2012年10月13日

古田史学会報

112号

1、盗まれた九州王朝の女王たち
 神功皇后一人にまとめられた
卑弥呼・壱予・玉垂命
 正木裕

2、太宰府「戸籍」木簡の考察
 付・飛鳥出土木簡の考察
 古賀達也

3、斉明天皇と紫宸殿
 (明理川)
  今井 久

4、「女王國」について
野田利郎氏の回答に応えて
 石田敬一

 

古田史学会報一覧

銀装方頭太刀について (会報104号) 今井久

越智国にあった「紫宸殿」地名の考察 合田洋一(会報100号)../kaiho100/kai10007.html

続・越智国にあった「紫宸殿」地名の考察 合田洋一(会報111号)

斉明天皇と紫宸殿(明理川) 白村江戦大敗と、斉明天皇越智国滞在の真実 今井久(会報112号)../kaiho112/kai11203.html

斉明天皇と紫宸殿(明理川)

白村江戦大敗と、斉明天皇越智国滞在の真実

西条市 今井 久

 古代「越智国」の領域、朝倉をはじめ、文献、伝承には斉明天皇の各地での行宮跡などの行跡は見えるが何故か明理川地区の遺跡「紫宸殿」の姿は見えない。
 斉明天皇と、この「紫宸殿」との繋がりはないのか、亦、斉明天皇の朝倉・越智国への來国は一体、何であったのか、正史類などとの繋がりも考慮しながら郷土の文献・伝承を基に(危ふい面もあるが)して追及してみたのが本稿の目的で、「斉明天皇は白村江敗戦(六六三年)により越智国に難を避け、」その後文献に見える三年余の間、最低六六六年九月半ば(白鳳八年の文献伝承もある)迄は生存されて「「紫宸殿」を本拠として各地に行宮を設け領内を巡られ、この地に崩御された」その一試考として記してみたい。
 なお、「白村江敗戦後 朝倉に難をのがれた」は「私見」として平松健氏があることを報告しておきます。
 「紫宸殿」地名は西条市の文化財に指定されているが、実体は調査・検証されていない、「地名遺跡」ともいう現状を前提としている。

一、「日本書記」の斉明天皇

 斉明七年(六六一)正月条 六日御船西に征きて、始めて海路に就く。御船、大伯海に至る。時に大田姫皇女、女を生む。よりて、この女を大伯皇女という。十四日、御船、伊予の熟田津の石湯行宮に泊つ。
*三月条 二十五日、御船還りて娜大津に至る。磐瀬行宮に居ます。天皇これを改めて、名づけて長津と曰う。
*五月条」 九日、天皇、朝倉橘広庭宮に還りています。この時に、朝倉社の木を?り除いて、この宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。
*七月条 二十四日に、天皇、(九州)朝倉宮に崩りましぬ。  ()内は筆者。

 以上「書紀の記事」から、斉明天皇が、朝鮮出兵指揮のため筑紫の娜大津に征くその途中、熟田津に立寄った。
 以上正史の記すところ。

*白村江戦への出兵は六六三年(通説に依る)三月で二万七千人。八月、白村江の大敗戦になるが、斉明天皇は六六一年七月、既に崩御している。

二、斉明天皇は白村江敗戦により越智国朝倉へ退避してきた

*斉明天皇は各地に行宮を設けているが、それは朝倉に三年間余り滞在の間(足かけ四年)の行跡でのことであるがこの三年余、「紫宸殿」の姿は見えない。

*紫宸殿は、天子の居住宮殿であり、原則として同時に二か所は存在しない。現在の京都御所と、九州太宰府の奥に「紫宸殿」地名のある所には天子が居た、隋書「イ妥国伝」に「日出処の天子」云々の国書を呈した、姓は阿毎、字は多利思北弧の名が見える。越智国の紫宸殿にも天子が居在していた(副都制も含む)と考える。

 

三、斉明天皇の朝倉・越智国に於ける行跡

 以下、無量寺由来、末寺の段、他、現地の文献などに記す行動を、順を追って検討していく。
 (1) 八月十九日桜井郷の長沢に上陸、車駕を捨て峠を越え二十日に朝倉の白崎の行宮に居し、亦行司原に木の丸殿を建て行
幸云々(無量寺由来)。「大三島に三か月逗留」とも記す。

