これらの歌は大和で

天皇家に奉られた歌

ではない

案内

1、英文解説

2、 二百三十五歌
(なし 古田武彦講演)

3、 二百三十五歌
 二百四十一歌
(なし 古田武彦講演)

4、皇(王)は神にしませば
み吉野の三船の山に立つ雲の
正木裕 解説

5、 二百四十四歌
み吉野の三船の山に立つ雲の
(なし 古田武彦講演)

 

DVD「701 
人麻呂の歌に隠された九州王朝
の解説

 

ホームページに戻る

「壹」から始める古田史学・三十八 九州万葉歌巡り 正木裕(会報172号)

YouTube動画盗まれた筑紫の万葉歌 -- 舞台は大和飛鳥などに変えられていた 正木 裕

古田武彦 YouTube講演大王は神にし座せば雨雲の雷の上に廬せるかも

ホームページ内正木裕講演
・万葉の覚醒〔参考)
第二百三十五歌と第二百三十六歌 二百四十一歌 そして二百五歌:
これらの歌は大和で天皇家に奉(たてまつ)られた歌ではない

英文は、九州王朝の栄光と滅亡を、ギリシャ(アテネ)の栄光と滅亡(ローマの侵略とそれに先立つスパルタとの戦い)に対比しています。
事実関係については、研究の進展に伴い一新します。


和泉史談会 2022年4月12日14時~16時。於:和泉市コミュニティセンター

講演 誰も知らなかった万葉集:盗まれた筑紫の万葉歌 正木裕
(要約)横田幸男

盗まれた筑紫の万葉歌

舞台は大和・飛鳥などに変えられていた

皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも

み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに

 

万葉集巻三 二百三十五番歌皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも万葉歌の解釈ー「文学」か「歴史資料」か

3,万葉歌の解釈ー「文学」か「歴史資料」か

 『万葉集』の歌の解釈は、「本文」と「題詞」を区別して考える。「題詞」は付け替えられたり、他の人に替えられている。「題詞」はそのようなことが出来ますが、「本文」の改竄(かいざん)、弄(いじ)ることは、歌そのものが滅茶苦茶になりますので、本文はほとんど弄れない。やはり「本文」から考えることになります。

 万葉学者は『万葉集』を文学として解釈します。誰がいつどこで詠まれたのか、そういうことから解釈を初めます。そうでないと、この歌が何の歌か分からない。その助けになるのが「題詞」です。その「題詞」を信じて解釈します。そうすると中途半端な解釈になります。しかし『万葉集』の編纂は720年前後ですから、「題詞」は歌が造られたと考えられる持統天皇や舒明天皇の時期に造られたものではなく、一〇〇年も後です。
 それでは「歴史史料」として解釈しょうとするとどうなるか。「題詞」や「左注」はあとからつけられたもので歴史史料としては二次史料、一次史料が本文です。「題詞」や「左注」は、後から付いたのだから解釈の助けにはなりますが、あくまでも二次史料です。題詞と本文が食い違ったときはどうするか。当然一次資料である「本文」のほうが大事です。
 題詞と本文が矛盾するときは、「題詞」は捨て去って「本文」をもとに理解する。これが「歴史史料」としての解釈です。

ここで取り上げるのは以下の四首です。

『万葉集』雜歌
天皇、雷岳(いかづちのおか)に御遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
      おほきみは かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも
(二百三十五番)大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
        皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>

右、在る本に云く。忍壁皇子に献(たてまつ)るといへり。その歌に曰はく、
   おほきみは かみにしませば くもがくる,いかづちやまに みやしきいます
(二百三十六番)大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
         王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座
---------------------------------------------------
二百五番
おほきみは かみにしませば あまくもの いほへがしたに かくりたまひぬ
大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
 王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴
---------------------------------------------------
二百四十一番
長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 或本反歌一首
おほきみは かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみをなすかも
大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも

万葉集巻三 二百三十五番歌皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも 「飛鳥なる雷岳・持統天皇」とすれば本文と合わない

