『邪馬壹国の論理』 ー古代に真実を求めてー へ

神津恭介氏への挑戦状 ーー『邪馬台国の秘密』をめぐって へ

敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第四回(なかった第四号)へ

本資料では、丸数字は○1は、(1)に変換しています。

続、推理小説のモラル へ(下にございます。)


『邪馬壹国の論理』(ミネルヴァ書房)V
2010年6月刊行 古代史コレクション4

推理小説のモラル

松本清張氏と高木彬光氏の論争をめぐって

古田武彦

  一
 わたしは青春時代・推理小説の愛好者であった。ヴァン・ダインの『僧正殺人事件』など、幾多の名作の芳醇な香りに酔い痴(し)れた思い出がある。
 海外の作家だけではない。高木彬光氏の『わが一高時代の犯罪』(昭和二十六年)など、わたしの愛読書の一つであった。
 今でも、わたし自身「心ゆくまで書き抜いた推理小説を作りたいな、一生にたった一つでも」 ーーそう言っては家の者に笑われているのである。
 もっとも、今わたしの没頭している古代史の探究。これも、本質は“推理小説の謎解き”である。『三国志』にせよ、記・紀にせよ、史料の一片に疑いをいだく。些細な矛盾、ほんのかすかな違和感にも、じっと耳をかたむけ、目を見すます。そして ーーそこに探究の発端か見出される。これは、たとえぱシャーロック・ホームズの得意とした場面ではあるまいか。
 次に、この謎を解くために、さまざまな仮説をたて、それを実証で一つ一つつぶしてゆき、そのあげく、最後のたった一つの可能性にたどりつく。 ーーその途中は机の上の「思考実験」の場合もあれば、実際に史料や証人を足でたずね、あちらの町、こちらの家と探し疲れることもある。ちょうど執念にもえた探偵や、捜査にのめりこんで妻子のことも忘れたような刑事たちと変わるところはない。坂口安吾も、“歴史研究の仕事は、探偵と同じだ”と書いていたが、全く同感である。

   二
 本誌『小説推理』今年(一九七四年)三月号以来、昨年末発刊の推理小説『邪馬台国の秘密』をめぐって、佐野洋氏・松本清張氏と著者の高木彬光氏との間で激烈な論争が交わされてきた。そして前号(十月号)松本清張氏の「高木『邪馬台国』の再批判」に至って、わたしの本(『「邪馬台国」はなかった』)と高木氏の本との類似個所が逐(ちく)一指摘されるに及び、わたしは深く歎息をつかざるをえなかったのである。
 先に書いたように、わたしは高木氏の幾つかの作品を好んでいた。それだけに右の本が発刊されたとき、直ちにこれを買い求めて読んだところ、意外にも深い疑惑にとらえられてしまったのである。
 それは、松本氏が逐一比較しながら指摘されたように、随所においてわたしの本からの「無断借用」が認められたからだ。もちろん、それらが“わたしの説”として紹介され、その上で使用されているならいい。光栄とする所だ。しかし、これはそうではない。一々“神津恭介の天才的な発見”として大仰な賞讃の言葉が相手役の松下研三によって“ダメ押し”されている。僭越じみるのを許していただければ、読んでゆくうちに、わたし自身のアイデアを“天才として”ほめられているような、何か一種妙な気持ちにさえ陥れられてきたのである。けれども読み終わったときは、どうしようもない“嫌悪感”にとらえられていた。その事実を率直に記させていただくほかはない。
 なぜなら、この作品では、著者は終始作中人物(神津恭介と松下研三)と同一の立場に立っている。それは表紙裏の次の文でも明らかだ。

 この問題を解く唯一の鍵『魏志倭人伝』の原文に一字の修正もほどこさず、中学生にもわかる明快、科学的な論理でこの難題を解明した前人は皆無である。私は今、この厳正な方法で「永遠の謎」に挑戦した。(「著者のことば」)

