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『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房
2010年12月刊行 古代史コレクション6

第九章 銅鏡百枚

古田武彦

 一 鏡の記録

 『記」『紀』にない鏡

 卑弥呼の好物とされる鏡というのは、実は、他に『三国志』には出てきません。ということは、出てこないことに意味があるわけです。つまりこの鏡は、中国の天子をめぐる風俗・習慣とは、別のものである、ということです。
 今、絳地こうち交龍錦五匹・絳地[糸芻]粟ケイ*(しゅうぞくけい)十張・倩*絳(せんこう)五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。又特に汝に紺地句文錦(こんじこうもんきん)三匹・細班華ケイ*(さいはんかけい)五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤を賜う。
     [糸芻]は、糸偏に芻。JIS第4水準ユニコード7E10
     ケイ*は、四頭の下に、厂。中に[炎リ] JIS第4水準、ユニコード7F7D
     倩*絳(せんこう)の倩*は、草冠に倩。
     [糸兼けん]は、糸編に兼。JIS第3水準ユニコード7E11

 「特に汝に」といってプラスしているものの中に、銅鏡百枚がふくまれています。
  皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむ可し。故に鄭重に汝に好物を賜うなり。  (魏志倭人伝)

 鏡のことを語っているのは、実にこれだけです。これに対して、『古事記』や『日本書紀』には神宝の話がよく出てきます。たとえば『日本書紀』崇神紀に、

  六十年の秋七月の丙申の朔己酉に、群臣に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「武日照命たけひなてるのみこと一に云はく、武夷鳥たけひなとりといふ。又云はく、天夷鳥あめひなとりといふ。の、天あめより将ち来きたれる神宝かむたからを、出雲大神づものおほかみの宮に蔵おさむ。是これを見欲みまほし」とのたまふ。則ち矢田部造(やたべのみやつこ)の遠祖(とほつおや)武諸隅(たけもろすみ)一書に云はく、一名(またのな)は大母隅(おほもろすみ)といふ。を遣(つかは)して献(たてまつ)らしむ。是(こ)の時に当りて、出雲臣(いづものおみ)の遠祖(とほつおや)出雲振根(いづものふるね)、神宝を主(つかさど)れり。是(ここ)に筑紫国に往(まか)りて、遇はず。其の弟(おほど)飯入根(いひいりね)、則ち皇命(おほみこと)を被(うけたまは)りて、神宝を以(うけたまは)りて、弟(いろど)甘美韓日狭(うましからひさ)と子[盧鳥]濡淳(うかづくぬ)とに付(さづ)けて貢(たてまつ)り上(あ)ぐ。既(すで)にして出雲振根、筑紫より還り来きて、神宝を朝廷に献(たてまつ)つといふことを聞きて、其の弟飯根を責(せ)めて曰はく「数日しばしたむ。何を恐かしこみか、輙たやすく神宝を許(もう)しし」といふ。是を以て、既に年月を経(ふ)れども、猶(なほ)恨忿(うらみふつくむこと)を懐(うだ)きて、弟を殺さむといふ志(こころ)有り。仍(よ)りて弟を欺(あざむ)きて曰はく、「頃者このごろ、止屋やむやの淵に多さはに萎生もほひたり。願はくは共に行きて見欲みまほし」といふ。則ち兄(いろね)に随(したが)ひて往(ゆ)く。是より先に、兄窃(ひそか)に木刀(こだち)を作れり。形(かたち)真刀(またち)に似(に)る。
    [盧鳥]は、JIS第3水準ユニコード9E15

 このように、よそから貴重な品物をもらったことを『記」『紀」共に大変重視して書いています。それにもかかわらず『記』『紀』には直接、「神言」としての鏡の話は出てこない。これは大変なことです。天皇家のことが書かれている『記」『紀』に「神言としての鏡」が、直接的には一切姿を現わさない、ということは、すなわち卑弥呼は天皇家の先祖ではない、ということを率直にしめしています。特に戦後は『記』『紀』を架空だ、後世のつくりものだと一蹴してきました。そのため問題をあまり真剣に考えなかった。しかしこれだけすごい量の鏡が残されているのに、弥生期にあたると思われる「神武〜開化」の間に天皇家ではそれを何にも記載していない、ということは、やはり無視できぬ問題です。

