2021年 8月11日

古田史学会報

165号

1,本薬師寺は九州王朝の寺
 服部静尚

2,明帝、景初元年短里開始説の紹介
 永年の「待たれた」一冊
 『邪馬壹国の歴史学』
 古賀達也

3,九州王朝の僧伽と戒律
 日野智貴

4,「壹」から始める古田史学・三十一
多利思北孤の時代Ⅷ
「小野妹子の遣唐使」記事とは何か
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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女帝と法華経と無量寿経 (会報164号)
飛鳥から国が始まったのか (会報164号)
倭国の女帝は如何にして仏教を受け入れたか 服部静尚(会報172号)

野中寺弥勒菩薩像銘と女帝 服部静尚(会報163号)
女帝と法華経と無量寿経 服部静尚(会報164号)

YouTube講演九州王朝の仏教から王朝交代を語る -- 我が国にあった王朝交代 服部静尚


本薬師寺は九州王朝の寺

八尾市 服部静尚

一、はじめに

表1

表1移建・非移建説、幾多の学説 

 薬師寺は、天武九年(六八〇)天武天皇の発願により、藤原京にて造営(以下本薬師寺と言う)が開始され(註1)、平城京への遷都(七一〇年)後の八世紀初めに現在地の西ノ京に移転もしくは新造した(以下平城京薬師寺と言う)とされる。平城京薬師寺は現存し、本薬師寺は礎石など遺構が残るのみである。この藤原京の本薬師寺が完成した後に平城京に移転されたのか、本薬師寺をそのままして新たに平城京薬師寺を建造したのかという疑問がある。加えて平城京薬師寺の東塔、擦銘、本尊の金堂薬師像等について、これまでに移建・非移建説、幾多の学説が(表1)提示されている(註2)。これらを踏まえて、ここでは多元史観であらためて考察する。


二、本薬師寺の遺構と平城京薬師

 「古寺巡訪 気の向くままに」というブログ(註3)氏によると、藤原京で発掘された本薬師寺金堂・東西両塔の土壇跡から(図1)のような伽藍復元図となるようだ。中門と講堂を回廊で結びその中に、中央に金堂、金堂の南に二塔が左右対称に配置され、いわゆる「薬師寺式伽藍配置」と分類される。一方、(図2)の平城京薬師寺は、本薬師寺の主要堂舎の大きさや、その伽藍配置までも忠実に再現されていたことが、これも発掘調査によって判明している。「伽藍配置・堂宇が本薬師寺を正確に模写して建設されているのである。大官大寺など移建された大寺とは異なり、何故、薬師寺だけがこのように前身の本薬師寺を再現する形で建立されたのか、その理由は未だよくわかっていない。」と、ブログ氏はなぜここまで模写することにこだわったのであろうと疑問を呈する。
 なお、岸俊男説による藤原京の条坊復元で言うと、本薬師寺は藤原宮に近い右京八条三坊に位置する。対して平城京薬師寺も右京六条二坊にあり、京に於ける位置関係をほぼ踏襲している。

図1藤原京復元図と本薬師寺伽藍配置

図1 本薬師寺伽藍配置図1藤原京条坊復元図

 

図2平城京と薬師寺伽藍配置

図2 薬師寺伽藍配置図図2平城京

 

三、平城京薬師寺の東塔は移建ではなく新築だった

(1)「東塔は移建か新築か」この問題は二〇〇九年から始まった解体修理で答えが出た。東塔の天井板の伐採年が七二九年・七三〇年、心柱の伐採年が七一九年であったことが判明した。平城京遷都後の伐採なのだから、少なくとも東塔は移建されたのではなく遷都後の新築だ。
 『七大寺年表』(註4)および『扶桑略記』の、
◆天平二年(七三〇)庚午三月二十九日始建薬師寺東塔

という記述に信憑性があることが判明して、先の平子説・田村説は否定される。

(2)そして喜田貞吉氏(註5)が指摘するように、『薬師寺縁起』(醍醐寺本『諸寺縁起集』所収)(註6)の次の記述より、ここに見える流記が勘録された当時、つまり天平十九年(七四七)年および宝亀年間(七七〇~七八一)には、塔は平城薬師寺に二基あるだけでなく、本薬師寺にも二基存在していたと考えられる。
◆宝塔二基、各三重毎重有裳層~流記云宝塔四基、二口在本寺云々

