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連載

敵祭ーー松本清張さんへの書簡

第三回

古田武彦

  一
 わたしは言いました。
 「今、邪馬壹国の場所は分らない、と言いました。しかし、それは九州にあった、と考えています。」
 松本清張さんは言われました。
 「ほう、それはどうしてです。」
 その直前「分らない。」と、キッパリ言い切ったあとだけに、やや意外に思われたようです。
 「それは、隋書の記事からです。例の『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや。」の文面の直前に、この天子のいる場所、都をめぐる地形が書かれています。
 『阿蘇山あり。その石、故なくして火起り天に接する者、俗以て異となし、因って檮*祭を行う。』です。つまり、この天子は『阿蘇山下の天子』なのです。」
 「なるほど。近畿説の学者は、日本列島の一部の九州の風土を書いた、と見るわけでしょう。」
 「本当にそうなら、大和の風物を書けばいい。三輪山とか、あの大和盆地の形状とか。それに、途中通って行ったはずの瀬戸内海の風物なども、一切書かれていません。」
 「なるほど。」
 「海にして湖水のごとし。」とか、彼等なら、漢語でズバリ、それを見事に表現できたはずです。」
 「なるほど、ね。それじゃ倭の五王はどうです。七世紀の隋の頃も、九州が中心だとすると。」
 「そうです。倭の五王も、当然九州になります。」
 「ほう、しかし、九州じゃ高句麗などと戦うのは、力が足りないのじゃないかな。」
 「九州が中心、都のあるところだ、というだけなのですよ。その全体の勢力範囲は、別の話です。」
 「あっ、負けたのだから、それでいいわけか。」
 何か、自分で発言して、自分を納得させる、といった口調でしたね。

檮*は、木編の代わり示編。JIS第3水準ユニコード79B1

  二
 しかし、わたしには自信がありました。
 「松本さんが『陸行水行』で書かれていたように、
  『どの学者も自分に都合の悪い点は「魏志」の記述が間違っているとか、誤写だとか、錯覚だとか言って切り捨てています。』
 また
 『少なくとも「魏志」の誤記が科学的に立証できない限り、やはり学者の都合勝手な歪曲というほかはありませんな』
といった、まことに“筋の通った”議論を展開しておられました。
 もちろん、“登場人物”の『説』として書かれていますが、読者は、すなわち著者、松本清張さんの考えとして、受けとめています。それは著者としても、おそらく御異存はないでしょう。
 とすれば、隋書の場合も、同じです。そこには『阿蘇山あり。』の一文はあっても、『三輪山あり。』といった文面は皆無です。それを
 『三輪山は書き忘れただけ。』
 『阿蘇山は一地方の風物を、たまたま書きとめただけ。』
などと解釈するのは、『恣意(しい)的』です。
 ちょうど、魏志に対して 、
  『自分の都合に合わせた読み変えをする』
 あのやり方と同じです。松本さんが登場人物に『非難』させたもの、あれと同一の流儀なのです。
 こちらの隋書についての流儀は容認しておいて、魏志の『読み変え』だけ非難するのでは、片手落ち。論旨一貫しないことになります。
 要は、魏志の場合は、自分の『主張』と一致しないから『非難』しているだけ。決して学問の方法とは言えません。」
 わたしは松本さんを非難するために言ったのではありません。ただ、学問にとっての本来の任務、論理の一貫性を説きはじめ、説き終っただけだったのです。
 松本さんは、反論も賛成もされず、ただわたしの一歩も退かぬ論陣に、静かに耳を傾け通して下さいましたね。
 それが印象に残っています。「大人」としての松本さんでした。

