2013年 2月 8日

古田史学会報

114号

1,「高天原」の史料批判
  古田武彦

2,続・
 前期難波宮の学習
  古賀達也

3,吉野と曳之弩
  阿部周一

4,『正法輪蔵』の中の
   九州年号
  岡下英男

5,碾磑と水碓
史料の取扱と方法論
  大下隆司

6,新年のご挨拶
  水野孝夫

  編集後記


古田史学会報一覧

観世音寺・大宰府政庁 II 期の創建年代 古賀達也(会報110号)
前期難波宮の学習
 古賀達也(会報113号)
白雉改元の宮殿 -- 「賀正礼」の史料批判 古賀達也(会報114号)


続・前期難波宮の学習

京都市 古賀達也

小森説成立の「条件」

 前期難波宮の学習を続けていますが、その主要課題は七世紀の須恵器編年です。小森俊寛説によれば、七世紀の須恵器一様式の期間(寿命)を約二十〜三十年とされ、七世紀末・八世紀初頭の藤原宮出土須恵器から一様式(二十〜三十年)ずつ逆算され、前期難波宮の造営を天武朝とされました。それを根拠に大下隆司さんは、わたしの前期難波宮九州王朝副都説を批判されているのですが、この小森説の根拠を精査し、それが学問的に成立するかどうかが、わたしの学習テーマの一つなのです。
 小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』によれば、土師器食器類(須恵器ではない)の一様式の平均期間が約二十〜三十年なので、須恵器食器類も大きくは異ならないと主張されていますが、その具体的根拠には触れられていません(同書70頁)。ですから、小森説が正しいかどうか検証のしようがないのです。引き続き、小森さんの他の著作にもあたり、その根拠を探そうと思っていますが、思うに、小森説が成立するためには次の諸条件について全て根拠をあげて証明する必要があります。
(1)土師器一様式の平均寿命が約二十〜三十年であることを証明する。
(2)土師器と須恵器の一様式の寿命が同じであることを証明する。
(3)七世紀の須恵器一様式の寿命も同様であることを証明する。
(4)前期難波宮整地層から出土する須恵器杯BやGの寿命が、須恵器一様式の平均寿命と同じであることを証明する。

 以上をわかりやすく言えば、小森さんは土師器一様式の平均寿命とされる期間と、七世紀の須恵器杯BやGの寿命は同じと主張されているわけです。
 これらの証明が全てできて初めて小森説は成立するのですが、はたしてそれは可能でしょうか。今のわたしの目には「不可能」と映っていますが、これからの学習でより明確になるものと思います。純理論的に考えれば、ある「種」の中の特定物を実測もしないで、別の「種」のデータの平均値と「同一と見なす」などとは、わたしのような理系の人間にとっておよそ理解不能な「方法(暴論)」なのです。

 

歴博学芸員・李陽浩さんとの問答

 過日、大阪歴史博物館を訪問しました。三度目の訪問です。二階の「なにわ歴史塾」で前期難波宮のことなどを教えていただくのが目的です。今回の「相談員」は同館学芸員の李陽浩(リ・ヤンホ)さん。建築学・建築史が専門の考古学者で、前期難波宮についてとても詳しく、何を聞いてもただちに発掘調査報告書を提示して、懇切丁寧に説明していただきました。
 今回の質問も前回と同様で、須恵器編年において、一様式の継続期間が平均約二十?三十年と小森俊寛さんの著書にあるが、それは考古学者の間では「常識」なのか、もしそうであればその根拠は何かというものでした。李さんは小森さんの著書とこの説についてよくご存じで、次のような回答がなされました。
 須恵器一様式の期間が二十〜三十年とは一般的にいわれている見解ですが、厳密にいうと、新たな様式が出現する「周期」が約二五年程度ということで、その様式が何年続くかは個別に異なるということでした。すなわち、ある様式が発生し二五年ほどたつと新様式の土器が出現しますが、それにより前様式の土器が地上から消えてなくなるわけではないということでした。また、土器様式の寿命はそれほど短くはないともいわれました。
 この説明なら、なるほどよくわかります。その上で、李さんが何度も強調された言葉に「クロスチェック」が必要、というものがありました。土器の相対編年だけでは、土器発生の先後関係がわかるだけなので、絶対年を決定するさいには、土器様式相対編年以外の方法や原理に基づいた別の根拠による「クロスチェック」が必要ということです。
 具体的には、年輪年代測定や干支木簡、あるいは文献との整合性で「クロスチェック」しなければならないということでした。これは、古田先生が主張されている「シュリーマンの法則」と同じ考え方で、考古学出土事実と文字史料などによる伝承とが一致すれば、それは史実と見なしうる、あるいはより真実と考えられるという方法です。
 この「データのクロスチェック」という方法は自然科学では当然のようになされる基本作業なのです。たとえばわたしの専門の有機合成化学であれば、実験データだけではなく、その合成方法も記載しなければ学術論文として認められません。なぜなら、合成方法が明示されていれば、他の化学者により実験データが正しいかどうか「再現性試験」が可能だからです。そして、その再現試験結果データと論文のデータがクロスチェックされ、その論文が正しいかどうか判断されるわけです。
 この自然科学では当然とされる「クロスチェック」が、考古学編年においても必要であるというのが李さんの返答の核心でした。この点、小森さんの論文は土器様式の相対編年のみで、他の方法に基づいたデータとのクロスチェックがなされていないと批判されました。その上で、前期難波宮整地層の土器編年は水利施設出土木わくの年輪年代(六三四年)などによるクロスチェックを経ており、前期難波宮が七世紀中頃の造営であることは動かないとのことでした。
 ちなみに、前期難波宮水利施設出土木わくの年輪年代(六三四年)については、二〇〇〇年に出された「難波宮趾の研究・第十一」(大阪市文化財協会)で報告されていますが、その後(二〇〇五年)に出された小森さんの著書『京から出土する土器の編年的研究』には、どういうわけかこの水利施設出土の年輪年代の報告については触れられていません。

