これらの歌は大和で

天皇家に奉られた歌

ではない

案内

1、英文解説

2、 二百三十五歌
(なし 古田武彦講演)

3、 二百三十五歌
 二百四十一歌
(なし 古田武彦講演)

4、皇(王)は神にしませば
み吉野の三船の山に立つ雲の
正木裕 解説

DVD「701 
人麻呂の歌に隠された九州王朝
の解説

 

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古田武彦 YouTube講演大王は神にし座せば雨雲の雷の上に廬せるかも

英文は、九州王朝の栄光と滅亡を、ギリシャ(アテネ)の栄光と滅亡(ローマの侵略とそれに先立つスパルタとの戦い)に対比しています。
事実関係については、研究の進展に伴い一新します。


英文解説 第二百三十五歌と第二百三十六歌
       二百四十一歌 そして二百五歌:

これらの歌は大和で天皇家に奉(たてまつ)られた歌ではない

 二百三十五番と二百三十六番の歌は『万葉集』の巻三の先頭にある歌です。大和飛鳥で近畿天皇家のために作られたといわれています。しかしながら、その定説の解釈には疑問があります。同じ疑問が二百五番、二百四十一番にもあります。

図一なし 第二百三十五歌と第二百三十六歌、
図二なし 第二百四十一歌
図三なし 第二百五歌
『万葉集』
雜歌
天皇、雷岳(いかづちのおか)に御遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
    おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも
(二百三十五番)大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
        皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>

右、在る本に云く。忍壁皇子に献(たてまつ)るといへり。その歌に曰はく、
   おほきみは かみにしませば くもがくる,いかづちやまに みやしきいます
(二百三十六番)大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
         王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座
---------------------------------------------------
二百五番
おほきみは かみにしませば あまくもの いほへがしたに かくりたまひぬ
大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
 王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
---------------------------------------------------
二百四十一番
おほきみは かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみをなすかも
大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
 皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞

1. 一番目は、二百三十五番の歌は、万葉集の全ての写本では「大王」とは書かれていない。事実、全ての古写本では「皇(スメロギ)」と書かれています。皇(スメロギ)という言葉の意味は、生きていた人が彼の死後、高貴な存在としてうやまって祭られたことを意味します。二百三十五番の歌そのものは、雷岳に歴代の神になった方々が安置されているという考えに基づいています。廬(いおり)そのものは、隠者が住んでいるところの家の意味です。この歌は神の加護に敬意を込めて死者の霊を慰めることを歌ったものです。
 大和の雷丘(いかずちのおか)は少しも注意を引かないか、全く注目されない丘である。事実として雷丘は雲がかかることのない非常に小さい丘である。特に、彼女持統が丘の上に亭(小屋)を作って何をするのですか。そのような記録も伝承もない。(ここの君主が持統女帝とするのも一説にすぎない。)
 明らかに柿本人麻呂が生きている個人である天皇持統を誉め称えるために大和で作ったと考える理由はありません。

 二番目も同様に、二百三十六番目の歌も大王とは書かれていない。全ての古写本は「王」と書かれています。この王という言葉の意味は、ある領域を支配する者のことです。王は皇子ではない。二百三十五番の歌そのものは、王が亡くなって、雷山に葬られたことを歌ったものです。そして心の奥底では、もし生きていれば豪華な宮殿に居られただろうと追憶したものです

図四大和飛鳥案内図と雷(いかずち)の丘
図五埴安池

(別記 もし必要なら甘樫の丘より木々の間に、かすかに雷丘を観ることが出来ます。これは2番目の歌に雷丘を写しています。英語版略 甘樫の丘は海抜高度148メートルです。それより雷丘は低いです。)

 三番目も同じく、二百五番目の歌も「大王」とは書かれていない。全ての古写本は「王」と書かれています。二百三十六番目の歌とまったく同様です。

 四番目に全く同様に二百四十一番目の歌も「大王」とは書かれていない。事実、全ての古写本は「皇(スメロギ)」と書かれています。加えて二百四十一番目の歌の「海成」の基本的な意味は、海を作ったという表現です。しかし大和には海はありません。もし彼が香久山の近くの埴安池を作ったのなら、海を作ったとは言えない。彼は別の表現をするはずです。
 ですからこれらの歌の解釈は事実と異なる。柿本人麻呂が天皇家のために作ったと考える理由はない。