 

四、平城京薬師寺の創建金堂も新築だった

 町田甲一氏(註2)によると、現存する平城京薬師寺の金堂は、慶長五年(一六〇〇)に増田長盛によって再建され、延宝四年(一六七六)に修理再建されたと伝わっており、現在この金堂に納まる薬師像の光背は、墨書銘や『上下公文所要録』から寛永十二年(一六三五)の作であり、慶長五年の再建以降に納められたものである。 
 一方、長和四年(一〇一五)に成立した『薬師寺縁起』(註6)には、「円光中に七佛薬師仏像を半出し…」とあり、保延六年(一一四〇)に記された大江親道の『七大寺巡禮私記』には「身光に半出の七佛薬師像を刻みつけ…」と、いずれも光背に七佛薬師が刻されていたとある。この七佛薬師は、義浄新訳の『薬師瑠璃光七佛本願功徳経』(七〇七年)によって始めて登場するものである。この経典は、留学僧(おそらく西明寺に留学していた道慈)養老二年(七一八)帰朝によって我が国にもたらされたと考えられる。大江親道の見た本尊は光背に七仏藥師を具えていたと言うのだから七一八年以降の製作と町田氏は指摘する。
 『薬師寺縁起』は養老二年(七一八)に伽藍移転を伝えるが、本尊が七一八年以降の作であれば移転ではなくて金堂も新建造となる。当時藤原京に本薬師寺が存在し、これとは別に養老二年(七一八)に平城京薬師寺金堂が建造され、そののち天平二年(七三〇)に東塔が建造されたことになる。

 

 図3塔尖端の相輪
図3塔尖端の相輪

五、東塔擦銘の原典は西明寺の鐘銘および『廣弘明集』(六六四年)

 平城京薬師寺の東塔相輪の擦菅(図3参照)には銘文鐫刻せんこくがある。平子鐸嶺氏(註2)は、この擦銘文が、義浄ゆかりの西明寺の鐘銘(現物は残っていないが、六六四年成立の『廣弘明集』に伝えられる)に類似(①~⑧の傍線部分)すると指摘する。併せて、西明寺の鐘銘ではないが、『廣弘明集』には*巍巍蕩蕩という文言が四度も現われると言う。左に平城京薬師寺東塔擦菅に刻まれた銘文を示す。尚、丸付き数字・*・傍線は筆者。改行は鐫刻どおり。

①維清原宮馭宇
天皇即位八年庚辰之歳建子之月以
中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕
騰仙大上天皇奉遵前緒遂成斯業
照先皇之弘誓光後帝之玄功道済②郡
生③業傳④曠劫⑤式於高躅⑥敢勒貞金
其銘曰

*巍巍蕩蕩薬師如来大發誓願廣
運慈哀猗與聖王⑦仰延冥助爰
餝霊宇荘厳調御亭亭寶刹
寂寂法城福崇⑧億劫慶溢萬

 次に西明寺鐘銘を示すが、ここから東塔擦銘文は『廣弘明集』を下敷きにしていると判る。

①維大唐麟徳二年 歳纏星紀月次降婁
二月癸酉朔八月庚辰
皇太子奉為 二聖 於西明寺造銅鍾 一
口 可一万斤 発漢水之寄珍
採蜀山之秘宝 虞棰練火晋曠飛鑪 帯竜
虞而騰規 応鯨桴而写製
声流九地 避宣厚載之恩 韶徹三天 遠
播曾旻之徳 寤②群生於覚路
警庶類於迷塗 ③業擅香垣功斉④塵劫 
⑤式旌高躅
⑥敢勒貞金銘曰
青祇薦祉黄離降精 渦川毓徳 瑤嶺飛英
 吹銅表性 問寝登情
興言浄業 啓香城 七珍交鋳九乳図形 
翔竜若動 偃獣疑驚
製陵周室 規踰漢庭 風飄旦響 霜傳夜

