2018年8月13日

古田史学会報

147号

1,「実証」と「論証」について
 茂山憲史

2,よみがえる古伝承
大宮姫と倭姫王・薩摩比売(その3)
 正木裕

3,長沙走馬楼呉簡の研究
 古谷弘美

4,古田先生との論争的対話
 「都城論」の論理構造
 古賀達也

 

 

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『管子』における里数値について 古谷弘美 (会報119号)

長沙走馬楼呉簡の研究

枚方市 古谷弘美

 『長沙走馬楼呉簡の研究』という本が出版されています。
著者 谷口建速、  早稲田大学出版部、二0一六年十一月十日 発行
サブタイトルは「倉庫関連簿よりみる孫呉政権の地方財政」

 長沙市で発見された、行政文書を記した簡牘による三国時代呉の制度研究で、倉庫を中心とした穀物、銭、布等の納入、搬出を対象としています。
 走馬楼呉簡の概要は次のように記述されています。

 湖南省の省都である長沙市は、省の中央部よりやや東北に位置する。(中略)走馬楼呉簡に関連する時期については、孫呉の黄武二年(二二三)に右将軍・左護軍の歩?が臨湘県侯に封ぜられており、臨湘侯国である。
 呉簡中にも「歩侯」や「臨湘侯相」などの語が確認できる。 (一頁)
 一九九六年七月、長沙市文物工作隊は、五一広場の東南に位置する湖南平和堂商業ビル建設区域(走馬楼建設区域)の事前発掘において、戦国時代から明清時代にかけての五七基の古井群を発見した。
 そのうちの第二二号井(以下、J22)から、三国呉の紀年を持つ大量の簡牘群が出土した。これが走馬楼呉簡である。(三頁)
 整理者によると、総数約一四万点の簡牘のうち、文字のあるものは三万余で、残りの四万点余は無文字である。 (中略)木牘一六五枚、小木簡六〇枚、大木簡二五四八枚、竹簡一三万六七二九枚である。大半の竹簡・木簡には上下二条の編綴痕が確認でき、また図録本附録の「掲剥位置示意図」によると、「成巻」の状態で出土したものも多数確認できることから、これらの簡は冊書の形で井戸に入れられたと考えられる。
 簡牘中には、後漢の中平二年(一八五)から孫呉の嘉禾六年(二三七)までの紀年がみえる。元号としては「中平」(二年)・「建安」(二五〜二七年)・「黄武」(元〜七年)・「黄龍」(元〜四年)・「嘉禾」(元〜六年)を確認でき、うち一例のみの「中平二年」を除くと、全て長沙郡が孫呉政権の統治下に組み込まれた建安二〇年(二一五)以降のものである。(四〜五頁)

 建安二0年(二一五)〜嘉禾六年(二三七)といえば、魏志倭人伝において倭女王が魏の天子に使者を送った景初二年(二三九)の直前の時期です。長沙走馬楼呉簡は魏志倭人伝研究にとって第一次資料といえるでしょう。
 長沙走馬楼呉簡についての文献を探す中で、興味深い題名の論文に出会いました。論文名は「呉嘉禾六(二三七)年四月都市史唐玉白収送中外估具銭事」試釈。著者は新潟大学教授の關尾史郎氏、掲載
 誌は「東洋学報」第九五巻第一号(二〇一三年六月)。二〇一一年に中国で刊行された『長沙走馬楼三国呉簡 竹簡』[肆]に収録された「呉嘉禾六(二三七)年四月都市史唐玉白収送中外估具銭事」(以下、「本牘」と略記)という木簡についての研究です。この木簡の原文と關尾氏による試釈は次のようです。

都市史唐玉叩頭死罪白被曹勅條列起嘉禾六年正月一日訖三月卅日吏民所
私賣買生口者收責估銭言案文書輒部會郭客辭男子
唐調雷逆郡吏張橋各私買生口合三人直銭十九萬收中外估具銭一萬九千謹
列言盡力部客收責送調等銭傳送詣庫復言玉誠惶誠恐叩頭死罪死罪
都市史の唐玉が恐れながら申(白)し上げます。曹からの命令(勅)を受け、嘉禾六年正月一日から三月三〇日までの間、吏・民で私的に奴婢(生口)を売買した者から回収した估銭を列記して言上致します。文書を調べ、急ぎ部会?の郭客に真実を調査させました。今、客が申すには、丁男(男子)の唐調・雷逆、郡吏の張橋が各々私的に奴婢(生口)を買い、三人合わせてその価格は一九万銭でしたので、中外估具銭一万九千を徴収しました、と。謹んで全力を尽くしたことを言上致します。部下?の客が調等の銭を、回収して送ってきたので駅伝により送って庫に届けます。再度言上致します。玉が恐れながら、金曹に宛てて、四月七日に申(白)し上げます。(文中の?は原文のママ)

 この木簡には、都市史という官名が現れています。その都市史については、關尾氏は次のように説明しています。

 さて本牘は、都市史の唐玉から金曹(掾)に宛てられた上行文書だが、厳耕望氏によると、宛先となった金曹は漢代、列曹の一つで銭布・銅鉄や市租などを担当し、掾・史が配されていた[厳一九六一]。呉がこれを踏襲したことは疑いない。また都市史であるが、こちらも厳氏によれば、漢代(都)市掾や市吏などが諸史料に見えていて、市籍や物価のほか、市の治安維持も職掌としていた。呉の都市史や市吏は彼らの職掌を引き継いだものであろう。すなわち私奴婢の売買の掌握と売買に対する中外估銭の徴収は都市史の職務であり、徴収された中外估銭は金曹の管理下に置かれたのである。都市史と金曹との関係は、前者が後者の外局のような存在だったのではあるまいか。また本牘によれば、徴収された中外估銭自体は、都市史から直接臨湘侯国の庫に送られたようである。おそらく吏・民が納入したその他の銭・物とともに庫に収納されたのであろう。本牘は送り状であると同時に、金曹から中外估銭の徴収を指示する勅を受けた都市史が、その指示を忠実に果たし終えたことを、具体的なデータとともに金曹掾に対して報告した報告書だったことがあらためて感得されよう。(四三頁)

 周知のように、魏志倭人伝には都市という言葉が記録されています。

親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の大守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以って到る。

 關尾史郎氏の論文によって、都市牛利の都市は官名であるといえるでしょう。この官名は漢王朝あるいは三国呉王朝、魏王朝に由来するものではないでしょうか。倭人伝において、国々の市を監するとされた使大倭という官名が記述されています。都市との関係を考える必要があります。なお、この木簡には生口、傳送という魏志倭人伝に現れる言葉も使われています。

長沙走馬楼呉簡


 これは会報の公開です。史料批判は、『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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