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2005年4月8日

古田史学会報

67号

森嶋通夫を偲ぶ
 木村氏に答えて
古田武彦

「禁書」考
禁じられた南朝系史書
 古賀達也

「賀陸奥出金歌」について
 泥憲和

午前もおもろい関西例会
 木村賢司

2004年度
重要研究テーマを講演

事務局便り

オモダル尊は、
面垂見(宋史)である
記紀の神々の出自を探る
 西井健一郎

6連載小説『彩神』
第十一話 杉神 2
  深津栄美

「越智・河野の遺跡巡り」
と「河野氏関係交流会」
 木村賢司

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「越智・河野の遺跡巡り」と「河野氏関係交流会」に参加

豊中市 木村賢司

 愛媛の大族、越智・河野の流れの一人である私は、この八月七日から十日にかけて表題の旅をした。
 一昨年、古賀事務局長と「古田史学の会・四国」の立ち上げに参加するため北条市を訪ねた。北条市の風早歴史文化研究会の竹田覚会長をはじめ、この会の多くの方が古田史学の会に入会されての「北条市ふるさと館」での立ち上げである。
 その時に、北条市は河野氏発祥の地として、多くあるその遺跡を大切に守り、さらに、風早歴史文化研究会が中心となり、全国に散らばっている河野氏関係者の集いを「河野氏関係交流会」として毎年ふるさと館で実施していると聞いた。
 私もそれに一度参加させて欲しいと言って、昨年連絡を待っていたが、もうそろそろという頃に問い合わせたところ、すでに実施ずみとのことであった。残念に思い、来年(今年のこと)は確実に参加すべく歴史文化研究会に入会して待った。
 この八月一日に実施の連絡を受け、旅計画・宿手配をすませたところ、台風接近で八日に延期の報。今年はどうしてもと思い、大あわてで旅計画を変更した。
 越智・河野の遺跡は、今治市・東予市を中心とした東伊予と北条市・松山市を中心とする中伊予に多い。そこで、七日は東予市、今治市の遺跡をめぐり、八日は交流会、九日、十日は北条市・松山市の遺跡めぐりを計画。時間(日程)と費用そして体力をはかっての旅である。風早歴史文化研究会編「河野氏ゆかりの地をゆく」の案内本がたよりである。

 

東予市の遺跡めぐり・・・

1、先ず河野通有の墓のある「東海山長福寺」。境内はしずか、本堂の裏手に墓地があったので、ここだと思い探したがどうしても見つからない。困って庫裏の呼び鈴を押し、しばらく待つと女の人が出てきて山門の右手直ぐと教えて頂く。玉垣に囲まれた立派な宝篋印塔で、側にかなり長文の石碑があった。碑文の内容は承知している。墓と石碑をビデオと写真に納め、次に向かった。

2、鷺森神社。河野通盛が海岸を埋め立て、その地に神社を勧請し、楠を植えた。樹齢六百余年、鷺の住みかにもなったという、今はしめ縄が張られた大楠を見た。ここは、守護職河野通之の鷺森城址でもあるという。

3、河野通堯の墓。細川頼之と戦い戦死した私の祖先の兄に当たる人。佐志久山の麓の藪の中にひっそりと、でも、どっしりとした五輪塔の墓がそれであった。

4、千人塚。河野通堯軍七千と細川頼之軍四万が激突、双方の戦死者をこの地に埋葬した。でも、塚は盛り土のなくなった横穴式古墳跡であった。東予市ではこのほか、河野通朝が戦死した世田山城跡や越智好方や河野通朝ゆかりの龍王山道場寺等もあるが、今回は割愛した。


今治市の遺跡めぐり・・・

5、霊樹山東禅寺。越智益躬が鉄人を撃ち取ったとき、戦死した部下の霊を弔うため推古十年開山とある。越智玉澄も行基作の薬師如来を安置した。そして、なにより河野通信が誕生したのがこの寺とのこと。寺内の薬師堂は国宝であった。

6、鴨部神社。越智益躬が祭神。境内に「越智益躬公墳墓の地」の碑があった。

7、三島神社。祭神は大山積大神で越智玉興・玉純(玉澄)の兄弟が三島大山祇神社から勧請。後に父の越智守興の霊を合祀とある。守興の碑(墓碑)があるはずであるが、探し得なかった。

