古田武彦著作集

ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ


2010年12月刊行 古田武彦・古代史コレクション6

 

倭人伝を徹底して読む

ミネルヴァ書房

古田武彦

始めの数字は、目次です。「はしがきーー復刊にあたって」、「はじめに」、「」、「文庫版によせて」は下にあります。

 【頁】 【目 次】

I  はしがきーー復刊にあたって

VI はじめに

XIV 倭人伝・原文(写真版)

   1 序

  5 第一章 『三国志』以前の倭と倭人

 一 倭人の出現
5 東方の夷/皮服の民/日の出るところの人々/倭人の鬯草貢献/東夷の音楽/『漢書」の倭人/倭人と東[魚是]人
     東[魚是]の[魚是] は、魚偏に是。JIS第4水準ユニコード9BF7

 二 箕子と燕
15 箕子架空説/箕子韓国の成立/倭は燕に属す

 三 倭人の居所
19 光武帝の金印/倭人を見た班固と王充

 四 新たな課題
21 『後漢書』の信憑性/堯・舜・禹の時代/縄文中期の日中交流は?/井戸尻の縄文土器/縄文時代の楽舞/東夷の中国大陸侵入

 

  31 第二章 日本の文献にみる倭

 一 新たな「倭国」の出現
31 チクシかツクシか/邇邇芸命/天津日高日子を襲命する/波限の建/地名が先か説話が先か/天皇に姓はないか/職掌が姓になる/四兄弟の旅立ち/神倭伊波礼毘古命/倭と大和

 二 『記』『紀』以前の倭
43 大国主説話/天孫降臨の真相/山田のかかし/大物主説話か?/宣長の誤謬/筑紫の青垣/倭の多元化

 三 伊場木簡の若倭部
54 部民一元論に反対する/神麻績部と神人部/浜名湖の倭

 四 『常陸風土記』の倭
60 『記』『紀』の相違/大橘と弟橘/日本武尊は天皇ではない/倭王武の常陸巡行/筑紫と常陸の関係

 五 出雲と播磨の倭
67 出雲経由越行き/官位の暴落/「姓」本来の性格/混在する倭

 六 初期天皇家の若倭と大倭
71 大和盆地の若頭/倭よりの使者/倭人伝の「大倭」なり/初期天皇家は筑紫の分家

 

 77 第三章 倭人伝以前の倭

 一 松本清張説批判
77 松本清張氏の提起/漢文の基本ルール/松本氏の盲点/読み方の順序/好太王碑の証言/なぜ倭人伝なのか/新羅国王は倭人/多婆那国の舟

 二 東夷伝と穢*伝にみる“倭”
91 東夷伝序文/穢*伝のリアリティ/女神の島/水姪子の話/海北道の問題
     穢*(わい)は、禾編の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCF

 

  99 第四章 帯方の東南大海の中に在り

 一 帯方の東南
99 帯方の地/帯方の東南

 二 大海
104 『尚書」にみる海/海を知っていたか/四海と海隅/粛慎と日本の交流は

 三 今使訳所通三十国
112 使訳/通ずる関係/大夏之属に通ずる/差錯問題/卑弥呼は三十国の代表/三十国の国名/狗奴国と倭国の対立

 四 「狗邪韓国、倭地」論
126 倭地五千里/任那日本府の問題

 

  131 第五章 里程論

 一 里単位の歴史
131 赤壁の戦い/魏・西晋朝短里説/秦・漢の長里/古法への復帰/長里再び

 二 史料対比の実証
140 『史記』の中の長里と短里/大きすぎる副産物

 三 夷蛮伝の中の倭人伝
145 夷蛮伝の里程/「韓地、魏領」問題/「二つの序文」問題

 四 里程列伝
153 大宛列伝の里程/余里の理解

 五 陳寿の上表文
157 『三国志』の災難/諸葛亮著作全集/上表文の精神/陳寿の上表文

 

