2021年6月8日

古田史学会報

164号

1,女帝と法華経と無量寿経
 服部静尚

2,九州王朝の天子の系列2
利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ
 正木裕

3,何故「俀国」なのか
 岡下英男

4,斉明天皇と「狂心の渠」
 白石恭子

5,飛鳥から国が始まったのか
 服部静尚

 編集後記

6,「壹」から始める古田史学三十
多利思北孤の時代 Ⅶ
多利思北孤の新羅征服戦はなかった
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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九州王朝の天子の系列    正木裕
九州王朝の天子の系列 1 多利思北孤・利歌彌多弗利から、唐と礼を争った王子の即位 正木裕 (会報163号)


九州王朝の天子の系列2

利歌彌多弗利から、「伊勢王」へ

川西市 正木 裕

一、『日本書紀』と「伊勢王」

1、多利思北孤から利歌彌多弗利、さらに「常色元年の伊勢王即位」へ

 前号では倭国(九州王朝)の天子が、多利思北孤(端政元年・五八九年即位~法興三十二年・六二二年登遐)から利歌彌多弗利(仁王元年・六二三年即位~命長七年・六四六年崩御)に続き、常色元年・六四七年に新天子が即位したことを述べた。本稿以降では、その天子は『書紀』では「伊勢王いせのおほきみ」とよばれ、「諸王五位」というヤマトの王家の臣下とされているが、実際は全国に評制を施行し、難波宮を造営し、蝦夷を支配下におさめ、一般に「大化の改新」と呼ばれる大改革を行った倭国(九州王朝)の偉大な天子だったことを述べる。

 

2、『書紀』で三十九年間に十回記される「伊勢王」の事績

 当時、唐とは国交が途絶えていたため、多利思北孤や利歌彌多弗利と異なり中国史書にその新天子の名は見えない。ただ、『書紀』には、別表のとおり「伊勢王」と呼ばれる人物の事績が、白雉元年(六五〇)~持統二年(六八八)に十回記されている。通常、「伊勢王」は「諸王五位」とあるようにヤマトの王家の臣下か支配下の豪族であり、薨去後も長年にわたる活動の記事が記されているところから、特定の一族の長が踏襲する呼称だと考えられている。
◆(伊勢王の薨去記事)
①斉明七年(六六一)(九州年号「白鳳元年」)六月、伊勢王薨みうせぬ。
②天智七年(六六八)六月、伊勢王と其の弟王おとみこと、日接しきりて薨せぬ。〈細注〉未だ官位を詳つまびらかにせず(注1)。
◆天武十二年(六八三)十二月丙寅十三日、諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国やくに・小錦下多臣品治ほむじ・小錦下中臣連大嶋おおしま、并て判官まつりごと・録史ふびと・工匠者たくみ等を遣はして、天下に巡行きて、諸国の境堺を限分さかふ。然るに是の年、限分ふに堪へず。

 しかし、『書紀』に記す「十回の伊勢王の事績記事」については不可解な点が多いのだ。

(別表)『書紀』に記す「伊勢王」の事績

『書紀』の年次 事績の概要
白雉元年(650)2月 伊勢王は白雉改元の式典で白雉の輿を5人で担ぐ
斉明7年(661)6月 伊勢王が薨去する。
天智7年(668)6月 伊勢王と其の弟王が相次いで薨去する。官位不明
天武12年(683)12月 諸王五位の伊勢王は天下を巡行し、諸国の境堺を定める。
天武13年(684)1月 伊勢王は諸国の境堺を定める。
天武14年(685)1月 伊勢王らはまた東国に向う。
朱鳥元年(686)1月 伊勢王は高市皇子と共に無端事(あとなしこと)に答え褒賞を得る。
朱鳥元年(686)6月 伊勢王は飛鳥寺に遣され僧侶に(*天武の)病平癒を祈願させる。
朱鳥元年(686)9月 浄大肆伊勢王は(*天武の)殯の儀で、諸王を代表して誄する。
持統2年(688)8月 浄大肆伊勢王は(*天武の)葬儀を主催する