8、越智玉澄の大楠。樹齢千年に近い今治市一番の大樹。この樹の下が玉澄の墓とのこと。越智玉澄陵とあった。幹の周り十?で枝ぶりが見事な大楠であった。

9、大濱八幡神社。乎致命(おちのみこと)が祭神。近くに昭和十五年に建てた「越智氏族発祥乃地」の大きな記念碑がある。碑の裏に長文の碑文があるが暗くてよく読めない。でも、内容は承知している。
 私は越智の発祥がこの地であることに異論を持っている。越智・河野の系譜では、始祖の小千御子の生まれたところは、伊予郡神崎の庄であり、育ったところは和気郡三津浦とある。成人して行政を執ったところが、ここ越智郡の大濱である。従って、育ったところ三津浦(現松山市三津浜)が発祥の地であるべき、としている。
 ただし、我が家の系譜には予州木村郷小千浦に御館あり、となっており、ここ大濱は木村郷小千浦と呼ばれていた、と思われる。それまで、三津御子であったが、ここで小千御子と呼ばれるようになった。これ私の仮説。
 さらに別の仮説として、乎致命と小千御子は別人である。ここの碑文には乎致命を応神の時代の国造としているが、越智・河野系譜では小千御子の四代の孫、三並が神功皇后のとき、三韓征伐の第三大将とある。時代が全く違うのである。また、河野・越智系図には乎致命はいない。

10、来島。タクシーで来島が眼下に見えるところに案内してくれた。村上三島水軍(因島、能島、来島)の一つの根拠地がこんなに小さな島とは予想外であった。河野弾正少?通直は息子四郎通直に家督を譲らず、娘婿の村上通康に河野を継がせた。家督争いとなり、結局四郎通直が家督を継ぎ、通康は久留嶋(来島)を名乗った。四郎通直は小早川隆景の婿となったが、安芸で生害、河野本家は断絶。久留嶋氏は豊後の内陸に移されたが森藩一万二千五百石として残った。


北条市の遺跡めぐり・・・

 北条市は遺跡が多く、一昨年来たときに、新田敏郎氏にいくつか案内いただいた。

11、好成山善応寺。「河野氏発祥之地」の碑がある河野の本拠地。ここには河野通盛の墓がある。通盛は文和三年阿州由岐名東名西両郡を賜う。と我が家の系譜にコメントがある。我が家の祖先は通盛のひ孫の代に由岐(城)に移り定着している。通盛は南北朝時代、北朝・足利につき、河野本家をよく守った。湯築城を築くなど、一般には知られていない英雄である。

12、高縄神社。越智益?が天神森に大山積神を勧請し、河野親清が現在地に奉還した。元は三島大明神と称した。

13、河野通清供養塔。松山に抜ける旧道の峠に建っていた。河野通広の三男である一遍上人が一族の供養を営んだところとのこと。

14、安楽山大通寺。河野通朝が造営とある。戦火で衰えていたが河野通宣が再興した。来島通康も寺領寄進している。広い境内には、来島水軍の墓所、河野通朝の墓等がある。通朝の長男が河野通堯で通堯の弟が河野通任(みちとう)である。通任が私の祖先。通任の墓は不明。通任の子供、行通という人が阿州由岐に移り、以後木村を称した。従って伊予時代の私の直近の祖先の墓が通朝の墓である。かなり立派な五輪塔であった。この墓と一緒にいくつかの古い墓があった。通任の墓が混じっているかも、と思った。今回の旅の大収穫の一つである。

15、鹿島城址。北条市の中心の海上三四〇メートル沖に浮かぶのが国立公園鹿島である。鹿も住み島そのものが鹿島神社。白村江で負けた朝廷は、さらなる反撃侵寇を恐れて、この鹿島に海防城を築いたという。後世には河野水軍の根拠地の一つで、風早郡の地頭、今岡四郎通任が今も跡が残る鹿島城を築いた。河野氏が滅亡後は来島氏が領していたが、豊後に転封後は廃城。今回歩いて島めぐりした。周りの海は透明できれい。ことに島の沖合いにある岩礁、通称伊予の二見は見事であった。釣り人と長話になり松山に向かうのが遅れた。