7、「飛鳥なる雷岳・持統天皇」とすれば本文と合わない

天皇、雷岳(いかづちのおか)に御遊(いでま)しし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
おほきみ(スメロギ)は かみにしませば あまくもの いかづちのうへに いほりせるかも
(二百三十五番)大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
        皇者 神二四座者 天雲之 雷之上尓 廬為<流鴨>

右、在る本に云く。忍壁皇子に献(たてまつ)るといへり。その歌に曰はく、
   おほきみは かみにしませば くもがくる,いかづちやまに みやしきいます
(二百三十六番)大君は神にしませば雲隠る雷山に宮敷きいます
         王 神座者 雲隠伊加土山尓 宮敷座

 通説では二百三十五番の歌は、「題詞」から「天皇」を持統とし、「雷岳」を「大和飛鳥の雷岳」に行った時に柿本朝臣人麻呂が造られた歌だと解釈しています。
 皆さんも大和の雷岳(いかづちのおか)に行かれたことがあるでしょうが、高さ十メートルぐらいのどう見ても小さい丘です。持統天皇がこの小さい丘に行かれた。(考古学の発掘では宮の跡は発見されなかった。)持統天皇はスメロギで、「神であり万能の存在だから」だから、この丘の上に行かれた。それが「天雲の雷の上に廬りせる」。これは、どう見ても合いません。現地を知っている人から見ればおかしい。リアリティーがない。

 それから次に注釈がありまして二百三十六番に入ります。
 「忍壁皇子(くさかべのみこ)」とあるが、本文は「王(おほきみ)」とある。「皇子」は「王」でない。
 しかも天皇は神だから、(二百三十五番)の「天雲の雷の上に廬りせる」とは、言って言えないこともないですが、二百三十六番の「雲隠る雷山に宮敷きいます」では、いよいよ変です。霞や霧に覆われることを「雲隠る」と言いませんし、第一「雲」に見立てることは出来ません。
 万葉学者の中西進氏は、「天雲の雷の上に廬りせるかも」を「遥かな天空に仮の宿とされた」とされています。これも取りようによっては「薨(みまか)って空にお上りになられた」と解釈できることになります。
 それで「神にしませば(神二四座者)」の解釈が、一番明確なのは二百五番の歌「大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ(王者 神西座者 天雲之 五百重之下尓 隠賜奴)」です。「隠りたまひぬ」とあり、「亡くなった」と正直に書いてあります。
 ですから二百三十五番の歌の「神にしませば(神二四座者)」も、「崩御されて神として祀られた」という意味だと考えれば、たいへん常識的な解釈です。
 二百三十五番の「廬りせる」とは「宮を造り居す」のではなく、「墓(祀る宮)がある、あるいはなくられた人物を祀る「宮」がある。このように考えられます。
 「題詞」のように持統が生きていて行幸したとする解釈では変な歌になってしまう。中西進氏の解釈も同様だと思っています。
 題詞に縛られず、本文を検討すれば、人麻呂の235番の「天雲の雷の上」とか「雲隠る・・・・雷山」は大和飛鳥の「雷丘(いかづちのおか)」ではありえない、また「持統の行幸の歌」でもない(当然忍壁皇子でもない)ことは明白。そこまではっきりしました。

 

万葉集巻三 二百三十五番歌皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも 筑紫糸島半島には「雷山」が聳えていた