 

3、「諸王五位」のはずの伊勢王の死去記事に「薨」の字が使われる

 第一は、伊勢王の逝去に「薨みうせぬ」という言葉・文字が用いられていることだ。(*「みうせぬ」は岩波『書紀』の「薨」にあてたルビ)
 律令制下では、身分により死去した時に用いられる用語が、おおよそ次のように決まっていた。
①「崩御」は「天皇・皇后・皇太后・太皇太后の死去に用いる言葉」
②「薨御」は「親王・女院・摂政・関白・大臣などの死去に用い言葉」
③「薨去」は「皇族または三位以上の貴人の死去に用いる言葉」
 詳しく述べると、「薨」は、『養老律令』喪葬令・薨奏条に「親王、及び、三位以上は、薨と称すこと。五位以上、及び、皇親は、卒と称すこと。六位以下、庶人に至るまでは、死と称すこと。」とあるように、皇太子や大臣などの死の「薨御」、親王や三位以上の死の「薨去」に限定して使われる用語で、律令制定以前であっても『書紀』ではこれに沿って「薨」の字が用いられている。そうであれば、伊勢王は、天武十二年(六八三)記事では「諸王五位」とあるから、「卒」とあるべきで、「薨」の字が使われているのは不思議なことだ。
 ただ、当然こうした用字の差を知っていたはずの『書紀』編者が、「薨」の字を用いているからには、当時伊勢王は「貴人」として認識されていたことは確かだろう。
 この点、『書紀』では「百済肖古王薨、百済国貴須王薨、百済阿花王薨、百済枕流王薨、百済王昌成薨、狛こま国香岡上王(ぬたのすおりこけおう *高句麗安原王)薨」など他国の王にも「薨」が用いられている。
 そして、『旧唐書』には倭国(九州王朝)と日本国(大和朝廷)は別国と書かれているから、別国とされる「倭国(九州王朝)の天子」の崩御に「薨」の字を用いたと考えれば、不思議ではなくなるのだ。

 

二、「伊勢王」は常色元年に即位した倭国(九州王朝)の天子だった

1、伊勢王と白雉改元儀式の真実

 『書紀』での「伊勢王」の初見は、別表のとおり白雉元年(六五〇)二月甲申(十五日)の白雉の輿を執る記事だ。
◆『書紀』白雉元年(六五〇)二月甲申、朝庭の隊仗、元会儀の如し。左右大臣・百官人等、四列を紫門の外に為す。粟田臣飯蟲いひむし等四人を以て、雉きぎすの輿こしを執らしめて、在前さいたちて去く。左右大臣、乃ち百官及び百済君せしむ豊璋ほうしょう・其弟塞城さいじょう・忠勝ちゅうしょう・高麗の侍医毛治もうじ・新羅侍学士等を率て、中庭に至る。三国公麻呂まろ・猪名公高見かたみ・三輪君甕穂みかほ・紀臣乎麻呂岐太おまろきた、四人をして、代りて雉の輿を執りて、殿の前に進む。時に左右大臣、就きて輿の前頭まえを「執り」、伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎をくそ、輿の後頭しりを「執り」て、御座の前に置く。天皇即ち皇太子を召して、共に「執り」て観みそなはす。皇太子、退りて再拝をがみたてまつる。
 『書紀』の白雉元年は六五〇年だが、九州年号白雉元年は六五二年で、難波宮の完成年次だ。そして「元壬子年木簡」の発見によって、正しきは『書紀』白雉ではなく「九州年号白雉」であることが分かっている。つまり、白雉改元の儀式は『書紀』の六五〇年ではなく「九州年号白雉元年(六五二)」が正しかった。そしてこれは、「白雉改元」は難波宮の完成を記念した改元であり、難波宮は倭国(九州王朝)の造営であることを示している。
 当然伊勢王の「白雉改元の輿を執る」との事績も、倭国(九州王朝)の「改元儀式」での出来事・伊勢王の事績となる。
 しかも、輿は一貫して「四人」で「執」っているところ、伊勢王らだけが五人、特に輿の後頭を三人で「執」っているのは不自然で、「伊勢王が余分」なのだ。そして、「天皇・皇太子」も伊勢王同様に輿を「執」っている。
①伊勢王・三国公麻呂・倉臣小屎、輿の後頭を執る。
②天皇即召皇太子、共に執りて観す。
 「伊勢王」が余るのは、本来②の「天皇」は「伊勢王」で、伊勢王と皇太子が「共に執った」記事を、三国公麻呂・倉臣小屎らに伊勢王を加え、「共に」輿の後頭を「執」った事に書き換え、「天皇」とは孝徳の事と見えるようにしたと考えられる。