⑦仰延皇祚 俯導蒼生 声騰⑧億劫 塵
溢千齢

 左に擦銘の訳文を示す。この解釈については七項で検討する。
◆これ、清原宮に馭宇天皇の即位八年、庚辰の歳、子を建つる月、中宮不悆たのしまず、この伽藍を創らんとしたが、鋪金、未だ遂げざるに龍駕騰仙(天皇崩御)す。大上天皇、前緒に従い奉り遂にこの業を成したまう。
 先皇の請願を照し後帝の深い功を輝かす。道は郡生を救い業は永劫に伝わらん。崇高な行いで敢て貞金に刻む。其の銘に曰く、巍巍ぎぎたり蕩蕩たり薬師如来、大いに誓願を発してひろく慈哀をめぐらし、ああ聖王を仰ぎ冥加を広めよう。ここに霊宇をかざり釈尊は荘厳なり。亭亭たる宝刹、寂寂たる法城。福は億劫に高く、慶は萬齢にあふれる

 

六、東塔擦銘はいつ鐫刻されたのか,

 『奈良六大寺大観』(一九七〇年、岩波書店)は、平城薬師寺で天平二年(七三〇)新たに塔が建立された時に、本薬師寺の擦銘を模刻したのだとする。

 これに対して町田氏(註2)は、擦銘の字数不揃い、字画・配字などの不整備、行は曲がり天地揃わずと拙劣な銘文刻入を指摘した上で、鐫刻は塔の完成後に屋上に上がって足場の不安定な状態のもとに刻銘されたと推測する。(図4)のように地上で鐫刻したのであれば(図5)のような不揃い不整備にはならなかったとの指摘だ。そして次のように結論する。

「平城薬師寺の東塔が新しく建てられた時に模刻されたのならば、その配字や刻字はもっと整然たるものであったはずであり、さらに、新旧薬師寺の塔に同文の草創縁起が、つまり平城薬師寺塔においても本薬師寺の草創を語る同文の縁起が、時を同じくして刻まれていたということは常識的にも考えられないから、当然、現東塔への移刻は、本薬師寺の塔が失われる時、あるいはその後(※十一世紀中のこと)であろうと思われる。」

※一〇一五年の『薬師寺縁起』(註6)には、本薬師寺の塔露盤銘文(塔露盤については図3参照)と引用されているが、この時すでに平城京薬師寺東塔の擦銘が鐫刻されていたのであれば、露盤銘文ではなく擦銘文と引用するはずである。そして、『中右記』(註7)によれば、嘉保二年(一〇九五)に本薬師寺の塔跡(塔下地底)より佛舎利が発見されて平城薬師寺の金堂に奉納されている。つまり十一世紀末にはすでに本薬師寺の塔は失われていたことが確認される。以上から、一〇一五年から一〇九五年の間に本薬師寺の塔は失われたことになる。

図4平成の大修理風景
薬師寺東塔平成の大修理の風景:このような地上の鐫刻であれば、字の乱れはなかっただろう。

図4平成の大修理風景

 

図5薬師寺東塔擦菅銘

図5 薬師寺東塔擦菅銘

 町田氏の指摘は、『薬師寺縁起』そしてこれが引用する『流記資財帳』『中右記』の記載など、すべてリーズナブルに説明が可能であり肯ける。整理すると、七世紀末から八世紀初頭にかけての時期に、藤原京の本薬師寺の塔露盤に刻まれた銘があった。しかしこれが十一世紀に(倒壊もしくは焼失?)失われた。この露盤銘文の一部を変更して、平城京薬師寺東塔の屋上に上って、足場の不安定な状態のもとに鐫刻されたことになる。つまり、現在の東塔擦銘は十一世紀になって刻入されたものである。

 

七、東塔擦銘の内容から本薬師寺露盤銘の内容を探る

(1)東塔擦銘文は十一世紀に新しく刻入されたことから、元々あった本薬師寺露盤銘文から、十一世紀の知識・認識でもって一部変更・造文された可能性がある。これは銘文ではないが、『薬師寺縁起』には「其堂中安置金銅須弥座薬師像一躯。(中略)己上持統天皇奉造請坐者。己上流記文略抄之」(傍線部割注)とある。しかし小川光暘氏(註2)によると、この流記は天平十九年(七四七)のもので、ここに持統天皇という漢風諡号が現われるはずがない。であれば、流記には「持統天皇」ではない人物の記述があったものを、『縁起』撰述時に書き換えたと疑えるのである。

