2015年 4月15日

古田史学会報

127号

1,「張家山漢簡・居延新簡」
 と「駑牛一日行三百里」
   正木裕

2,短里と景初
誰がいつ短里制度を布いたのか  西村秀己

3,“たんがく”の“た”
   平田文男

4,邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか
   服部静尚

5,学問は実証よりも論証
  を重んじる
   古賀達也

6,「唐軍進駐」への素朴な疑問
   安随俊昌

7,『書紀』の「田身嶺・多武嶺」
   と大野城
   正木 裕

8,倭国(九州王朝)
   遺産一〇選(下)
   古賀達也

9,断念
   古田武彦


古田史学会報一覧

盗用された任那救援の戦い -- 敏達・崇峻・推古紀の真実(下) 正木裕 (会報126号)
「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」 正木裕(会報127号) ../kaiho127/kai12701.html


「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」

川西市 正木 裕

1、「張家山漢簡」と「二年律令」

 一九八三年十二月、中国の湖北省江陵県張家山(現在の湖北省荊州市荊州区郢城鎮太暉村)の二四七号漢墓から大量の漆器等と共に一二三六枚の竹簡が出土した。これは「張家山漢簡(ちょうかざんかんかん)・張家山漢墓竹簡」といわれ、漢代の政治、法律制度を知る上での重要な史料となっている。
 その竹簡中に後漢時代に頒布された律令が記載されており、「頒布年」の呂后二年(BC一八六)にちなみ「二年律令」と呼ばれている。(註1)

 

2、「二年律令」の逓送・傳送規定

 「二年律令」には二十八種の律令(註2)の条文が収録されているが、その中に、逓送・傳送等に関する律(行書律・徭律)があり、守るべき「ノルマ」として、「距離に応じた所要時間」が「日数と里数」で記されている。そして、この規定に違反すると罰則が与えられた。
 例えば、「張家山漢簡・行書律(逓送に関する律)(簡二七三)」では、
◆「郵人の書を行すは、一日一夜二百里とす。程に中ざること半日なれば、笞五十、半日を過ぎ一日盈(みつ)るに至るまでは、笞百。一日を過ぎれば罰金二両」などと定められている。(註3)
 そして、「徭律(徭役に関する律)(簡四一一)」には「發傳送、縣官車牛不足、令大夫以下有[此/言](貲・し、財貨)者、以貲共出車牛」とあるように「傳送(運搬)」には「車牛」が用いられ、また簡四一二には「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」と、守るべき速度(当行)が定められている。
     [此/言]JIS第4水準ユニコード8A3E

 漢代の「里」は、「一尺約二三〜二四cm、六尺一歩・三百歩一里で約四一〇〜四三〇m」という「長里」が採用されていたから、二百里では約八二〜八四cm、五十里では約二一〜二二cmとなる。
 従って、二年律令は、車駕に重荷を積んで牛に曳かせる場合は一日五十里(約二一〜二二km)、空車なら七十里(約三〇km)、徒歩なら八十里(約三四km)を行かなければならないという規定となる。(註4)

 

3、『三國志』龍*統伝の「駑牛一日行三百里」

 ところで、『三國志』龍*統伝(南宋紹興本・百衲本とも)には、龍*統が弟子の陸績(りくせき)と顧邵(こしょう)の能力を比較する箇所があり、裴松之の注が付されている。その中で西晋の張勃(ちょうぼつ)の著『呉録』が引用され、「駑牛一日行三百里」と書かれている。
◆統(*龍*統)曰く、「陸子(*陸績)、駑馬と謂ふ可くも逸足の力有り。顧子(顧邵)、駑牛と謂ふ可くも能く重きを負ひて遠きを致すなり」といふ。
*(大意)陸績は駑馬と謂っても逸足の力がある。顧邵は駑牛と謂っても重荷を負って遠くに運ぶことが出来る。(其々違いがあっても共に優れている意味)
(裴注)張勃の『呉・』に曰ふ、「或る者統に問ひて曰く、「所目の如く、陸子が勝らんか」と。統曰く、「駑馬は精(*強精)と雖も、一人を致すのみ。駑牛は一日三百里を行く。豈に一人の重に致せんや!」
*(大意)張勃は『呉録』で、次の様に言っている。「或る者が龍*統に、『陸子の方が優れているということか』と尋ねた。すると、龍*統は、「馬は俊敏だが一人しか運べない。しかし、牛は一日三百里を運べる。なんで一人の重さと比べられようか」と言った。(宋紹興本『三國志』蜀書七龍*統法正傳)
     龍*統の龍*[广/龍]は、广編に龍。JIS第3水準ユニコード9F90

