『神武が来た道』について

古田史学会報
2002年 4月 1日 No.49


『神武が来た道』について


生駒市 伊東義彰

 『神武の来た道』旅行会の下見旅行に参加したとき、みなさんのお話を聞いていろいろ感じることがありました。特に、車中で古田先生と古賀さんの会話を聞いていて、正直言って驚かされました。同じように古事記を読んでいながら、神武が神倭伊波禮毘古命と天神御子の二つの呼び方をされているのはともかくとして、熊野から奈良盆地に突入して白檮原宮で即位するまで天神御子と呼ばれていることに何の疑問も抱いたことがなかったからです。二つの名前がともに神武を指していることを当然のこととして自然に受け容れていたのですから、疑問など抱くはずもありません。今さらながら、古賀さんの学問に対する態度と鋭く深い考察力に遠く及ばない自分を知らされた思いが致しました。論文を拝読してますますその思いを強くした次第です。ただ、幾つか気づいた点がありましたので、ご意見をお伺いいたしたいと存じ筆を執りました。


一、縄文時代晩期の交流(交易)ルート

 私が橿原考古学博物館で、この目で見たものを幾つか紹介します。
 奈良盆地にある縄文時代晩期の遺跡(橿原遺跡など)からは、翡翠の玉類、御物石器、黒曜石、各地の模様のある土器類、海生動物の骨、緑泥片岩など本来奈良盆地に産出しないものや独自に作れないものが出土しています。
 翡翠の日本国内における産地は富山県と新潟県にまたがる地域だけですし、皇室に献上されたことから名前のついた奇妙な形をした御物石器は岐阜県北部の飛騨地方を中心に作られたものです。黒曜石には長野県和田峠産のものも含まれており、土器の模様に至っては遙か遠方の東北系(縄文時代晩期)のものも数多く出土しています。穴掘り用の道具に使われた緑泥片岩は紀ノ川流域から持ち込まれたものであり、海生動物にはタイ・フグ・スズキなどに混じって鯨の骨も出土しています。鯨はおそらく紀伊半島沿岸で獲れたものと思われます。
 二上山周辺で産出するサヌカイト(讃岐からも産出します=名前の由来)は、近畿各地と愛知県・岐阜県・石川県南部にわたる広い範囲から出土しています。近畿各地の中に紀伊半島が含まれることは言うまでもありません。
 奈良盆地にある縄文時代晩期の遺跡から出土するこれらの遺物から言えることは、縄文時代晩期には日本列島内の広い範囲で交流が行われており、交流のルートがあったことを物語っていると言うことです。奈良盆地の出土遺物はその一部を示しているに過ぎません。遙か東北地方から、あるいは北陸から、長野県や岐阜県からどのようなルートで奈良盆地に持ち込まれたのか、現在では知る由もありませんが、交流があったことは事実であり、交流があったと言うことは、それが直接持ち込まれたものか、いくつもの中継地を経て持ち込まれたのかは別として、そのルートがあったことも事実です。
 縄文時代晩期における奈良盆地と遠隔地との交流やそのルートの存在を考えると、紀伊半島南端の熊野地方と奈良盆地の間にも、鯨がどこから持ち込まれたかを論じるまでもなく、交流があり、そのルートがあったと考えるのが自然ではないでしょうか。熊野から紀伊半島を北へ縦断する途中は確かに道無き道の険路です。しかし、先述した広い交流範囲を考えると、縄文時代晩期には既に、紀伊半島以上の道無き道の険路を通って人と物の交流が行われていたと考えざるを得ません。しっかりした道案内者がいれば交流ルートを通って紀伊山地を踏破できたのではないかと思われます。古事記にも『故、其の教へ覚しの随に、其の八咫烏の後より幸行でませば・・・』とあります。食料も何日分かを携帯したでしょうし、現地調達(狩猟採集なども含めて)もしたでことしょう。
〔註〕新宮から宇陀までは、吉野川経由で約二〇〇キロメートル前後の行程になるようです。


