和田家文献は断固として護る(『新・古代学』第一集)へ
古田史学会報19号


「縄文燈台」物理的には可能 故秋田一季御霊に捧ぐ
古田史学会報
1997年 4月26日 No.19
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足摺岬の巨石群古田氏が報告会

「縄文燈台」物理的には可能

高知新聞(三月二八日)より転載

  足摺岬周辺にある巨石群の実験・調査をしていた土佐清水市教育委員会と古代史家の古田武彦・元昭和薬科大学教授は報告書をまとめ二十七日、同市役所で地元研究家ら約二十人を前に発刊報告会を行った。

「人間の力を付加したと考えられる巨石群があり『縄文燈台説』も物理的には可能」としている。
報告会で古田氏は「白皇山第二峰の石群は節理(地殻変動の場合、同地域の岩石は一定の方向性を持つ)を調べると、三列柱のうち一つは自然だが、二柱は他の場所から移動したことが明らか。地震か人間か分からないが人間と考えるのが当然」と自説を述べた。
 報告書によると、節理に沿ったままの巨石群も見られ「全くの自然だが面白い形で、崇拝の対象にになったものもある。巨石群は自然に人工をプラスアルファした、いろんな段階がある」と説明している。時期につては、本格的考古調査が必要としながらも、付近では縄文土器片や黒曜石の矢じりが見つかっており、縄文期と推測している。
 また、縄文燈台と断定するわけではないと断わった上で「鏡岩など海側だけがつるつるとした岩があり、黒潮に向かった面を磨いた可能性がある。岩に銀紙を張り、陸上の三カ所から反射度を測定すると、沖合いから十分認識できるものだった」と物理的可能性を調べた実験の結果 を報告した。
 調査実験は五年度から三年間行われ、事業費は六百五十万円。古田氏を中心に他大学の教授や地元研究者らが協力して行った。市教委は報告書を八百部用意しており、希望者に無料(郵送料は個人負担)で配布する。

【編集部】
 足摺岬巨石群に関する古田氏の報告は高知新聞の他、読売高知版でも大きく紹介されている。縄文鏡岩に関する本格的な学術報告としてはわが国では初めてのものであろう。同報告書「足摺岬周辺の巨石遺構」はカラー写 真・航空写真・軽気球写真とともに各種光学的測定データなどが掲載され、百三十六頁に及んでいる。また、スミソニアン博物館のメガーズ博士の英文レポートを含む英文論文まで掲載された、国際的・学際的にも通用する画期的なものである。
 余談だが、和田家文書偽作論者(原田実氏ら)はこの足摺巨石遺構調査に対しても、古田攻撃の一環として誹謗中傷の限りを繰り返してきたが、今回の土佐清水市教育委員会による報告書発刊により、それらイヤガラセ的行為が学問的根拠を持たないものであることがあらためて明確となった。「歴史は足にて知るべきものなり(秋田孝季)」。古田氏数年に及ぶ現地調査が見事に結実したのだが、これを機に、現地の本格的考古学調査が望まれるところである。なお、同市教育委員会の連絡先は次の通りである。
<連絡先>省略

インターネット事務局注記2000.12.31
現在、報告書の配布は終了しました。結論の部分(英文を含む)はここにあります。また、コピーが必要で御座いましたら御連絡下されば送付いたします。

 


故秋田一季御霊に捧ぐ

古 田 武 彦

 君何ぞはるけき、その芳姿(みすがた)
 何ぞはるかなる。

  わたしが貴方にお会いしたのは、たった一回だけでした。ですが、その印象は、今も珠玉 の一刻のように残っています。
 それは東京の霞ヶ関の霞会館、三十四階の一室でした。初対面にやや緊張していたわたしの前に、長身の貴方は現れ、「どうぞこちらへ」と、みずから応接室へとわたしを案内し、導いてくださったのです。
 わたしがやや緊張していたのも、当然かもしれません。なぜならその前々日や前日、青森の和田(喜八郎)さんからくりかえし電話がかかってきていました。

「殿(との)には、敬意をはらって、失礼にならぬよう、十分に心してほしい。」
「何か言うときには、最初必ず“恐れながら”と言ってほしい。」
「必ず最後には“……でございます。”とつけてほしい。」
「お目にかかる時間は、十五分を越えぬように。」

 朝に、昼に、夕方に、くりかえしての電話で、このような「注意」や「忠告」が重ねられてきていました。今までにないことでした。

 君何ぞやさしき、その芳辞(みことば)
 何ぞくだけたる。

  けれども話しはじめて数分、わたしが東北大学で村岡典嗣(つねつぐ)先生に学んだ者であることをのべるや、貴方の口調は一変しました。
 「ああ、わたしも東北大学ですよ。戦前の鮮やかに、卒業だがね。」
 これが皮切りに、仙台の街の話、共通の先生方の思い出、学部こそちがえ、お互いにザックバランな言葉を投げ合い、すっかり兄貴と弟分のような雰囲気となりました。もし洋室でなかったら、足でも投げ出し合ってしゃべっているような感じ、和田さんのせっかのご注意も、どこかにけし飛んでしまい、気がつけば、一時間半を廻っていました。
 
 君何ぞ明晰(あきらか)に、その芳所(みたちば)何ぞはるけくも筋通りたる。

 当然、対話の中心は、和田家文書でした。東日流(つがる)外三郡誌でした。わたしはこれがわが国にとって貴重なる古文書群であること、それが全面広開さるべきであること、そして学問的に一般の研究対象となるべきであること、特に、「寛政原本」とわたしの呼ぶ、秋田孝季とりくと和田長三郎吉次の共同作製の原文書に対してこそ、それらが必須不可欠であることを、縷々明確に申しのべました。
 ところが、驚いたことに、貴方も全く同意見だったのです。というより、貴方の意志で、貴方の言葉で、おそらくわたしよりもずっと早くから考えておられたふしぶしを、ズバリ、ズバリと容赦なく、のべられました。それこそ全くわたしの主張と一致するものでした。
 わたしは、この大先輩にこよなき知己を見出したのです。

  君何ぞ早き、その去ること何ぞ電光の如くなる。

 この一月末、年来の訴訟(和田さんが被告となっていたもの)に関し、全面勝訴(和田さん)、九十九パーセント勝訴(五戸弁護士)という判決が下りました。仙台高裁(控訴)です。写 真問題(アマチュア写真の無断転用)を除いて、和田家文書に関する「喜八郎氏による偽作」の訴えは、全面 的に却下さ れたのです。
 このことを和田さんはいち早く貴方に報告されたとのことですが、どれほどかお喜びになったことでしょう。
 しかし(最高裁の段階結着のあと)、ついに寛政原本が世に現われる日、それを待たずに貴方はこの世を去られました。
 それを必ず、三春なる墓前に御報告申し上げる日、冥界より莞爾(かんじ)と笑みをもらされる、その一日を、一日千秋の思いで待ち望んでおります。

−−平成九年三月三十日、御逝去。大正四年生。三春藩(福島県)の秋田家当主(元子爵)。−−

                    四月二十五日、記


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