 これでは、おびただしい数にのぽったこの作品の読者の多くは、実は“わたしの創意”であるものを、“高木氏の創意”と錯覚させられてしまう。読みちがいで錯覚するのなら、その読者本人の責任だ。しかし、ここでは正確に読めば読むほど、すなわち錯覚に導かれるのである。
 また松本氏はあげておられないが、「二倍年暦」の問題がある。倭人(三世紀)は“一年に二回歳をとる”という暦を使っていた、という問題だ。この特異で、かつ重大な論点は、安本美典氏の指摘にはじまり、わたしがこれを展開した。これについても、高木氏は神津恭介に「発見」させ、研三に「あざやかな推論」として絶讃させている。節度を越した筆法というほかない。
 なお、この問題について一言したいことがある。わたしは、安本氏の本『邪馬台国への道』を読み、この二倍年暦にふれられた個所を見て讃嘆した。なぜなら、わたし自身そのような見地に立って分析をすすめている途次だったからである。ところがやがて、同じ問題が安本氏の側にもおきた。わたしが『「邪馬台国」はなかった』で提唱した「魏晋朝短里」問題(魏と西晋朝では漢代の長里の約六分の一の短里によっていたとする見地。『三国志』はこれに従って記述している)について、安本氏も同じ考察へと進みつつある途次だったのだ。氏の賞美のお手紙によって、これを知ったのである。
 すなわち、公表の時期によって「先後」をきめ、“先なる独創”に対しては、必ず表示して敬意を示す。これが執筆者の鉄のルールであり、良心だ。これを無視して、“わたしも同じことを考えていたのだから、自分の独創として扱い、別段ことわらなかった”などと言うとしたら、公的な執筆者としての資格を欠くアン・フェアな遁辞だというほかはない。今の問題のために一言する。
 しかしながらこのさい、一つの問題がある。それは高木氏がこの本を書かれるとき、はたして“わたしの説”を知っておられたのか、どうか、という問題だ。「盗作」だの、「無断借用」だの言う場合、これは不可避のポイントである。
 わたしにも、この点、一つの経験がある。わたしの解読の一つに「島めぐり読法」というのがある。対海国(対馬の南島)と一大国(壱岐)とについて、その二辺(半周、八百里と六百里)を行路数値に入れるのである。これはわたしにとって重要な「発見」だった。これによって総里数「一万二千余里」の明細がピタッとそろうこととなったのである(『「邪馬台国」はなかった』二五〇ぺージ参照)。
 ところが、これには実は、先行論文があった。わたしの本の発刊後、御本人のお手紙によって知ったのである(津堅房明・房弘氏「邪馬台国への道 ーーその地理的考察ーー」上・下、『歴史地理』91-3・4、昭和四十一年所収。両氏は近畿説)。わたしは驚くとともに喜び、返便をさしあげたところ、御本人(兄の房明さん)がお出で下さり、半日愉快に談笑できた。わたしとしては、わたしの「発見」(と思ったもの)に先行者がいたこと、それはやはりうれしかった。“同じ仲間の思索者がいた”という喜び。それによって、けちな「残念」などという気持ちは消し飛ばされていたのが、自分にもこころよかった。
 このように数多い論文・著書の中で「未見」のものがあることは避けがたい。だから、高木氏もそれではあるまいか、と思ったのである。しかし、精査すると、この「予想」は簡単にくつがえされた。
 その第一は、松本氏の指摘されたように、単語・文面の類同(内容転写)である。
 その第二は、「邪馬国」間題である。これはわたしの根本のテーマだ。ところが、神津恭介も、同じくこの問題を論じている(三二ぺージ、そして表紙には「壱」という字が大きく印刷されている)。これも、高木氏が“わたしの説”を意識しておられる証左ではあるまいか。
 その第三は、「二つの博多説」問題である。この本には、二種類の博多説が出てくる。その一つは、既成の女王国の首都比定地として十個あげてある中の最後に、

 (10).筑前博多福岡県福岡市付近(五八ぺージ)

とある点だ。今の所、博多説というのは、わたしの説しかない。だから、当然、高木氏は“わたしの説”を知っておられたのである。
 奇妙なのは、もう一つの博多説である。神津恭介は宇佐八幡宮という終着点を決定したあと、にわかに「博多説」への反撃をはじめるのである。しかも、それは“わたしの説”としてとりあげた上での反撃ではない(それなら、わたしの喜びとする所である)。あくまで神津恭介自身が論理的に可能なコースとして考えた“「脳裏の博多説」の消去”という体裁をとって行われるのである。
 このような“他説への攻撃”(実質上)ということ自体、この本としては珍しい部類に属する。しかも、榎一雄氏、原田大六氏などの場合は実名と実書名が紹介されている。だのに、わたしの場合は、一切実名も実書名も伏せられたままだ。すべて“天才神津恭介の脳裏”に封じこめられてしまっているのである。こういう、一種いりくんだやり方自体が、実は氏が“わたしの説”を強く意識している、そのことの反映だ、と見るのは果たして“ひが目”だろうか。少なくとも、氏が“わたしの説”を知っていたことは疑いない。わたしにはそう見えるのである。
 とすると、やはり“氏がわたしの説を全く知らず、偶然、同じ思考過程をたどった” ーーそう考える、可能性はない。つまり、「無断借用」すなわち「盗用」である。


 氏がわたしの本に明確にふれておられる「資料」がある(『現代』昭和四十九年三月号)。「水行十日・陸行一月」問題について、わたしの本にふれ、「だからここらはあまり私の独創だとは思わないんですけれども」と言っておられる(直木孝次郎氏との対談)。
 この文面に関して二つの矛盾した問題がある。
 その一つ。高木氏がいつの時点でわたしの本を認識したか、は書かれていない。自著出版後知った、とも、とれる文章だ。事実、自著では、これを神津恭介の未曾有の発見だ、と強調し、研三に「たしかにコロンブスの卵です。言われてみればそのとおり、どうしていままでの研究家がそこに気がつかなかったか、ふしぎでたまらないくらいですよ」(一九二ページ)とすら言わせているのだから、こちらの対談の方は、“あとで知って、いさぎよく自分の独創でないことを認めた”と理解するほかはない。
 その二つ。その反面、先の数々の証拠のしめすように、わたしは(松本氏やわたしのために憤慨してくださっている多くの人々と共に)高木氏がこの本を書く前に(あるいは途中に)わたしの説(博多説の論証)を知っていた、と考えるほかないのである。
 こんな風な“二面のこんがらかった状況”は、あの推理小説の楽しい謎解きとはうってかわった、人を不快にさせる種類のものではあるまいか。