 

 莫大な下賜品の背景

 さてそこで、こうした錦などの貴重なものを大量に、なぜ卑弥呼がもらったのかということですが、これについて、従来よくいわれていたのは「公孫淵の問題」です。公孫氏と魏が戦っていた。その最中に倭の卑弥呼の使者が、魏の天子に朝見を求めてきた。そこで、魏は非常に喜んでこれを受け入れたという説です。事実、公孫氏との戦いの末期、景初二年に卑弥呼は使を送っています。
 しかし、それ以上に重大なことは、「韓国滅亡の問題」です。辰韓・弁韓には王がいたが、最大の馬韓には王がいなかった。しかもそれは偶然ではなく、楽浪・帯方郡と戦って、最初は馬韓側が優勢であったが、やがて逆転されて滅亡してしまったからです。つまり韓の王朝が断絶し「亡国の韓国」になっていた。倭人伝を読む場合も、これを前提に読まなければなりませんが、中国としては滅ぼしてしまえばそれでいいというわけではなく、滅ぼしたそのあとが大事で、ちょうどそのときに倭国が使を送ってきたので喜んで手を結ぼうとしたわけです。だからこれは倭国にとって“喜ばしい”だけではなく、それ以上に魏にとっても非常に“うれしい”使であったのです。そのために莫大な下賜品を与えた。
 中国には、周辺の国から奉献があると、それに倍するものを返礼するという慣習があります。魏と西域との間でもこれに似たようなことがあって、西域から使がくるとそれ以上のものを中国が返すので、西域の国々は非常に喜んだという話があります。持っていくものよりもらって帰るものの方が多かった。だからそれを商売のタネにして利益をねらっている、けしからんという話もあるほどです。確かにそうした傾向もあった。しかし倭国の場合は、それどころか貧弱な奉献に対し、ケタ外れに多かった。というのは、「韓国滅亡」という状況下にあったため、特別待遇になったのではないかと思われます。(この点、「あとがきに代えて」参照)

 

 鏡を望んだ卑弥呼

  (1) ・・・・又晋文(晋の文公)に命じて登りて侯伯と為らしめ、錫するに二輅・虎賁・鉄鉞・秬鬯・弓矢を以てす。大いに南陽(地名)を啓ひらき、世に盟主と作る。故に周室の不壊・・・・  (建安十八年五月、後漢の献帝、魏公と為す。魏志、武帝紀)
 これは、後漢の献帝が、武帝を魏公にするときに、周代の前例をのべているところに出てくる文章です。鉄鉞(まさかり)が見えます。

  (2) 更に匈奴の南単于、呼廚泉に魏の璽綬を授け、青蓋車・乗輿・宝剣・玉[王夬]を賜う。  (黄初元年十一月。魏志、文帝紀)
     石[王夬]の[王夬] (けつ) は、JIS第3水準ユニコード73A6
 匈奴の南単干に魏が授けた品物です。

  (3) 魏使、馬を以て珠[王幾]しゅき・翡翠ひすい・[王毒]瑁たいまいに易えんことを求む。  (嘉禾四年秋七月。呉志、呉主伝)
     [王幾]JIS第3水準ユニコード74A3
     [王毒]JIS第3水準ユニコード7447
 魏の使者が、馬と交換で、珠[王幾](円い玉と四角な玉)や翡翠や[王毒]瑁(南海に産する亀の一種)などの珍物を得ようとしているところです。魏が、そうしたものを欲しがっている様子がわかります。

  (4) 大銭を鋳る。一、五百に当る。詔して吏民をして銅を輸し、銅のヒ*直を計らしむ。(嘉禾五年春。呉志、呉主伝)
 銅の質を調べさせているところです。
     ヒ*JIS第4水準ユニコード7540

