古田史学会報
1999年 4月 1日 No.31

古田史学会報

   31号

発行  古田史学の会 代表 水野孝夫
事務局 〒602 京都市上京区河原町通今出川下る大黒屋地図店 古賀達也
     電話/FAX 075-251-1571
郵便振込口座 01010-6-30873 古田史学の会



「富本銭」の公開展示見学

奈良市 水野孝夫

 奈良県・飛鳥池遺跡で発掘された「富本銭 」ついては、奈良文化財研究所の発表が一月十九日で、新聞の一面を飾ったのは一月二十日であった。一月二五日から奈良文化財研究所飛鳥藤原京発掘調査部で、発掘成果が公開展示された。
 古田先生から「見に行こう」との提案を頂いたので、一月二七日(水)に見学に出掛けた。一行は古田武彦氏、会員の山崎副代表、古賀事務局長、太田氏、木村氏そして私である。素晴らしい晴天の中を近鉄西大寺駅前から乗用車で資料館へ向かう。昼前に到着した。展示場は相当混雑していた。受付嬢の説明では雨天の日が空いていたとのこと。そりゃ当然かも知れない。それでも客足の途切れる時はあって、熟視できないという程ではなかった。
 主展示品は、鋳棹つきに並べられた「富本銭」と、藤原京遺跡出土の、無紋銀銭一、富本銭三、和同銀銭少数、和同開珎(銅銭)多数であった。もちろん、展示室には藤原京遺跡の発掘全体が展示されており、土器、瓦や木簡の写真の展示もあれば、貴族や庶民の食事モデルとか、藤原不比等の給料などという展示もあった。見学を一旦終えて食事。そのあと藤原宮跡へゆき、ここから香久山を眺める。これは万葉集の持統歌「春過ぎて夏来るらし、白妙の衣乾したり天の香具山」の現場感覚を体感してみるためであった。約1.5キロメートル離れており、一人分の衣服を干してある位では見分けられないが、八倍双眼鏡ならば見分けられる程度であった。持統歌は藤原宮から眺めたという保証はなく、もっと近接した場所からの眺めかも知れないし、詩的想像かも知れない。
 このあと再度文化財研究所へ引き返した。午後四時をすぎるとさすがに客は少なくて、展示をゆっくり眺めることができた。
 引き返した目的は、長野県から発見された富本銭というのを見たいと考えたからである。この銭はこの日、長野県からこの研究所に運ばれたのだが、調査結果がでるのは約1ケ月先だそうで、ご対面はかなわなかった。
 展示に関して、先生の助言によって、我々が最も熟視したのは、無紋銀銭である。「富本銭」は今回の出土により、「最古の通貨として、教科書を書き変えることになる」というのが、マスコミ報道のタイトルであった。
 この根拠とされたのが『日本書紀』天武十二年の「今より以後、必ず銅銭を用いよ」の記事である。ところが、すぐ続く「銀銭を用いること莫(なか)れ」の記事は紹介されていない。この記事から言える事は、銅銭より前に銀銭があったことであり、銅銭の記事が出土によって事実とわかったのであれば、「銀銭」もリアルであったことになる。最古の通貨は銀銭であったと書かれていると考えてよいだろう。
 この銀銭が「無紋銀銭」ではないか?というのが問題になる。展示されている「無紋銀銭」は、ほんとうに「無紋」なのか?。もともと字があったのが削られたのではないか?。展示の「富本銭」には報道のとおり、富、本の文字にのほかに、中心の丸印を囲んでほぼ正六角形に置かれた六個の丸印、併せて七個の丸印模様がある。「無紋銀銭」を熟視すると、この「富本銭」の丸群に類似した丸印のようなものが、削り残されているようにも見える。また出土の瓦類が展示されていたが、花弁模様をもつ丸瓦の中心には、五個から二七個にわたる丸印群模様をもつ瓦が多い。なかに「富本銭」と同じ配列の七個の丸印をもつものもあった。たとえば大官大寺の瓦、山田寺のそれなどである。瓦と銭の模様に関係があるのかないのかはわからないが、とにかくビデオに収めてきた。
 後日談もいろいろある。「富本銭」に関してNHKTVが「クローズアップ現代」でとりあげ、二月二日に放映された。このなかで解説を担当された栄原永遠男・大阪市大教授と連絡をとられた古田氏は、さらにゆっくり観察するために一人で再度見に行かれた。というのは、鋳棹つきの「富本銭」というが、棹と銭は別々の出土(成分分析結果は近似)らしいからである。会員の方々からわたしのもとへ寄せられた情報もある。「本」字の問題(「本」の字は「木プラス横棒」ではなくて、「大プラス十」と刻字されている。ここにも意味があるかも知れない)。また七星の丸瓦は九州太宰府にもあった、などである。