2. 柿本人麻呂がこれらの歌を大和で作ったのではないなら、新しい視点で観る必要があります。皆さんはどこで作ったと考えますか。もし雷山が大和の雷丘(いかずちのおか)から九州・筑紫の雷山(らいさん)に移動すれば、これらの歌はよく理解できます。
 それは雷山には先祖の霊を祭る御廟として天ノ宮・雲ノ宮が祭られている。雷山の上の方には天ノ宮として石宝殿があり、中腹には雷神社があります。石宝殿 はニニギノ命・天神七社・地神五社で構成されています。特に石宝殿の中央には、天孫降臨という大和朝廷と九州王朝の両方の創始者とされているニニギノ命が祭られています。加えて雷山を含む筑紫には十六天神社がとりまいています。雷山であれば、九百五十五メートルと高く、いつも雲におおわれています。全ての光景は雷山であれば非常に似つかわしい。
 このような比較を通してこれらの歌の「雷岳」が、九州・筑紫の雷山(らいさん)であることが明らかとなった。事実平安時代の『雷山古図』によれば数百のお寺と神社が存在した。雷山は九州王朝の歴代の御廟です。

図六 筑紫地図と糸島博多湾景観

図七 雷山の光景

図八 石宝殿

図九雷山頂上の巨石1,2,3

図十 雷山の風穴 千如寺
図十一 雷社

3. 上で述べたこれらの歌の理解は、歌聖としての柿本人麻呂の評価の問題です。
 雷山が大和から筑紫に移動すれば、よく考えられた優れた歌となり、とりわけ二百三十五歌は秀逸な歌となります。 特に、この歌が作られたのは白村江の戦いの後、唐の占領軍が筑紫に進駐しているときに作られた歌であるとの考えは、最も重要な発見です。柿本人麻呂が筑紫に来ていたことは三百四番の歌から明らかです。
 もし二百三十五番の再解釈を行えば、九州王朝の皇(スメロギ)は見守っている神として崇拝されることなしに、雷山の頂上にまったく孤立して存在し、そのままにされているという事実です。この歌の根底には、庵(いおり)すべき人々は、もはや庵(いおり)すら出来ないことが基本にあります。
 加えて二百四十一番の歌の解釈は誤解に基づいている。福永晋三氏は「海を成す」では意味をなさないとして、発音に変換した「海鳴り=海成」であると提唱された。雷山で聞くことができる海鳴りは、しばしば嵐のまえぶれを私たちに知らせる。 また雷山では風あな伝説が存在する。
 人麻呂は雷山で海鳴りを聞いた。海鳴りそのものは、砕ける波の音が海洋で雲に反射して起こる共鳴です。しかし海鳴りが未来の予言を表しているなら、九州王朝の初代君主であるニニギ命をはじめとする彼らの祖先の予言のメッセージとなる。それは九州王朝の崩壊の予言である。
 この歌では神の世界を歌うことにより、本質的には現実の世界を再現する。厖大な資料の中から事実の一応の輪郭が白日のもとにさらされた。これらの考えは次の事実を導き、考えうる歴史的な出来事の詳細を示します。これらの手法は基本的に次の四件の事実を導く。

1). 白村江の戦いの最中(陸戦を含む)、故意か偶然か、九州王朝の君主である薩夜麻(さちやま)は唐に捕まり、9年間捕虜として拘束された。彼が天子を名乗ったこの戦いの実質的なリーダーです。また薩夜麻は唐に降伏し服属を誓う儀式である「封禅の儀」に倭の代表として参加させられた可能性がある。主君を失って九州王朝の重臣は、てんでばらばらに判断して考えを持たないので未来に対して自信を持てなくなった。この重大な局面では再生のためには、緊急に彼らは倭国の伝統に従って先頭で指揮する君主を選び、万難を排して劇的な措置をとらなければならなかった。彼らが必要としたのは、しゃべることではなく行動でした。しかし結局のところ薩夜麻の存在のため何一つ実行されなかった。彼らは相手がなすがままで何も出来ず、へどが出そうな状態になった。
 ですから薩夜麻が唐から帰って君主として登場したとき、正当な君主であると臣下が主張することは、空疎なレトリック以外の何ものでもありません。戦犯か否かにかかわらず、彼が何をしても責任をとらないならば、誰も彼らのことを本気にしなくなった。彼らは自業自得です。ですから彼らの運命が偶然のチャンスに握られていると分かったとき、彼らは九州王朝と運命を供にする気力を失っていった。