 わたしは先日、旧友重松明久さんを福井大学に訪れた。一には、旧交を暖め、一には、先に「盗用」の被害者となられた、その経過の実際を確かめるためであった。重松さんの場合、自著は『覚如』、それが丹羽文雄氏著『蓮如』の中に無断利用されていたのである。その事実を両者についてあらためて照合した結果、やはりわたしの場合と本質的に共通の性格を帯びていることがわかった。

 〔一〕 原文を少しずつ書き変えて取り入れてある点、両者とも共通である。
 (1).重松氏「かれ(親鸞を指す ーー古田注)の死後いくばくならずして、関東門徒団をはじめ、いたるところで、生い茂る異端邪説の雑草のまえに、かれの思想的遺産は、ついに埋没し去ろうとしていた」
   丹羽氏「親鸞の死後間もなく、関東の教団の中には、いたるところに秘事法門という雑草がはびこるようになった。親鸞の思想は、埋没しようとしていた」

 (2).イ〈韓国陸行説〉
 古田「“・・・莫大な下賜品を連ねた行列”によって、韓人に対するデモストレーションを行いつつ、行進した・・・」
 高木氏「(郡山 ーー 釜山の間)ゆっくりデモストレーションの行列を続けた」

    ロ〈不弥国、玄関説〉
 古田「『不弥国』は女王の首都『邪馬壹国』に密接した、その玄関である」
 高木氏「不弥国は邪馬台国の玄関のようなところにあったとしか思えない」

〔二〕丹羽氏著『蓮如』の方は大部である点、及び伝記形式である点より、借用部分が量的に多い。

〔三〕高木氏の場合、わたしの説が学界に孤立した特異な説であるにもかかわらず、それをあえて“自己(神津恭介)の独創”と称して描出している点が目立っている。

 以上の状況であることが確認されたのである。先の「水行十日・陸行一月、総日程説」といい、この「韓国陸行」説といい、また「不弥国、玄関」説といい、わたしの独創による行路解読のほとんどすべてに近い要点を網羅していること、驚くほかはない。

   五
 重松さんと談笑しつつ、丹羽氏との間に和解書の成立するに至る詳しいてんまつをお聞きしているうち、ふと気づいたのは、その書棚にあった一冊の本『成吉思汗ハ源義経也』(小谷部全一郎著)だった。
 わたしが高木氏の本の中で愛読した、もう一冊の本は『成吉思汗の秘密』(昭和三五年)だった。この歴史上の人物にとりくみ、“源義経は衣川から脱出して大陸に渡り、蒙古に入り、成吉思汗と名乗って活躍しはじめた”という特異の説を謎解き・推理の形で「立証」してみせたこの作品は、今もわたしに快い印象を残していた。そこでその中でふれてある、大正十三年出版のこの特異な題の本について、一度見てみたいと思っていたのである。
 早速お借りして帰りの汽車の中で読んで愕然(がくぜん)とした。わたしが高木氏の卓抜のアイデア、として感嘆していた名場面、それらはすべて高木氏の創意ではなく、この小谷部氏の所述だったのである。推理小説のファンなら記憶されているにちがいない。有名な「弁慶の立往生」は実は義経脱走のカムフラージュだった、という推理。さらに源義経(ゲン・ギ・ケイ)が「ヂン・ギ・ス」と訛った、との説。成吉思汗の愛好したという白旗が源氏の白旗と同じだとの説。成吉思汗の母「ホエルン(尊称)・イケ・センシ」は、すなわち義経の恩人「池の禅尼」に由来するとの説。衣川から大陸にかけて日本の武将渡来伝説の点々として存在することの提示はもとより、成吉思汗の死のさい、“その巨体が漸次ちぢんでいった”という伝承から、“小男義経の変装”を見破る推理。さらに成吉思汗の臨終の言葉「われは故山に帰りたし」の「故山」とは、日本を指すであろう、との推理。これら、今の今まで高木氏の卓抜のアイデアだと、わたしの思いこんできたテーマは、すべて小谷部氏苦心の叙述によるものなのであった。いや、それだけではない。これらは小谷部氏が満蒙(当時名)からシベリアの地へと次々と渉猟の旅を重ねられた、その生涯探究の結晶だったのである。
 ここにおいてわたしはつくづくと歎息を深うするほかはなかった。高木氏の手法は、今回にはじまったものではなかった、と。成吉思汗の方は、まだしも小谷部氏の書名が「過去の論争の書」としてあげてあった。だが、今回はわたしの書名は一切ない。これが相異である。