一年のずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑「改刻説」補論 京都市 古賀達也


古田史学会報三〇号 正誤表
1頁2段三行   丗代 → 丗一代
2頁1段十行   書写さて→書写されて
3頁2段一行   秦始二年→泰始二年
5頁1段後八行  危機「記紀」→「記紀」
5頁2段後十一行 明治に→明治の
5頁3段後九行  数学を→数字を
8頁2段十六行  先輩」祝→先輩」視

インターネット事務局注記2002.8.10 すべて訂正済み


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今井久順氏を悼む

古田史学の会代表 水野孝夫

 会員の長老、今井久順さんが二月十一日に亡くなりました。八十一才でした。神戸で電気関係の仕事をしておられた氏は義息・藤田友治氏とともに、早くから古田武彦説に関心をもち、一九七七年五月に古田武彦氏宅を訪問して、「著者から直接、話をきく」ことを実行され、関西で「古田武彦氏を囲む会」を始められた、最古参メンバーのお一人でした。
 「古田武彦氏を囲む会」が発展して、一九八三年六月に「市民の古代研究会」になったとき初代会長を勤められ、一九八九年、会長を譲って顧問に退かれ、和歌山県白浜に転居して療養されていました。「古田史学の会」には発足時から応援していただきました。氏は地名の研究に注力され、報告された文章は殆ど地名関連ですが、埼玉県稲荷山古墳で金字入りの鉄剣が発見されたとき、銘文中の「斯鬼宮」に関して、埼玉県に「シキ(磯城)宮」があることを記憶しておられた話は、古田著『関東に大王あり』(一九七九)に登場しています。最後にお目にかかったのは一九九四年の「市民の古代研究会」分裂直前の理事会に、会の行方を案じ、病身を押して出席されたときでした。もう、あの温厚なお顔にお目にかかれません。ご冥福をお祈りします。


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卑弥呼の三十国の地名比定(1)

朝鮮一国・九州二十七国・四国二国


香芝市 山崎仁礼男

1)「三種の武器型青銅器は三つの各部族の権力のシンボルであるという仮説」

 今日の考古学によれば、武器型青銅器は古冢(弥生)期に比定されていますが、現在の考古学の年代比定が、全く当てにならないことは拙著『新騎馬民族征服王朝説』(未刊)に書きました、また本書の論述に従い順次明らかになります。ですから、既存の考古学の年代観は、完全に棚上げにして本稿をお読みください。
 現在の考古学の「武器型青銅器は祭祀に使用された祭器の仮説」を廃棄して、「三種の武器型青銅器は三つの各部族の権力のシンボルであるという仮説」を立てることにします。
 仮説を立てるにいたる思いつきの発端は神話です。国生みの神話を読むと、天瓊矛で 馭慮嶋と生んだとあります。そして次に天瓊戈でも生んだという一書が別にあります。では、どうして天瓊「剣」で生んだという神話がないのでしょうか。ところが、剣の神話は草薙の剣をはじめ沢山あるのです。どうも、上古には三つの部族ー剣の部族、矛の部族、戈の部族ーがいて、似たりよったりのものでしょうが、別々の神話を持っていたのではないかと思ったのです。これは同時に「上古の三王朝の存在の仮説」といえます。

