2020年10月12日

古田史学会報

160号

1,改新詔は
九州王朝によって宣勅された

 服部静尚
   編集後記

2,「防」無き所に「防人」無し
 山田 春廣

3,西明寺から飛鳥時代の
 絵画「発見」
 古賀達也

4,欽明紀の真実
 満田正賢

5,近江の九州王朝
湖東の「聖徳太子」伝承
 古賀達也

6,『二中歴』・年代歴の
  「不記」への新視点
 谷本 茂

7,「壹」から始める古田史学二十六
多利思北孤の時代
倭国の危機と仏教を利用した統治
古田史学の会事務局長 正木裕

 

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持統の吉野行幸について(会報160号)

欽明紀の真実 満田正賢(会報160号)../kaiho160/kai16004.html


欽明紀の真実

茨木市 満田正賢

 欽明天皇は、傍系の継体天皇と仁賢天皇の娘との間で生まれた嫡子として、天皇家の系図を正統に戻したとされる天皇であり、在位三十二年と長期に日本を統治した天皇である。しかし、その欽明紀の大半は百済との交流関係を中心とした朝鮮半島記事が占め、少ない近畿の記事の中では、むしろ蘇我稲目の方が存在感をもち、欽明天皇自体は幼名も年齢も不詳である。本論によって、欽明紀に隠された真実を明らかにしたい。


一.日本書紀に記された欽明期の皇太后について

 欽明天皇は、実母である手白香皇女でも、前天皇(宣化)妃である橘皇女(欽明自身の皇后・石姫皇女の実母)でもなく、前々天皇(安閑)妃である山田皇女に政治を任せたいと要請したと記され、又山田皇女を皇太后に据えている。その理由は記されていない。

 

(1)日本書紀成立以前の歴代皇太后

 日本書紀が成立した元正天皇期まで、日本書紀及び続日本紀に記された天皇と皇太后の関係をすべて列挙する。
①綏靖=媛蹈鞴五十鈴媛=実母で前天皇(神武)の皇后
②安寧=五十鈴依媛=実母で前天皇(綏靖)の皇后
③懿徳=渟名底仲媛=実母で前天皇(安寧)の皇后
④孝昭=天豐津媛=実母で前天皇(懿徳)の皇后
⑤孝安=世襲足媛=実母で前天皇(孝昭)の皇后
⑥孝霊=押媛=実母で前天皇(孝安)の皇后
⑦孝元=細媛=実母で前天皇(孝霊)の皇后
⑧開化=欝色謎=実母で前天皇(孝元)の皇后
⑨崇神=伊香色謎=実母で前天皇(開化)の皇后
⑩垂仁=御間城姫=実母で前天皇(崇神)の皇后
*次の景行には皇太后の記載なし
⑪成務=八坂入姫=実母で前天皇(景行)の妃(皇后ではない)
⑫仲哀=兩道入姫=実母で前々々天皇(垂仁)の娘。父は日本武尊(前々天皇の子)
⑬応神=氣長足姫(神功皇后)=実母で前天皇(仲哀)の皇后
⑭仁徳=仲姫=実母で前天皇(応神)の皇后
*次の履中・反正・允恭には皇太后の記載なし
⑮安康=忍坂大中姫=実母で前天皇(允恭)の皇后
⑯雄略=忍坂大中=実母で前々天皇(允恭)の皇后(即位時には皇太后の記載は無いが、文中に皇太后という表現が出てくる)
*次の清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化には皇太后の記載なし。
 但し、清寧は実母の葛城韓媛を皇太夫人にしている。
⑰欽明=*山田皇后=叔母で前々天皇(安閑)の皇后
⑱敏達=石姫=実母で前天皇(欽明)の皇后
*次の用明・崇峻・推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統・文武・元明・元正には皇太后の記載なし。但し孝徳は実姉の皇極前天皇を皇祖母尊と呼んでいる。又、大宝令によって太上天皇の称号が定められ、持統が初の太上天皇となっている。

(2)皇太后の制定基準

 欽明紀以外では、皇太后という敬称はすべて天皇の実母に付けられている。そして、成務期の皇太后である八坂入姫と仲哀期の皇太后である兩道入ふたじのいり姫以外は、一度は皇后であった女性に付けられている。
 私は、実際に皇太后と呼ばれたのは允恭天皇の皇后で安康・雄略の母である忍坂大中おしさかのおおなかつ姫が最初ではなかったかと推測している。各天皇即位時の形式的な皇太后制定の記述と違って、雄略紀には文中のエピソードの中に皇太后という言葉が出てくるからである。仁徳以前の各天皇紀に記された皇太后は、安康・雄略紀に倣ったものと推測する。

(3)欽明期の皇太后に関する疑惑

 日本書紀の皇太后制定の基準から考えると叔母であり前々天皇(安閑)の皇后である山田皇后を皇太后に据えた欽明は明らかにおかしい。それでは逆に山田皇后が「実母で過去皇后であった人物」という皇太后制定の基準によって選ばれていたと考えればどうなるか。その結果、欽明天皇は継体天皇と手白香皇女の間に生まれた子供ではなく、安閑天皇と山田皇女の間の子であるということになる。