 

2、天武紀に移された常色年間の難波宮造営

 その難波宮について、『書紀』天武紀には不可解な記事がある。それが天武十二年(六八三)の「難波複都詔」といわれるものだ。
◆『書紀』天武十二年(六八三)十二月甲寅朔(略)庚午十七日(略)又詔して曰く、凡そ都城・宮室、一処に非ず、必ず両参ふたつみつ造らむ。故、先づ難波に都造らむと欲す。是を以て、百寮の者、各往まかりて家地を請たまはれ。
 これは「都や天子の宮殿は一か所ではなく二~三か所造れ。先ず難波に造れ」という詔だが、『書紀』で難波宮は白雉三年(六五二)九月に完成し、既に遷都も行われているのに不可解だ。
◆『書紀』白雉二年(六五一)冬十二月の晦に、味経宮あじふのみやに、二千一百余の僧尼を請ませて、一切経読ましむ。是の夕に、二千七百余の燈を朝の庭内に燃して、安宅・土側等の経を読ましむ。是に、天皇大郡より、遷りて新宮に居す。号なづけて難波長柄豊碕宮と曰ふ。
◆『書紀』白雉三年(六五二)秋九月に、宮造ること己に訖をはりぬ。其の宮殿の状、殫ことごとくに論ふべからず。冬十二月の晦に、天下の僧尼を内裏に請せて、設斎をがみして大捨かきうてて燃燈みあかしともす。

 岩波『書紀』補注(二五―一三)では「天武天皇の時に(難波宮)改造した」記事とするが、『書紀』にはそのような記述はなく、他の文献にも見えない。考古学的にも証明されていない。つまり、天武十二年に難波宮が改造されたとする根拠は何もない。まして、「百寮の者、各往りて家地を請はれ」というのが六八三年の詔なら、三〇年間官僚は家地も持たなかったことになるが、これは考え難い。つまり、この「複都詔」は「難波宮完成以前」の詔だと考えるほかないのだ。

 この複都詔の発令される天武十二年(六八三)十二月の直後の天武十三年(六八四)二月には「宮室之地」の視察記事がある。
◆『書紀』天武十三年(六八四)二月癸丑朔(略)庚辰二十八日に、浄広肆広瀬王ひろせのおほきみ・小錦中大伴連安麻呂やすまろ、及判官・録事・陰陽師おむみょうじ・工匠等を畿内に遣はして、應都之地みやこつくるべきところを視占みしめたまふ。是の日に、三野王みののおほきみ・小錦下采女臣筑羅つくら等を信濃に遣はして、地形を看しめたまふ。是の地に都つくらむとするか。
                   三月癸未朔(略)。辛卯九日、天皇京師に巡行ありきたまひて、宮室之地を定めたまふ。

 一方、難波宮が完成する二年前の『書紀』白雉元年(六五〇)・九州年号常色四年十月には、難波宮の工事に伴い「宮室之地」に入る墓の移転補償や、「宮室の堺標」設置記事がある。
◆『書紀』白雉元年(六五〇)冬十月に、宮の地に入れむが為に、丘墓はかを壊やぶられたる人、及び遷うつされたる人には、物賜ふこと各差しな有り。即ち将作大匠荒田井直比羅夫ひらふを遣はして、宮の堺標を立つ。