 この箇所は、「中華書局本」では「駑牛一日行三十里」と改定されており、三百里だと約一二六〇kmもの距離になるから、一見三十里(約一二km)が正しいように見える。しかし古田武彦氏、古賀達也氏は「宋紹興本」が正しく、かつ、この「三百里」は一里七五〜七七mの「短里」だと指摘している。(註5)
 そして、先に述べた「二年律令」によれば、両氏の指摘が正しいことがわかるのだ。

 

4、「二年律令」が示す「駑牛一日行三百里は短里」

 龍*統伝を「二年律令」に照らして検討してみよう。「駑牛が重きを負い(重負)致す」とは、「徭律」に記す「車牛」による「重負」に該当するから、「当行」(傳送速度基準)は「重負日行五十里」が適用される。
 この「五十里」は、漢代の律令による数字だから、明らかに「長里(約二一〜二二km)」であり、短里では約六倍の「三百里」約二二・五〜二三・一kmと一致するのだ。
 つまり、「駑牛一日三百里」とは、長里で示された「二年律令(徭律)」の「重負日行五十里」の「短里換算」だったことになる。

 

5、「居延新簡」と『九章算術』

 そして「傳送重車、重負日行五十里、空車七十里、徒行八十里」という律の基準は、漢代に於いて広く適用されていたことが「居延新簡」や『九章算術』から知られる。
 一九三二年に中国の居延地方(内モンゴル自治区・甘粛省)で一万余点に及ぶ漢代の木簡「居延漢簡(きょえんかんかん)」が発見され、そこにはBC一〇二年〜AD九八年の西域地域の行政等に関する記録が残っていた。そして、一九七二年から一九七四年にかけて、更に一九四〇〇枚の漢簡「居延新簡」が出土し、これらの木簡は、貴重な歴史資料・文字資料として珍重されている。
 その「居延新簡」には「一日一夜百六十里」とある。当時の記録から、「傳送に関する一日一夜(昼夜)」は漢代では「十六時(*一時は現在の一時間半)」だったとされているから、「一時=十里」と換算していたことになる。(註6) そして「一日(昼)」は「一日一夜」の半分「八時(現在の十二時間)」だから、「一日八十里」となり、「二年律令」の「(傳送・日行)徒行八十里」と一致する。(註7)
 さらに、一九八三年に湖北省・荊州で発見された、BC一、二世紀頃に成立した算数書である『九章算術』にも、「粟の運搬に関し費用等を計算する問題」として「車載。二十五斛、重車日行五十里、空車日行七十里」(巻六─均輸)とあり、これも「二年律令」と一致する。『九章算術』は計算問題を扱うものとはいえ、「律」に則った出題となっている。
 このように「居延新簡」や『九章算術』からも、「駑牛一日三百里」は漢代の常識であった「二年律令」の傳送規定の「短里換算」であることがさらに裏づけられるのだ。

 

