法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─

古田史学会報
2002年 4月 1日 No.49


法隆寺移築論の史料批判

─観世音寺移築説の限界─

京都市 古賀達也

 はじめに

 近年、多元史観内部で活況を呈しているテーマに、法隆寺移築論争がある。同論争は米田良三氏の快著『法隆寺は移築された』(注1)を基点として展開されているが、その主たる論点は、どこから移築されたのかという点にあるといってもよい。その移築元を太宰府の観世音寺であるとした米田説に対して、大越邦生氏や川端俊一郎氏から観世音寺址礎石の配置が法隆寺よりも小さいことなどを理由として、観世音寺説を批判する論稿が発表された(注2)。一方、飯田満麿氏からは建築家らしく、古代建築技術の視点から大越氏や川端氏の反論は根拠不十分とする見解が出された(注3)
 このように、古田学派内部の論争は、法隆寺五重塔心柱の伐採年が年輪年代測定により五九四年と確定されたことで、米田氏の先見性とともに真に学問的レベルで論争が推移されており、マスコミや近畿天皇家一元通念内部での非学問的内容と比べても際立った好論が展開されていることは特筆に値されよう。
 しかしながら、同論争において史料上十分に検討されていない論点があるように思われたので、わたしは法隆寺と観世音寺関連史料の再検討を行い、その内容を本年二月の古田史学の会関西例会にて発表した。結論は、米田氏の観世音寺移築説は史料批判上成立困難とするものであった。ここにその発表の要点を記し、読者の判断に委ねたい。


 観世音寺の創建年代

 法隆寺の移築元を観世音寺とした米田説には、いくつかの論証上の不備が散見される。たとえば、現法隆寺の移築元寺院創建年代(移築年代ではない)を七世紀初頭(六一八)とされた点、卓見ではあるものの、それを観世音寺とする際に必要な手続きとして、観世音寺の創建年代も七世紀初頭とする根拠を明示しなければならない。この点、残念ながら米田氏は必要にして十分な根拠を示されていないようである。
 たとえば、『二中歴』所収「年代歴」によれば、白鳳元年(六六一)に「観世音寺を東院が造る」とあり(注4)、この記事は観世音寺の創建年代を記す信頼できる唯一の史料といってもよい。他方、近畿天皇家側の史料ではあるが『続日本紀』においても、創建年代に於いて同様の記事が見える。

 「筑紫の観世音寺は、淡海大津宮御宇天皇(天智)の、後岡本宮御宇天皇(斉明)の奉為に、誓願して基(ひら)きし所なり。年代を累(かさ)ぬと雖も、今に迄(いた)るまで了(おわ)らず。」
 『続日本紀』元明天皇和銅二年二月条(七〇九) ※()内は古賀による。

 このように、九州王朝と近畿天皇家双方の史料が白鳳年間の創建を記しており、確たる根拠なしに、これを否定することは困難である。


 妙心寺と観世音寺の銅鐘

 米田氏が観世音寺創建年代を七世紀初頭とされた根拠の一つに、妙心寺と観世音寺の銅鐘鋳造年代がある。両寺の銅鐘はいずれも九州で同時期に鋳造され、わが国最古の銅鐘と見られている。しかし、その様式差から観世音寺の銅鐘の方が若干古いとする説を米田氏は採用された。両銅鐘には次のような銘が施されている。

 「戊戌年四月十三日壬寅収糟屋評造舂米連広国鋳鐘」妙心寺蔵(京都市右京区)
 「上三毛」観世音寺蔵(太宰府市)