(4)欽明出生の真実を隠した理由

 継体の後は、安閑そして宣化に引き継がれた。宣化の皇后は、仁賢と皇后春日大郎女の間に生まれた橘皇女である。もし「継体天皇と手白香皇女の間に生まれた嫡子」の出生の話が架空の話であれば、宣化の嫡子が天皇位を継ぐのに大きな障害があったとは思われない。日本書紀は、古事記に記された「倉之若江王」を「倉稚綾媛皇女」という名の皇女に変えて、宣化天皇の嫡子を隠す一方で、安閑と、仁賢の娘とはいえ妃の和珥わに臣日爪ひつめの娘糠君娘あらきみのいらつめが生んだ春日山田皇女との間の子を、継体と仁賢の長女手白香皇女との間に出来た嫡子であると偽るという、歴史の捏造を行ったことになる。


二.筑紫天皇家(後期九州王朝)の仮説との整合

 私は、継体が倭の五王・磐井と続いた前期九州王朝を倒し、安閑・宣化と続いた後に、宣化が詔を出して創建した「那津官家」に宣化の子が遷都し、倭国王を名乗り後期九州王朝を創立したという仮説を立てた。日本書紀の記述には宣化元年(五三六)の那津官家設置の詔の記事以降、推古十七年(六〇九)の筑紫の太宰の初見まで七十三年もの間、百済本記を転用したと思われる記事以外には「筑紫」の状況を記した記事がない。那津官家への遷都の時点で、継体・安閑・宣化に従ってきた近畿の豪族の大半は近畿に残り、後期九州王朝の臣下となったと推測する。日本書紀の「欽明天皇」の捏造は、後期九州王朝に関する私の仮説を証明するものと思われる。日本書紀は、近畿に残った安閑の子を継体の嫡子に変え、その嫡子が宣化の後即位して、正統王朝への復帰が成されたと強引に歴史をねつ造したのではないだろうか。

 

三.欽明の出生をねじ曲げた人物について

 それでは、このように歴史を強引にねつ造したのは誰だろうか。それを知る上で参考になるのは、古事記と日本書紀の欽明の妃と皇子の記述の違いである。

(1)筑紫天皇家隠蔽の記述

 古事記では、宣化の娘のうち欽明に嫁いだのは石比賣命と小石比賣命の二人である。日本書紀では、小石比賣命がなく、その代わりに稚綾わかあや姫皇女と日影皇女が加えられている。稚綾姫皇女は古事記に倉之若江王と記された嫡子が皇女に置換えられたものである。そこに後期九州王朝の「筑紫天皇家」が隠されていると考える。稚綾姫皇女と日影皇女は日本書紀の創作だと思われる。

(2)隠された蘇我馬子出生の記述

 宣化天皇の娘グループの次に紹介されているのは、古事記では春日之日爪臣の娘糠子郎女であるが、日本書紀では蘇我大臣稻目宿禰の娘堅鹽きたし媛である。これには理由があると思われる。古事記が糠子あらこ郎女を先に挙げたのは、その子の中に宗賀之倉王が含まれているからではないだろうか。この宗賀之倉王は、日本書紀においては創作された日影皇女の生んだ皇子「倉皇子」に置換えられている。私は、日本書紀によって抹殺された宗賀之倉王が、蘇我氏に養子に出された皇子ではないかと推測した。この宗賀之倉王がすなわち蘇我馬子ではないだろうか。

(3)蘇我馬子による系図の創作

 堅鹽媛が生んだ用明・推古以下七男六女は、他の妃もいる中で異常に多い子供の数である。小姉君も崇峻以下五人の子をもうけている。驚くべきことに、欽明天皇は臣下である蘇我稲目を祖父とする子を十八人も作り、その中の三人が天皇になっているのである。ここには創作が入っているのではないだろうか。私はこのうちの大部分の名前は蘇我一族の名前ではないかと考える。蘇我一族と天皇家は一体であるという系図が作り上げられた可能性が強い。そしてその系図は当然蘇我氏が作ったものと考える。

四.古事記と日本書紀の編纂に関する仮説

 古事記の記述は推古天皇で終わっている。私は、古事記は推古二十八年(六二〇)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる「天皇記」「国記」「臣連等の本記」の内容を天武天皇が都合の悪い部分を省いて(自らではないにせよ)稗田阿礼に読み聞かせたものと推測する。一方日本書紀は、同じく「天皇記」「国記「臣連等の本記」を史料の一つとしながらも、その他の史書や海外史書などを参考にし、さらに多くの粉飾・創作を加えたものだと推測する。
 古事記と日本書紀の違いはもう一つある。「天皇記」「国記」「臣連等の本記」の成立時点では倭国(後期九州王朝)が存在しており、古事記は(仁賢以降のエピソードは天武天皇によって全面的に消されてはいるが)それに対する配慮を残しているのに対して、日本書紀の成立時点では倭国(後期九州王朝)が消滅しているということである。

五.まとめ

 以下が欽明天皇の真実を考察する中でたどり着いた仮説である。
(1)「欽明天皇」出生の記述は創作されたものであり、「欽明天皇」の実体は蘇我稲目の娘と婚姻した安閑天皇の子であった。

(2)そして、その安閑天皇の子は、近畿王朝の正統な後継者として筑紫(那津官家)に遷都した宣化天皇の嫡子(筑紫天皇家=後期九州王朝)の臣下であった。

(3)その事実をねじ曲げ、偽りの天皇家の系図を創作したのは蘇我馬子である。

(4)日本書紀は古事記の系図から後期九州王朝(筑紫天皇家)の存在を消し、更に「蘇我馬子は欽明天皇の実子で、蘇我氏に養子に入り蘇我氏の首領になった人物である」という(真実は別にして)あってはならない記述を消した。

 以上


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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