  (5) 貴は、遠珍の名珠・香薬・象牙・犀角・[王毒]瑁・珊瑚・琉璃・鸚鵡・翡翠・孔雀・奇物を致し、宝玩を充備す。  (呂岱、交州。呉志、第八、薜綜伝)
 南海・交州の産物が出ています。これらをみると、鏡は贈った側にももらった側にも一切出てこない。倭人伝に「銅鏡百枚」を贈ったというのが出てくるだけです。ただし「銅鏡百枚」は、その前の錦とか絹、金、五尺刀、真珠、鉛丹といったものもふくめてその中の一つであるという、そのバランスも忘れてはなりませんが、しかし、何といってもこれは注目に値します。重さからいっても、持ってくるのは大変だったにちがいない。けれどもそれを運んできた。それはなぜかといえば、卑弥呼にとって「好物」であったからです。卑弥呼がそれを望んだと文面から考えざるをえない。
 では、なぜ卑弥呼が望んだかというと、太陽信仰が卑弥呼の呪術の源泉であって、太陽神とは天照大神、つまりアマテル大神であった。だから卑弥呼は、アマテル大神の信仰をバックにした神がかり的な呪術でもって民を治めようとしていたわけです。そうした儀式のさいに鏡は必須であったと考えられます。弥生期に鏡がたくさん出てくるのはそのためで、しかもその八割が博多湾岸に集中している。したがってそこが卑弥呼の中心地であったということができます。

 

 鏡と前方後円墳

 同時にこのことは、また重要なテーマをふくんでいます。古墳時代においても鏡がたくさん出てくる古墳があるからです。これは、九州にも近畿などにもあって、そこではいずれも前方後円墳という形をとっています。
 もともと弥生墓の場合は盛土墓でしたが、そこへ葬るとき、祭りを行いました。たぶん三〇面、四〇面と出てくる鏡は、そうした祭りに使われたものでしょう。鏡は祭祀にとって欠かせないものであったのです。それらの鏡で太陽の光を反射させ、キラキラ光り輝かせながら祭りを執り行っていたのではないか。民衆はそれを取り巻き、一種のシャーマン的な祭祀のムードに酔っていたのではなかったか。ところが、そうした権力者が強大になってくると、参加する民衆も多くなり、墳墓も平地にあったのでは光が反射する範囲が限られています。そこで高い前方部をもった、大きな墳墓が必要になり、その前方部で鏡による儀式が行われる。そうすると太陽の反射がはるかに広範囲に広がり、いっそう儀式が盛り上がった。このようにして円墳に前方部をともなった前方後円墳が出現してきたのではないかと考えています。
 つまり前方後円墳と鏡は、本来は切っても切れない関係がある。これを別々に考えていては前方後円墳の謎は解けないでしょう。前方後円墳は、「アマテル信仰」の下に発生し、それも、筑紫の糸島・博多湾岸から、やがて九州、さらに近畿などに及んでいったということになります。
 それに対して、これと異なる文明を持つ祭祀(信仰)圏も当然いくつかありました。その中で、もっとも筑紫と場所的に近い存在であったのが出雲で、そこには四隅突出型の古墳があり、吉備、能登半島などに広がったことが知られています。『出雲風土記』には宍道湖を取り巻く四つの神名火山が出ており、これがワンセットになって古代信仰圏を形成していたとみられます。これも、無関係ではないのではないか、と思います。

 

 二 三角縁神獣鏡説

三角縁神獣鏡説/二つの疑問/倭国特注説/伝世鏡の理論/考古学界を憂う/猫塚の荒廃

 

 三 弥生鏡の銘文

日と光の文字/弥生人は字が読めた/神聖なる日を映す/蒼龍と白虎/仙人は桑を食す/崑崙山を知っていた

 

 四 立岩遺跡の舶載鏡

詩にならない銘/文文字はデザイン/国産鏡の等級


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