松山市の遺跡めぐり・・・

16、興居島(ごごしま)の和気比売神社。今回の旅の最大目的地である。伊予皇子と結婚した和気姫は三つ子を産んだため離縁となり、姫も三つ子もそれぞれ棚無小船で流される。姫の船は実家の沖にある母居島、今の興居島に着く。三つ子の「三番目の子」小千御子の船は母の実家和気郡三津浦、今の三津浜に着く。「一番目の子」は備洲の児島、「二番目の子」は駿洲清見崎に着く、と我が家の系譜にある。別の系譜では一子は伊豆国、二子は備前国とある。伊予皇子の宮居は伊予郡の神埼の庄、現在の松山市の隣、松前町である。ここから、棚無小船で備洲や駿洲、伊豆国や備前国はムリである。では、どこに流れ着いたか。
 私の仮説。一子は睦月島、二子は二神島である。両島とも興居島、三津浜に近い。また、棚無小船で流れ着く範囲である。睦月島の側に芋子(妹子)瀬戸、二神島の側に二子瀬戸がある。一子は女の子かも、と思っている。幻想仮説はさておき、高浜からフェリーで興居島の由良着く、そこから船越にある和気比売神社にタクシーで、帰りは泊からフェリーで高浜に戻った。船越しはこの島の要のところ、と感じた。和気比売神社で思いも寄らない伝説を知った。和気比売は流れついた壷から誕生した、というのである。かぐや姫伝説に似た話である。これも大収穫であつた。

17、三津浜港。宮前川が海に流れ込む三津浜港は何百艘の船でぎっしりであった。正に船でにぎやかな津である。小千守興率いる船団が白村江に向け船出したのは、この港である。と信じたくなる。熟田津論争者すべて、一度はこの三津浜港を見ておく必要がある、と思う。自身の主張するところとの実地比較が大切。古代と港の様子が違っていても。

18、湊山城跡。三津浜港河口の小山がそれ、河野本家と家督を争った河野通春の拠城。三津浜を押さえていたので強かった、と思える。河野は絶えず家督(惣領)争いが起こる。三本の矢の毛利と異なるところ。結局、実質毛利に滅ぼされる。

19、湯築城址。今、道後公園である。河野通盛がそれまでの河野の本拠地(北条市善応寺)をここに移し築城した。でも、まだ謎が多い。通盛は北朝足利側に味方したので、南朝側の一族土居通増、得能通綱にくらべ戦前は評判がよくない。実際は通信、通有に劣らない実力者であった。と私は見ている。
 最近は「道後湯築城跡を守る県民の会」が中心となり、大きな成果を収めていると聞いた。一昨年、合田洋一氏に案内されて見学したが、今回湯築城資料館が「河野氏と海賊衆」という催しを、中世武家屋敷で行っていたので再訪した。いくつかの知見を得た。通盛の研究がさらに進むことを期待している。

20、宝厳寺。一遍上人の誕生した寺。小千守興の創建。山門がややユニークな、こじっかりした寺である。一遍は河野ゆかりの地をめぐり歩いたらしい、一族の争いを避けるため還俗しなかったらしい、と聞いた。寺は坂を上ったところであったので、帰りは裏から伊佐爾波神社に入り参拝した。
 石手寺。五一番札所。これまで何度も訪れている。越智玉純(玉澄)の創建?という。元安養寺であったが、有名な伝説、弘法大師と衛門三郎、越智息方の因縁で石手寺となった。私は全国にある安養寺、元安養寺は九州王朝時の官寺ではないか、の仮説をたてている。現在何の確証もないが・・・
 伊予神社。一昨年合田さんとご一緒した。今回は割愛したが、私は伊予の発祥の地では、と思っている。越智・河野系譜では、霊宮大神宮とある。祭神は孝霊天皇の第三皇子で彦狭島命となっている。越智・河野系譜では別名として伊予皇子、今岡王子、吉備津彦、四海道将軍、日本總鎮守三島大明神と多い。私は九州王朝の皇子で伊予に派遣されたので伊予皇子と呼ばれたのでは、と思っている。ひょっとすると号今岡王子とあるのが本名ではないか、他は後でつけたもの、と思う。なお、廟はこの郷の南方山下にあり、と家譜にあるので、伊予市の伊予岡古墳ではないか、と思っている。まだ、訪ねていないが・・・。


第十四回 河野氏関係交流会

 北条市立ふるさと館に通じる道路の両側は「河野水軍」の幟でぎっしりである。まるでお祭り時の神社の参道である。館前では幟が大きくなり、館内にはいると、さらに色彩豊かな大幟がかけられていた。主催は「風早海まつり実行委員会」と「風早歴史文化研究会」である。北条市が力を入れている行事であることが分かる。館に入ると早速、竹田会長、池内副会長、新田常任理事などから歓迎の挨拶を受けた。そのうえ、一番よい席に案内いただき恐縮した。
 時間まで、館内を見学。一階研修室には、昨日、今朝と見てきたところも含め、河野氏の史跡の写真、系譜、年表等がわかりやすく展示されていた。別の歴史資料室には、北条市出土のさまざまな遺物、歴史資料を展示、特に北条市独特の歴史的出土物展示に力を入れていた。三階は四方が総ガラス張りの広い部屋。新田さんに説明を受けながら見回した。まさに故郷一望である。
 県外から大分県河野会の会長さん他が来ておられ、名刺交換した。期日延期のため、県外二十名ほどこられなくなった。とのこと残念。
会場はほぼ満席。楽しい豊年おどり、伊予万歳のあと、来賓(市長・市議会議長)祝辞、竹田会長の挨拶があり、さあ、待望の講演が始まった。