  165 第六章 記された国名

 一 夷蛮の固有名詞
165 倭人伝の固有名詞/帝記の夷蛮固有名詞/夷蛮伝の固有名詞/韓伝の固有名詞/倭人伝の背景

 二 九夷問題
172 『爾雅』の九夷/倭は真名井のゐ/九夷は実在した

 三 倭人伝と韓伝の国名
177 記された三十の国名/韓伝に現われた国名/倭人伝は韓地陸行なり

 

  191 第七章 戸数問題

 一 魏の制度としての戸
191 倭人伝の戸と家/落と家と戸/魏志の邑と戸/「戸」が出てこない/魏の制度としての戸/郡評論争/戸と家の区別/夷蛮の地に戸なし/『漢書』地理志の戸数

 二 戸数問題の副産物
209 県の存在/二つの風土記と二つの里程/万葉の短里

 

  215 第八章 剣・矛・戈

 一 『三国志』に現われた剣・矛・戈
215 剣・矛・戈/中心は筑紫/天子を守る矛/矛は戦闘用具

 二 戈の時代
225 戈を倒にす/剣履上殿/戈から矛への変化/矛盾と干戈

 三 出雲からの出土物
230 三五八本の銅剣/出雲の時代の一断片/八千戈の神と八千矛の神/剣は便宜上の用語/剣は矛であり戈である/実在の名称と学問上の名称

 四 前期銅鐸の問題
238 先祖を祭る前期/銅鐸国/ゆずりで消えた銅鐸/斧の似合う天子

 

  241 第九章 銅鏡百枚

 一 鏡の記録
241 『記』『紀』にない鏡/莫大な下賜品の背景/鏡を望んだ卑弥呼/鏡と前方後円墳

 二 三角縁神獣鏡説
246 三角縁神獣鏡説/二つの疑問/倭国特注説/伝世鏡の理論/考古学界を憂う/猫塚の荒廃

 三 弥生鏡の銘文
254 日と光の文字/弥生人は字が読めた/神聖なる日を映す/蒼龍と白虎/仙人は桑を食す/崑崙山を知っていた

 四 立岩遺跡の舶載鏡
261 詩にならない銘/文文字はデザイン/国産鏡の等級

 

  267 第十章 倭人伝の詔勅

 一 『日本書紀』の詔勅
267 遺言の詔勅/人麿の本歌取り

 二 倭人伝の詔勅
270 『三国志』の詔勅/卑弥呼に制詔す/制詔の意味

 三 詔勅を深く読む
274 夷狄文字を識らず/太后詔

 

  271 第十一章 朝廷の多元性

 一 玉・珠・丹
279 玉/珠/丹/石車と磐船

 二 朝廷の多元性
286 『三国志』の朝廷/二つの朝廷/朝廷の多元性と西晋朝廷の不在/朝廷を疑ってみる/国を造り、国をゆずる/三津郷の大国主

 

297 研究論文摘要

309 あとがきに代えて ーー中山千夏さんとの往復書簡

317 文庫版によせて

323 資料 ーー倭人伝・読み下し文

329 古田武彦著作目録

331 日本の生きた歴史(六)

333 第一 俾弥呼ひみかと甕依姫みかよりひめ/337 第二 固有名詞の訓み/341 第三 最小・最高のミステリー/345 第四 文字を知る女王/347 第五 俾弥呼は南米を知っていた

人名・事項・地名索引

 

 ※本書は、朝日文庫版『倭人伝を徹底して読む』(一九九二年刊)を定本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(六)」を新たに加えたものである。