二、紀国の男之水門(紀ノ川下流域?)から熊野への航行について

 紀国の男之水門が現在のどこなのか、はっきりしませんが、一応、紀ノ川下流域、今の和歌山市周辺として論を進めます。
 和歌山市周辺から熊野までの道のりについては古事記に『故、神倭伊波禮毘古命、其地より廻り幸でまして、熊野村に到りましし・・・』とあるだけで、陸路なのか海路なのか記述していません。しかし、陸路を経たのであればその途中での出来事の一つや二つあってもよさそうに思いますから、何もないと言うことは海路を無事に航行したものと思われます。
 ただ、この航行は極めて困難ではないか、当時の船で紀伊半島を迂回して熊野に来たとは考えられない、という数人の方の見解がありましたので、それに対する私見を述べさせていただきます。
 神武の出身地を考えれば、神武の率いる武装集団は航海術や操船術に長けていた、と言うことに思いつかれるのではないでしょうか。当時の倭国と朝鮮半島南端との交流は“船”無くしては考えることが出来ません。玄界灘や朝鮮海峡の荒海を手漕ぎの船で航行するにはそれなりの船が必要であると同時に、沿岸航行の技術を遙かに超えた航海術と操船術が必要なのは言うまでもありません。神武の武装集団の中には、その出身地から考えて優れた航海術と操船術を心得たものがいても不思議ではありません。むしろ、いたと考える方が自然ではないでしょうか。
 瀬戸内海の航行も紀伊半島迂回の航行も沿岸航行です。玄界灘や朝鮮海峡の荒海を航行した経験と技術があれば、熊野までの航行は我々が考えるほど難しいものではないと思うのですが如何なものでしょうか。
 神武一行は吉備でかなりの年月を費やしています。吉備の援助なくして神武東侵は不可能だったのは言うまでもありませんが、吉備が神武一行に与えた援助の中には、外洋の荒波を乗り切る船を造ることも含まれていたかも知れません。また、援助の一つに船があったのは間違いないでしょうから、船とともに沿岸航行術や操船術に長けた者も同行させたと見るのが自然でしょう。