 (2) 「天皇天下り玉フ御鎮座之所ヲ皇ノ原ト言フ年月タチテ後太ノ原トモ言フ、此所ニ斉明ト言フ所有リ是天皇ノ地名也」、云々。(才明・さいみょうとも書く)。

 (3) 朝倉浅地に車無寺(無量寺)を建て(本尊・聖徳太子一刀三礼ノ作也)、「車無寺エ移ル迄ハ水之上ト言フ所ニ三年余リ居シ玉フ」云々。

 (4) 「長沢天皇ハ八月十九日神楽有同月二十日ハ朝倉天皇ノ祭礼ナリ中略、後故有而牛頭天皇ト号ス云々、

 (5) 斉明帝八月二十七日ニ行司原エ行幸有リ九月十五日天狭貫ノ廟エ行幸有而応神天皇ノ号ヲ許シヲクリ玉フ。

 (6) 其の翌日は大将軍伊豫の大領小千守興 天皇温泉エ行幸に付供奉す。自是天皇土佐の朝倉へ行幸有終土州朝倉に而崩御す。其後伊与の国越智野間の鬼城に納る。鬼城と言者行司原之事なり。(無量寺由来)

 (7) 水の上と申所に冠岩と言有り斉明帝冠を埋め其脇に御太刀鎧馬具等埋たる所掘瘉ん事を思いて数簀の石を奇(寄)せて岩塚と号す云々(無量寺由来)

 (8) 「両足山開祖無量上人之時斉明天皇行幸在り川之内国山ノ湯(現本谷温泉)、)ニ浴シ玉フ、夜ルハ旦ノ上村柳ノ本ニ御遊宿也従是此所ヲ柳ケ内ト言エリ身ガ内トモ言フハ天皇身ガ内トノタマイタル 中略 天皇ノ御跡ニ天皇ノ宮ヲ造立シテ牛頭天皇ト崇メ奉ル是柳ケ内天皇トモ申奉リ」云々。(行宮跡・須賀神社在り)(大明寺末山由来事)

 (9) 空海上人、真如上人と共に道安寺に逗留霊水三所あるを見出し玉いて、是迄斉明天皇号し給う見居村を三井(臼井・曽良田井・岸ノ井)村に改む云々。(朝倉村誌岡文書)
 *娜の大津・磐瀬の宮にも滞在(村山神社社伝)、と記している。

 

四、以上諸文献にみえる史料の考察

イ斉明帝、一、の事跡は白村江征戦とは関係なく別の「斉明天皇紀国牟婁温湯行幸(六五八年)記事である。「有馬皇子謀反と斉明牟婁温湯行幸の真実」(正木裕氏)、に依れば、牟婁温湯の帰途、熟田津に立ち寄られ石湯八幡宮に御宿泊、休養された。

ロ『高外樹城家伝之事』に「天皇當国熟田津之石湯洲之橘新殿神宮ニ行宮シ玉也」云々は、文献初頭に「国王(近畿王朝)本唐ニ親ム依テ自本唐ニ加勢而新羅国ニ百済国ヲ攻亡也」とあり白村江敗戦後の記事と思える。

ハ日本書記では斉明天皇七年(六六一)九州の朝倉橘広庭宮「七月」に崩ずに対して、郷土の文献伝承は異なる。

●朝倉村誌・文献伝承には、八月より朝倉ヘ行幸、大三島に「五月より八月まで三か月逗留」とも記してあるが何処から来られたとも、また、年次も記してなく年次が不明での、三年余の滞在(足かけ四年)である。

*斉明天皇の、一月~三月の件は前記したので省くが、亦「日本書紀」は六六一年「七月崩御」とあるが、現地朝倉の文献伝承には、八月・九月と巡狩行動を記している。亦三年余滞在と記しているのとも合わない。「白村江征戦行」とは別であると思える。
 仮に、六六一年より三年生存していれば崩御は六六三年となり、白村江敗戦の年となりやはりおかしい。
*年次を記していないこの朝倉の記事・伝承は、これを白村江敗戦の年、六六三年とすれば、大三島滞在の五月~八月は、白村江戦の戦況を考慮し、「身の安泰を期して太宰府より越智国の大三島へ」退避、(戦勝祈願したか)。八月十七日は白村江戦の大敗である、八月十九日、越智国の本拠、朝倉へ退避してきたと思われる。