 妙心寺銅鐘には鋳造年次が戊戌と記されており、これは六九八年に当たる。ところが米田氏はこの戊戌年を六十年繰り上げて、六三八年のこととされ、それよりも古い観世音寺銅鐘は七世紀初頭の鋳造と主張された。しかし、この氏の判断は成立困難である。何故なら、妙心寺銅鐘には年干支の他に壬寅という日付干支があり、四月十三日の干支が壬寅となるのは通説通り六九八年であり、六三八年ではない(注5)。こうした基本的暦日理解が誤った上での米田氏の主張は成立しない。
 『続日本紀』の記事によれば、観世音寺はなかなか完成を見ず、度々、工事を促す詔勅が出されている。白村江で大敗北を喫した九州王朝は工事を続ける国力を既に失っていたのであろう。そうした状況を考えれば、銅鐘が七世紀後半に鋳造されたことも頷けるのではあるまいか。したがって、『二中歴』に見える白鳳元年の創建記事と銅鐘の鋳造年代は矛盾しない。しかし、米田氏のように観世音寺七世紀初頭創建説では銅鐘の鋳造年代と離れすぎるのである。
 別の視点から論ずるなら、もし現法隆寺が観世音寺を移築したものであるならば、なぜ銅鐘だけは大和へ持っていかなかったのか説明困難である。わが国最古の銅鐘が観世音寺に現在も存在するという事実が米田説に不利であること、論をまたないであろう。


 移築年代の矛盾

 米田氏は観世音寺が現法隆寺へ移築された時期として、解体して大和への移動が完了したのが六八五年頃、そして約二十年間ほど放置された後、和銅三年(七一〇)に移築完成したとされた。従って、氏の説によれば少なくとも六八五年頃から七一〇年にかけて、観世音寺は解体移動されて「更地」になっていたことになるが、『続日本紀』によれば観世音寺に大宝元年(七〇一)から五年間寺封を与えることが記されている。

 「観世音寺・筑紫尼寺の封、大宝元年起り計ふるに五歳に満てば、並びに停止せよ。」
 『続日本紀』大宝元年八月条(七〇一)

 七〇一年といえば、同氏の説では観世音寺が解体移動されてから十五年後のこととなるが、そのような「更地」の寺院跡に寺封が与えられることは有り得ないのではあるまいか。
 他方、法隆寺側史料にも氏の想定する移築時期と矛盾する記録がある。天平十九年(七四七)成立の『法隆寺縁起資財帳』によれば、持統七年十月の諸国仁王会のおり、法隆寺にも仏具・法具が寄進され、翌年五月、金光明経百部を諸国に送った時にも、法隆寺にその内八部がわたっていることが記されており、これらは『日本書紀』持統紀の記事にも対応している。従って、持統七年(六九三)には法隆寺の移築は部分的であるにせよ、既に成されていたとせざるを得ないのである。
 このように、米田氏の移築推定時期は観世音寺や法隆寺関連史料と一致しない。これら史料事実から目をそらさない限り、観世音寺を移築したとする米田説は成立困難と言わざるを得ないのである(注6)


 移築元は「難波天王寺」か

 以上のような米田説批判を関西例会で行ったところ、飯田満麿氏より、移築元が観世音寺でないとすれば、あれほどの名建築で九州王朝を代表するような寺院の名称が伝わっていないことになり、古賀説に全面的には納得できない旨、述べられた。しかし、大和朝廷によって存在そのものが隠された九州王朝の寺院の名称が伝わっていなくとも、不思議とするに当たらない。しかしながら、飯田氏の疑問ももっともなことと思われたので、移築元の寺院についても可能な限り推察してみたい。
 まず、その条件として創建年代が七世紀初頭であること。これは法隆寺五重塔心柱の伐採年が五九四年であったことから、必要条件である。次いで、西に金堂(東向き)と東に塔を持つ観世音寺型伽藍配置であること。これは米田氏が建築学上から明らかにされた法隆寺の本来の伽藍配置である。そして、上宮法皇を模した釈迦三尊像が安置されるほどの寺格であることから、九州王朝の中枢領域内に存在した寺院であること。およそ、以上の条件を満たす寺院がその有力候補となるであろう。ちなみに、創建年代を除けば観世音寺はこの他の二つの条件には該当することから、米田氏が観世音寺説を採られたのも無理からぬことと言えよう。これら三条件はいずれも考古学的検討課題であり、私はこれに該当する寺院を知らない。しかしながら文献史料上では、これらの条件を有する可能性を持つ寺院が一つだけ存在する。
『二中歴』所収「年代歴」に見える九州年号とその細注は九州王朝の事績を記した貴重な史料であるが、その中に見える寺院創建記事は、先に紹介した白鳳の観世音寺と倭京二年に創建された難波天王寺の二つである。