三、『吉野河の河尻』について

 古事記に『故、其の教へ覚しの随に、其の八咫烏の後より幸行でませば、吉野河の河尻に到りましし時、筌を作せて魚を取る人有りき。』とあって、ここで神武は贄持之子(阿陀の鵜養の祖)と名乗る土地の国つ神に逢って言葉を交わしました。この後、井氷鹿(吉野首等の祖)、石押分之子(吉野の国巣の祖)の順に土地の国つ神に出会って宇陀に到っていますから、その道順からして神武は、川伝いとは限らないまでも吉野川上流域を通って宇陀に達したと想像しても許されるのではないでしょうか。
 ここで問題になるのが“吉野河の河尻”です。河尻が川の河口付近や川下(下流域)を指す言葉だとすると、“吉野河の河尻”は紀ノ川の下流域になってしまい、“川上”と書くべきところを河尻と書き違えた(記伝)とでもしない限り、地理的適合性を求めることが全く出来ない位置関係になってしまいます。吉野川上流域を通って宇陀に達したという道順から完全にはずれ、どこを通ったのかさえわからなくなってしまいます。しかし、安易な原文改定は我々の取るべき道ではなく、原文に“河尻”とあるからにはこれを“川上”の書き違えとして済ますわけにはまいりません。
 神武(案内者も含めて)に吉野川の河口が紀伊水道にあるという認識があったかどうかは別として、吉野川で河尻という言葉を使っているのですから吉野川に河尻と呼ばれてしかるべき所があったのではないかと考えざるを得ないのです。すなわち“吉野河の河尻”は紀ノ川下流域を指すのではなく、別の意味で使われていると考えざるを得ないのです。また、古事記の編纂者も吉野河の河尻を紀伊水道沿岸だと知っていて、そこだと認識して河尻と書いたとは思えません。
 熊野川を遡ると瀞八丁で有名な北山川が合流するところがあります。神武がそのまま熊野川を遡ったか、あるいは北山川を遡ったか定かではありませんが、いずれを遡っても南流する北山川と北流する吉野川の分水嶺にあたる伯母峰あたりに出て、吉野川の源流の一つを下り、その上流域に入っていったのではなかろうかと想像を逞しくしてみました。
 そこで、源流の細い谷川の一つを吉野川の尻尾に例えて河尻と言ったのではなかろうか、もしそうなら他にも似たような場所に河尻の地名が残っているかも知れないと思い、地名辞典を繰ってみました(小字名は調べていません)。思惑は見事にはずれました。“河尻”と言う漢字の地名が一つしか見あたらないのです。兵庫県尼崎市にあった河尻泊(天平年間に行基が開いたとされている)は、摂津国三国川(現:神崎川)の河口にあった古代の港で、摂津・播磨の五泊の一つだったそうです。土砂の堆積により河口が南に移動して江戸時代には港としての機能を失ったとあります。同じ意味の“川尻”も六つしか見あたりません。このうち五つは海岸沿いにあり、文字通り川尻にあるのが大井川(静岡県吉田町)、梁津川(茨城県日立市北部の漁港)の河口にある川尻で、残りの川尻温泉(鹿児島県揖宿郡開聞町大字川尻にある食塩泉)、川尻町(広島県豊田郡の漁業の町・呉市の東隣)、川尻岬(山口県北西部の向津具またの名は油谷半島北西端の岬)は、その近くに川を確認できませんでした。唯一海岸沿いになかったのは熊本県熊本市南端(飽託郡川尻町)を流れる緑川支流の加勢川に沿う旧河港町だけで、米・木材・酒などの積出港として栄えたものの、鉄道開通後は港の機能を失ったそうです。結局、河川の上流部、山深き源流地域には、河尻(川尻)と言う地名のないことが判明し、私の考えが如何に浅はかなものであったかということを自ら証明する結果に終わりました。
 次ぎに考えたのが、川の名前は場所によって異なるのではないか、つまり吉野川も和歌山県に入ると紀ノ川と変わるように、その上流域にも場所によって異なる名前で呼ばれているところがあり、その名前の尽きるあたりをその川の河尻と言ったのではないかと考えてみました。しかし、木津川や宇治川が淀川に変わるところを河尻とは言いませんし、吉野川が紀ノ川に変わるところも河尻とは言いませんから(もちろん地名など残っていません)、これもだめなことがわかりました。
 “尻”が付く地名は、尻のような形をしている地形に由来するのではないか。これは地名学や言語学など勉強したことのない私の発想ではなく、古田先生から教えていただいたものです。尻のような地形をしているかどうか確認しておりませんが、塩尻(長野県)や田尻(奈良県香芝市、同山辺郡、大阪府泉南郡、宮城県遠田郡)・谷尻(奈良県東吉野村)江尻(静岡県清水市の巴川下流域)など“尻”が付く地名は川の下流域に限らず、内陸部や盆地内にもあります。地名としては残っていないけれども、吉野川にあった尻のような地形を“吉野河の河尻”と表現したのではないか、と考えてみると、この後に出てくる吉野の国巣(吉野町東部の吉野川沿い)や宇陀の宇迦斯(菟田野町宇賀志)などの地名とともに、その地理的つながりが臨地性を帯びてくることに気づきます。
 現存するいくつかの“川尻”も河口付近や川下、川の下流域を指す地名とは限らないところから見て“吉野河の河尻”もこれ以外の別の意味で使われた可能性があると考えられなくもありません。