6、『魏志倭人伝』の里程換算法と「駑牛一日三百里」

 そして、これは『魏志倭人伝』の里程の検証にも資する。
 私は、これまで「邪馬壹国の所在と魏使の行程」ほかで、『魏志倭人伝』の里程記事は「短里」で記述され、かつ「陸行一日で三百里」と換算されていること、そして、これによれば原文を改定することなく博多湾岸邪馬壹国に至ることになると述べてきた。魏使の行程は、銅鏡百枚ほか貴重で膨大な下賜品を「傳送」するもので、車駕が用いられたのは確実だから、まさに「傳送重車、重負日行五十里」が当てはまり、短里換算で「一日三百里」となるのだ。(註8)
 『呉録』に「駑牛一日三百里」と記した張勃は、二六六年に没した張儼(ちょうげん)の子とされるから、陳寿(二三三〜二九七)と同じ魏(二二〇〜二六五)〜西晋時代(二六五〜三一六)の人物だ。(註9)
 従って『三国志』龍*統伝、裴松之の注に引く「駑牛一日三百里」は、張勃が陳寿と同じ「短里」を用いて『呉録』を記したこと、即ち「魏・西晋朝短里」を示す資料となる。そして、それは同時に陳寿の記述の正確性と博多湾岸邪馬壹国説を証明する資料でもあるのだ。
     龍*統の龍*[广/龍]は、广編に龍。JIS第3水準ユニコード9F90

(註1)「二年律令」の分析は早稲田大学簡帛研究会「張家山第二四七号漢墓竹簡訳注」(『長江流域文化研究所年報』水間大輔ほか)による。
 呂后(呂雉とも。〜前一八〇)は漢の高祖劉邦の皇后。同墓所からは、漢高祖五年から呂后二年に至る・譜が出土しており、竹簡の文中にある「呂宣王」は呂后の父呂文叔平の諡号で、呂后元年からのものだから、この律令の「二年」は呂后二年(前一八六)に該当する。

(註2)「賊律・盗律・具律・告律・捕律・亡律・収律・襍律・銭律・置吏律・均輸律・伝食律・田律・□市律・行書律・復律・賜律・戸律・效律・傅律・置後律・爵律・興律・徭律・金布律・秩律・史律・津関令」の二十八。

(註3)「張家山漢簡」の文面は「張家山漢簡《二年律令》読記」(武漢大学簡帛研究中心)による。

註4)「一日一夜」は「昼間+夜間」で、「一日」は「昼間」と考えると、「文書」を持って徒行する「郵人」の場合は、昼夜兼行で二百里行き、「荷」を持って徒行する「傳送」では「昼間」のみで「八十里」を行けとの極めて合理的な規定となる。なお、実際に要した日時数を「定行」といい、「当行」と「定行」の差が「留遅」として、程度に応じて罰則の対象となる。

(註5)古賀達也「短里と長里の史料批判 -- 『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』四十七号、二〇〇一年十二月)

(註6)「一日一夜」が「十六時」であることは、中園尚也『漢代の「程」による「行」の速度規定ー出土文字資料を中心に』(『アジアの歴史と文化』二〇〇七年三月。山口大学アジア歴史・文化研究会)の中で、宋會群・李振宏氏の業績として紹介されている。

(註7)「居延漢簡」に「界中八十里、書定行九時。留遅一時」、つまり本来八十里は八時で行かねばならないが、実際は一時遅れで九時になった」とある。
 また、「行書」は「徒歩で書簡を運ぶこと」を意味し、荷を運搬する「傳送」と異なり「一日一夜二百里」が基準であったことが分かる。従って「郵人」は昼夜兼行で八四kmを歩くことになる。これは現代の一時間で三・五kmと相当遅い歩速だから、実際には速足(時速五km程度)で十六時間程度歩き、八時間程度休憩と言った配分をしたのではないか。

(註8)なお、これらの木簡から、一時は十分で距離は十里、一分では一里という「行程時間を距離に換算する」という方法が採られていたことがわかる。『魏志倭人伝』では「一日の行進時間は三刻(六時間)で三百里進む。一刻(二時間)では百里進む」という換算が行われたと考えられる。(拙論『古代に真実を求めて』十七集ほか。)

(註9)唐の司馬貞(唐)による『史記』の注釈書『史記索隠(しきさくいん)』に「張勃、晋人、呉鴻臚嚴之子也。作呉・、裴氏注引之是也。」とある。


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