(イ)銅矛の部族は九州第三王朝
 第一に、銅矛を九州第三王朝(「前つ君」の王朝)の権力のシンボルと想定します。その文献上の論拠は成務紀五年の条の盾矛の下賜の記事です。この成務紀五年の記事が九州第三王朝の文献よりの盗作の記事であることです。これは難しいことではなく、事実として筑紫矛といわれるように、九州地方が銅矛の出土の中心であるからです。次に、『隋書』によると「軍尼一百二十人あり、猶中国の牧宰のごとし。八十戸に一伊尼翼を置く、今の里長のごときなり。十伊尼翼に一軍尼に属す」 ととあります。この伊尼翼はイナギ(稲置)のことであること相違ありますまい。『隋書』は九州王朝の記録です。
一般に銅剣などの武器型青銅器のうち、細型と中細型の甕棺などの墳墓から発見されるものは、古冢(弥生)期のものと特定できましるょう。ですから、これ以外の、「故意の埋没」(原田大六氏)といわれるような中広型・広型・銅矛は成務紀五年の下賜品と推定します。伝世品で、権力の象徴ですから、当の権力が滅亡すると廃棄されたと推定されます。一括出土は新しい権力者が旧権力の象徴である武器型青銅器を或る程度の地域毎に集めて、廃棄させた結果と推測しています。
◇『対馬紀事』(文化五年一八〇八)「成務天皇の時、諸国の県邑に賜ひし楯矛を石の函に入れ、佐護と豆酘の神山に埋めて、二郡の名を定め、その余の郡々にもまた、山川の境目に矛を蔵めて、千歳不易の界となせり。村々の境に矛山、矛の境、矛崎とその名残りしものあるは是也(谷川健一『青銅の神の足跡』)
 成務紀五年の記事が「鉄矛」ではなく「銅矛」であったと示唆してくれる文献は、対馬の銅矛の出土状況よりみて、江戸時代の文献の『対馬記事』です。これだけ数多く出土する銅矛に関する記事は後代これしかないのですが、今日の銅矛の出土の事実と『対馬記事』の内容が合致していることから、「成務天皇の時、諸国の県邑に賜ひし楯矛」の矛は銅矛と想定されるのです。

(ロ)銅剣の部族は狗奴国王朝
 第二に銅剣は、『後漢書』が狗奴国を瀬戸内としていますから、狗奴国王朝のシンボルと推定できます。平形銅剣の出土の事実からの推定です。
 平形銅剣の出土が讃岐・伊予・安芸・阿波・吉備・播磨などの瀬戸内国々であるこ
明白です(後記の表を参照)。ところが、細型は筑前・肥前・対馬などの玄界灘方面に集中しており、勢力の中心が福岡平野や肥前の玄界灘に面した地方から瀬戸内に移動した様子がみて取れるのです。この細型の銅剣は、朝鮮渡来の三点セットに次ぐもので、一部朝鮮渡来のものがあり、九州第一王朝(渡来人王朝)に比定します。文献の上で剣を権力のシンボルとしたとする記録は『伊勢国風土記逸文』です。この風土記逸文は、悲しくも、天皇制により大幅な改竄の手が加えられています。神武天皇となっていますが、狗奴国王朝の初代大王の人名すり替えと推定されます。問題は風土記逸文の伊勢国が、今日の伊勢国であるのかどうか、ということです。阿波と安房、三野(吉備)・三野前(讃岐の三野郡に比定)三野後(岐阜県)などという同一の国名はいくらでもあったのです。いすれにしてもこの説話に「標の剣を賜ひき」とあって、「剣の王朝」(平形銅剣=狗奴国王朝)の説話であること推定されるのです。