(2)銘文は「清原宮馭宇天皇即位八年庚辰之歳」に中宮が病気になったとする。この清原宮馭宇天皇は一元史観では当然のごとく天武天皇と見なす。天武八年(六七九)は己卯、庚辰は天武九年(六八〇)にあたるのだが、『日本書紀』は天武の即位を天武二年としているので、即位八年とは天武九年にあたり、この点問題はない。そして天武九年十一月「皇后が病気になり皇后の為に誓願して初めて薬師寺を興した。そして百人の僧を得度させた。これによって病気平安を得てこの日罪人を赦面した。」とあり銘文は『日本書紀』に基づいている。ところが、『日本書紀』は天武元年「正妃を立てて皇后と為す、后は草壁皇子尊を生む」とある。草壁皇子の母なのでこの正妃とは後の持統天皇である。持統天皇は天武天皇の皇后であって、少なくとも『日本書紀』他に中宮と言う呼称は使われてはいない。
 中宮呼称は、聖武天皇が即位した七二四年以降、その生母で文武天皇の夫人であった(藤原)宮子が皇太夫人とされ、中宮職がこれに奉仕し、そこから宮子を中宮と呼称するようになるのを初めとする。その後、宮子は七五四年に崩御するが、中宮職が皇太夫人専属の官司となるのにともなって、醍醐天皇の養母藤原温子(九〇七年薨去)まで、中宮がもっぱら皇太夫人の呼称として用いられる。このような中宮呼称を、擦菅銘を鐫刻する際に造文するとは考えにくい。十一世紀当時の人々が持統天皇に中宮と言う呼称を新たに与えるということは有り得ない。唯一可能性があるのは、元になった本薬師寺露盤銘に『日本書紀』には無い中宮と言う文字があったということであろう。露盤銘には、庚辰の歳(六八〇)に中宮(と呼ばれる天皇)が病気になったとの記載があったと私は考える。この中宮天皇については『野中寺弥勒菩薩像銘と女帝』(註8)に述べた。

(3)次に、「此伽藍而鋪金未遂龍駕騰仙」六八〇年病気なった中宮の治癒を願って伽藍建造をはかったが、完成を見ずに崩御したと銘文にある。『日本書紀』によると、天武十四年(六八五)九月丁卯、為天皇體不豫之「天皇が病気なったため大官大寺・川原寺・飛鳥寺に三日間誦経させた。よって三寺に稲を奉納した。」とあり、さらに朱鳥元年(六八六)五月癸亥、天皇始體不安「天皇は始めて病気になられ、よって川原寺で薬師経を説かせた。」とある。「始めて」とあるので六八五年記事の天皇とは別人である。前者は中宮天皇、後者は天武天皇であろう。『日本書紀』に二種類の天皇記事があることは、『鸕野讚良皇女は天皇では無かった』(註9)に述べた。いずれの読経も、本薬師寺が完成していれば川原寺ではなく本薬師寺で行われたであろうが、本薬師寺は出てこない。そして持統紀二年(六八八)正月「丁卯、薬師寺にて無遮大会をいとなむ。」と、ここではじめて出てくる。つまり六八六年五月以降六八七年年末の間に本薬師寺が完成したと見られる。
 中宮(天皇)が九州王朝の天皇とすれば、この間に朱鳥改元(六八六年七月)があるので、六八〇年に病気になった中宮天皇が、本薬師寺の完成を待たずに六八六年七月までに崩御し、新天皇により朱鳥改元が行われたことになる。これを支えた天武もその年五月に始めて病気になり、九月に亡くなる。

(4)「大上天皇奉遵前緒遂成斯業」大上天皇がこれを引継いで本薬師寺を完成させたとある。つまり、白鳳改元以降二十五年間在位した中宮天皇を引継いで最後の九州王朝天皇が即位し、朱鳥改元(六八六年七月)して、本薬師寺を六八六年七月以降六八七年年末までに完成させたことになる。

(5)『薬師寺縁起』には、「安置繍仏像(中略)以壬辰四月十二日。奉為飛鳥御清御原宮御宇天皇天武天皇。藤原宮御宇天皇持統天皇奉造而請坐者」(傍線部割注)とある。六九二年に故飛鳥御清御原宮御宇天皇のために藤原宮御宇天皇が造って奉納した繍仏像が安置されているとの記録である。六(1)項に同じく傍線の割注部は後代の加筆であろう。飛鳥御清御原宮御宇天皇とは中宮天皇であり、藤原宮御宇天皇とは朱鳥改元した最後の九州王朝天皇と考えられる。

