四天王寺

古田史学会報
2002年 6月 1日 No.50


四天王寺

奈良市 水野孝夫

 一
 
 法隆寺移築元に関する研究が最近の本会報を賑わしている。金堂本尊光背銘文の解読結果からは、この銘文を後世の偽作としない限り、九州からの移築と考えられよう。その移築元について、古賀氏は『二中歴』・年代歴に観世音寺のほかには、「倭京二年(西暦六一九)難波天王寺聖徳造」しか寺の記載がないことから、この難波天王寺を移築元候補にあげられた(会報四九号)。
 わたしは、移築元が「天王寺」であったなら、移築先での寺名も「天王寺」である可能性を第一に検討すべきではないかと考えた。大阪市天王寺区に現存する四天王寺は、書紀の記述からして「聖徳太子が法隆寺よりも先に建てた」ことになっており、定説である。しかし、わたしは四天王寺に行ったこともなく、先日の「聖徳太子展」にも行っておらず、どんな宝物や仏像があるかも知らない。とにかく、大阪の四天王寺について調べてみなければならないと考えた。たまたま古書店で入手した文献 1. から、面白い知見を得ることができた。以下はその内容(水野の抄録)であり、括弧内は水野意見ないし注釈である。

1.現法隆寺・金堂に有名な釈迦三尊像があるが、これを囲んで同じ須弥壇上の四隅に四天王像が存在する。この像は美術史上は推古(時代)仏とみられており、百済観音像、夢殿観音像などと同じく宝冠をいただき、古いことは間違いない。法隆寺の古い資材帳に記載がなく、後世の施入とされる。(この四天王像は、釈迦三尊像とは由来は全く別なのだろうか?)

2.「四天王」とは金光明経・四天王品により、釈迦を守護する、持国天、広目天、多聞天、増長天の四天をいう。仏像としては、邪鬼を踏みつけ、武器などをかまえた武将の姿で表わされる。(「金光」は二中暦中の九州年号(元年は西暦五七〇)であり、九州王朝は金光明経を、従って四天王を尊崇していたと考える。これを祀る寺が「四天王寺」または「天王寺」である筈である。辞書では多聞天を別名・毘沙門天ともいうとある。それにしては、先の須弥壇上には四隅の四天王像のほかに毘沙門天の像というのもある)。

3.現・四天王寺には時代の古い仏像は失われて、後世のものしか無い。しかし文献『別尊雑記』(注1)に「四天王寺金堂四天王様」と題する図像が存在する。この図像の四天王は、法隆寺の四天王と持物、姿勢が非常によく似ており、しかも法隆寺像よりも古いものと考えられる。従って四天王寺にはこの図像通りの古仏像がかっては存在したと考えられる。法隆寺像より古いと考える根拠は、天王の踏む邪鬼の姿勢と天王のもつ武器などとの関係である。図像の邪鬼左手こぶしは天王の矛端(石突)を支え、右手は剣のさやを握っている。法隆寺像では、この考え方が失われ、邪鬼が天王にくらべて大きすぎ、こぶしは矛端よりずっと前方にあり、左手こぶしの握りは無意味となり、矛の支えも不安定である。(四天王寺は室戸台風と戦災に会い、建築は古代研究には適さないようである。)

4.書紀には崇峻前紀と推古元年紀の二箇所に四天王寺創立のことが見える。また移築したと記す諸書(四天王寺御手印縁起など)があるが、これは書紀のこの記事にあわせたものであろう。四天王寺は朝鮮にも例がある。新羅の慶州に寺趾のある四天王寺は、三国遺事によれば、唐・高宗が大軍で新羅討伐を企図したとき、ときの新羅王は四天王寺の創立を発願し、高僧に祈らせたところ唐[舟工]はみな水没したので、文武王発願の旧寺を建て直し、四天王寺と号したという。つまり、外敵の侵略からの護国思想で作られている。日本でも同思想であったろう。書紀では聖徳太子が物部氏討伐を祈念して発願と伝えるが、太子はわずか十四才でもあり、外敵対象でないのに四天王寺創立を発願したとする書紀の説話はおかしい。(最近見なおされ、付属する小仏像に快慶作との説が出て話題に〈新聞記事は四月二四日付〉なっている、東大寺・西大門にかけられていた額の文字は「金光明四天王護国之寺」とある。四天王と護国思想の結びつきの証拠である。この額が四天王寺のものだったら、わかりやすいのに)

5.四天王寺に国宝の七星剣ほかがある。(さきの聖徳太子展に法隆寺に伝わる剣とともに出品されて話題になった。)この剣はもとは四天王像に付属したものであったと考えられる。現・四天王寺の四天王像は、法隆寺のものとは異なり、金堂内の東側に西向きの一列横隊の姿で並んでいる。外敵に立ち向かう姿であり、本来の姿を伝えるものかも知れない。(引用おわり)
 このとおりとすれば、そして法隆寺が九州からの移築とすれば、四天王寺も九州から移築されたことになるのではなかろうか。

 文献 1.  内藤藤一郎 「法隆寺金堂四天王像に就て」、『古代文化研究』第二輯、昭和七年十二月、古代文化研究会発行、A5版四六ページ。
 注1 僧・心覚編、承安年間(一一七一前後)頃、京都仁和寺


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