(ハ)銅戈の部族は崇神王朝
 第三に銅戈を権力の象徴とした王朝は、崇神王朝と推測されます。出土の遺物として大阪湾型をあげます。文献としては「竜田風神祭の祝詞」と「広瀬大忌祭の祝詞」をあげます。祝詞の「志貴島に大八島国知らしし皇御孫の命」は崇神天皇を指すといわれています。崇神紀八年に条に「赤盾八枚、赤矛八竿」とあり、「楯と矛」としていますが、祝詞は「矛」が「戈」となっています。多分『紀記』編者は「戈」の文字を「矛」に修正したのではないでしょうか。
 このように、武器型青銅器を比定して行くと、卑弥呼の九州第二王朝が空白となります。こうして消去法により、北九州中心に出土する中広形銅戈の類を、この九州第二王朝に比定します。このようにすると、卑弥呼の九州第二王朝と崇神王朝とでは女性首長制(姫彦制)の同一習俗にありますから、同一部族と考えられ、部族として銅戈をその王権のシンボルとしたことが推測されるのです。
 以上によって結論を記せば、
 銅剣は九州第一王朝(『後漢書』の帥升などの渡来人征服王朝)と狗奴国王朝の権力のシンボル、但し九州第一王朝の段階では意識していた訳ではないでしょう。男王系です。
 銅戈は九州第二王朝(卑弥呼壱与の王朝)と崇神王朝の権力のシンボル。女性首長制(姫彦制)です。
 銅矛は九州第三王朝(「前つ君」の王朝)の権力のシンボル。兄弟首長制です。
と、武器型青銅器を剣・戈・矛の三つの部族銅戈の王朝に比定することができるという仮説です。そして非常に重要なことは、この武器型青銅器によって、九州第一王朝と狗奴国王朝また九州第二王朝と崇神王朝との関係が、即ち前身と後継の王朝としてその関係が推定できることです。
(続く)


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雲夢

豊中市 木村賢司

 「うんぼうというのを知っているか?」
 「うんぼう?どんな字を書くの?」
 「雲夢と書く」
 「知らない。雲雨(うんう)なら知っているが」
 「漢の高祖劉邦が項羽を滅ぼしたあと、最大功労者韓信が自分に対抗する者になるのを恐れて、部下の知恵者陳平の策を入れ雲夢という処で虜にした、土地の名前だよ」
 「韓信は呂后にだまされ殺されたことは知っているが」
 「それは雲夢で捕らえられ、楚王から淮陰侯に格下げとなり都で軟禁状態になった後だよ」
 「で、雲夢がどうした?」
 「古田先生が唐の詩人王維の詩に白村江で九州王朝を滅ぼした唐の武将(劉仁願)と韓信を比較しているとみられる句があるが、詩中の雲夢の意味が判らないと言われたので知らせてあげたんだよ」
 「ふうーん」
 Mさんとこういう会話をして、暫くたった七月十日に古田武彦の講演会があり、演題「日中関係史の新史料批判」--王維と李白--を聴講した。
 王維と李白は共に阿倍仲麻呂と親交があったことは有名で、王維は仲麻呂が日本に帰るとき送別の詩を贈り、李白は仲麻呂が日本に帰れずに船が難破して溺死したとの誤報に接し、「哀傷」という詩を残している。私はMさんの影響で杜甫が大好きであるが、王維、李白の詩はわずか知る程度である。
 講演で問題の王維の詩が示され、その詩の中にある東夷九州とあるのは日本の九州のことである等を論証され、詩の新解釈を示された。そしてこの様に論証し得たのはMさんの先導によったと述べられた。
 私は若い頃(二十歳代)Mさんに漢楚軍談という本を読むよう勧められ夢中で読んだが、雲夢の地のことまで記憶になかった。
 Mさんの中国史の知識はまことに広くて深い。その後私なりに司馬遷の史記をみて淮陰侯列伝(中央公論社)に有名な韓信の股くぐり背水の陣、狡兎死して走狗烹らる等と共に雲夢のことが記されていることを知った。
 古田講演は、王維の雲夢記載の詩と仲麻呂の詩、李白の「哀傷」と「臨終の詩」をとりあげ、通説の解釈と全く異なる新解釈を論証された。「哀傷」は古今東西これに勝る詩を知らないと激賞していた。私は杜甫理解はかなりのものと思っているが、王維、李白にも親近観でてきた。

・倭国滅びて一三〇〇年、
 真実求めて、雲の中、夢の中。
・王維、李白のあこがれは、
 それは日本だ、扶桑の国よ。

 〔編集部〕本稿は『道楽三昧』第8号より転載させていただきました。紹介された古田氏の講演内容は、本会発行『古田武彦講演集九八』に採録されています。購入希望者は送料共千二百十円を本会までお振込下さい。


