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『倭人伝を徹底して読む』(ミネルヴァ書房
2010年12月刊行 古代史コレクション6

第十一章 朝廷の多元性

古田武彦

 一 玉・珠・丹

 玉

 さて、本章では、まず珠・玉・丹という言葉を『三国志』でさぐってみることにします。まず玉から見ます。

  (1) 今天下、褐を被、玉を懐きて渭(い 地名)浜ひんに釣する者、有る無きを得んや。  (魏志一、武帝紀)
 この玉は崑崙山で採れるという玉です。玉は貴重なもので、当時の天子や権力者の権威のシンボル的存在として出てきます。そして当然のことながら魏志に圧倒的に多い。呉志や蜀志にはあまり出てこない。つまりこれは、単なる物ではないのです。物だったら、玉の産地である崑崙山に近い蜀の方が多かったはずです。ところが蜀志にはあまり出てこない。恐らく日本での「三種の神器」に類するものだったのでしょう。

  (2) 斂おさむるに時服を以てし、金玉珍宝を蔵する無かれ。  (武帝の遺令、魏志一)
 これは、武帝(曹操)の遺言で、私を葬るときには時服(平常の服)でもって葬ってくれ、また金玉珍宝を決して私の墓に一緒に入れてくれるなと言っています。曹操という人は、『三国志演義』などでは悪者として出てきますが、これを見るとなかなか立派な人物のようです。

  (3) (黄初元年十一月)更に匈奴の南単于、呼廚泉に魏の璽綬を授け、青蓋車・乗輿・宝剣・玉[王夬]を賜う。  (魏志二、文帝紀)
     石[王夬]の[王夬] (けつ) は、JIS第3水準ユニコード73A6
 玉[王夬]は、欠けたおびだま。環の形で欠けたところのある佩玉(おびたま)です。「決意を促すために玉[王夬]が与えられた」(諸橋『大漢和辞典』)といいます(『史記』項羽紀)。

  (4)(5)(棺)飯含するに珠を以てする無く、珠襦・匣を施す無かれ。諸愚俗の為す所なり。  (魏志二)
 先ほどと同じような話で、棺の中に珠玉を入れたり、珠襦(たまを貫いて飾にした短衣。美しい短衣)とか玉匣(玉を入れる箱)を入れてはならない。これは俗っぽい、くだらぬ連中のやることだと。玉と一緒に珠が出てきます(この「珠襦玉匣」は漢代に帝や諸侯王の死を送るための風俗でした)。

  (6) 喪乱以来、漢氏の諸陵、発掘されざるは無し。至りては乃ち、玉匣・金縷を焼き取り、骸骨并びに尽く。  (魏志二)
 これは、わたしの非常に好きな文章で、魏の第一代の天子文帝の詔勅の一節です。「豪勢な墓をつくってはいけない」ということを言っています。漢氏の諸陵は、みな発掘され、玉匣や金縷は焼き取られ、骸骨は散乱している。古えから今に至るまで暴かれない墓はない。すべての墓は暴かれる、すべての国は滅亡する。そういう中で立派な墓をつくろうとするのはまことに愚かなことであると。まさか天子自身が書いたものではないでしょうが、この文章を書いた人の見識、気迫があふれるような文章です。

  (7) 帝又問う、「乾は天たり、而して復た金たり、玉たり、老馬たり、細物と並ばんや」と。  (魏志四)
 玉が金と並んで出てきます。

  (8) (威煕元年)六月、鎮西将軍、衛罐*(人名)、雍州(地名)に上り、成都県(地名)に兵し、璧・玉印、各一を得。印文、「成信」字に似る。  (魏志四)
     衛罐*の罐*(かん)は、缶編の代わりに王。JIS第4水準ユニコード74D8
 璧というのは、輪のようになった玉です。日本では、福岡県糸島郡の三雲、博多湾岸の須玖岡本、朝倉郡の峰など弥生遺跡からガラス璧が出てきます(他に宮崎県の王の山から玉璧)。

 (9) 後、天下兵乱し、加うるに饑饉を以てし、百姓皆金銀・珠玉・宝物を売る。時に后(文昭甄皇后)の家、大いに穀を儲ちょする有り。頗る以て之を買う  。(魏志五、后妃伝)
 「百姓皆金銀・珠玉・宝物を売る」と。お百姓さんが、それほどの金銀・珠玉・宝物を持っているのかと思ってしまいそうですが、これは、普通日本でいう百姓(ひゃくしょう)ということではありません。この百姓というのは、百の姓(せい)。つまり豪族です。様々な姓を持った豪族たちが、みな金銀・珠玉・宝物を売るようになったと。日本の敗戦直後のようなものでしょう。

  (10) (太和元年)四月、初めて宗廟を営み、地を掘り、玉璽を得。方一寸九分、其の文に曰いわく「天子羨思慈親」と。  (魏志五)
 「玉璽」は、天子のシンボルとざれているものです。言葉だけは現在も生きており、天皇の「御名御璽」の「璽」は、これから来ています。

  (11) 困しみて能く通じ、難に遭うて必ず済すくい、危を経て険を路み、其の節を易えず、金声玉色、久しくして彌いよいよあらわる。  (魏志十一)
  (12) 前世を歴観するに、玉帛の命ずる所、申公(人名)、枚乗(人名)・周党(人名)・樊英(人名)の儔たぐい、其の淵源を測り、其の清濁を覧るに、未だ[厂/萬]れい俗独行、寧(ねい 管寧)に若く者は有らざるなり。  (魏志十一)
     [厂/萬]は、厂偏に萬。JIS第3水準ユニコード53B2

  (13) 礼、天子の器、必ず金玉の飾有り。飲食の肴、必ず八珍の味有り。  (魏志二十一)
  (14) 渙然として往事の過謬を改め、勃然として来事の淵塞を興せば、神人嚮応し、殊方慕義し、四霊效珍し、衡曜精せん。  (魏志二十五)
  (15) 若し旦夕を偸安とうあんし、迷いて反かえらずば、大兵一発、石皆砕け、之を悔いんと欲すと雖も、亦及ぶ無きのみ。  (魏志二十八)
  (16)(17)公孫淵、誅に伏し、玄菟の庫、猶匣一具有り。今夫余の庫、璧・珪・[王贊]、数代の物有り。伝世して以て宝と為す。耆老言う、「先代の賜わる所なり」と。其の印文に言う、「穢*王の印」と。  (魏志三十、夫余伝)
  (18)真珠・青を出す。其の山に丹有り。  (魏志一二十、倭人伝)
     [王贊]は、王編に贊JIS第3水準ユニコード749C
     穢*は、禾偏のかわりに三水偏。JIS第三水準、ユニコード6FCA
 「青玉」というのは、碧玉ではないかといわれている(寺村光晴氏)のですが、これについての記述は、魏志倭人伝以外に『三国志』では、ありません。日本列島では親しみのある青玉も、中国人にとっては、珍しいものだったようです。

  (19)故に夏(王朝名)、罪多くして殷湯(殷の湯王)、師を用い、紂(人名)、淫虐を作して周武(周の武王)、鉞えつを授く。苟いやしくも其の時無くんば、臺、憂傷の慮有り。孟津(地名)、反師の軍有り。 (呉志十三)
 「玉臺」というのは、天子の宮殿の固有名詞です。

 

 珠

 二番目は「珠」で、これは前出の(1)(2)(3)にも出てきました。

  (4) 預(宗預)に大珠一斛を遣わし、乃ち還る。  (蜀志十五)
 これは「(延煕十年(二四七)登*芝、江州より還り、来朝」というところに出てくる文章です。中国にも珠があった。倭人伝で中国から真珠をもらっているが、あれを「朱」のまちがいであろうと言っている人がいます。しかしそうではなくて、やはり中国にも真珠はあったのです。南海から来たものだろうと思われますが、真珠は、必ずしも倭国専売ではありません。

  (5) (嘉禾四年)秋七月、雹有り。魏の使、馬を以て、[王幾]・翡翠・[王毒]瑁に易えんことを求む。  (呉志二)
     登*芝の登*は、登に阜偏。JIS第3水準ユニコード9127
     [王幾]JIS第3水準ユニコード74A3
     [王毒]JIS第3水準ユニコード7447
 ここで面白いのは、魏が呉と交易をやっていることです。呉は南海の産物をたくさん手に入れていて、魏の使者はそれらを魏の馬と取り替えましょうと言っている。魏は、北方民族とも交易していて馬を手に入れていたわけです。それと南海の、海の産物とを交換している。戦いの中にも交易ありです。

  (6) 燮(こう 士燮)、毎つねに使を遣わして権(孫権)に詣いたる。雑香細葛を致すこと、輒すなわち千数を以てす。明・大貝・琉璃・翡翠ひすい・[王毒]瑁たいまい・犀・象の珍、奇物・異果、蕉・邪・竜眼の属、歳として至らざる無し。壹(士壹、弟)の時、馬を貢すること、凡そ数百匹。  (呉志四)
 南海からは馬も献上しているし、珍しい産物もいろいろ献上しています。

  (7) 貴は、遠珍の名・香薬・象牙・犀角・[王毒]瑁・珊瑚・琉璃・鸚鵡・翡翠・孔雀・奇物を致し、宝玩を充備す。  (呉志八、薜綜伝)
 交州の日南郡の呂岱からも、いろいろ珍しいもの、奇物を運んできた、という記事です。

 

 丹

 さて、三番目は「丹(朱)」ですが、丹は案外記述がありません。

 衣は錦繍を用いず。茵蓐は縁飾せず、器物は漆無し。能を用いて天下を平定し、福を子孫に遺のこす。此れ皆、陛下(明帝)の親覧する所なり。  (魏志二十一、衛観伝) 卑弥呼が使した明帝を、ここでは陛下と呼んでいます。こういうように非常に質素にやっていたことは、明帝もよくご覧になっているところでしょう、といっているのは、武帝(曹操)のことを言っているわけです。曹操は、死ぬときだけでなく、生前も非常に質素で、ぜいたくなものは使わなかった。明帝もおじいさん(曹操)のそういうやり方は子どものときによく見てご存じでしょう。それなのにあなたはぜいたくすぎます、と、ご意見番が諌めているところです。明帝は、なかなかよいご意見番を持っていたようです。
 こうしてみると、玉や珠・丹については、それほど意外なことはなく、玉が魏志に片寄って出てくるのも、玉のもつ性格からいえば、当然であろうという感じがします。

 

 石車と磐船

 しかし、こうした考証をやっているうちに副産物として次のことが出てきました。
  太祖、乃ち為に石車を発し、紹(衰紹)の楼を撃ち、皆破る。紹の衆、号して霹靂へきれき車と曰う。  (魏志六、袁紹伝)

 これをなぜ問題にしたかというと、大和と河内の国境にある磐船神社の「天の磐船」について考えが及んだからです。これは、邇芸速日命(にぎはやひのみこと 饒速日命)が乗ってやって来たという伝承になっていますが、そんな重い、石製の船に乗ってやって来れるはずはないのであって、当然木の船であったであろう。壱岐・対馬か、あるいは広い意味での九州からやって来て、大阪湾岸に入った。登美能那賀須泥毘古(とみのながすねひこ 長髄彦)は、これを歓迎して妹の登美夜毘売とみやぴめ)の旦那さんにした。そのとき木の船を“頑丈な木の船”ということで、天の磐船と言ったのだろうとわたしは今まで考えてきましたが、ところがその後、面白い異論が出てきました。というのは、磐船は、堅い船のことではなくて、“石を積んだ船”“石を運んだ船”ではないかということです。そう考えてみれば『記』『紀』に出てくる磐という字を全部集めてみたら、形容詞に使っている例よりも圧倒的に物そのものに使っている例が多い。実物の石を「岩」と呼んでいる方が圧倒的に多いのです。もちろん形容詞に使っている例もないことはないのですが、少ない。
 そう考えてみると、弥生時代以前の旧石器・縄文期では、石が重要な武器でもあり、その時代の中心的シンボル物でもありました。しかも日本のような島国では、それを運ぶ船が、当然運送機関として発達、活躍していたにちがいない。地上で「修羅」が使われていたように、海や川で「石を運ぶ船」があったとしても不思議ではないのです。
 もしそうであるとするならば、『記』『紀』の世界は主として弥生の世界ですが、そこにチラホラと縄文がちらついていることになります。例を挙げれば、国ゆずりのときに建御名方神(たけみなかたかみ 大国主神の次子)が、国ゆずりの交渉を拒み、出雲から信濃の諏訪に逃げる。なぜ出雲から諏訪湖へかという場合、現在の常識や弥生の常識だけでは解けない。ところが黒曜石の旧石器・縄文という観点から見れば、直ちに解けるわけです。本土において黒曜石の二大中心地が、一方は隠岐島の出雲であり、他方は和田峠の諏訪湖畔でした。とすると、他の湖ではやはり駄目だったわけです。
 このような認識は、津田左右吉のような六世紀以後の史家の「造作」説のように、「勝手に作り上げ、でっちあげた説話」という考えではもちろん説明不可能ですし、また、古墳時代以後の知識でも説明不可能です。縄文の知識を導入しなければ、『古事記』の神話は説明できない。要するに、“弥生がメインであるが、そこに縄文がチラチラしている”ということになる。すると、この「磐船」も、縄文期には大変華やかであった、「石を運ぶ船」ではなかろうか、ということになってきます。
 そうした考え方からすると、この『三国志」の「石車」は、石を積んだ車というよりも石を攻撃用の弾として投げつける装置をつけた車のことかもしれません。だから「霹靂車」と呼んで敵も恐れた。中国の「石車」と日本の「磐舟」、この辺の問題も、何らかの方法でさらに詰めてゆければ、と考えています(磐舟神社の場合、第一、邇芸速日命が「天国風の石積み舟」に乗ってきた段階〈弥生期〉、第二、大和盆地北西部を支配領域としたあと、彼の子孫〈物部氏〉が彼を「祖神」として“超能力者”説話を新造した段階〈古墳期〉に分れる。後者の場合に旧石器・縄文以来の石の聖地を「転用」あるいは「再活用」したもの、と見られます)。

 

 二 朝廷の多元性

『三国志』の朝廷/二つの朝廷/朝廷の多元性と西晋朝廷の不在/朝廷を疑ってみる/国を造り、国をゆずる/三津郷の大国主


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