二『斉明天皇は、朝鮮半島出兵の軍事基地たる『佐賀なる吉野』へ三十一回の視察行幸は、斉明元年(六五五)から、白鳳三年(六六三・天智二年)年の四月十四日の「閲兵」が最後で『吉野行幸は終わっている』。(『日本書記』「持統紀」の真実」)、正木裕氏。

 この論証に依拠すれば、続いて五月より八月まで大三島へ来て逗留(斉明天皇海獣葡萄鏡を奉納している・現在国宝)つまり、六六三年五月より八月の白村江の敗戦迄であり、斉明天皇の八月十九日からの越智国朝倉への行幸は、白村江敗戦後の退避行であって、斉明天皇の九州「吉野行幸」のその後の行動に繋がる

*この、単に八月十九日より九月十五日と記している一連の日付の記事の実体は、朝倉での三年間余の滞在期間、六六三年八月十九日より六六六年九月十五日の行動記事で、其の末の「土佐行幸」の崩御記事であり、それ迄は、文献に見る限り最低年間でも生存されている。 (天智天皇即位は称制七年・六六七年)。

*村山神社由来伝承には、「斉明天皇ハ崩御ノ時天智天皇御親祭アリ天智天皇ハ白鳳八年三月奉祭ス云々」と崩御の御親祭を白鳳八年(六六八)と記してある。

 歴史学界は、天智天皇七年間の長期の「称制」を種々論じているが、郷土の文献伝承にもこの一端が窺われる。

 

五、「牛頭天皇」と「天皇」(天王)地名の多数の各地存在は
      「紫宸殿」よりの斉明帝越智国巡回の残影の一部をなす

 「故有而牛頭天皇」と称した斉明天皇である、前記の斉明天皇來国巡行跡を、長沢天皇朝倉天皇と記していることから類推すれば、中河天皇・垂水天皇(喜多留見神社)も、斉明天皇の行幸地跡に付けられた名称であろうか。各地には、中河天皇(福成寺)柳ケ内天皇(庄内旦ノ上)垂水天皇(喜多留見神社)(丹原町来見)名称が遺存している。柳ケ内天皇は国山の湯に御浴の事跡名称である。
 亦、天皇塚(旧東予市北条)、古田天皇(丹原町古田)。天皇(田野村長野)、天皇(西条市小川)等、地名と旧朝倉より西条市までの地帯に二十四余りの牛頭天皇社と地名が残存している。後で記すが白鳳年号の所在と重なって濃密な遺存である。

*また、石延の式内社、布都神社の「大日本総鎮守(鳥居)」の由来は失われて解らないが、「大日本総鎮守」大山祇神社の大三島に三ケ月居た斉明天皇である、この布都神社も、斉明天皇が、越智国巡行の際、海の「大日本総鎮守」に鑑み、九州王朝倭国の安泰を願い、陸の「大日本総鎮守」の号を奉ったのではなかろうか。この名称を掲げ得るのは「国王」より他にはありえないと思う。海の「大日本総鎮守」・陸の大日本総鎮守」社が並び鎮座する地帯は、この古代越智国より他には寡聞にして知らない。

*前記した「斉明天皇が見居村と号した」とする現、西条市楠の「臼ノ井・岸ノ井・沖の井」も斉明天皇が見て廻られた行跡であろう、永納山城、紫宸殿にも近い。
 また文献には見えず推測であるが、「法王大王」の「神井」も見、石湯行宮に宿し、湯の岡(石湯岡・筆者)の傍らに建つ「碑文」にも訪れ読まれた。

 

六、白雉年号

 郷土の九州年号は三十件あまり遺存しているが、その内、白雉が七件、白鳳が十件と、この二年号で半ばを超える。その意味するところは何か。
 白雉のそれは、実報寺縁起に見る「白雉二年一丈六尺の本尊と千佛の繍仏造詣」にはじまる白雉年間の五寺院建立と福岡八幡宮の翁(能)面に記された名を記さない「白雉二年九月奉納」に繋がる一連の事跡は九州王朝の前期難波の宮完成を祝しての越智国の一大行事であった。特に福岡八幡宮の翁(能)面の、名を記さず奉納した人物は、名を記さすとも分かる人、同時に二人と居ない国王の可能性が高い。まして奉納期日の「九月吉日」は前期難波宮の完成と同じ「九月」である。郷土の寺社縁起に見る白雉年号の数多くの遺存は前期難波宮の完成祝賀の一大紀念行事の残影であった。