プロジェクト「古代貨幣研究」第一報 古代貨幣異聞 京都市 古賀達也


◇◇ 連 載 小 説  『彩 神 (カリスマ) 』第七話◇◇
   朱 の 踊 り 子(1)
 −−古田武彦著『古代は輝いていた』より−−
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 深 津 栄 美 ◇◇

〔概略〕冬の「北の大門」(現ウラジオストク)攻めを敢行した三ツ児の島(隠岐の島)の王八束(やつか)の息子昼彦は、異母兄淡島に海へ捨てられるが、天国(あまくに)に漂着、その子孫は韓(カラ)へ領土を広げ、彼の地の支配者の一人阿達羅(アトラ)は天竺(現インド)の王女を娶(めと)るまでになる。対岸に栄える出雲の王子の一人八千矛(やちほこ)は、因幡の八上(やがみ)との間に息子木俣(このまた)を設けていたが、八上を狙う蛮族に迫害され、行き倒れていたところを救ってやった一老人の援助で、母子は白日別(しらひわけ=現北九州)の親族の許へ逃れる。
◇  ◇

「開もーん、開もーん!」
 激しく戸を叩く音に混り、馬のいななきや武具(もののぐ)の触れ合う音がする。
「どなたですか?」
 薄紅いの紗の領巾(ひれ)をなびかせて走り出た須世理(スセリ)は、一瞬、目が眩んだ。戸や柱に燃え移りそうな近さで、夥(おびただ)しい松明が並んでいたのだ。くすぶる臭気と黒煙に思わず涙が滲(にじ)み、須世理は袖で口を抑える。
「夜分遅く失礼しますがー」
 赤銅(あかがね)の甲胄(かっちゅう)に身を固めた将兵が進み出た。
「我らは釜浦(かまうら)の警備隊。今宵、密入国者がこちらへ逃げ込んだとの情報(しらせ)があり、検分に罷(まか)り越し申した。」
「密入国ですって?」
 須世理が美しい目を見開くと、
「さよう。須佐の仇敵、三児島の斥候(せっこう)にござる。」
「お心当りがおありなら、すぐお教え頂きたい。」
 他の兵士達も和し、
「そんな者は、ここにはおりません。」
 須世理の返事に、
「隠し立てなさると、姫の為にもなりませんぞ。」
 脅すように太刀を鳴らした。
 しかし、須世理は心持ち胸を反らし、
「ここは須佐の大王(おおきみ)の御座所(おましどころ)−−みだりに立ち入ればどうなるか、御存知出でしょう?」
 見下したような視線に、兵士らはたじろいだ。須世理の言う通り、ここは、「聖域」−−そして、相手は須佐の大王の娘なのだ。強引に踏み込んだら、後の面倒は避けられない。将兵は舌打ちしたい思いだったが、
「お騒がせ致した。」
 礼をし、引き上げて行くのを見届けて、門を閉めると同時に、須世理は脇の回廊を振り返った。太い柱の陰に、三つの人影が蹲(うずくま)っている。
「出て来てもよろしいですよ。」
 そっと声をかけると、影は柱にすがって身を起こし、大きく伸びをし、息を吐いた。
 「やれやれ……どうなるかと思ったよ。」
 額を拭(ぬぐ)ったのは、須世理の弟八島士奴美(やしまじぬみ)である。
「向こうも心得ていますよ。」
 弟の心配を笑うように言い、須世理は客達を気遣わし気に眺めた。一人は長身の逞しい若者だが、もう一人は伸び放題の髪も眉も鬚(あごひげ)も雪のようで、腰の曲りかけた老人なのだ。