__________________________________

古田武彦・古代史コレクション6

『倭人伝を徹底して読む』

_______________

2010年12月20日 初版第1刷発行

 著 者 古田武彦

 発行者 杉田敬三

 印刷社 江戸宏介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

_________________

©古田武彦 2010

ISBN978-4-623-05218-9

   Printed in Japan


はしがき ーー復刊にあたって

     一

 思いがけぬ来客があった。林一氏。未知の方である。東京の昭和薬科大学の物理学の教授だという。台湾出身で「リン」と発音された。在野の一研究者、無職だったわたしを同大学の歴史学・文化史の教授として招きたい、とのこと。まさに青天の霹靂(へきれき)だった。
 もう一人の教授、心理学者の楠正三氏と共に、京都市内の老舗、下鴨茶寮でお会いすることとなった。「是非、わたしたちの大学の教授として迎えたい。」けれん味のない、誠実なお申し出でがわたしの胸を打った。だが、逡巡した。今までの探究は、親鷺研究といえ、古代史研究といえ、すべて無位無冠の在野の一研究者、その基本の立場にたっていたからである。
 ただ一つ、わたしには願いがあった。今までの研究はすべて、あるいはほとんど西日本が中心だった。せいぜい関東だ。それより東、「東北」や「北海道」など、一切未知だった。もし、東京に居を移せば、それらの地域への探究が可能となるのではないか。この期待が胸中にあった。
     二
 結局、お承けした。昭和五十八年四月より、単身赴任させていただくこととなったのである。けれども、一つの懸案があった。折しも、大阪の朝日カルチャーで、毎週講義をもっていた。そのテーマは、三国志の魏志倭人伝、その各個条、各テーマを、一つ、ひとつ分解し、解読してみようとしていたのである。それは中断するわけにはいかない。「毎回、東京から大阪へ通う。」これが解決案だった。その成果を、大阪書籍が『倭人伝を徹底して読む』の題で刊行した。さらにこれを朝日新聞社(東京)の出版局が朝日文庫に収録した。これが今回「復刊」された本書である。

     三

 わたしの願いは満たされた。あの『東日流つがる〔内外〕三郡誌』との“出会い”である。藤本光幸氏からの要請、和田喜八郎氏との交流、大量の明治写本に次ぐ、若干の寛政原本の「発見」、さらに吉原賢二氏による、画期的な科学史上の論証が出て、一時期世間を騒がせた、いわゆる「偽書説」も、“The end”の日を迎えた。今後の“余波”は、後代に“語り草”を提供することとなろう(経緯は、別に詳述する)。

     四
 現在執筆中の一篇、それは『日本評伝選、俾弥呼』だ。その中に、わたしの「邪馬壹国」論は凝縮されるであろう。その帰結に向かうための原点、いわばスタート・ラインのすべてが、本書の中に展開されている。東京から大阪への新幹線の往復の中で、わたしの思考は熟成された。貴重な一書の成立となった。
 けれども、本書に関してわたしには「難問」があった。当初の「大阪書籍版」とそのあとの「朝日文庫版」と、いずれも先頭に三国志の魏志倭人伝の全文が写真版で掲載されている。三国志の版本中、もっとも「原型」を保存する紹煕(しょうき)本だ。十三世紀、南宋の紹煕年間(一一九〇〜九四)の成立である。
 中国(清朝)の学者、張元済が日本に善本(よい版本)あり、と聞き、早速日本に向かった。そして宮内庁書陵部に収蔵されていたその版本(紹煕本)を写真に撮り、中国側の正史の集成書としての廿四史百衲(のう)本に入れた。わたしが第一書『「邪馬台国」はなかった』で詳述した通りである。ところが、実際ははじめの「大阪書籍版」と、あとの「朝日文庫版」と同じではなかった。一点だが、重要な“ちがい”があった。熱心な読者側の「発見」があり、わたしは頭を悩ませてきた。「ミステリー」だった。それが今回“解け”た。末尾の「日本の生きた歴史(六)」でのべた通りである。
 「プロの眼」で真相を見抜かれた、杉田啓三社長と神谷透・田引勝二・東寿浩・宮下幸子等の諸氏の厚い御協力に深謝したい。

     平成二十二年十一月二十九日
                                古田武彦


 はじめに

 かつて、わたしは書いた。
 「かれらおびただしい学者群のあとで、とぼとぼとひとり研究にむかったわたしの、とりえとすべきところがもしあるとするならば、それはたった一つであろう。
 陳寿を信じとおした。 ーーただそれだけだ。
 わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰(めいせき)さがわたしを導きとおしてくれたのである」(『「邪馬台国」はなかった』「はじめに」)
 十六年前、狂熱の神にとり憑(つ)かれたように、朝夕を倭人伝研究のために投入し切っていた時、単独の一真理探究者として書きしるしたことばだ。これを今、二言も変更する必要のないこと、それをわたしはこよなき幸せと感ずる。すでに還暦も過ぎた、この身にとって、それは一個の運命とも、いいうるものかもしれぬ。
 その通りだ。わたしは右のような、ただ一つの方法論の壼しか、身にたずさえていなかった。そして「古代」という、「歴史」という、荘漠たる大海に向って、むこう見ずにも、舟出したのだった。
 そして今、この舟に収穫しえた、種々の魚類・海草・珠玉の類のおびただしさに驚嘆する。
 あるいは、それは、九州王朝という名の筑紫中心権力、それを前提とせずして、日中交流の歴史は解きがたいことをしめした。従来、それなしに解いたかに見せてきた、すべての解説、それはひっきょうにして“一個の虚妄”と堕する他はない。 ーーその断崖を見たのである。
 あるいは、それは、三世紀以前の倭人が太平洋の大海流、黒潮に乗じて南米大陸へと向った、その痕跡をしめした。わが国の考古学者たちの“嘲笑”にもかかわらず、ことは一段と信憑性をましてきた。なぜなら、すでに縄文早期末から前・中・後期にかけて、江南(河姆渡かぼと遺跡)と日本列島との間に、「海を越えた大交流」の存在した事実、これを疑いうる考古学者はすでにありえなくなったからである。[王夬](けつ)状耳飾りの出土だ。
     [王夬](けつ)は、JIS第3水準ユニコード73A6
 江南と九州を、直接結ぶ「海流」はない。ないけれど、縄文の倭人たちは、海を渡ったのだ。だ、とすれば、それよりおくれる縄文中期前後、黒潮海流に乗じた倭人たちがいたとしても、それを果して一挙に不可能視し、笑い去ることができるだろうか。少くとも、「保留」し、慎重に「吟味」し、執拗に「追求」し、判定を後世に俟(ま)つ。 ーーこれが真摯(しんし)な研究者のとるべき道ではあるまいか。
 あるいは、それは、わが国の文献、『出雲風土記』の語るところが、近畿天皇家配下の一地方誌ではなく、逆に、天皇家を「後代の亜流(ありゅう 三番手の後継者)」とする、その根源をなす中心権力者をめぐる第一伝承であったこと、その鮮烈な事実をしめしたのである。『三国志』の中の「朝廷」の語の用例の探究と渉猟、その中から、はからずももたらされた、珠玉をなす副産物だった。
 これらの新発見や史料発掘の数々、それは必ずしも、「単独」の探究からではなかった。わたしの本の熱心な読者の質問やその要望による、数々の講演、それらの只中から、もたらされたものも少くないのである。(そういう読者の一人、中山千夏さんの質疑の中から見出した、新たな局面については、往復書簡の形で、「あとがきに代えて」として、掲載させていただいた。)
 一九八四年四月より、一九八六年三月まで、二十四回にわたり、東京(本郷)の新居より、大阪(中之島の朝日新聞ビル)の朝日カルチャーセンターに往復しつつ、行った講演。それを毎回テープにとり、時々のニュース的な部分を除いた上で、的確に編成して下さったのが、本書である。編集の御努力に感謝したい。
 未来の倭人伝探究のために、小舟の中の一収穫たる本書がささやかな礎石とならむ日を祈りつつ、心ある、未見の人々の机辺にこの一書をささげたいと思う。


     

「倭人伝を徹底して読む」。逐条審議という言葉がありますが、これは、とても逐条どころではなく、逐語審議という形になるのではないかと思います。たとえば、倭という字にしても特別な字で、一時間やってもやりたりないような字ですし、倭人が『三国志』以前に出てくるのはどこであるかとか、さらには大海という概念は中国の古典にとっていつからはじまり、どのような形で中国人が海を考えていたのか、陳寿(ちんじゅ)は大海という言葉を使ったときどういうイメージで使ったのか、中国人にとって海とは何であったのかということを知ることが、著者が伝えたかったイメージ、またその当時、三世紀の読者がえたイメージを知る道でもあるわけです。ましてや「山島に居す」の“山島”など、中国人は、いつ、どのように認識して中国の古典にあらわしているのか、というような『三国志』以前の島の認識の歴史、そういうものを逐語審議的にさぐっていこうと考えています。もちろんものによってウェートもちがい、時間のかかるものも簡単にすむものもありますが、そういう実例を客観的に提供していくことが一つの大きなねらいです。
 もう一つは、そこから何がいえるか、いえないかという問題です。これにはわたしの判断の問題も入ってきますが、客観的なことの積み重ね作業からえられるイメージ、地道な事実の確認作業のなかからどのような発見があるかないかということも、また大きなねらいになってくるわけです。この二つの柱を基本にしながら、倭人伝を徹底して読んでいきたいと思っています。
 『三国志』以前に出現する倭人については、すでに『邪馬一国への道標』(講談社、一九七八年/角川文庫、一九八二年)で書いていますが、それに加えて、いままでふれたことのなかった、全く新しい発見や問題にもふれたいと思います。

 倭人伝は、
  倭人は帯方の東南大海の中に在り、山島に依りて国邑こくゆうを為す。

という文章からはじまっています。倭人という言葉ではじまっている。これが非常に風変わりです。というのも、『三国志』鳥丸(うがん)・鮮卑(せんぴ)・東夷伝(とういでん)の烏丸・鮮卑は北狄の一部ですが、東夷というのは高句麗(こうくり)、東沃沮(よくそ)、穢*(わい)、韓(かん)、そして倭人のことです。それらの文章を見ると、倭人伝以外は「高句麗は ーー 在り」というように、地理的な位置の説明から入っていて、「東沃沮人はーー 」とか「韓人はーー 」などという文章からはじまっていないのです。「在」が決まり文句で出てきて、それに東西南北の概念を使いながら位置づけしていっている。ところが、なぜか倭人伝だけは「倭は」ではじまっている。非常に不思議なことです。不思議ですが全く理由がわからないわけではない。というのは、倭人という言い方は、『三国志』を書いた陳寿がはじめて使った言葉ではないからです。つまりそれ以前から「倭人は」、「倭人は」と使われていた。そうした歴史的慣行として使われていた倭人という表現をうけて、陳寿も同じように使ったわけです。『三国志』もいきなり歴史的前提なしにつくられたものでなく、当然のことながらそれ以前の歴史をうけて書かれているわけです。それが倭人伝にも現われて「倭人は」という形をとったのです。ですから『三国志』以前の中国の倭人に関する歴史書も、普通「倭人」という言い方がされています。
 また古い本(皇室書陵部本)では、「倭人伝」の少し前の「穢*伝」が「穢*南伝」となっているのがあります。というのも、これらの本は先ほと言った「南は」と東西南北によって位置づけしていく方式をとっていますから、「穢*は南に在り」という文章も出てくる。すると、最初の二語を採って「穢*南伝」となるわけです。のちには南を削って「穢*伝」にしていますが、本来は「穢*南伝」の方がより古い形だろうと思います。
 さて、『三国志』南宋紹煕(しょうき)本の魏書巻三十・東夷伝を見るとちゃんと「倭人伝」と書いてあります。「穢*南」と同じく、本文の最初の二字「倭人」を採って伝名としたのです。ですから「倭人伝」というのはおかしいとか、まちがいだとか、あるいは普通「倭人伝」というけれども、本当は『三国志』魏書東夷伝倭人条というべきである、などというのは、はっきり言ってあやまりです。事実、「倭人伝」とはっきり書いてある。日本人が勝手に「倭人伝」という言葉をつくったのではなく、中国側の版本で「倭人伝」という言葉が使われている。正しい根拠にもとづいた正しい呼び方なのです。(『論語』の篇名の呼び方にも、似た方式が採られています。「学而がくじ篇」「雍也ようや篇」のように、冒頭部の二字を採って篇名としているのです。ですから、古い篇名呼称法です。)


  文庫版によせて

 わたしの中の研究史にとって、本書は忘れがたい位置を占める。
 その一は、東京に届を移してのち、二年間にわたって大阪の朝日カルチャーヘ「通勤」した日々、その成果だからだ。
 その二は、倭人伝の内容に一段と深く踏みこむ試み、それは誰よりもわたし自身に対して、巨大な収穫と刺激をもたらしたのである。
 その三は、本書の延長の位置に、昨年(一九九一年)の「『邪馬台国』徹底論争」が企画された。信州白樺湖(昭和薬科大学諏訪校舎にて)で八月一〜六日の六日間行われた。その中から画期的な収穫の相次いだこと、今年のうちに学界にも確実に、その情報は“伝播”し、到達することであろう。 (1)
 それはともあれ、今本書をふりかえってみて、さらに「徹底」した、新たな発見の相継起した事実に驚きを禁じえない。それらを(新たな「改定」として)左に、簡明に列述してみよう。
 第一、「日の出るところの人々」について、本書では尚書の周公の言「海隅、日を出だす。率俾せざるは罔し」を引き、これが倭人をふくむ、東夷の領域を指すものと解している。それはよい。しかし、三国志東夷伝序文の「異面の人有り、日の出づる所に近し」という長老の言に対し、「[黒京]面文身の倭人」を指す、と解した(『「邪馬台国」はなかった』)のはあやまりだった。倭人伝中の「裸国・黒歯国」の地がそれだったのである。 (2)

 第二、漢書地理志の中で、燕地倭人項と並立する、呉地東[魚是]人項について、本書ではこれを「銅鐸圏」人と解した。これに対し、東北、関東、南九州の各説が生じ、未来の課題となっている。 (3)

 第三、神武天皇の出発地について、本書の段階では、日向国(宮崎県)と解していた。ところが、昨年この問題に関する一大進展があり、筑紫の日向(ひなた 福岡県糸島郡・福岡市)と解さざるをえぬこととなった。ただし「本流」ではなく、「分流」である点、従来のわたしの論点に一貫し、この点が重要である。 (4)

 第四、粛慎に関する、若干の叙述が本書にある。この点、認識上の一大進展があった。右の「第一」の「長老の言」とは、中国(江南など)の長老ではなく、粛慎の長老であった(この点、鎌田武志氏の指摘による)。
 その意味するところは、アメリカ大陸の先住民であり、倭人の伝えた「裸国・黒歯国」と同一領域(新大陸)の人々を指すものだったのである。 (5)

 第五、本書中の「里程論」に対し、重要な、二個のテーマが追加された。その一は、周の戦国期の王墓から、西晋朝(三世紀)に出土した『穆天子伝』である。その中に「部分里程を列記し、総里程を記する」という手法の表記法が存在したのである。倭人伝の先例だ。しかも、その出土と翻訳(周代の竹簡漆字から漢字へ)は、西晋朝の史官(陣寿たち)によって行われたのであった。 (6) その二は、木佐発言(白樺シンポにおける、木佐敬久氏の提起)のしめしたところだ。すなわち、倭人伝冒頭の行路・里程記事は、張政の倭国滞在二十年間の成果としての軍事報告書の反映である。とすれば、報告者たる張政の「里単位」と、被報告者たる、洛陽なる魏、西晋朝の天子の「里単位」とは、同一でなければならぬ。でなければ、およそ「軍事報告書」として、態をなさぬ。 ーーこの至当至理の指摘である。 (7)

 第六、史記の大宛列伝末尾の、太史公(司馬遷)の批評が、本書に引用されている。「禹本紀に言う。『河は崑崙を出づ。崑崙、其の高さ二千五百里、日月、相避隠して光明を為す所なり。其の上に醴泉、瑶池有り』と。」この萬本紀の説くところを、夏、殷、周王朝の「認識のあやまり」として批判した。張騫の大旅行がこれを実証した、というのだ。だが、これは司馬遷自身の「誤断」だったようである。「禹本紀」伝承の“原地域性”及び「歴史性」を見失っていたのである。この発見は、新しい中国文明源流史に対する探究の淵源を切り開くものとなるように、今のわたしには見えている。 (8)

 第七、倭人伝内の行路・里程記事が「韓国内の陸行」をふくむこと、この一点は重要にして不可欠の論点である。本書でも力説されている。この点に関し、中国の学者、朴ジンソク氏(延辺大学)と論争があり、その成果としていくつかの新見地が開かれた。 (9)

 第八、『古代は輝いていた』(朝日文庫)第三巻の末尾は「郡評論争」で終っている。本書でも、この問題を扱い、三国志も、続日本紀も、「亡国表記法」において“共通のルール”に立っていることを指摘した。一方(呉、蜀)も、他方(九州王朝)も、それ自体の制度は抹殺され、代って断片(一方は、戸制、他方は、評制)のみ、露頭が出現している、と見なしたのである。
 そのさい、日本書紀、続日本紀を通じて「郡制施行」の記事、逆に言えば「評制廃絶」の記事も、存在しないように見なしていた。しかし、そうではなかった。両制(郡と評)激突の記事が存在したのであった。 (10)

 第九、倭人伝の中に「使大倭、之を監す」の一節がある。本書でも、三国志の「大魏」の表現と関連するものとして注目した。この点、新しい局面が開かれた。神武〜崇神の十代中、倭名中に「大倭」の称号をもつ天皇名が四個ある(懿徳・孝安・孝霊・孝元)。これは、倭国(筑紫)から「使大倭」に任命されたため(その史実の反映)と見なす見地だ。津田左右吉流の「造作」説になずんで久しい論者には、驚天動地、「論外」の論とも見えようが、この一点が、新しい視野の重要な導入となったのである。 (11)

 第十、本書末尾にのべた、古代公害病のテーマに関連し、論文と「螢光X線による土壌分析」(宇井倬二氏による)を発表した。今後、多くの人々によって“継続”してほしいテーマである。 (12)
 最後に一言する。本書で言及した「猫塚の荒廃」問題。もちろん、このような古墳発掘後の荒廃現象はただ一県の問題ではない。各県共通、全日本人の精神状況の問題だ。敗戦後、すでに半世紀を閲(けみ)する。一方では、相次ぐ黒字と経済的高水準(世界に比して)、他方では、この精神的荒廃(もうけにならぬことへの無関心)、このような現状のまま、国際的敬意や信頼をうけようとしても、それはしょせん「木によって魚を求むる」ものではあるまいか。もって、結びの言葉とする。

〈注〉
 (1) 『「邪馬台国」徹底論争 ーー邪馬壹国問題を起点として』(全三冊、テープおこし)新泉社刊
 (2) 昭和薬科大学紀要26号(一九九二)及び『古代史徹底論争 ーー「邪馬台国」シンポジウム以後』駸々堂出版刊
 (3) 『神武歌謡は生きかえった ーー古代史の新局面』新泉杜刊
 (4) 同右書
 (5) 右の(2)書
 (6) 『九州王朝の歴史学』駸々堂出版
 (7) 右の(2)書
 (8) 同右書
 (9) 右の(6)書
 (10) 右の(2)書
 (11)『古代史を開く ーー独創の扉、十三』原書房近刊
 (12) 『古代は沈黙せず』駸々堂出版
     (一九九二、五月四日)


ミネルヴァ日本評伝選 『俾弥呼ひみか』(目次と関連書籍) へ

『「邪馬台国」はなかった』

『失われた九州王朝』

『吉野ヶ里の秘密』 へ

『古代の霧の中から』

『邪馬一国への道標』

古田武彦著作集

ホームページへ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mailはここから