豊年踊り(長浜町豊年踊保存会)

長浜町を地図で探すと、有名な肱川の河口に位置する町であつた。この町の豊年踊り、実に見ごたえがあった。田植え、草取り、稲刈り、脱穀、籾摺り、俵巻き等、さては、村役に年貢を納める場面まで、昔の稲作りの一部始終を実に愉快な仕草で、でも、実際に沿って演じられた。私の小学生時は田舎で育ったので、作業演技の意味がよく理解でき、懐かしく思った。この見事な踊りおよび保存会が長く継承されることお祈りする。今の若い人に演技の意味が理解されるかが、やや心配である。でも、稲作りの基本、残してほしい。

伊予万歳(北条市双葉会)

これはもう、国宝級である。伊予万歳というものが、あることは知っていたが見るのは初めて。最初の若い(中学三年生ほど)女性の舞いで、もう魅了されてしまった。小学生からおばあちゃんまで老若の息の合った扇子の舞い。さらに、最後の松づくしも見事そのものであった。引き立て役の囃子方、唄い方の実力が舞いをあそこまで引き上げていると、私には感じられた。私は陛下以上の特等位置で見ることができ、一生の思い出となった。(皇后が天皇の古稀の祝いに招いた。皇居で天皇の前で演じられた。と聞く) 伊予万歳というが、伊予北条万歳。北条市の文化の高さを示す一見本かと思う。万歳ばんざい。


「河野通有と蒙古合戦」 久葉裕可先生

 地元の聴衆者の大半は、通有のこと知り尽くしている。下手な講演では内心しらける。私も通有のあらすじは承知している。でも、歴史講演はこうあるべきという見本を聞いた思いである。知っているつもりの通有も、その心意気まで知った思いである。文献事実に基づく見事な推理。講演が終わって快い満足感が会場に広がった。特に、通有の戦が終わるまで烏帽子をかぶらず、この河野惣領の独特のしきたりを、通信の有名な、かわらけ食器との関連で説明され興味深かった。叔父通時との関係、惣領の誇りと意地。当時の武士の生きざま、一所懸命がわかる気がした。六郎殿から対馬守殿に変わった意味分析も、なるほどと思った。陸に上がった後の河野は、結束も乱れ、ついに戦国で生き残れなかつた。
 でも、私が最も関心を引いたのは、河野が蒙古合戦の前に九州に所領を持っていた、との論証である。史書等では、承久の乱で幕府方についた通久の恩賞地、予州石井郷以外は河野の所領はないことになっている。通信の所領ほか一族の所領もすべて、上皇方についた承久の乱の咎で、召し上げられていたはずだからである。いつ、九州に所領をえたのか。承久の乱以降に起こった、いろいろの騒動に幕府の命で働きをした、その恩賞地ではないか、との見解を示された。
 講演が終わって質問の時間となったので、私は『鎌倉幕府時代は史書等では「知られていない」恩賞地があった。では、足利室町に入っても、史書等で「知られていない」恩賞地があったでしょうか』と問うた。問うた理由は、我が家に伝わる系譜に通盛が阿州由岐、名東名西両郡を文和三年に賜う、とある。このことは一般史書等では知られていないからである。講師は「知られていない」所領の可能性を示唆されたので、私にとって収穫であった。

 最後に、ただ一つ残念に思っていることは、展示および配布された河野の系図資料に河野通堯の弟、河野通任が載っていなかったことである。通任は我が家の伊予での最後の祖先である。私の手持ちの「予章記」の一系図や「寛政重修諸家譜巻六〇二越智氏・河野」には通任は記載されている。通任が記載されてないと、今後「河野氏関係交流会」に出席しにくい。即ち、肩身が狭い。ただし、通任が実在していなかったことの「確証」があれば別である。もし、それがあれば、我が家の系譜は根底から崩れる。崩れてもよい。あくまで、真実を知りたい。もし納得する「確証」があれば、今度は、なぜ我が家の系譜や予章記等に通任が載っているのかが課題となる。
 旅は終わった。古田先生ではないが、予想以上の収穫で大満足である。旅の記録は、写真とビデオそして私のこころにバッチリ納まっている。

風早の、人のお陰で、私の、願いが、かない、大感謝。

        (二〇〇四・八・二一)


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