 

七、白鳳年号多数の遺存

 天智四年、唐国、朝散太夫郭務?、凡そ二五四人、九月二十日筑紫に着く。以後六年間に九回、唐国の軍の進駐である。大宰府には都督府が敷かれる。(天子を許容しない)太宰府への都督府設置である。
 この白鳳年号時代は斉明帝治世の年号で、緊迫した唐への一大防禦工事の施行、白村江敗戦、郭務?率いる唐軍進駐、薩夜麻の帰国、天智天皇の即位と崩御、壬申の乱、天武天皇の覇権確立・即位と波乱激動に満ちた九州王朝滅亡の前夜であった。
 越智国のこの年号多数の遺存は、斉明帝紫宸殿に居し三年余滞在、終に崩御した重大な歴史の残影である。

 

八、斉明天皇の崩御

*「天皇土佐の国へ御行 南光坊祐善大和尚土佐朝倉へ供奉す 斉明帝土佐国朝倉に崩御 祐善大和尚卒を預かり 天皇の宮を越智野間の鬼城におさめて法祭をつとむ 朝倉行司が原も鬼城という元来帰城也 是天皇と行幸の古跡故皆人恐れ鬼城という」。(岡文書)。

*「九月十五日ニ天佐貫廟エ行幸有 中略 其翌日ハ大将軍伊予ノ大領小千守興温泉エ行幸ニ付供奉ス天皇是より土佐へ」と、小千守興の名は斉明天皇土佐行幸の最後の期日に見え、斉明天皇が朝倉に行幸した当初の記事には小千守興の名は見えない、これは、斉明天皇「六六三年」より三年余滞在の末の土佐行幸直前、「六六六年」九月十五日の事で「斉明天皇土佐崩御」前の日付けであると思われる。(天智天皇称制の最終年)。

*「水ノ上ト申所ニ冠岩ト言有リ斉明帝冠ヲ埋メ其脇ニ御太刀鎧馬具等埋タル所掘瘉ン事ヲ思イテ数簀ノ石ヲ奇(寄)テ岩塚ト号ス」云々(伝 冠岩と岩塚地名遺存)。これは白村江敗戦後の処置行動記事ではないかと考えざるを得ない

 また、最終に「天智天皇の御宇人主守興大唐越ノ国御出向有云々」と、天智天皇との名が見え、続いて「人皇三十九代天智(地)天皇斉明帝ノ御跡ヲ采ク御尋有而無量上人御対面有ト云々」。と、斉明天皇崩御の消息を尋ねているのである。(天智天皇は朝倉宮崎の八幡神社の摂社の「祇園牛頭天皇社に(中大兄)」として祀られている)。

 

九、郷土の天智天の事跡伝承

 前記した朝倉伝承と、西条市早川に天智天皇を祀った御陵神社、同市古川の御所神社、土居町村山神社の天智天皇伝承、小松町南川に天智天皇が手を洗った伝承の「常磐井」と御手洗の小字地名があり、旧東予市上市の甲賀八幡神社にも「天智天皇六年二月朔日官許を得て新に宮殿を建て云々」との、伝承がある。

イ佐礼山仙遊寺は、開祖者伊予之大将軍小千守興公之御館也、此館に天智天皇御年越しなされ此の山に遊ぶ儀に因って山遊の内裏と号す、中略、当山の峯に天智天皇之陵立也、白鳳十三年二月二十二日守興入徳逝去神号を河野明神と崇む云々。(朝倉村誌) 帰国したかと思われる小千守興の晩年と、天智天皇の関係が見える。
 郷土の天智天皇に関する文献・伝承の歴史的検証は、天智天皇本人か、別人も含まれているのか無知な筆者には、その虚実も不明ですが記して置く次第です。

ロ後世、豊臣秀吉は当時の伊予を『「九州・四国のかなめ所」と位置づけ、伊予が四国のみならず九州を監視するのに地勢的にすぐれている』と判断した。天智天皇も伊予越智国の九州王朝の地に対するこのような政治的判断があったのか。
 天智天皇の実態については稿を改め考察してみたい、元来、天皇(皇太子)になれる立場ではなかった。