  三
 以上は、わたしが松本さんと直接お会いしたときの経験、その第一回目です。
 そのずっとあと、わたしは朝日新聞社のTさんから、すさまじい「松本経験」を聞きました。松本さんが朝日新聞に連載されていたとき、Tさんはその担当、原稿の受け取り役となったのです。
 松本さんが原稿を一枚書き終る。次の部屋で待っているTさんに手渡す。Tさんは急いでその一枚に目を通す。OKとなると、玄関先に待っている青年S君に渡す。S君はバイクに飛び乗り、疾走して朝日の印刷所へ向う。・・・・・そして、また。この離れ業を何回かくりかえして、やっと校了。何とも骨の折れる作業です。筆者の松本さんは、もちろんのこと。
 その緊急作業の中で、突発事があったそうです。Tさんが松本さんから受け取った原稿の中に、見馴れぬ名前が出てくる。しかも、主人公役です。そしてなまめかしいキス・シーンが展開されている。
 「おかしいな。」と思って、聞いてみると、松本さんが「同時進行」で連載していた、別の週刊誌などの小説の主人公と「混線」したものだったそうです。
 超流行作家だった松本さんならではの逸話ですが、最近テレビで放映され、米倉涼子の悪役振りが話題になった「黒革の手帳」は、二度にわたる『朝日新聞』連載の中間(昭和五十三〜五十五年、『週刊新潮』)の作品でした。
 彼女の悪役振りの見事さもさることながら、その基礎は松本さんの作品そのものがしっかりと現代社会の「悪」をとらえていたことにあったのは、当然です。そういう名作が、右のような離れ業の間から生れた作品だったとすると、いよいよわたしには恐れ入る他ありません。
 もっとも、この頃以降の「長篇作品」となると、読みはじめた時は、見事な流れとテンポだったのが、最終の場面の「推理小説の謎解き」に至ると、いささかがっかりというケースも少なくなかったように記憶しています。しかしこれは、永年の清張ファンの一人からの、無いものねだりだったのでしょう。
 何しろ、初期の「点と線」や「眼(め)の壁」のように、満を持して練りに練った作品が、右のような「離れ業」の中から生れるとは、およそ期待する方が無理なのかもしれません。

  四
 直接経験にもどります。
 わたしがK書店から「九州王朝論」の本を、乞われて出したときのことです。そこには、「筑紫舞」のような、不可思議な民間伝承芸能と共に、最近(当時)の邪馬壹国(いわゆる「邪馬台国」)論などに対する批判、それも扱わせていただきました。その一つに、松本さんの最近の論説に対する批判も、当然ふくまれていたのです。もちろん、古代史のテーマです。
 ところが、異変が起きました。出版社から、「ちょっと、お話したいことがあるから。」と言ってきました。そのことは、別に不思議ではないのですが、平生昵近(じっこん)のMさんだけでなく、上司のQさんも共にうかがうというのです。
 「何かな。」
と、わたしは、やや異様なムードを感じました。担当のMさんは、若いながらも「人格者」で、いつも礼儀正しく、常識豊かな方でした。にもかかわらず、そのMさんだけにまかせてはおけない、そういう感じでしたから。
 もしかすると、あの筑紫舞の件で何か。しかし、社長(当時)は、そのような民俗芸能に関心の深い人なのに、変だな、という感じでした。
 ところが、二人が到着してみると、ちがいました。「松本問題」だったのです。わたしがこの本の一部で清張さんの説をとりあげ、それを学問的に批判している。それが「困る。」というわけだったのです。

  五
 最近の松本清張さんの論説は『サンデー毎日」(昭和五十七年四月十一日)に掲載されていました。毎日新聞創刊百十年記念文化講演の中の特別講演でした。「古代史の旅」と題されています。そこには次のようにありました。

「私がそう言ったからではございませんが、もう里数や日数で邪馬台国の所在を捜索するのはナンセンスであるということに学者も気づいたのでしょう。現在は里数、日数を手がかりに邪馬台国の所在地を探る学説は声を低めております。ほとんどないと言ってもいいじゃないでしょうか」

 これは、松本さんののべられた「七・五・三」の虚数説です。
千余里 ーー帯方郡から狗邪韓国まで。
千里 ーー(一千里、三回)狗邪韓国から末盧国まで。((合算)
十日 ーー「水行二十日」と「水行十日」(不弥国から投馬国、及び邪馬台国まで)((合算)) 
 これが今や「通説」となってしまったかのように、晩年の松本さんは、右の記念講演で堂々とのべておられるのです。
 しかし、わたしはすでに第一書『「邪馬台国」はなかった』で、この松本説そのものを批判させていただいています。その要点は、次のようです。

 第一、三国志の中の「数」を抜き出してみると、全体で三七二一個あり、最多が「一」、八三三個、第二位が「三」、七二三個、第三位が「二」、六五七個、であり、「七・五・三」が上位ではない。「七」は第八位(一四七個)。著者陳寿に「七・五・三」偏重の形跡は認められないのです。