 

難波宮中心軸のずれ

 李さんは建築史や建築学が専門の考古学者ですので、前期難波宮の建築学的論文も発表されておられ、わたしが矢継ぎ早に繰り出す質問に的確に答えていただきました。中でもわたしが知らなかった難波宮の中心軸が前期と後期とでわずかに角度が振れているという指摘には驚きました。
 李さんの説明では、前期難波宮の中心軸と後期難波宮の中心軸とでは、約七分角度が振れているとのことです(『難波宮祉の研究 第十三』二〇〇五年)。極めて微妙なぶれで、よく測定できたものだと驚いたのですが、前期の上に後期を造営しているのに何故ずれているのですかと、わたしは質問しました。それに対する李さんの解説が見事でした。
 わたしは中心軸が振れているのを「問題」ととらえたのですが、李さんの見解は逆でした。むしろ、よくこれだけ正確に前期の中心軸と「一致」させて後期を再建できたことこそ驚きであるというものでした。そしてその理由として、朱鳥元年(六八六年)に焼失した後も、その焼け跡の痕跡(柱など)が残っていたから、後期難波宮が前期の中心軸にほとんど重ねて造営することができたのではないかとされたのです。
 更にその考古学的痕跡として、前期難波宮の柱の抜き取り穴に、後期難波宮の瓦片が落ち込んでいる例が発見されており、この事実は六八六年に焼失した前期難波宮の焼け残っていた柱が、後期難波宮造営開始時(神亀三年・七二六)まで残っていたことを意味します。
 こうした考古学的事実から、前期難波宮焼失跡地は後期難波宮建設時まで焼け跡のまま「保存」されていたと李さんは考えておられました。このことは前期難波宮(跡地)を近畿天皇家がどのように考えていたのか、取り扱っていたのかという問題を検討する上で参考になりそうです。
 さらに李さんは後期難波宮の規模や朝堂院部分の位置についても興味深い指摘をされました。前期に比べて後期の朝堂院の規模が小さいのですが、より詳しく見ると前期難波宮の朝堂院中庭部分に後期の大極殿と朝堂院がすっぽりと入る形で造営されています。この事実は前期の焼け跡が残っていたからこそ、建物跡が少ない中庭部分(平地)に後期の大極殿と朝堂院が意図的に造営されたと李さんは考えられたのです。卓見だと思いました。
 李さんは考古学的事実に基づいて仮説や推論を展開される反面、考古学では断定できない部分については判断できないと返答されるので、聞いていても大変波長があいました。

 

難波宮の礎石の行方

 昨年十二月の関西例会で、わたしが前期難波宮について発表したとき、今後の検討課題として何故難波宮が上町台地最北端で最高地点でもある大阪城のある場所に造営されなかったのかという疑問をあげました。そして、難波宮よりやや高台にあたる現大阪城の場所には別の建築物(逃げ城的な要塞など)があったのではないかというアイデアを示しました。
 このとき西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)より、大阪城の地は石山本願寺があったところで、もともと「石」がたくさんあったため「石山」という地名がつけられたという情報が寄せられました。面白いご意見でしたので、このことを李陽浩さんに尋ねました。
 「石山」地名の由来については山根徳太郎さんの説だそうで、礎石などが遺っていたのではないかという説とのこと。そのことに関して、豊臣秀吉時代の大阪城石垣が出土していることを教えていただきました。発掘調査報告書(『大阪城跡4』大阪市文化財協会、二〇〇二年)を見せていただいたのですが、その石垣の中に建築物の礎石が転用されていることが写真付きで報告されていました。李さんの説明では、花崗岩の礎石であり、後期難波宮の礎石の可能性があるとのことでした。その根拠として、七世紀までの礎石は凝灰岩が使用されていることが多く、八世紀からは花崗岩が多く使われていることをあげられました。
 難波宮の時代、その北側の大阪城がある場所には何があったと考えられますかと、李さんに質問したところ、おそらく神社など神聖な場所であったと考えているとのことでした。王朝(権力者)にとっても宮殿を造営することさえはばかられる場所として、神聖な「神社(神域)」説はなるほどと思いました。山根徳太郎さんの著作を読んでみる必要がありそうです。
 前期難波宮が焼失後、その上に礎石造りの後期難波宮が造営され、その礎石が石山本願寺や大阪城に再利用され、その上に徳川家康の大阪城が造られたということになるのでしょうが、学術調査により明らかになりつつある歴史の変遷に不思議なものを感じます。

 

拡大する難波京

 西井健一郎さん(古田史学の会・会員)から、また貴重な情報が届きました。十二月二十日付けの新聞切り抜きで、「難波京、もっと大きかった?」「南端から三十メートル、5棟の大規模建物群」という見出しで、四天王寺の南で、JR天王寺駅の北側約二五〇メートルの地点から発掘された「北河堀町所在遺跡」の記事です。その後さらに西井さんから「現地説明会資料」も送っていただき、遺跡の状況をより詳しく知ることができました。感謝に堪えません。
 李陽浩さんからうかがった説明でも、大規模な建物群であり、驚いているとのことでした。近年の度重なる発掘成果により難波宮の規模が拡大するだけでなく、難波京の範囲も拡大しています。これからも難波宮・難波京の学習を続けたいと思います。


 これは会報の公開です。

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