  六
 “推理小説は民主主義の発達した社会で繁栄する”との有名なテーゼがある。たしかに、権力者側が直接証拠もなしに被疑者を処刑しうる、といった杜会では“証拠による執拗な推理”を生命とする推理小説は花ひらきにくいかもしれぬ。
 それだけにわたしは推理小説の著者には、ことに要求せるべき黄金のルールがある、と思う。それは“著者自身はフェアでなければならぬ”という一点だ。トリックを不可欠とし、トリックで犯行を隠蔽する好智の犯人を対象としやすい小説形式であるだけに、それが著者自身のフェア・プレーささえられていなければ、“何とも救いがたい”ではないだろうか。
 すでに斯界の大御所となられた高木氏に対し、往年の氏のファンたるわたしは、この問題につき、氏が理性的にしていさぎよき態度をしめされること、それを推理小説界全体のモラルのためにも、今は切に祈らざるをえない。
 (なお、わたしは去る三月ある雑誌に掲載するため「神津恭介氏への挑戦状」と題する一文をしたためた。前半は盗用問題、後半は神津恭介の博多説批判に対する、わたしからの再批判である。しかるに、不可解な理由のため未発表となっている。他日必ず公表したいと思う。)


 『小説推理』(昭和五十年三月号)所載のものは、紙数の関係から若干削除された。これはその原文である。なお、右の三月号には昭和四十九年十月八日付の付記がある。


続、推理小説のモラル

 

 ふたたび高木彬光氏の「盗用」間題について書く。
 『小説推理』五十年五月号にのった氏の「邪馬台国推理考補遺」を読んで、わたしは深い落胆を覚えた。なぜなら、はじめ氏がわたしの文章「推理小説のモラル」(同誌三月号)への回答を書かれると聞いたとき、わたしは思った。もちろん、氏はいろいろの弁明や弁論をされるであろう。だが反面、何よりもまず氏の心からなる謝辞が必ず現れているもの、と内心に信じたからである。それというのも、今年二月はじめ著名な作家を介して会いに来られた光文杜(高木氏の本の出版杜)の責任者の方は「小説推理三月号にのった古田さんの『推理小説のモラル』の論旨は、全くその通りだ、と光文社は考えています」と言っておられたし(同杜は昭和四十九年十一月十三日版をもって絶版の処置をとった)、私自身も氏が一人の文筆家として究極的には理性的であることを期待していたのである。 ーーだが、事実はこれに反した。
 そこには衒(げん)学的な弁証が次々と展開されている。文章も確かに巧みである。高木氏の本(『邪馬台国の秘密』 ーー以下『秘密』と略称)だけ見て、わたしの本(『「邪馬台国」はなかった』)を読んでいない読者なら、なるほど、と思うかもしれぬ。あるいは両方の本を読んだ読者の中にさえ、“何かおかしいが、理くつとしては高木氏の言うようになるのかな”などと錯覚する人もあるかもしれぬ。 ーーそのような“危険な巧みさ”を氏の文章はたたえている。だから、わたしは再び筆をとらさるをえなかったのである。
 だが、今わたしがこの一文でなそうとしていること、それは何ら困難な仕事ではない。思うに、もし私が百千の弁論術に頼って「白馬ハ馬ニ非ズ」式の証明をせねばならぬとしたら、それは私ごとき文章の一素人には不可能だ。だが、幸いにして今の私に必要なのは、そんな曲芸めいた難事ではない。ただ、理性ある人間なら誰でもわかる、単純明快な事実を事実としてハッキリさせる。それをおこなうだけで十分なのであるから。

  一
 まず、両書の基本の立場を比べてみよう。
 (一) わたしの場合。
 イ、・・・それゆえ、わたしたちは自己の前途に対して、「確固たる掟」を課さねばならぬ。すなわち、原文改定への道にけっして逃避しない ーーこれが掟である。   (『「邪馬台国」はなかった』二一〇ぺージ)

 ロ、わたしは、学問の論証はその基本において単純であると思う。・・・たとえば小・中学生に対してさえも、説得力をもち、ハッキリと理解されるものでなければならない。  (同二五ぺージ)

 (二) 高木氏の場合。
  この問題を解く唯一の鍵「魏志倭人伝」の原文に一字の修正もほどこさず、中学生にもわかる明快、科学的な論理でこの難題を解明した前人は皆無である。私は今、この厳正な方法で「永遠の謎」に挑戦した。  (『邪馬台国の秘密』扉の「著者のことば」)