四、井光川について

 『井光川』は川上村のほぼ中央部で吉野川に合流する支流の一つです。名前からして神武が二番目に出会った井氷鹿との関連を連想させます。私もその連想からイヒカ川と読み、吉野川へ合流するあたりで二人が出会ったのだろうと考えていました。
 “井光”は“イヒカ”ではなく“イカリ”と読むことが判明しました。このあたりの集落を古くは碇(イカリ)村と言っていたものを、明治三十四年に、井氷鹿の伝承にちなんで井光(イカリ)と改称し、川上村の大字名として現在に至っています。“イカリ”は猪養(イカヒ)のヒがリに転訛したものとされており、現在でも猪が多く棲息しているそうです。集落の井光神社には祭神として井氷鹿が祀られていますが、平安時代には「水光神(姫)」が祀られていたとあります。井光(イカリ)と井氷鹿(イヒカ)がどう結びついたのか、いささか疑わしい井光川ではあります。
 古事記伝では、井光(イカリ)を通り越して宮滝より下流にある飯貝(吉野町の大字)で神武と井氷鹿が出会ったとされていますが、イヒカとイイガイの結びつきは、やはりわかりません。井氷鹿と吉野川流域の地名はあまり関係ないのかも知れません。
 神武は、あるいは十津川水系をひたすら遡り、五條市あたりで吉野川に出て東へ遡ったのかも知れません。吉野河の河尻で出会った贄持之子は“阿陀の鵜養の祖”とされており、五條市東部の吉野川流域に“阿田”の地名が残っています。最後に出会った吉野の国巣の祖とされている石押分之子の“国巣”は、北流してきた吉野川が高見川と合流して西へ向きを変えるあたりにあり、高見川を遡って向きを北に変えれば、宇陀の宇賀志に到ります。
〔註〕五條市からそのまま北へ進めば、葛城に出ます。


五、吉備の影響について

 弥生時代末期とされる奈良県桜井市の纏向遺跡からは、近くは中河内や近江系、遠くは駿河・尾張・北陸・吉備・山陰系の各地の土器類が数多く出土しています。これを以て纏向遺跡に当時の日本の政治的中心があった、と判断できるかどうかは別として、現在のところ、吉備系の土器が突出して数多く出土しているわけでもなく、また支配階級に影響を与えていたと思われる出土物も特にありませんから、出土遺物で見る限り、この時期には、まだ吉備の強い影響が現れていたとは言えないのではないでしょうか。
 支配階級のなかに吉備の影響が現れてくるのは古墳時代初期に築造されたとされる古墳で、その幾つかの古墳には、吉備地方に源を発するとされる特殊器台や特殊器台型埴輪が附属していました。橿原市の弁天塚古墳からは特殊器台そのものの破片が、中山大塚古墳(天理市)・西殿塚古墳(天理市)・箸墓古墳(桜井市・未発掘)などからは特殊器台型埴輪の破片が出土しています。これら特殊器台や埴輪の模様、また纏向石塚古墳出土の弧文円板の模様が吉備地方の特殊器台などに描かれている模様とよく似ていることから、奈良盆地の有力支配階級の一部が吉備の影響を受けていたのではないかと考えられています。つまり、奈良盆地の支配階級のなかに吉備の影響が現れて来るのは古墳時代初期になってからと言うことになります。神武が奈良盆地に突入してから、かなりの歳月が経過しており、その子孫たちが奈良盆地の枢要拠点の大半を制圧したころではないかと思われます。奈良盆地と河内を結ぶ大動脈である大和川流域、葛城北部(今の王寺町あたり)を制圧して大動脈の支配権を手に入れてから、吉備との交流が再び活発になったのではないでしょうか。


おわりに

 以上、「神武が来た道」下見旅行の見聞、車中での古田先生や古賀さんとの会話、古賀さんの「盗まれた降臨神話」などから気がついたことを、私なりにまとめてみました。
 ご意見をお伺いできれば幸いに存じます。

使用した地名辞典 角川日本地名大辞典二九奈良県、日本地名事典(三省堂)、コンパクト版日本地名百科事典(小学館)。


追記 その後、川上村と吉野町を訪ねて得た情報を、取りあえず二つだけ報告します。
1.  吉野川の支流、井光川(いかりがわ)に沿う大字井光(いかり)の小字に「野尻」があり、隣接する大字武木には「イ尻谷」「井尻谷奥」「イ尻谷奥」「イジリ谷」「イジリ谷奥」「井尻谷」「イシリ谷奥」など、「尻」をともなう小字がありました。
2.  吉野町では、吉野山蔵王堂から徒歩十分ほどの所に、井光神社(いひかじんじゃ 明治の廃仏毀釈の際に、吉野山の他の場所に遷したそうです)があり、朽ち果てた小さな祠が残っているのを発見しました。山奥には井光が出てきたという井戸も残っているそうです。もちろん、地図や案内書には一切載っていません。隣に住んでいる土地の方は「イヒカリ神社」と発音していました。吉野山にも井光の伝承があったのには驚きました。

以上


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第六集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜六集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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