2011年 4月 5日

古田史学会報

103号

1,新年賀詞交歓会
「古田武彦講演」(要約)
 文責 大下隆司

2,「筑紫なる飛鳥宮」を探る
 正木 裕

3,「逸周書」による
都市洛邑の規模
 古谷弘美

4,魏志倭人伝の読みに
関する「古賀反論」について

 内倉武久

5,入鹿殺しの乙巳の変
は動かせない

 斉藤里喜代

6,前期難波宮の考古学(2)
ここに九州王朝の副都ありき
 古賀達也

7,大震災のお見舞い
 水野孝夫

 編集後記

 

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乙巳の変は動かせる -- 斎藤里喜代さんにお応えする 西村秀己(会報104号)


入鹿殺しの乙巳の変は動かせない

小金井市 斎藤里喜代

 古田史学会報一〇〇号の「禅譲・放伐論争シンポジウム・要旨」を興味深く読ませていただきました。日本書紀の大化が、五〇年遅れた六九五年になることは、何の問題もおきません。
 (1)、しかし入鹿殺しの乙巳の変は、日本書紀の編者は大化としないで皇極四年としています。
 同じ年でも、大化の詔は全部大化としています。入鹿殺しの乙巳の変と、大化の詔とは何の関係もないのです。
 従来、通説の方々が大化の改新を明治維新に擬えたことで、二つは関係しているように、解釈されてきました。

 (2)、しかし、九州年号大化が六九五年〜七〇三年であることは間違いなく、日本書紀の大化が孝徳紀の大化の方が架空であること間違いありません。
 それは新唐書日本伝も証明しています。「孝徳が即位して改元した、白雉といふ」とあります。日本書紀の大化の入る余地はありません。

 (3)、そして皇極四年の入鹿殺し乙巳の変の「乙巳」は続日本紀の次の記事によって、乙巳を動かせられません。
天平宝字元年十二月九日の(大・上・中・下の功田)「贈大錦上左伯連古麻呂が乙巳の年の功田、四十町六段、他に駈け率いられて、力を効し姦を誅す。功推さるる所有れども、大と称ふことは能はず。令に依るに上功なり。三世に伝ふべし」

 (4)、皇極四年の乙巳の変(六四五年)には倉山田麻呂臣が「三韓の調」の表文を読み唱ぐところがあり、重要なキーワードです。

 これを五十年遅らせた六九五年にしたら、新羅以外は滅亡してありません。百済は六六三年に滅亡し、高句麗も六六八年に滅亡したことになっています。やはり乙巳の変は、大化の詔と一緒に五〇年遅らすことは無理のような気がします。
 「十二門」も重要なキーワードかもしれませんが、「三韓の調」も重要なキーワードです。
 この(1)・(2)・(3)・(4)の資料事実をクリアしないと入鹿殺しの乙巳の変は六九五年には持っていけないのではありませんか。僭越ながら疑問点を書き連ねましたので、よろしくご検討ください。
        (二〇一〇年十二月十七日記)


 これは会報の公開です。史料批判は、『新・古代学』(新泉社)・『古代に真実を求めて』(明石書店)が適当です。

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