 右の高木氏の文章は「わたしの学問的方法」の“要領のいい要約”となっている、と言っても、誰も異論をさしはさむことができないのではあるまいか(つまり、松本清張氏の言われる「内容の転写」だ)。しかも、わたしの右の論旨は、ここに偶然一回だけ現れているものではない。全編くりかえし、くどいほど力説した、わたしの探究の基本の立場だ。
 ところで、わたしの本は昭和四十六年末、『秘密』は昭和四十八年末の出版だ。そして高木氏は“あらかじめ古田の本を見た”ことを明言しておられる(『小説推理』四十九年十一月号三二〇ぺージ)。この点に今や争いはない。しかるに高木氏は、平然と「(このような立場で解明した)前人は皆無である」と書いている。これは一体どういうことだろうか。常人の理解できることではない。
 もっとも、“古田の場合はそういうたてまえをのべているだけであって、実際は実行されていない”。つまり「看板に偽りあり」とでもいうのだろうか。しかし、事実は逆だ。高木氏の場合、原文の「邪馬壹国」を結局は「邪馬台国」という修正形で扱いつづけられた点はさておくとしても、(1).原文の「景初二年」をいきなり「景初三年」の方が原文であるかのように修正したものを本文化し(二八ぺージ)、(3).原文の「会稽東治」(「とうち」が原文通り)に「とうや」と仮名づけして実質上の原文修正(つまり、骨抜き)をおこなう(二五ぺージ)など、とうてい「原文に一字の修正もほどこさず」とか「この厳正な方法」などと言えたていの作品ではない。まさに「看板に偽り」だ。これに対し、私の場合が「原文に一字の修正もほどこさぬ」という、いわば「厳正な立場」であることは、学界一般の一致して認めるところだ。そのような「論証なき原文改定を非とする」という巌格な立場に賛成される方も、賛成されぬ方も、論者にはあろう。だが、わたしがそのような立場に立っている、そのこと自身を否定される方はいない。
 ここでハッキリしたこと、それは二つある。第一に高木氏の「前人皆無」説が事実の問題として明白に虚偽であることだ。そして第二にわたしの本を見た上で、わたしの学問的立場の「要約」に相当するていの立場を書きながら、なおかつ平然と「前人皆無」説を高唱されていることだ。それは人間として恥を知らぬ仕業だ、と言ったら果たして言いすぎだろうか。
 「中学生にも分かる」問題についても一言付記しよう。高木氏は『三国志』の「一里」が何メートルに当たるかは壱岐の「方三百里」を物さしとすれば分かるとされ、「古田説、一里=約七五〜九〇メートル。野津説一里=約一四〇メートル」を表示した上で、次のように言われる。「これに対して・古田説をあてはめるとぜんぜん実地に適しない。しかし野津説を採用すると、非常に適合する数字が出て来る。それで私は野津説にたよった・・・」(『小説推理』五十年五月号三四七ぺージ ーー傍点古田 インタネット上は赤色表示)と。この文には、氏がわたしの本と野津氏の本との二つを眼前に並べていずれを「採用」すべきか、と思案し、工夫された様子がありありと見えて興味深い。
 さて、高木氏の陥られた誤断。それは、野津氏に従って「方三百里」を「四辺の合計が三百里」ととられたことにある。では、「方里」の語を辞書でひいてみられるがよい。「たてよこ一里の面積。一里四方。一里平方」とある(諸橋轍次『大漢和辞典』)。だが実は、辞書を引くまでもない。『三国志』魏志韓伝には韓地(朝鮮半島南半)が「方四千里」と書かれている(『「邪馬台国」はなかった』一八四ページ参照)。これが「四辺合計四千里」なら、一辺は正方形として約「千里」くらいとなろう。つまり「野津里」によると約一四〇キロだ。ところが、朝鮮半島の東西はばの実際は、地図で見ればすぐ判るように約三〇〇キロ強だ。「四辺合計」説の無理なことは、それこそ“中学生はおろか、小学生の計算でも十分に分かる”ことではあるまいか。(壱岐島の「方三百里」は“一辺約二〇キロの正方形”に内接した形でとらえられているのだ。)これに対し、「一里=七五メートル」なら「一辺四千里」はピタリ三〇〇キロだ。だからこの「中学生」問題からも、「前人皆無」説など“厚顔”にすぎるというほかはない。


 このような氏のやり方。それは内容面でも同じだ。たとえば次の文。
 「いま『余里』というのをはぶいて、概算をとってみれば、一万七百里ということになります。誰でもできるようなかんたんな算術です。ですから (A)(一万二千余里。帯方郡治〜女王国間。 ーー古田注)から (B)(一万七百里。各個里数の総和。ーー同上)を引いて、後に残った千三百里、これに、『余里』というプラス・アルファを加えたものが、不弥国から邪馬台国の距離になることは、いままでのすべての学者の通説です。これには誰も異論はありますまいね。」(『秘密』一八三ぺージ、傍点古田)