「おかげで命拾いしました……。」
 若者が礼を言いかけるのを須世理は制し、
「どうぞこちらへ。」
 中へ案内した。
 軽く手を打つと侍女達が現われ、須世理の命に従って二、三の者が客を浴室へ導き、残りは食膳の用意に取りかかった。
「刺国(さしくに)の八千矛が参ったと?」
 奥で父の声がした。八島士奴美が一早く知らせたらしい。
「はい、布津(フノヅ)とか申す長老と御一緒に……。」
 須世理が答えた時、
「いやア、すっかりお世話になってしまって……。」
 当の二人が、再び侍女達に伴われて来た。
「須佐之男様ですね?」
 八千矛は主(あるじ)を認めて床に畏(かしこま)り、
「それがしは刺国大神(さしくにたいしん)の孫にて、刺国若(さしくにわか)と天之冬衣(あめのふゆぎぬ)の子、八千矛にございます。彼は−−」
 と、傍(そば)の老人を指さし、
「社(やしろ)の宮司の一人で、我が守り役の布津でございます。」
 丁寧に挨拶した。
 早や髪と口髭に霜を置き始めた須佐之男は、二人に注意深い目を注ぎ、
「なぜ、こんな事になられた?」
 と聞くと、
「因(もと)はと言えば、因幡の姫御前(ひめごぜ)を巡る争いにござる。」
 布津老人が咳(せき)払いした。
「黒光や岩根丸など天神川流域の蛮族共が、若と八上殿の仲を妬んで迫害致しおりました。丁度大王が三児島と戦(いくさ)中にて、監視も届かぬと踏んだのでございましう。」
「あいつらか……」
 須佐之男は眉をしかめた。八上なる因幡の美女の評判や、各地の豪族が彼女を巡って小競合(こぜりあい)を繰り返している事は聞いていたし、国立(くにたち)らは八上と八千矛をそねむ一方で須世理にもしつこく求愛していたから、須佐之男も彼らに好意を持ってはいなかった。異国の皇子(みこ)達をひきつける程娘が魅力的だというより、どうせおいぼれの子、八上と両天秤にかけてみて自分に有利な方を選ぼうとしているのだ。
 千代(せんだい)河口から八上とその息子木俣を白日別へ逃がし、自分は罠にはまって瀕死の重傷を負った八千矛を島前(どうぜん)に匿(かくま)い、主が医えるのを待ってここを頼って来たのだ、という布津老人の話を聞きながら、須佐之男は今まで羽山戸との確執に明け暮れていたのを恥じた。対外的には一応自分が大国(出雲)の代表だが、反感を持つ者は多い。海に浮かぶ島々を中心とする「天国」とは違い、大国は越(こし、現福井〜新潟)や吉備(岡山)と境を接する陸上国家だ。他処(よそ)に気を奪(と)られている隙に、肝心の足元が崩れ出しては一大事である。八千矛が自分にすがって来た事は、真の意味で大国を統一する好機かもしれない。(だが、この男……)
 須佐之男は、話の合い間に自分を射る布津老人の、妙に鋭い眼光が気になった。まるで隙あらば襲いかかりたいような……本当に八千矛の守り役なのだろうか……?
 須世理が空になった酒瓶を取り上げ、厨(くりや=台所)へ立とうとした。須佐之男は引き止め、小声で告げた。
「今宵は客人(まろうど)方を、『蛇(じゃ)の室(むろ)』へ案内せよ。」