ハ「朝倉の橘の広庭」は伊予の地である
 「橘の花の郷」と讃えた「橘大王」の「橘」名称について、阿部誠一氏の「熟田津と九州王朝」の一部を紹介します、
 『通説は朝倉宮の所在地を、福岡県朝倉郡朝倉町にしているが、昭和五十一年の発掘調査、報告は、宮跡とむすびつく遺構が全然痕跡さえとどめない、としている。
 又名称の「橘」にも問題がある。愛媛大学教授であった村上節太郎氏が「延喜式」における諸国からの貢進果実の記事のうちから、柑橘類の献上を抜粋して作図しているが、これには柑橘類は、西は讃岐までで、筑紫からは皆無である。朝倉宮の象徴、橘が薫るところ、これは筑紫ではないといえる』と。

*斉明天皇・毎の地、「朝倉橘広庭」は伊予朝倉の地である。現在朝倉上・太の原には「伝斉明天皇陵」の墓地が地元の人達によって祀られている。
 平成十六年年八月、筆者は朝倉ふるさと美術古墳館にての七~八月の「斉明展」
をつぶさに見て、「斉明天皇朝倉に崩御」や、その地名が存在し「伝斉明天皇陵」があったことに、郷土の古代歴史に目を開かされ感動した。

まとめ

*『斉明天皇は九州王朝の天子である』(古田武彦氏)、であれば、皇極天皇と斉明天皇は別人である。天智天皇は皇極天皇の子であり「中大兄」と称し、越智国に見る天智天皇は、斉明天皇の皇太子としてではなく、白村江戦に参加しなかった親唐派「大和政権」創始者として、その後の政治情勢を探る為に越智国に来行し、斉明天皇の崩御を確認して、「天皇」として即位したのではないか。文献伝承の末尾になって天智天皇の名が見え「斉明帝の御跡を尋ね」ている。

*天武天皇(大海皇子)は「皇弟・太皇弟」で、天智天皇の「中大兄」と称号が異質である。(豊受神社に「天武天皇伊予に下り津根長津宮に御即位云々 中略 時に白鳳元年(天武白鳳か)云々」の文献伝承がある)。
*斉明帝は「六六三年より六六六年」迄、三年余に亘る長い期間は、法王多利思北弧「夷與村逍遥」以来度々の複数の九州王朝の天子・国王が越智国の行事に來国の時、御宿泊されたであろう由緒ある明理川の宮処「紫宸殿」に居し、此処を本拠として越智国内を去来したとすれば各地への五ケ所と、多くの行宮があるのも説明がつく。

*越智国の領域と思われる寺社に白鳳年号が多く遺存しているのも斉明帝の紫宸殿を本拠とした各地への三年に余る行宮を巡る長期の行動が(当然寺社への参詣もあった)各地に「名誉」なこととして記憶され、誇りとして白鳳年号の遺存となったと考える。

*唐の進駐軍によって太宰府は都督府とされた、斉明天皇は九州王朝最後の天子として此の宮を「紫宸殿」と称し、崩御されたと推測する。

*ここには、抹殺すべき前王朝・九州王朝存在の核心をなすこの「紫宸殿」宮殿名こそ、新王朝近畿天皇国家が、伊予国風土記作成時の最も隠匿忌避すべき課題であって、厳重な禁句、禁言としてこの地域の統治を行った「書かれざる紙背」にこそ真実が隠されていると推察する。

 「伊予国風土記」逸文の「温湯碑文」も後世「湯の岡」(石湯岡・筆者)と地所不明にして、碑文の「恵総」を「恵慈」に「聖徳太子」の師に書き変え、法王大王を「聖徳太子」に換骨奪胎し、法王大王「多利思北弧隠滅」を謀っている。当地には、「聖徳太子」の伝承が、この「温湯碑」文を含め、その逝去後の年数に亙って寺社などに多数遺存している。
 九州王朝と、「越智国」を失い、あまつさえ「無き」ものとされた民衆は、恐れてその伝承は禁言・禁句となって失われ、千有余年の歳月に耐え、密かに地名としてかろうじて残った。

*イ妥国九州王朝は白村江戦には負けたが「降伏」はしていない。「降伏」したと言えば「大宝元年」日本国となった時であろう。(丸山晋司氏)。

 史料に乏しく、民間の伝承、文献に依拠した結果を、「盲蛇に怖じず」一試考として提示して皆様の批判を仰ぎその真相の解明を期待すると共に、不勉強でして、先学の方々の先行論考を冒していることが有ればお許し願って筆を置きます。
       二○一二年三月十日。


 これは会報の公開です。史料批判は『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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