 右の傍点部は本当にそうだろうか。
 わたしの場合。
 イ、 以上の読み方のポイントは、「水行十日・陸行百日」を総日程とみなしたため、主線行程の最終地区間にあたる「不弥国 ーー 邪馬壹国」間の距離が記せられていないこととなり、当然その国間距離が「〇(ゼロ)」となることである(『「邪馬台国」はなかった』二四二ぺージ)。
 ロ、 従来の「邪馬台国」研究における算出方法はきわめて不可解なのである。なぜなら、肝心の最終里程にいたって、「不弥国 ーー 邪馬台国」間の里程を記入せず、読者をして、みずから計算させて、「千何百里」(千三百〜千五百里)という数値をみちびかせるものだからである(同書二五五ぺージ)。

 わたしはこの問題の重大性を強調するため、これを「最終行程〇(ゼロ)の論理」という標題を付して特記し、多くの紙数をついやした(同書二四ニページ以降)。したがって、あらかじめわたしの本を読み、時として「なるほどと膝をたたいた」(『小説推理』四十九年十一月号「続・邪馬台国推理考」三二〇ぺージ)とまで言われる氏が、これに気づかれなかったはずはない。しかるに氏はここでも平然とー“不弥国 ーー 女王国間は千三百里”が「いままですべての学者の通説」だと書いてはばかられないのだ。まさか“古田などは「学者」のなかに入っていない”などという“逃げ”は通用すまい。とすると、ここでもわたしは氏の執筆姿勢を疑わざるをえないのである。
 高木氏の本の彪大な読者は、この氏の文章によって「不弥国 ーー 女王国の間、距離〇(ゼロ)」などという立論は“今まで全くなかった”と本気で信じこまされる。しかし、明白な事実。それはこの高木氏の記述が全く虚偽であることだ。虚偽であるだけではない。“ひざをたたいて”読んでおきながら、そのあと、都合によってわたしの論を“ないもの”として処理されたのである。ちょうど、『成吉思汗の秘密』の謎解きがすべて高木氏の創意であると、多くの読者が思いこまされていたように。
 それゆえ、氏は何よりも先ず、虚偽の事実を天下に公布したことを氏の本の読者にわびられるべきではあるまいか。・・・そしてそのあとでいい、洛西の片隅のわたしにもまた・・・。

  三
 右の事実は、さらに今回(『小説推理』五月号)の高木氏の弁論がひっきょう一個の文章の「詐術」に類するものであることを、無残にも白日のもとにさらけ出す。
 氏によると、問題の「千三百里」(ないし千四百里)の誤差が「余里」説(一五パーセントとする ーー『秘密』)によると見るか、それとも古田のように「半周」説(対海国と一大国、各八百里と六百里)によるか、のちがいで高木説と古田説が分かれるという。そこで“はじめ(玄関説)と終わり(総日程説)は同じでも、途中(「余里」説と「半周」説)がちがうから、両方ともそれぞれ「独創」だ”とされるのである。そして例の製法特許と製品特許の別についての“長広舌”が展開されるのだ。
 しかし、高木氏は御自分の本をよく読みかえしてほしい。そこには「二つの独創説」などどこにも一切書かれていない。逆にくりかえし明記され、強調されているのは、次の二点だ。

 (一).従来の論者は誰もこのような論理を思いつきもしなかった。
 (二).神津恭介ひとり、独創的に発見した。

 このことは、千三百里間隔説が「いままですべての学者の通説」だという一句からも動かせない。“ここは古田説と一緒だ”などとはどこにも書いてないのである。「水行十日・陸行一月、総日程」説についても同じだ。

「一万二千余里という一言と、水行十日・陸行一月という一言は、実にみごとに相呼応しあっていたのですね・・・」・・・「たしかにコロンブスの卵です。言われてみればそのとおり、どうしていままでの研究家がそこに気がつかなかったか、ふしぎでたまらないくらいですよ。」(『秘密』一九二ぺージ)

 高木氏は自己の分身松下研三にこのように自画自讃させている。ここには「二人のコロンブス」も「二つの卵」も存在しない。あるのは、神津コロンブスの神津卵だけだ。神津以前にすでに同じ卵を一部分だけ別のやり方で立ててみせた、もう一人のコロンブスがいたなどとは、おくびにも出さない。出さないだけではない。明白に否定されているのだ。それもそのはず、「コロンブスの卵」とは“簡単なことだが、今まで誰も気づかなかった”ことのたとえにほかならないのだから。第一、考えてもみてほしい。神津恭介が「なるほど古田氏は、不弥国は邪馬壹国の玄関だと言っているのかい。つまり、問題の“水行十日・陸行一月”は魏使の総日程だというのだね。僕もその通りだと思うよ。ただ、その途中の「半周」説は「余里」説でおきかえてみてもやはり成立するのじゃないかね」 ーーたとえばこんな風に語っていたとしたら、こんななさけない(世界の推理小説界に対して恥ずかしい)「論争」は、もうはじめからおこっていないのではあるまいか。
 要するに、『秘密』では「玄関」説や「総日程」説についての“わたしの独創”など、一切認めていない。いわば方法上の「古田説はなかった」ことにしてあるのだ。それなのに今回はてのひらを返して、いかにも“わたしは古田氏の独創を認めている。しかし一部分別種の内容をふくんでいるのだから、わたしのも「独創」だ”といった風な議論を、特許法の用語解説の中でえんえんと展開されるのだ。しかし、その論法は氏自身の本によって明白に裏切られている。ここにわたしは失礼ながら氏の弁論の“二枚舌”的な性格を見ないわけにはいかない。
 二倍年暦問題もそうだ。『秘密』では神津恭介にこれを「発見」させ、松下研三に「このあざやかな推論」に「ぶちのめされた」と絶讃させておきながら、今回は“こんな結論(二倍年暦)は「誰でも出せる」ものだ”と言いのがれされる(三四六ぺージ)。“てのひらをかえす弁舌”と言うほかはない。( ーーこの二倍年暦のもつ重大な意義については、古田著『失われた九州王朝』『盗まれた神話 ーー記・紀の秘密ーー』朝日新聞社刊、参照。)


