2006年10月10日

古田史学会報

76号

敵を祀る
旧真田山陸軍墓地
 大下隆司

白雉改元の史料批判
 盗用された改元記事
 古賀達也

「炭焼き小五郎」の謎
 多元史観の応用
 で解けた伝説
 角田彰男

七支刀鋳造論
 伊東義彰

5洛中洛外日記より転載
 九州王朝と筑後国府
 古賀達也

木簡に九州年号の痕跡
 「元壬子年」木簡の発見
 古賀達也

7 『 彩神 』
 シャクナゲの里1
 深津栄美

阿胡根の浦
 水野孝夫

9伊都々比古(後編)
倭迹迹日百襲姫
と倭国の考察
 西井健一郎

10洛中洛外日記
九州王朝の部民制
 古賀達也

11
なかった 真実の歴史学
創刊号を見て
 木村賢司

古田史学の会・四国 
定期会員総会の報告
 竹田覚

 事務局便り


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木簡に九州年号の痕跡 「三壬子年」木簡の史料批判 古賀達也(古田史学会報74号)へ


白雉改元の史料批判

盗用された改元記事

京都市 古賀達也

   一

 一九九六年に芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」木簡(『木簡研究』第十九号、一九九七年)が、実は「元壬子年」であったことが私達の調査により判明したのであるが(注)、この「元壬子年」木簡が指し示す肝要の一点は、「白雉元年」を庚戌(六五〇年)の年とする『日本書紀』ではなく、『二中歴』や『海東諸国紀』に収録された「九州年号」の「白雉元年壬子(六五二年)」が歴史的事実であったということである。すなわち、『日本書紀』よりも「九州年号」の方が真実を伝えていたのだ。

   二

 一度(ひとたび)こうした認識に立てば、次いで問題とすべきは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年(六五〇)二月条に長々と記述された「白雉改元」記事の信憑性である。九州年号が真実とすれば、同時期に大和朝廷が二年ずらして同じ白雉年号に「改元」することなど、およそ考えられない。従って、『日本書紀』の白雉年号が九州年号からの盗用であることは自明である。
 そうすると、盗用したのは「白雉」の年号だけではなく、白雉改元記事そのものも九州王朝史料からの盗用と考えざるを得ないであろう。たとえば、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事には九州王朝への「人質」となっていた百済王子豊璋等の名前が見える。
 他方、応神天皇の時代に白烏が宮に巣を作ったという吉祥や、仁徳天皇の時代に龍馬が西に現れたという記事などが特筆されているが、いずれも記紀の同天皇条には見えない事件であることから、これらも九州王朝史料からの盗用と見なすべき痕跡といえる。

   三

 このように、白雉元年(六五〇)二月条の改元記事が九州王朝史料からの盗用である可能性は極めて高いのであるが、今回新たに孝徳紀を精査したところ、同記事盗用の痕跡がまた一つ明かとなったので報告する。
 『日本書紀』の白雉と九州年号の白雉に二年のズレがあることは既に述べた通りであるが、それであれば九州王朝による白雉改元記事は、本来ならば孝徳紀白雉三年(六五二)条になければならない。そして、その白雉三年正月条には次のような不可解な記事がある。

 「三年の春正月の己未の朔に、元日の禮おわりて、車駕、大郡宮に幸す。正月より是の月に至るまでに、班田すること既におわりぬ。凡そ田は、長さ三十歩を段とす。十段を町とす。段ごとに租の稲一束半、町ごとに租の稲十五束。」

 正月条に「正月より是の月に至るまでに」とあるのは意味不明である。「是の月」が正月でないことは当然としても、これでは何月のことかわからない。岩波の『日本書紀』頭注でも、「正月よりも云々は難解」としており、「正月の上に某月及び干支が抜けたのか。」と、いくつかの説を記している。
 この点、私は次のように考える。この記事の直後が三月条となっていることから、「正月より是の月に至るまでに」の直前に「二月条」があったのではないか。その二月条はカットされたのである。そして、そのカットされた二月条こそ、本来あるはずのない孝徳紀白雉元年(六五〇)二月条の白雉改元記事だったのである。すなわち、孝徳紀白雉三年(六五二)正月条の一見不可解な記事は、『日本書紀』編者による白雉改元記事「切り張り」の痕跡だったのである。やはり、白雉改元記事は九州王朝史料からの、二年ずらしての盗用だったのだ。

   四

 こうして、『日本書紀』の白雉年号と白雉改元記事が九州王朝史料からの盗用であった痕跡を明らかにしたのであるが、そうすると更に新たな問題が惹起されよう。たとえば、孝徳紀白雉三年二月条に「白雉改元記事」が本来あったとするならば、その直後に位置する班田記事も九州王朝史料からの盗用の可能性はないか。そうだとすれば、大化二年の改新詔に見える班田記事との関係はどうなるのか。
 たとえば、白雉改元記事に見える改元の行事が行われた宮殿はどこなのか。従来のように、孝徳紀白雉元年(六五〇)のことであれば、難波宮(前期)はまだ完成されておらず、九州王朝の都である太宰府での出来事と考えるべきであるが、本稿で明らかにしたように、これが孝徳紀白雉三年(六五二)のこととなった以上、この時難波宮はほぼ完成していたと考えられるので(全体の完成は同年九月)、改元の舞台は前期難波宮であったとするべきではないか。
 以上のような新たな論点が予想できるのであるが、これらについては検討を加え、別に詳述する予定である。

(注)古賀達也「木簡に九州年号の痕跡─『三壬子年』木簡の史料批判─」『古田史学会報』No.七四所収、二〇〇六年六月六日。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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