 白雉元年(六五〇)と天武十三年(六八四)と離れているが、難波宮の建設手順からは、この記事は「一連のもの」と考えられる。つまり、難波宮完成が六五二年であれば、六五〇年二月に難波宮建設予定地を調査し、三月に天皇が宮地を決定。一〇月に境界標を打ち、支障物件の立ち退きと補償が行われ、宮の工事が始まったことになる。
 結局天武十三年(六八四)の宮地に関する記事は、難波宮完成前の『書紀』白雉元年(六五〇)・九州年号常色四年から「三十四年繰り下げ」られた「難波宮造営記事」だった。そうであれば、天武十二年(六八三)の「難波複都詔」も、必然的に『書紀』大化五年(六四九)・九州年号常色三年のものとなろう。

 

3、難波宮を造営し、白雉と改元、天下立評した伊勢王

 ちなみに、『常陸国風土記』や『伊勢皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』から常色三年(六四九)に全国に「評制」が施行されたことが分かっている(注2)。そして、難波宮は内裏と十四の朝堂を有し、これを官衙が囲む前例を見ない大規模な宮殿であり、我が国全体を統治する「評制」に対応する宮といえる。「難波複都詔」と「評制施行」は一体の事業だったのだ。
 また、藤原宮木簡等から七〇〇年以前は全て「評」であったことが確認されているが、『書紀』では、事実に反して、七〇〇年までの地方制度も「評」ではなく、七世紀初頭に大和朝廷が創設した「郡」だとしている。そこから、「評制」は倭国(九州王朝)の制度、「郡制」は大和朝廷の制度だと考えられる。そうであれば「評制」に対応する難波宮も、倭国(九州王朝)の「常色元年に即位した天子」が造営した宮となろう。

 そして、前述の天武十二年(六八三)十二月の、「諸王五位伊勢王」が「天下に巡行」し、諸国の境堺を限分した記事の三十四年前は、全国に評制が施行された六四九年・常色三年にあたる。各国の境界を定めることができるのは「各国の王・支配者以上の権力を持つ者」即ち「大王・天子」しかありえない。『書紀』編者は「遣諸王五位伊勢王・大錦下羽田公八国・・・」と「天皇が伊勢王らを派遣した」ように記すが、本来は「伊勢王、遣大錦下羽田公八国・・」であり、「伊勢王が、評制施行のため羽田公八国らを派遣し全国(天下)を巡行させた」ことになろう。
 『書紀』白雉ではなく「九州年号白雉」が正しく、「改元は難波宮完成による」もので、「難波宮は評制に対応する宮」であれば、「伊勢王」は白雉の輿を「執」った(担いだ)のではなく、白雉改元儀式を行い、白雉を「執って観た」人物で、「天下立評」をおこない、「難波宮を造営」した「常色元年に即位した倭国(九州王朝)の天子」となろう。『書紀』編者は、年次の繰り下げほか様々な「潤色」により、こうした事績を孝徳や天武の事績としたことになる。
 次号以降では、繰り下げられた「伊勢王」の事績を明らかにしていく。


(注1) この二つの記事は月も同じで、重複記事と考えられるが、斉明七年(六六一)は九州年号が「白鳳」に改元されており、本来はこの年に伊勢王が薨去し、次代の白鳳の天子が即位したと考えられる。ちなみに天智七年(六六八)は「天智の即位年」だから、『書紀』編者は倭国(九州王朝)の「白鳳の天子の元年記事」を「ヤマトの天智の即位元年」に繰り下げたことになろう。

(注2)『皇太神宮儀式帳』には「難波朝廷天下立評」・「評督」の語が見える。また、『神宮雑例集』には、「以己酉(六四九年)始めて度相郡を立つ」・「飯野多気度会の評なり」などとある。(七〇〇年以前に「郡」とあるのは、実際は「評」のこと。)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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