 この点に関する、氏の「アリバイ」について検討しよう。それは次の文だ。

「ええ、『倭人伝』に書かれている“水行十日・陸行一月”を帯方郡、つまりいまのソウル付近から邪馬台国までの距離日程と考えたわけですが、これは古田武彦氏も同じような受けとり方をしておられます。だからここらは、あまり私の独創だとは思わないんですけれども、ただ、宗像上陸説だけは、ぜったい前例がないという自信があるんです。古田さんの説でも、使節の上陸地は東松浦半島ですからね。」
(雑誌『現代』四十九年三月号直木孝次郎氏との対談。〈『小説推理』〉昭和四十九年十一月号三二一ぺージに引用)

 この雑誌(『現代』)が店頭に出てまもなくわたしは、この直木孝次郎氏との対談を読んだ。そして不審に思った。これは『秘密』の内容と完全に相いれがたいからだ。あちら(『秘密』)では「前人皆無」「コロンブスの卵」等と称し、こちら(『現代』)では“古田氏の方が独創”というのだから。そこで“『秘密』の刊行後にわたしの本を読まれたのか?”などと好意的に思いまどうていた時期のあったことを告白しよう。しかし、今は氏があらかじめ(『秘密』の刊行前)わたしの本を読んでおられたことは、氏自身も書かれており、明白となった。
 さて、『現代』の対談の内容自体は当然すぎるほど当然だ。ならば、『秘密』の主張(いつわって「神津の独創」と称した数々)は必然に廃棄されねばならぬ(それこそ「論理の必然的延長」だ)。もし、それを拒み、“本はともあれ、雑誌では「古田の独創」を認めているのだから”と称されるなら、本が「一個の独立した作品」である事実を無視されるものだ。本の読者と雑誌の読者とは別個の存在なのである。
 ところが氏は、右の対談を自ら引用した上で、「もし、私に古田説を模倣したという意識があったなら、本が出てから一カ月ぐらいの時点でこんな発言はしなかったろう」と言われる。つまり、非模倣説の証拠資料に使おうとされるだけなのだ。それ以前に、「前人皆無」説や「コロンブスの卯」説等が虚偽であることの承認と自発的撤回、そして当人(古田)への謝罪をなぜ虚心に表明されないのだろう。それどころか、逆に「模倣ではない」と言って開き直る材料になぜもち出されるのだろう。これでは、右の対談は、高木氏の「無罪証明」のための、あとからの“アリバイ作り”めいた性格を帯びてくる、と他から言われても仕方ないのではあるまいか。
 「温厚で良心的な学者」として世評の高い対談者直木孝次郎氏は、一高・京大ともに同窓の高木氏に対し、「先行学説無視の非礼」と「当人(古田)への率直な謝罪」を学者らしく直言されなかったのであろうか。「アリバイ作り」めいたものの片棒をかつがされた形に陥(おちい)られた直木氏に、一言お聞きしてみたいものである。


 高木氏の根本の「詭弁」をあげよう。わたしは前稿(『小説推理』三月号)でわたしの本と『秘密』との間に特異な共通単語がある例として次の二つをあげた。(傍点部、インターネットは赤色表示)