8、筑紫糸島半島には「雷山」が聳えていた

 それではこの歌に相応しい「雷山」はどこかにあるのか。筑紫なる「雷山」は、福岡県糸島市(標高 955m)にある千メートル級の山です。海岸から少し入ったところにある山で、玄海灘から吹き寄せる風が当り雲がわき雨を呼び雷を降らせるからその名がついております。
 雷山は古来、雷神の鎮座する霊山とされ、中腹に雷神(水火雷電神)を祀る「雷神 宮」(いかづち神社とも)、頂上には天宮(祠とおぼしき石の宝殿)があり、伝承として「雷山に雲がかかると雨になる」とされる。山麓には雷山千如寺、雷山神籠石なども存在する古跡です。
 雷山頂上近くの「天宮(あまつみや)」は、まさに歌通りの宮があり、祀られた祠(ほこら)がある。
 頂上近くの天宮(あまつみや 石宝殿)には、皇室の祖たる瓊々杵尊(中殿)、天神七代(左殿)、地神五代(右殿)が、祀られている。
 中腹にある雷神宮では、古来より雨乞いの神事が行われており、水火雷電神(or瓊々杵尊)、高祖大神(or
彦火火出見尊)、香椎大神(息長足姫尊)、住吉三神、八幡神の五神が祀られている。

 しかし雷山には人間が出てこない。歌は「スメロギは神にしませば(皇者 神尓之坐者)」ですから、本来天子・天皇と呼ばれ、「崩御されて神として祀られた」人々の名が、この神社の由来記にカットされている。そのように考えます。
 頂上近くの天宮(あまつみや 石宝殿)には、まさに「天雲の雷の上に廬りせるかも」その通りの宮(墓、祠)がある。ですが、このように現存の雷山には大和朝廷の編纂した『記紀』に記す神々のみが祭られる。そこには、九州王朝(倭国)の「現世に存在し、死して祭られた皇・王」の名は消されている。

万葉集巻三 二百三十五番歌皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも 雷山に祀られた「皇」や「王」とは誰か


万葉集巻三 二百四十一番歌 皇は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも 海鳴りの歌

9、二百四十一番、海鳴りの歌

二百四十一番
長皇子遊猟路池之時柿本朝臣人麻呂作歌一首 或本反歌一首
おほきみ(スメロギ)は かみにしませば まきのたつ あらやまなかに うみをなすかも
大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
 皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞

 「スメロギは神にしませば(皇者 神尓之坐者)」は、もう一度出てきます。それは二百四十一番の歌です。
 題詞は「長皇子」とあるが、本文は「皇(スメロギ)」とある。「長皇子」は天皇ではないし、「神にしませば」の理解と合わない。本文には「山の中に海をお造りなった(荒山中尓 海成可聞)」と解釈する。これはあまりにも変な、何を例えて言ったかも分からない解釈です。たとえば「雲海があった」とか「その辺りに池があった」と解釈する。

<略>

 それではどう解釈するのか。そもそも「海を成すかも(海成可聞)」と読むのか。
 これは、「海鳴り聞くかも、海鳴りせすかも(海成可聞)」ではないか。文字の読みとしては「せすかも(可聞)」ですが、わざわざ「聞」という文字を使っている。人麻呂が「可聞」の字を使ったのは海鳴りが聞こえたという意味をこめたものだと考えます。

それで二百四十一番の歌の解釈としては、字を当てはめて、

皇(スメロギ)は神にしませば真木の立つ荒山中に海鳴り聞くかも
 皇者 神尓之坐者 真木<乃>立 荒山中尓 海成可聞

とします。
 意味は「崩御されて神として祀られた(九州王朝の)神々(スメロギ)の声が海鳴りとして聞こえてくる」。

古田武彦氏は、雷山で海鳴りが聞こえるか、気象台に問い合わせています。

「各地の気象台で教えてもらっての結論。雷山でも海鳴りは聞こえる。風の強い時は当然海も荒れて海鳴り
が聞こえたはずだ。海鳴りは暴風雨の前兆。この歌は九州王朝滅亡を予感した歌のようである。」(古田武彦)

 ですから歌の舞台は倭国(九州王朝)歴代の王・皇子の墓地である「雷山」が、千如寺や神籠石山城に守られて祀られていた。人麻呂は雷山に登り「天宮(石の宝殿)」で追悼し、死を悼む声が海鳴りとして聞こえてきた。このように考えます。