 第二、三国志の中で「数」について議論をしているのは、「八」「六四」「六の倍数」「五五」「二五」についてであり、「七・五・三」についての議論はありません。

 第三、魏の明帝の指南番として著名な高堂隆の文章は、数字を用いて自分の文面を修飾することを好んでいますが、総五七個の「数」のうち、「七」は皆無なのです。

 以上のような、史料事実上の「実証点」と同時に、重要なのは、左の「論証点」です。

  「右のように、文面中の数字を『足して』用いうる、つまり論証に使うことができるとすれば、当然『引いて』出てきた数値もまた、論証に使いうることとなる。とすれば、論者は“自由自在”に、自分の好む数値をそこに“見出し”て使用しうることとなろう。論証の意義をなさない。」

 と、同類の手法を用いて叙述された、上田正昭氏の論説と共に、松本さんの『古代史疑』の論説を批判させていただいたのです。

 これは、昭和四十六年の、第一書におけるわたしの立論です。その後、この立論に対する反論は、松本さんからも上田さんからも、一切出ていない。少なくとも、わたし自身、見たことがありません。
 忙しい松本さんですから、そのような、ある種の「見のがし」は止むをえないことだったのかもしれませんが、K書店のお歴々には、「大家」の気を損じては、と「頭をかかえる」問題だったようです。
 松本さんがこの講演の冒頭で、
 「きょうは小説家としてではなくて、古代史学者として登場いたしましたから、どうかそのおつもりでお聞き取りを願います。」
と、わざわざことわっておられますから、その「メンツ」をつぶしてはまずい。そう考えられたのかもしれません。
 書店側の上司の要求は「明白」でした。要は、
 「松本批判をとりはずしてほしい。」
という点にあったようですが、わたしには到底、呑めません。なぜなら、同書の中で、数々の著名の学者の論文を同じく批判しています。これは、この著作を引き受けたときの、当初からの中心構想でした。三木太郎、王仲殊、梅原末治、井上光貞、坂本太郎、田中卓といった、敬すべき諸氏の論考に対し、忌憚なく反論を記させていただいていたのです。 もちろん、先行研究者に対する、礼儀と敬意の表現として。それらはすべてわたしの学問の方法そのものに立っていたのです。
 ですから、その中から、松本清張さんへの批判だけを、特に「カット」する。そんなことをすれば、他の方々に失礼です。もし、「とがめ」られれば、お答えのしようもありません。学問上の信義違反です。せっかくの申し出でですが、おことわりする他ありませんでした。第一、わたしには、松本さんへの敬意こそあれ、侮辱する気持ちなど、はじめから寸分もありませんでしたから。


 K書店の上司は執拗でした。
 全面カットできないなら、「文章を直させてほしい。」というのです。
 「古田さんの文章の分りにくいところを指摘させてもらいたい。」
 と言われるのです。
 これなら、もちろん「OK」です。そういう経験は何度もありました。特に朝日新聞社で第一書を出して下さった、名編集者、米田保さんからは、「かゆいところに手のとどく」ような、心のこもった御指摘を再三うけていたからです。
 ですが、夕飯後、出直してこられたQさんの場合は、ちがいました。「分りにくい」ところを、「分りやすく」するどころか、逆でした。「松本清張批判」の文面を、そうとは見えないように“手直し”しようとされるのです。むしろ、「分りにくく」すること、そこにQさんの目的があったようです。
 「悪戦苦闘」めいた何時間かのあと、ついにわたしは申しました。
 「分りました。もう、お宅(K書店)からこの本を出していただかなくとも、結構です。」と
 Qさんたちは、東京への帰途につかれましたが、一種気持の悪い「疲労感」のみが残りました。
 けれども、K書店から「OK」の返事がやがて来ました。気宇壮大で名のあった社長(当時)の采配もあったのでしょうか、ともあれ、一件落着を見ました。泰山鳴動鼠一匹のたとえ通り、でした。現在出ている本は、わたしの当初の原稿通りなのです。
 この件を通して知りました。松本さんの「声威」がいかに出版界に対して大きな権威となっているか。それはおそらく、松本さん御自身のあずかり知らぬ「世界」なのかもしれませんね。
 「そんなことがあったのか。古田さんが直接、わたしのところへ言ってくれればよかったのに。」
 そういう、貴方の声が聞えてきそうです。その通りですね。もし「一件落着」しなかったら、そういう展開へと向ったかもしれません。しかし、忙しい松本さんにお邪魔をかけずにすんで幸せでした。 (以下次号)


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