、いったい間違っているだろうか? 高校生にもわかる程度のかんたんな、しかも合理的、論理的な考え方ではないだろうか?』
 『おそれ入りました。神津先生・・・』
 研三は椅子から立ち上がって頭を下げた。
 『たしかにコロンブスの卵です。言われてみればそのとおり、どうしていままでの研究家がそこに気がつかなかったか、ふしぎでたまらないくらいですよ」」(一九二頁)
 読んでいるうちに、不思議な気がしました。先行者がやったことを、そのまま真似る。それを「コロンブスの卵」と言うのでしょうか。自分が苦心の末たどり着いたところを、あこがれの天才に「なぞられ」るとは。何か、くすぐったい思いでした。
 だが、落ち着いて考え見れば、これはやっぱり「立派な盗用」なのです。

  三

 熟考した末、光文社あてで高木彬光氏へ手紙を送りました。その内容は簡明です。
(一) 今回の『邪馬台国の秘密』は、論証の根本部分において、二年前のわたしの本『「邪馬台国」はなかった』からの、無断転用(盗用)に基づいていること。
(二) 右について著者から明確な回答を得たいこと。
 この二点でした。
 この時点では、わたしは楽観的でした。ことが明白である上、高木氏は往年の「旧制一高生」であるから、ことの理非を正確に判断した上、堂々たる「謝罪の辞」が届くであろう。 ーーこのように予想して疑いませんでした。
 しかし、ある日、わたしの宅に訪れた一人の紳士(風の男)は、これが幻想であったことを示してくれたのです。

  四

 彼は狭いわたしの応接室で、椅子にのけぞるようにして座り、口を切ったのです。
 「高木先生は高名な方だから、その先生から好意を受けていれば、行く末、あなたにとって損はない。」

 そういった話から始まり、自分がいかに高木先生から信頼されているか、いろいろと(不明確な)例を口走りつつ、延々と語るのです。要は、そのような自分に任せておけば、悪くはしない。そういった、いわば「自己宣伝」がいつまでも続くので、こちらは辟易しました。その挙句、「いったい(金を)いくらほしいのか」と聞こうとするのです。
 わたしには、それこそとんでもないことでした。
 「わたしが要求しているのは、お金などではありません。わたしの手紙に書いたとおり、率直に事実を認め、率直に公的な訂正をしていただければ、それでいい。それだけです。」
 いくらそれを繰り返しても、彼は全く「信用」しようとせず、「よく考えておいてくれ。また来ますから」と言って去っていったのです。二回目に来た時も、同じような押し問答で、わたしはいよいよ不愉快になっていくほかはなかったのです。

  五

 不愉快な経緯はやがて一転し、爽快な結末となりました。
 ある日、光文社の責任者A氏から連絡があり、京都市内の京都ホテルのロビーの喫茶室でお会いしたのです。
 わたしはいつも通り、わたしの申し分を述べますと、A氏は驚いたようでした。

 「やはり、そうでしたか。あのX(例の紳士です)は何かトラブルがあったときの『事故処理』をお願いしていたのですが、どうも古田さんに会ったあとの報告がおかしいのです。つまり、ハッキリ言えば、
 『古田は大分フッカケてきている。しかし、自分がそのうち、まけさせるから、待ってくれ』
というのです。何回たっても、それが変わりません。
 しかし、わたしは古田さんの本を読んでみても、どうも古田さんがそんな人とは思えない。そこで直接、古田さんと話してみようと思って来たのです。来て良かった。やはり、わたしの思ったとおりの古田さんでした。」
と率直に語られたのでした。
 さらに、高木氏の『邪馬台国の秘密』とわたしの本との関係、「独創」と「無断借用」つまり「盗用」の件について、わたし自身の理解と全く同じ理解を示されたのです。驚きでした。心から信頼できる方だったのです。
 それは昭和五十年二月初めのことでした。やがてA氏は『邪馬台国の秘密』を昭和四十九年十一月十三日版を以て絶版の処置をとられました。ベストセラーとして続刊中でしたから、わたしは出版者の良心に出会うことができたのです。
 A氏もわたしも、その邂逅は人生の良き思い出となりました。

  六

 このとき、わたしにさわやかな経験を与えて下さった、もう一人の方、それが他でもない、松本清張さんです。松本さんは『邪馬台国の秘密』をめぐって、佐野洋さんと共に、高木彬光氏との間で激烈な論争を交わされましたね。『小説推理』の一九七四年三月号以来です。そして十月号では、わたしの本と高木氏の本との類似箇所を逐一指摘されました。「高木『邪馬台国』の再批判」がそれです。
 わたしから見れば、当然すぎる指摘ですが、しかしこれは「大変な」ことです。なぜなら、松本さんは高木さんとは同じ、推理小説界の重鎮。早くから推理小説界に登場した高木さんは、その意味では松本さんの「先輩」かもしれません。
 しかも、この当時、松本さんは確か推理小説家協会の会長だったと記憶しています。となればなおさら、同じ仲間を「批判」する。これは日本の社会の「しきたり」では、なかかなかやりづらいことだったのではないでしょうか。
 けれども、松本さんはけれん味なく、その主張を一貫されました。見事な光景でした。
 その時、わたしが東京へ行ったとき、松本さんのお誘いを受け、銀座のバーへ案内されました。小さなバーで、止り木の椅子が幾つかあるだけ、といった感じのところですが、松本さんはこことは「なじみ」のようでした。そこで何を話したか、まとまった話をした記憶もありません。もちろん、アルコールはビールを一杯飲んだくらいの程度でしたが、後にも先にもバーなどに縁のなかった野暮天のわたしにとっては、人生唯一の貴重な経験となりました。松本さん、ありがとう。

補1
『邪馬壹国の論理』(朝日新聞社、昭和五十年十月刊)に所載の、「神津恭介氏への挑戦状ー『邪馬台国の秘密』をめぐって」「推理小説のモラルー松本清張氏と高木彬光氏の論争をめぐって」「続・推理小説のモラル」を参照。
補2
高木彬光『改稿新版 邪馬台国の秘密』(角川文庫、昭和五十四年四月)、『邪馬壹国の陰謀』日本文華社、昭和五十三年四月)参照。


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