①「海成可聞」は不可解な「海をなすかも」でなく「海鳴り聞くかも」
➁雷山には逝去した歴代の倭国の皇(天子)や王たちが雷山千如寺、雷山神籠石に護られ祀られていた

 雷山は九州王朝歴代の墓所であり、人麻呂は雷山で海鳴りを聞いたにすぎない。しかしその雷山には九州王朝の代々の王者が葬られている。その死者の声が「海鳴」として聞こえてくる。この世の破滅。(*白村江敗戦後の)九州王朝の破滅の声が「海鳴」として聞こえてくる
(古田武彦)

万葉集巻三 二百三十五番歌皇は神にしませば 天雲の雷の上に廬りせるかも 筑紫雷山こそ235番歌の「天雲之 雷之上」「雲隠伊加土山」に相応しい

10、筑紫雷山こそ235番歌の「天雲之 雷之上」「雲隠伊加土山」に相応しい

 これらの万葉歌は、大和の雷丘(いかづちのおか)の歌ではなくて、大和朝廷に併合された歴代の九州王朝(倭国)の皇(天子)や王たちが祀られていた墓地である筑紫雷山(らいざん)で詠まれた歌だった。
 「神にしませば」は、「崩御されて神として祀られた」という意味です。『旧唐書』では、倭国は日本国に併合されたとあります。

 だからかって雷山に祀られていたのは亡国の王たち。だから「天宮」は放置されている。現在、天皇家の御陵はきちんと祀られているが、前の九州王朝(倭国)の天子や王の墓は放置されている。このような意味であろうと考えます。

 

mifuneyama
(御断り:二百四十四歌に題詞「弓削皇子遊吉野時御歌一首」はありません。)

11、何ということの無い奈良「御船山」と一見明白な佐賀吉野「三船山」

 岩波古典文学大系に準拠

『万葉集』巻三

 二百四十二歌
 弓削皇子、吉野に遊(いでま)しし時の御歌一首
たきのうへの,みふねのやまに,ゐるくもの,つねにあらむと,わがおもはなくに
滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに

【台詞】弓削皇子遊吉野時御歌一首
【原文】瀧上之 三船乃山尓 居雲乃 常将有等 和我不念久尓

 二百四十四歌
 或る本の歌一首
みよしのの,みふねのやまに,たつくもの,つねにあらむと,わがおもはなくに
み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
 右一首、柿本朝臣人麻呂の歌集に出づ。

【台詞】或本歌一首
【原文】三吉野之 御船乃山尓 立雲之 常将在跡 我思莫苦二
【台詞】右一首柿本朝臣人麻呂之歌集出

 時間の関係で『万葉集』巻三 二百四十二歌、二百四十四歌について一言触れさせていただきます。
 まず二百四十二歌の台詞には、「弓削皇子が遊吉野時」の歌として「三船の山に居る雲の常にあらむ」とあるのですが、奈良県吉野では、ここだろうという御船山(奈良県吉野郡吉野町樫尾)はあります。ですが常に雲が掛かっているわけでなく、どこか全く分からないほどの特色のない山。なぜ「御船山」という名がついたのか不明。

 対して九州佐賀県の吉野には、吉野ヶ里の「吉野」もあり、二百四十四歌の「み吉野の三船の山」とわかる「御船山」(佐賀県武雄市207m)があります。この山は見るからに、帆船そのもの形状の山です。鞆峰(みよしだけ)、帆峰(ほだけ)、艫峰(ともだけ)と呼ばれています。一見して「三船の山」で、いつも雲が立っています。特に朝は。
 この歌は「無情」を歌っていると言われていまが、「御船山」を船に見立てたのは、このような船に乗って大勢の人々が出撃していった。しかも結局帰ってこなかった「白村江の戦い」という無情を歌っている歌だと思っています。
 この歌は「無情」を込めた歌だと言われていますが、奈良県吉野なら何の「無情」かはわからない。しかし九州佐賀吉野の歌ならば、ここ吉野から、 このような帆船に乗って有明海から大量の軍船が出撃していった。そういう光景を歌に表して、帰ってくると願いながら結局帰ってこなかった「無情」を感じて造られた歌だと思います。


制作 古田史学の会

新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから

ホームページへ


Created & Maintaince by" Yukio Yokota"