 <続く>
〔後記〕須佐之男再登場ですが、その子供達は『記紀』の系図によれば八島士奴美の方が先に出て来る為、須世理は妹とすべきだったかもしれません。けれど、それではありきたりで面白くない気が致しましたので、卑弥呼と男弟に倣(なら)い、姉と弟に設定しました。八島士奴美や羽山戸には独立の説話が(『記紀』には)ありませんが、こういった名前だけ記録されている神々や人物を、私は出来るだけ登場させたいと考えております。(深津)


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『記紀』分析の危機(後編)

泉南郡 室伏志畔

 さて思わぬところにペンが逸れたが、日本人の中から倭国幻想が放逐され、大和朝廷幻想が成り代わっていった共同幻想についての考古学(幻想考古学)というものを想定してみたいと思う。そのとき倭国幻想の忘却過程は次の五期に分けられるのではないか。

 第一期 凋落期(六六三年〜七〇一年)
 第二期 禁忌期(七〇一年〜八一〇年)
 第三期 剽窃期(八一〇年〜一一九二年)
 第四期 忘却期(一一九二年〜一九七〇年)
 第五期 覚醒期(一九七〇年〜現在)

 第一期はいうまでもなく白村江の敗戦から大和朝廷による大宝律令の制定に至る時期で、倭国権力機構が解体を受け、その一方、天智と天武がしのぎを削りながら壬申の乱で近畿に新たな中心を天武天皇が確立し、持統・文武天皇に受け継がれていった時代である。
 第二期は天武天皇制の意味を藤原氏が換骨奪胎し、ありもしない悠久の大和史観の中に大和朝廷幻想を確立し、倭国をかつての大和の呼び名とすることによって、かつてあった九州王朝・倭国の共同幻想をタブーに置いた時代である。
第三期は、奈良時代の天武系の天皇が称徳天皇を限りとして天智系の光仁天皇・桓武天皇と引き継がれ、都が奈良から京都に移されたことによって、奈良時代に南家から式家に引き継がれた藤原氏の権力が、薬子の乱を限りとして北家に移ることによって、嵯峨天皇の弘仁時代の始まりと共に、かつての倭国幻想が大和幻想に置き換えられて懐旧され剽窃されていった時代である。この新時代に対応できない者の嘆きが『古語拾遺』(八〇七年)として現れ、それへの対応を勝ち取ろうとする動きが弘仁時代に成立した『新撰姓氏録』として現れ、『日本書紀』の系図一巻は不都合ゆえに消失したのもこの時代である。そしてかつての倭国東宮のラスト・プリンセスであるかぐや姫への成り上がりの大和貴族の求婚物語は伝奇物語に昇華されたように、太安万侶の原『古事記』は『日本書紀』に倣い、新時代に対応する悠久の大和史に書き改められ現『古事記』として成ったのもこの時代のことと私は見ている。
 第四期はもう少し早まると思うのだが、一一九一年親鸞が叡福寺に参り六角堂で聖徳太子から夢告を受けたいう。このとき親鸞は大和朝廷幻想の最たる聖徳太子幻想をつゆも疑うことを知らなかった。大和幻想はまったく確立し倭国幻想はまったく地に落ち、長い忘却期を迎えていたのである。
 この忘却期を破ったのが第五期としての覚醒期で、それが一九七〇年代に始まる古田武彦による奮闘であったことはいうまでもないが、それは緒についたばかりで、まだ九州王朝・倭国の一切ではなくその片鱗に手をかけたばかりだという認識はぜひとももって置く必要があるのと同時に、それがゆえにたちまち反対者の包囲作戦に遭い、「市民の古代」残留派が借り物としての多元史観を弄んでいても、たちまち時代の共同幻想に侵食され、一様に大和一元史観に復帰し、忘却されたものの発掘という歴史学の当然の使命を忘れてしまうことは、これからも往々にしておこると覚悟しなければならない。
 私に言わせるなら今日、歴史学も考古学も難しくしているのは、文献や発掘物という物に振り回され、それらがそれに付着している共同幻想の一産物であるという認識を欠いて、実証科学や鑑定科学という唯物主義に陥ってしまったことにあると思われる。『日本書紀』における天皇制の確立期の言語表出を分析して思ったことは、そこに示された天皇制といっても、天智・天武・持統の三代においても、それはまったくちがう幻想を荷って三転し、その幻想構造は最終編纂段階の藤原氏中心の共同幻想に合わせる形でひしゃげており、『日本書紀』の言語表出からそれらをより分けそれぞれが荷ったの共同幻想の水準に戻して解析しない限り、中国やヨーロッパ文献を読み解くように、「記紀」から歴史の真実を抽出することは難しいことを再度強調したいと思う。
(H一〇・十二・二二)


プロジェクト 貨幣研究 第一回 古田武彦


□事務局だより□□□□□
▽古田武彦講演集を全国の都道府県立図書館に贈呈。
▽四月の関西例会は古田先生の特別講演です。最新の発見、貨幣・筑後国正税帳がテーマです。
▽六月には本会初めての福岡講演を開催予定。
▽長野県にも「囲む会」が発足しそうです。
▽会費納入もよろしく。(古)

 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』第一集〜第四集(新泉社)、『古代に真実を求めて』(明石書店)第一〜四集が適当です。 (全国の主要な公立図書館に御座います。)
新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp


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