2). 白村江の戦いの後、天智の近畿天皇家は、唐の支援を得て九州王朝(倭国)からの分離独立を宣言した。唐は大和朝廷を激励して、私たちが付いているから大丈夫だ。うまくやれ。事を起こせば、物事はうまくいくと言いました。近畿天皇家彼らは、播磨風土記邇磨の字地名の項で述べられたように、白村江では戦いませんでした。そして九州王朝が負けるとすぐ自らの新しい官位を定めて施行しました。
 またたとえば近畿天皇家の重臣である中臣氏(後の藤原氏)は、白村江の戦いの前に留学僧の名目で唐に人質として長男の定恵を送り込んでいた。古賀氏の見解では彼らがこれらの計画に同意して彼にそれとなく示したと考えています。
 しっこく頭の良い近畿天皇家側は、ことごとく九州王朝の裏をかき、手も足も出せなくし、優れたタイミングをもって機先を制した。勝者は敗者を食いものにする。それが世の中の仕組みなのだ。近畿天皇家はこの仕組みにうまく乗っているのである。彼らは他人を踏み台にして、のしあがった人々です。

3). 唐とその協力者である近畿天皇家は、結果としてカルタゴの平和を上回る悪魔の二つの選択を九州王朝に突きつけました。これには代わりはありません。死ぬまで唐に従うか、近畿天皇家に従うかです。この二つの選択に彼らは立ち往生させられ、蛇の生殺し状態になり(英文は天国と地獄の中間です。)、じりじりと迫られて態度をみすかされ、結局不本意ながら筑紫に対する唐の占領を認めねばならなかった。それは唐がギリシャの勝利(ギリシャはローマに勝つには勝ったが、損害が厖大で利益を得ることは出来なかった。)では権力の行使が難しいと判断して、まず近畿天皇家を筑紫(あるいは九州)以外から独立させ、それから筑紫に占領軍を送りました。筑紫に来た唐の占領軍は、天子を名乗った九州王朝のお墓を次々と破壊し、膨大な金品の収奪をおこないました。たとえば九州で生産する全部の絹に匹敵する膨大な絹です。(日本書紀では、大和朝廷が唐に賜うとの体裁を取っています。)
 九州王朝は、ほとんどまったく自分で自分をどうすることもできなかった。筑紫の人々、彼らはほかにどうしようもなかったので、適当に首を振ったり、うなずいたりしていたが、腹の中は憤慨の気持ちで煮えくり返っていた。しかし彼らは貝のように押し黙るしかしかたなかった。何ともやりきれないことだったが、食っていくためには、やむを得なかった。それは実に凄惨な痛ましい光景だった。

4). この歌では、倭国の人々には住むべき家もなく祭るべき神も、もはや、ありません。彼らが亡くなっても、草葉の陰で残された者を見守ることもできない。それは目の前で胸がしめつけられるような光景だった。倭国の数万の人々が唐との戦いで亡くなりました。そして数多くの人々が夫や息子や孫を失った悲しみに打ちひしがれています。加えて戦った朝鮮では行方不明者としてたくさんの人々が居ました。心の激しい苦痛のあまり、負傷者は悲鳴を上げています。哀れな苦痛の声が響いてきます。悲しみをこらえているときにも、哀切な思い出が次々によみがえってきます。彼らは希望を失って時間の感覚を全く失ってしまった。加えて地震が筑紫の大地を揺るがした。彼らは今何をなすべきか分からなくなった。

 