 「倭京 二年難波天王寺聖徳造」
 『二中歴』「年代歴」

 九州年号の倭京二年は六一九年に当たり、先の三条件の内の創建年代は該当する。もちろん、上宮法皇の多利思北孤の治世期間に相当する。問題はこの難波が大阪の難波なのか九州の難波なのかという点である。『日本書紀』によれば崇峻天皇即位前紀(五八七)に、「摂津の国に四天王寺を造る。」とあり、『二中歴』の記事とは創建年次が異なるのだ(推古元年条にも創建記事が見える)。しかも、名称も四天王寺であり、天王寺ではない。こうした点から、『二中歴』に見える「難波天王寺」は大阪の四天王寺のことではない可能性が高いと思われる。また、『二中歴』「年代歴」の細注は九州王朝の事績を記していることから、この難波天王寺だけ唐突に近畿天皇家の事績が記されているとするのは不自然である(注7)
 次に難波という地名であるが、福岡市に難波池という地名が残っており、そこが難波の候補地として有力視されている(注8)。この難波であれば筑前中域であり、九州王朝中枢領域内だ。また、観世音寺と共に『二中歴』に記されるほどの寺院であることから、その寺格の高いことは十分予想できよう。また、造った聖徳という人物も、後に大和の聖徳太子の事として盗用された、日出ずる処の天子の多利思北孤、あるいはその息子の利歌弥多弗利のことではあるまいか。
 伽藍配置については史料上に記されていない為、うかがうべくもないが、名称が残っているという点から、先の飯田氏の疑問に答えうる寺院候補と言い得よう。もちろん、現段階では一仮説に過ぎないが、今後の移築論争の進展に寄与できれば筆者の幸いとするところだ。諸賢のご批判を切にお願いする次第である。なお、本稿で行った米田説批判にもかかわらず、法隆寺移築説を十年以上も昔に提起された氏の学問的業績はいささかも損なわれるものではない。このことを敬意をもって最後に記しておきたい。


(注)
1 米田良三『法隆寺は移築された─太宰府から斑鳩へ』一九九一年、新泉社刊。

2 大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」、二〇〇一年六月・八月、『多元』 No.四三・四四所収。
  川端俊一郎『法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築』二〇〇一年六月、『北海道学園大学論集』第一〇八号所収。

3 飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」二〇〇一年十月、『古田史学会報』 No.四六所収。

4 『二中歴』には「白鳳」下の細注に「対馬銀採観世音寺東院造」とあり、この文を、当初わたしは「観世音寺の東院を造る」という意味に解していたが、『二中歴』表記ルールによれば「東院という人物が観世音寺を造った」と理解すべきであることを古田武彦氏より御教示いただいた。その根拠として、「倭京」の細注に「二年難波天王寺聖徳造」という記事があり、これは「倭京二年(六一九)に難波の天王寺を聖徳が造る」という意味である。

5 日付干支計算は『三正綜覧』による。

6  同様の指摘が大越邦生氏からもなされている。「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)」『多元』 No.四三。

7 古賀達也「九州王朝仏教史の研究─経典受容記事の史料批判─」二〇〇〇年十一月、『古代に真実を求めて』第三集所収、明石書店刊。『二中歴』「年代歴」細注の仏教関連記事が九州王朝の記事であることを論証した。 

8 高木博氏(東京古田会事務局長)が提唱された説。


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第六集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
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