(6)二項では、「藤原京に本薬師寺があって、これとは別に平城京に(東塔を含む)薬師寺が造られた」とした。一項では、「何故、薬師寺だけがこのように前身の本薬師寺を再現する形で建立されたのか、なぜここまで模写することにこだわったのであろうか」というブログ氏の疑問を紹介した。
 ここまでに論証したように、本薬師寺は九州王朝の九州王朝天皇の為に創建した薬師寺であれば、七〇一年の王朝交代の後、その存在は必要無かったのであろうし、平城京に遷都する際に大和朝廷の天皇の病気平癒を願う、もう一つの薬師寺が創建されたということも肯ける。ただし、新しくもう一つの薬師寺ができたからと言っても、さすがに本薬師寺を焼き払うということはできなかったのであろう。そして十一世紀になって倒壊もしくは焼失するまで本薬師寺が存在したのであろう。
 西村秀己氏は、王朝交代のあった七〇一年以前の造営であること、九州年号下の完成であることから、藤原京は九州王朝の都であると提起される。九州王朝天皇の為に創建された本薬師寺の存在はこれを証明する。
 私は本薬師寺の「本」を「ほん」と訓んでいたが、平城京薬師寺の関係者より「もと」と読むように訂正された。本薬師寺遺跡の表示板にも「もと」と読み仮名をふっている。本薬師寺は平安時代末に作られた『薬師寺縁起』(図6)に出てくる寺名であって、そこには読み仮名が無いので元々どう読んでいたかは不明だ。
 「本」には「本当の。元々の」と言う意がある。藤原京に本当の薬師寺が創建され、その後七〇一年の王朝交代がある。そして新しい王朝により七一〇年に平城京遷都が行われ、そこに薬師寺を模して平城京薬師寺が創建されたのだ。普通に読めば「ほんやくしじ」であろうが、本当のという意を避けて「もとやくしじ」と読ましたいのであろう。

図6『薬師寺縁起』の抜粋養勝院経円〔江戸末〕写
東京国立博物館デジタルライブラリーより

図6 『薬師寺縁起』の抜粋養勝院経円〔江戸末〕写

(註1)天武紀九年十一月皇后の為に誓願して初めて薬師寺を興したという記事、そして以下の奈良文化財研究所の報告もあり、本薬師寺の存在に疑いはない。「藤原京薬師寺(橿原市木殿町)の金堂土壇上には小堂が建つが、南面と西面の礎石十六個が小堂の外に残っている。裳階の礎石は残存していないが、平城京の薬師寺金堂と主屋の柱間寸法が一致している。また、東塔跡の土壇上には心礎と十五個の礎石が残存しており、裳階の礎石は残っていないものの、主屋の柱間寸法は平城京薬師寺東塔と一致している。」

(註2)『薬師寺』町田甲一(一九八四)。各学者の主張・論点・文献の紹介とともに町田説を展開されている。

(註3)「古寺巡訪 気の向くままに」HP、http://www9.plala.or.jp/kinomuku/index.html

(註4)『七大寺年表』続群書類従第二十七輯ノ上第七九二巻、

(註5)『藤原京薬師寺宝塔の形態と平城京移建』宮上茂隆、日本建築学会論文報告集第二二六号、一九七四年の中で喜田貞吉氏の論証を紹介している

(註6)『薬師寺縁起』続群書類従第二十七輯ノ下第八百巻、長和四年 (一〇一五)撰述。
ここには「本薬師寺是也。即塔露盤銘文云」とあって、本薬師寺の銘文は現存する平城京薬師寺東塔の擦菅とは異なり、露盤に鐫刻されていたことを伝える。露盤と擦菅はそれぞれ塔の頭部先端の相輪の部分名であるが、その違いは下図を参照。

(註7)『中右記』藤原宗忠の寛治元年(一〇八七)から保延四年(一一三八)までの日記。

(註8)中宮天皇については『野中寺弥勒菩薩像銘と女帝』古田史学会報№一六三を参照。

(註9)『鸕野讚良皇女は天皇では無かった』東京古田会ニュース№一九八、二〇二一年を参照。


 これは会報の公開です。

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