古田史学会報 No.66 2005年 2月 9日

若草伽藍跡と宮山古墳・千早・赤坂村

ー古田先生同行記ー

生駒市 伊東義彰

日 時 平成十六年十二月二十一日(火)
同行者 古田先生、松本さん、水野さん、伊東の4名。

 飛鳥時代に建立された法隆寺焼失説を決定づける発掘記事が、平成十六年も押し詰まった十二月初めに新聞の一面を飾りました。十二月四日に行われた現地説明会に参加し、もらった資料を古田先生に郵送するとともに、そのコピーを水野さんに預けて例会時に主な方々に配ってもらいました。
 後日、古田先生より電話があって、若草伽藍跡の場所を確認したい、とのご希望があり、案内を申し出た次第です。水野さんと打ち合わせをしたところ、千早・赤坂村の楠正成にまつわる寄手塚と身方塚も見たい、との先生のご希望があるとのことで、葛城山と金剛山の間を通り抜けて大坂の河内へ出ることになりました。御所市を南下するルートを行きましたので、途中、室にある五世紀の宮山古墳(室大塚古墳)に、これは私の発案でご案内致しました。当日は、私の車よりも大きな水野さんの車で走ることになり、私は助手席でナビゲーターをつとめました。先生は前日まで広島に行っておられたとのことで、大分お疲れの様子でした。
 今回発掘調査された法隆寺の若草伽藍跡は南大門の南東脇の一角です。ここでは発掘現場の確認や、塔と金堂の中心線の見当をつけて境内を散策したあと、法隆寺会館の喫茶室で一服しました。有名な若草伽藍の塔の心礎(方約三メートル、高さ約一.二メートル、重さ約十二トン)は、法隆寺境内にある別院の普門院に今でも保存されているのですが、年に一度(7月)しか人に見せないということで、残念ながら目にすることはできませんでした。心礎に穿たれた心柱の跡は珍しい八角形(径約七十センチメートル)で、その四隅に副柱のあったことがわかっています。現在の法隆寺の塔からは心柱を据える巨石が見つかっておらず、また、心柱も同じ八角形ですが、径は若草伽藍より少し太いようです。
 新聞・テレビなどで、法隆寺の再建・非再建論に決着、などと報じられ、その証拠品である出土遺物のカラー写真なども載っていましたから、今さら取り上げることもないかと思われますが、高熱を受けて陶器(焼き物)のような状態になった、壁画が描かれていた壁土の破片や、溶けた金属がくっついた焼けただれた瓦片などを見ると、猛火に包まれた塔や金堂が目の当たりに彷彿として浮かび上がります。現地説明会(斑鳩町教育委員会・平田氏)では口頭で、壁土があのような陶器状になるには、焼き物の窯の中と同じような状態で燃え、おそらく千二百度前後の高熱を受けただろう、と話していました。
 現在の法隆寺の塔にも壁画がありますから、若草伽藍の塔にも壁画が描かれていた可能性があるものの、出土壁画片が塔のものか、金堂のものか、現在のところ全く不明とのことです。出土壁画片が例え塔に描かれていたものであっても、その焼けた状態からして、すぐ近く(塔と金堂の基壇端の距離は約八メートル弱と思われる)にある金堂も時を置かずに烈しい炎に包まれたのではないかと考えられ、あんな大きな釈迦三尊像を金堂から持ち出す余裕などなかったであろうという確信を得た次第です。壁画片が金堂のものならば尚更のことです。
 昨日まで広島に行っておられたせいでしょう、先生は相当お疲れの様子で、宮山古墳へ向かう道中も時々休んでおられたようです。国道二十四号線を南下し、御所市室の交差点を左(東)へ入ると国道三〇九号線のすぐ右側(南)に宮山古墳の大きな森が目に入ります。後円部の麓にある大字室の氏神、八幡神社の前に車を停めて、境内に設けられた木製足踏み階段を四人で登りました。
 宮山古墳(墳丘長二三八メートルの前方後円墳、周濠の痕跡あり)の出土遺物や石室の模型は橿原考古学博物館の「倭の五王の時代」コーナーに展示されていますから、興味のある方はまず、博物館を訪れて下さい。靫や楯・草摺などの武具や家の埴輪は圧巻です。
 後円部頂上には、二基の石室があり、そのうち発掘調査された南側の石室の一部が開口されていて、巨大な長持形石棺の縄掛けを見ることができます。北側の石室は未調査ですが、草に埋もれた大きな天井石が露出しています。直弧文の刻まれた実物大の靫の埴輪(復元品)が一つ建てられています。頂上からは葛城山や金剛山の麓が一望でき、この古墳の巨大さを実感することができるでしょう。なお、八幡神社境内には「孝安天皇室秋津島宮跡」と刻まれた石碑が建っています。
 国道三〇九号線を西へ走ればそのまま千早・赤阪村に出ます。途中、水野さんが名柄遺跡のあたりから大和三山が見えたので、もう一度確認したいということで、三山が見える所まで寄り道したところ、遙か遠くに霞んでいたものの畝傍山と耳成山を確認することができました。香具山は畝傍山の麓に霞んで確認できませんでした。
 千早・赤坂村は楠正成の本拠地であり、鎌倉幕府討滅のために活躍したところです。山上に堅固な砦を築き、幕府の大軍をこの狭小な山岳地帯に引き寄せている間に足利尊氏が六波羅探題を攻め滅ぼし、幕府軍は雲散霧消してしまいました。そのおり、敵の遺骸を葬るために寄手塚を、味方の戦死者のために身方塚をつくったと言われています。ともに建武期から南北朝期のころと思われる五輪塔が建てられており、寄手塚は何故か井戸の上に建っていました。周辺は言うまでもなく楠正成一色の遺跡で彩られていて、正成誕生の地もあり、整備された広場に立派な石碑が建っていました。
 千早・赤坂村を出発したのが三時過ぎだったので、私のもう一つの計画、近飛鳥博物館に寄る計画はその近くを通りながらもやむを得ず中止し、太子町から穴虫峠を越えて香芝市を北上、王寺町に出て四時頃法隆寺に戻りました。近くの喫茶店で休憩をかねて今日一日の紀行をいろいろと話し合い、五時頃に皆さんとお別れしました。

【註】若草伽藍跡の塔跡と金堂跡の距離について *金堂基壇と塔基壇のそれぞれの中心点を結ぶ距離は約25m(斑鳩町教育委員会)。
*『日本の歴史2』(直木孝次郎著・中央公論社)によると、塔基壇 一辺15.5m。 金堂基壇 正面21.8m、側面19.4m。となっています。
*以上の数値をもとに計算すると塔基壇と金堂基壇の面端の距離は、7.55mになります。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。
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