4. 唐が正式に大和朝廷を選択したとき九州王朝の人々彼らの望みは最終的に終わりとなった。九州王朝は目の上のたんこぶである近畿天皇家にその地位 を取って変わられた。(注 英文は、お尻の腫れ物です。)これが掛け値のない事実です。人麻呂は終戦直後、筑紫で上や下への大騒ぎの中で半死半生の中でなりふり構わず懸命に生きる人々を視ていたと考えています。彼は心の奥底から透徹して詩を評価できる人物です。全ての情景はあまりにも切なく、事実として私たちの目の前にさらされています。私たちは人麻呂を大変評価しています。
 人麻呂の詩才は悲劇に十分あらわれている。八世紀終わり倭国の崩壊は、信じられない驚天動地の出来事でした。その中で人麻呂は歴史と共に歩いた日本ではなく倭国が生んだとびぬ けた比類のない最も偉大な詩人である。

図十二 なし 第二百三十五歌と第二百三十六歌(改訂版)
図十三 なし 第二百五歌(改訂版)
図十四 なし 第二百四十一歌(改訂版)

柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
     すめろぎは,かみにしませば,あまくもの,いかづちのうへに,いほりせるかも
(二百三十五番)皇(すめろぎ)は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
         皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>
王に獻(たてまつ)る、その歌
    きみは かみにしませば くもがくる いかづちやまに みやしきいます
(二百三十六番)王は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
          王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座
---------------------------------------------------
二百五番
きみは かみにしませば あまくもの いほへがしたに かくりたまひぬ
  王は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
   王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
---------------------------------------------------
二百四十一番
すめろぎは かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみなりせすかも
   皇は神にしませば真木の立つ荒山中に海鳴りせすかも
    皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞
---------------------------------------------------

(参考)
柿本朝臣人麻呂、筑紫國に下りし時、海路にて作る歌二首

三百三番
名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は

三百四番
おほきみの とほのみかどと ありがよふ しまとをみれば かむよしおもほゆ
大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
大王之 遠乃朝庭跡 蟻通嶋門乎見者 神代之所念

(英訳 横田幸男)