  不弥国は女王国の玄関
  韓国陸行はデモストレーション

 これは、ただ“両者のアイデアが偶然一致した”などではなく、両著間に抜きさしならぬ具体的な関係のある証拠としてだった。ところが、高木氏はこれに対し、「末端の表現に、多少の類似があった」に過ぎない、と言われる。果たしてそうだろうか。氏の今回の論旨によると、不弥国玄関説(「玄関」とは、不弥国は邪馬壹国の前面に隣接していることをしめす)を根本の「定理」とされる。これに対しては「水行十日・陸行一月」総日程説すら、「系」(右の定理から派生した命題)だとされる。つまり、それほど「玄関」説は重視されているのだ。「玄関」という言葉こそ平易でも、その内実は高木氏の立論の根本をしめす論理的用語なのである。それなのに、氏はそれをそ知らぬふりで、「末端の表現」だなどという言いまわしですり抜けようとされる。ここにも氏得意の「表現の詐術」がある。
 次に、「韓国陸行」説(わたしの創意)は、右の根本定理(「玄関」説)からすると、当然出てくるものだ、と言われる。つまり論理進行上の必然の展開過程だ、というのである。ところがそこでまた、わたしの用語「デモストレーション」が使われているのだ。ところで注意してほしい。「韓国陸行」は論理必然でも、その理由づけとしての韓国の人士への「デモストレーション」説までは論理必然ではない。たとえば「海路は危険だから、極力避けた」という類の、別の理由づけも可能だ。だのに、『秘密』では私と同じ単語で同じ理由づけが行われている。どう見ても、わたしの本の内容にひきずられた跡は、歴然としているのである。氏はわたしの本を前に「ひざをたたく」ほど熟読しておられるのであるから、これを「末端の表現」の偶然の一致と見なすことは不可能だ。それゆえ、「内容の転写」を自己の独創と称する、すなわち「無断借用」(盗用)の跡はあまりにも明白なのである。


 わたしはこの「論争」の将来を楽観している。なぜなら、高木氏が悪質な「盗用」作家の汚名を永き将来にわたって免れたいと思われるならば、まことに容易だからである。それはただ、ここに書いたような明瞭な事実を事実として認めること、そしてわたしに対し、端的に謝罪されるだけのことなのであるから。そのさい、何らの美文も巧緻の弁証も一切不要だ。ただ一個の作家として、否、ひとりの人間として、良心に従って語り、かつ簡明に行動されれば、それで十分なのであるから。しかし、高木氏がその率直な唯一つの行為を避けようとされるならば、その上でのあらゆる方策は、ひっきょうにして空しいであろう。なぜなら、これは言葉の正確な意味での「論争」ではない。厳粛な人間の倫理が唾棄されるか否かの問題なのであるから。だから、わたしはこれを「水掛け論」に終わらせるつもりは全くないのだ。
 したがって高木氏が再び三たび今回のような「詭弁」に依存し、「見解の相異」式の、真の結着ならぬ「永遠の未了状態」にもちこもうとされるようなら、わたしとしては、万止むをえず、高木氏の隠された最大の「恥部」に敢然とふれなければならないであろう。それはほかでもない。なぜ、わたしの原稿「神津恭介氏への挑戦状」が某誌編集部自身の意に反し、にわかに掲載中止とされたか。なぜ「推理小説のモラル」が昨年十一月号掲載のため急遽(きょ)本誌(『小説推理』)編集部から私に依頼されたにもかかわらず、今年三月号まで数次にわたって掲載延期とさせられ、辛うじて掲載されるをえたか。これらのスリルに満ちた経過には、その事実に対する著名な証人、明確な証拠が多数存在する。これがいったん公表されれば、氏の作家生命もしくは作家名誉は決定的に汚損させられるであろう。それを氏がみずから救われる道は一つしかない。先にのべた率直な謝意の表明とそれにともなう行為の簡単な実行だけである。氏が最悪の運命に陥られぬこと、それを最後に切に祈りつつ、筆を擱(お)かせていただく。

補1、
 本文にのべたように「一里=一四〇メートル」説が成り立たない、というこの帰結は、必然に高木宇佐説の全面的崩壊ひきおこすこととなろう。なぜなら、宗像に上陸しても、そのあと「一里=七五メートル」の類では、到底宇佐まで足がとどかないからだ。また高木氏苦心の「余里」説も全く成立しえないことについては、先の掲載されなかった「神津恭介氏への挑戦状」に詳述されている。他日必ず、この原稿は公表される日のあることを信ずる。(本書所収)

補2
 わたしの友人で特許法の数少ない専門家のO氏に聞くと、高木氏の「製法特許と製品特許」に関する論弁は、全くナンセンスであると共に、“およそ人間の知的生産については、その公表の先後によって識別し、整理するほかない。そこに特許法の必要がある”とのことであった。これは同時に万人の常識であろう。

追補2
 この論は、『小説推理』(昭和五十年七月号)所載のものの原文である。

追補2
 なお、付言する。わたしの第三書『盗まれた神話 ーー記・紀の秘密ーー』において、川副武胤氏の理論にふれたさい、“出雲神話に特異の活躍をする「一言主神」”(二五ページ)という一節があった。これは、「一言主神」の前に「大国主などの神名を連想させる」の一句が脱漏していたのである。ここに明記して川副氏に謝したい。執筆者にとっては一片の誤記であっても、当の相手には大なる心痛を与えうる。このような場合、必要なものは、ただ一つ。率直・簡明な謝意だ。わたしはそう信ずる。 ーー高木氏の場合にも、問題の性格に差こそあれ、基本は同じだ。氏の理性に期待する。


『邪馬壹国の論理』 ー古代に真実を求めてー へ

神津恭介氏への挑戦状 ーー『邪馬台国の秘密』をめぐって へ

敵祭ーー松本清張さんへの書簡 第四回(なかった第四号)へ

ホームページ へ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから。

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota“