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『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房
2010年12月刊行 古代史コレクション6

あとがきに代えて

中山千夏さんとの往復書簡

古田武彦

 

 突然の手紙、おゆるしください。
 かさねて、無味乾燥なワープロの使用も、おゆるしください。
 迷いましたが、私はとても字がへ夕なので、かえってこのほうが失礼がないのでは、と決心して、キイをうっている次第です。

 私は、古田さんの御研究の方法、態度、そしてその結論に、たいへん深く心服し、ひとりの市井人として古代史学界のありかたに、おおいに立腹しているものです。
 話は不親切でシロウトにはわかりにくいし、なんだか納得できないけれども、えらい学者の書くことなのだから、なにか根拠があるのだろう、そう思っていろいろ(といっても大した量ではありませんが)読んできました。
 それが、古田さんの御著書を読んで、私が納得できなかったのは、無学で低能のせいばかりではなかったのだ、とわかり、とても嬉しゅうございました。と同時に、えらい先生たちに、もうれつに腹が立ったわけでした。
 御研究のお邪魔になってはいけませんから、どのように古田さんの御本に感激したか、などという、古田さんにとっては珍しくもないに違いない話は辞めて、とり急ぎ、用件を申し上げます。

 私は、モノを書くことを主たるなりわいにしております。
 このたび、子供むけに「卑弥呼」の話を書くことになって、今、初稿を書きあげたところです。徹底して「古田説」にもとづいて、書かせていただきました。(参考までに、あとがき部分のコピーを同封いたします。)
 それで、最近の御著書なども加えて、また、くりかえし読ませていただいたのですが、ひとつ、どうしてもわからないところがあり、思い切って御教授を乞う決心をしたわけです。
(モノ書きが書く物語ですから、そう正確である必要はないし、子供むけなので、なるべく国名や人名は肝心なものだけにして簡素に、が方針ですから、原稿にはたいして影響はないと思うのですが、自信には影響しますので。)
『古代の霧の中から』(とても面白うございました)に、馬韓の滅亡と鉄の話がございました。(第一章および第五章)
 私の理解では、(1)馬韓と戦って帯方郡太守が戦死する。(2)難升米らを倭国が派遣する。という時間の順序で書かれているように思います。そして、(1)で死んだ太守は弓遵であった。(二五ぺージ写真および二九一ぺージ。)
 いっぽう、倭人伝の朝貢記事の正始元年((2)のあと)で「帯方太守弓遵」が、倭への遣使を采配しているようなので、わからなくなりました。
 私の読みがまずい、あるいは知識が不備である、あるいは他の部分や他の御著書で説明がつくされているのだと思いますが、御指摘をいただけたら、とても有り難くぞんじます。
 こんなことで大切なお時間を割かせるのは、まったく申し訳無いとはぞんじますが、なにとぞ、他に御教示をあおぐ師を持たぬ身をお察しの上、御寛恕くださいませ。
 これからも、御研究に励まれて、デモクラティックかつ緻密な御著書で、私たちをいつまでも楽しませてくださいますよう、心から御健康をお祈りもうしあげております。
                 敬具
   一九八七年六月一三日
                中山千夏
  古田武彦様


 六月一三日付けのお手紙、ありがたくいただきました。直ちに御返便を、と思いつつ、六月も終りの日をむかえました。この二週間あまり、東奔西走の間、ようやくお便りの筆をとることのできる一刻をむかえたことを、こよなき喜びとします。

    ※

 ここでのべられた御質問に接し、お答えいたします。帯方郡太守、弓遵(きゅうじゅん)をめぐる問題です。韓伝と倭人伝に出てくる同一人物の生死の謎ですね。一回、両方の事項を左に整理して書いてみます。
  〈韓伝〉
 (1) 後漢の桓帝(一四六〜一六七)と霊帝(一六八〜一八九)の末に、韓・穢*が強くなり、郡県(楽浪郡のもとの県)も、これを制することができず、(郡県の)民が多く韓国に流入した。(これは、辰韓の鉄山を背景とした富の集中と、それを求めての流入であろうと思います。)
     穢*(わい)は、禾編の代わりに三水偏。JIS第3水準ユニコード6FCF

 (2) 後漢の建安中(一九六〜二二〇)、公孫康は屯有県以南の荒地を、楽浪郡から分ち、帯方郡とした。

 (3) その上、彼は公孫模・張敞等を遣わして遺民を収集した。

 (4) さらに、兵を興して韓・穢*を伐ち、その結果、(楽浪郡の)旧民は、やや(韓・穢*の地から)出ることとなった。

 (5) その後、倭・韓は遂に帯方郡に属することとなった。

 (6) 魏の景初中(二三七〜二三九)、明帝は密かに帯方郡の太守・劉[日斤]、楽浪郡の太守・鮮于嗣を遣わし、海を越えて、楽浪・帯方の二郡を定めさせた。(公孫淵を東西から挾撃するための作戦です。)
     [日斤]は、JIS第4水準ユニコード6615

 (7) 魏は諸韓国の臣智(身分名)の者には、「邑君」の印綬を加賜し、其の次の者には、「邑長」を与えた。

 (8) 其の(韓国の)俗は、衣[巾責]を好み、下戸は郡(帯方郡)に詣り、朝謁した。皆、衣[巾責]を仮し、自ら印綬・衣[巾責]を服する者、千有余人であった。(中国との間の平和な関係の時期の描写です。)
     [巾責]は、JIS第3水準ユニコード5E58

 (9) ところが、魏の部従事(職名)の呉林が、楽浪郡は本もと、韓国を統轄していた、という理由で、辰韓の八国を分割してこれを楽浪郡に与えた。

 (10) そのさい吏訳が転じているうちに、異同が生じ、臣[巾責]沾韓は忿り、帯方郡の崎離営を攻めた。

 (11) 時の帯方太守の弓遵と楽浪太守の劉茂が兵を興して之を伐った。弓遵は戦死した

 (12) 二郡は遂に韓を滅した。

 以上が、韓伝にのべられている経緯です。

 

 次は、倭人伝の方です。
  〈倭人伝〉
 (1)正始元年(二四〇)に、帯方太守の弓遵が建中校尉の梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣らしめた。(下略)

 (2)(正始)其の八年、太守の王[斤頁]おうきが官に到った。(中略)卑弥呼、死するを以て、大いに冢を作った。(下略)
     [斤頁]は、JIS第四水準ユニコード980E
 右の中で、韓伝の(7)〜(12)は、(6)の「景初中」以降であることは明白ですが、それぞれの「時限」が特定されていません。
 これに対し、倭人伝では、明白に「正始元年」に、当の弓遵が健在であることがしめされています。すなわち、韓伝の(11)の「弓遵戦死」は、この「正始元年」以後であることがわかります。
 ではいつか。ズバリ、の記載はありませんが、この点、注目されるのは、倭人伝の(2)です。「正始八年」に、帯方太守に弓[斤頁]という人物が新任しています。この点から見ると、前任者、弓遵の戦死は、この直前、正始七〜八年の間(二四六〜二四七)と思われます。
 したがって、臣[巾責]沾韓の挙兵は、その前となりますが、その正確な時限は特定できません。
 同じく、「二郡、遂に韓を滅す」というのも、その後とは分りますが、やはり正確な時限は特定できません。(魏志自体の「下限」から見て、魏の禅譲(二六五)以前の可能性が高い、と思われますが、これも断定はできません。)

 以上です。これが、御質問をうけて、現在わたしの到達できた認識です。
 この点、『古代の霧の中から』では、韓伝の(6)〜(12)を「景初中」の年時下の一連の事件のように解していました。明らかにあやまりでした。このあやまりを気づかせていただいたこと、わたしにとっては、何事にもまさる喜びです。本当にありがとうございました。

   ※   ※
 わたしはかねがね、考えていました。自分の論証のあやまりを指摘され、その非を認めたとき、直ちに、何の躊躇もなく、その事実を明言しよう。そう思いきめてきました。思うにそれが、真実の探究者にとって、最低のエチケットだと信ずるからです。
 そのすばらしいチャンスを与えて下さったこと、いくどくりかえしても尽きぬ喜びです。感謝です。本当にありがとうございました。
 お目にかかることのできる日をのぞみつつ、とりあえず御礼の言葉のみのべさせていただきました。

       一九八七年六月三十日
                                古田武彦
  中山千夏様

  追伸
  折しも、韓国において、統治権力の平和的転回をめぐって新しい方針が出されたことを、新聞が伝えています。この事件の未来は、わたしなどの関知するところではありません。わたしの関心は、わが国における「根本的な歴史観の平和的転回がいつなされるか」という一点です。なぜなら、明治維新と敗戦、その二回とも、権力自体のドラスティックな変化のあと、歴史観の変転がおこっているからです。第三回目も、そうなのでしょうか。それとも、はじめて、平和的に転回するのでしょうか。未来に対する、尽きせぬ興味です。わたしなどより、ずっとお若い中山千夏さんなど、そのときを眼前にされる日が来るのでしょうか。そうです。近畿天皇家一元主義の史観から、多元史観への転回 ーーその日です。
              〈了〉


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