 参考文献
日本書紀
岩波古典体系に準拠
二十五巻 孝徳天皇 白雉
・・・
A.D.653.
四年夏五月の辛亥の朔壬戌に、大唐発遣す。大使小山上吉士長丹、副使小乙上吉士駒、駒、更の名は絲。学問僧道厳・道通 ・道光・恵施・覚勝・弁正・恵照・僧忍・知聰・道昭・定恵(定恵は内大臣の長子なり)。安達(安達は中臣渠毎連が子なり。)道観、(道観は春日粟田臣百済が子なり)。学生巨勢臣薬(薬は豊足臣が子なり。)氷連老人、(老人真玉が子なり)。或本に、学問僧知弁・義徳、学生坂合部連磐積を以て増へたり。并せて一百廿一人、倶乗一船。
・・・
二十七巻 天智天皇
A.D.663.
是歳、百済救はむが為に、兵甲を修繕め、船舶を備具へ、軍の粮を儲設く。
是年也、太歳壬戌。
二年春二月の乙酉朔丙戌に・・・
三月、前将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣して、二万七千人を率て、新羅を打つ。
・・・
・・・
戊戌(十七日)に、賊将、州柔に至りて、其の王城を繞む。大唐の軍将、戦船一百七十艘を率いて、白村江に於いて陣烈れり。
戊申(二十七日)に、日本船師の初ず至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本不利て退く。大唐陣を堅めて守る。
己酉(二十八日)に、日本に諸将と、百済の王と、気象観ずして、相謂りて曰はく、「我等先を争わば、彼自づからに退くべし。」といふ。更に日本の伍乱れたる中軍の卒を率いて、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右より船を夾みて繞み戦ふ。須臾之際、官軍敗続れぬ 。水に赴きて溺れ死ぬる者衆し。艫舳廻旋すこと得ず。朴市田来津、天に仰ぎて誓ひ、歯を切りて嗔り、数十人を殺しつ。焉に戦死せぬ 。是の時に、百済の王豊璋、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ。
 九月の辛亥の朔丁巳に、百済の州柔(つぬ)城、始めて唐に降(したが)ひぬ。是の時に、國人相謂りて曰く、「州柔(つぬ )降ひぬ。事奈何といふこと无(な)し。百済の名、今日に耐えぬ。
・・・
・・・
A.D.664.
三年の春二月の己卯朔丁亥に、天皇、大皇弟に命じて、冠位の階名を増し換えること、及ぶ氏上・民部・家部等の事を宣ふ。其の冠は廿六階有り。大織・小織・大縫・小縫・大紫・小紫・大錦上・大錦中・大錦下・小錦上・小錦中・小錦下・大山上・大山中・大山下・小山上・小山中・小山下・大乙上・大乙中・大乙下・小乙上・小乙中・小乙下・大建・小建、是を廿六階とす。前の花を改めて錦と曰ふ。錦より乙に至るまでに十階を加す。又前の初位 一階を加し換えて、大建・小建、二階にす。此を以て異なりとす。余は並に前の依なり。其の大氏の氏上には大刀を賜ふ。小氏の氏上には小刀を賜ふ。其の伴造等の氏上には干楯・弓矢を賜ふ。亦其の民部・家部を定む。
三月に百済王善光王等を以て、難波に居らしむ。星有りて京の北に殞つ。是の春、地震る。
夏五月の戊申朔甲子に、百済鎮将劉仁願、遣朝散大夫郭務宗等、表函と献物とを進る。
・・・
冬十月の乙亥朔に、郭務宗等を発て遣す勅を宣たまふ。是の日に、中臣内臣、沙門智祥を遣して、物を郭務宗に賜ふ。戊寅に、郭務宗等に饗賜ふ。
・・・
十二月甲戌の朔乙酉に、郭務宗等を罷り帰りぬ。
・・・
・・・
A.D.665.
四年の春二月癸酉の朔丁酉に、
・・・
・・・
九月の庚午朔壬辰に、唐国、朝散大夫沂州司馬上柱国劉徳高等を遣す。(等といふは、右戎衛郎将上柱国百済祢軍・朝散大夫柱国郭務宗を謂ふ。凡て二百五十四人。七月廿八日に、対馬に至る。九月廿日、筑紫に至る。廿二日、表函を進る。)
・・・
十一月の己巳朔辛巳に、劉徳高等に饗賜ふ。
十二月の戊戌朔辛亥に、物を劉徳高等賜ふ。
是の月に、劉徳高等罷り帰りぬ。
是歳、小錦守君大石等を大唐に遣すと、云々。(等といふは、小山坂合部連石積・大乙吉士岐弥・吉士針間を謂ふ。蓋し唐の使人を送るか。)
・・・
・・・
A.D.669.
八年春正月の庚辰朔戊子に・・・
・・・
十二月に、大蔵に災けり。
・・・
・・・又大唐、郭務宗等二千余人を遣せり。
A.D.671.
十年春正月己亥朔庚子、・・・
・・・
辛亥に、百済の鎮将劉仁願、李守真等を遣して上表る。
・・・
・・・
秋七月の丙申朔丙午に、唐人李守真等、百済の使人等、並に罷り帰りぬ。
・・・
十一月甲午の朔癸卯に、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して言さく、「月生ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来りて曰さく、唐国の使人郭務宗等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総合べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比知島に泊りて、相謂りて曰く、今吾輩が人船、数衆し。忽然に彼に到らば、恐るらくは彼の防人、驚き駭みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍に来朝する意を披き陳さしむ」とまうす。
・・・
二十八巻
 天武天皇
・・・
・・・
A.D.672.
元年春三月の壬辰朔に己酉に、内小七位阿曇連稲敷を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務宗等に告げしむ。是に、郭務宗等、咸に喪服を着て、三遍挙哀る。東に向ひて稽首む。壬子に郭務宗等再拝みて、書函と信物とを進る。
夏五月の辛卯の朔壬寅に、甲冑弓矢を以て、郭務宗等に賜ふ。是日、郭務宗等に物を賜ふ、総合[糸布 ふとぎぬ]一千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。・・・庚申、郭務宗等など罷り帰りぬ 。
---------------------------------------------------

以下英文を参照のこと


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