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『「邪馬台国」はなかった』


『ここに古代王朝ありき』ーー邪馬一国の考古学(ミネルヴァ書房
2010年9月刊行 古代史コレクション5

第二部 文字の考古学

第一章 イ方製鏡

古田武彦

 「小型イ方製鏡」の分布

小型イ方製鏡 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 従来の考古学界において、日本列島内部で作られた最初の鏡と見なされている、一群の鏡がある。「小型イ方*製鏡ほうせいきよう」と呼ばれるものがそれだ(第12図)。直径は三〜一〇センチくらい、文字はないか、あってもくずれて模様化しており、鋳上がりが悪い。そのような鏡が、筑前中域を地理的な中心地帯として、北西は対馬・壱岐、南東は筑後から大分・熊本にかけて分布しているのである。ときは「弥生後期」だ。
     イ方*製鏡のイ方*は第3水準ユニコード4EFF、後は論証に直接関係しないので略

古塚(弥生)時代の小型イ方製鏡の分布 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 けれどもわたしは、はじめ、この分布図(第13図)を見たとき、直ちに一つの不審をもった。地理的にはたしかに筑前中域を中心地帯としている。だのに、その「中心地帯」の出土量は、それほど多くないのである。少なくとも“抜群の出土量”というわけにはいかない。この地帯(筑前中域)は、かつて(「弥生中期」)、中国製とされる「前漢式鏡」「後漢式鏡」が抜群の出土をしめしたところ。その全出土鏡の約八割がこの地帯に集中していた。分布図を描いてみても、この領域は“シェア(市場占有率)の独占”を誇っていたのである。
 ところが、「国内産」となったとたん、この低落ぶりは何か。“既製品を船で大陸から運んでくるのは楽だが、自前で作るのはむずかしい”のだろうか。おかしい。なぜなら。その同じ「弥生後期」に「中広・広型の矛・戈」の製造に気狂いじみたくらい熱狂している、この領域だ。だのに、鏡については、この少量。“鏡への嗜好が減ったのだろう”といってすませられるものだろうか。
 第一、このうすねぼけたような製品のでき上がりはどうだ。すでに「弥生中期」、あの細剣などの硬質で見事な技術の銅製品、それらを自前で作りえた、この領域だ。だのに、なぜ。

巴型銅器(桜馬場遺跡出土) 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 もう一つ、見のがせぬ事例がある。「巴形銅器」と呼ばれる特異な銅製品だ(第14図)。井原(福岡県)の王墓や桜馬場(佐賀県)といった、「後漢式鏡」をともなう甕棺から出土している。今の考古学で「弥生後期初頭」にあてている時期だ。
 この巴形銅器が国産であることは疑いない。中国や朝鮮半島にはこんなものはないからだ。ところがこの製品はまことに立体的、かつ精巧。これを“再製作”した中山裕(『実験考古学』)は「弥生時代の鋳銅技術の原点とも思われる重要な銅器であることがわかってきた」とのべている。
 “かくも精巧な製品を作りうる、九州北岸の倭国工人が、なぜ鏡だけは、これほどうすねぼけた粗品しか作れなかったのか” ーーこう問うたとき、わたしは新しい世界への扉が開けるのを見たのである。

 

 「漢式鏡」の補完

 まず、わたしは考えた。“筑前中域に質量ともに極端な集中度をもつ漢式鏡(前漢式鏡、後漢式鏡)を主軸におき、その補完物としてこの小型イ方製鏡を考えたらどうか(漢式鏡図 ーー 第一図参照、インターネット上は下部に表示)”。これなら、分布図としてさまになるのである。

第1図


 たしかに、従来の考古学者とて、これを「補完物」視してはきた。“「弥生後期」になって舶載品がなくなったので、こんな粗末なものでも、自前で作らざるをえなかったのだろう”。
 しかしこれでは、先の問いをさけることはできない。“なぜ、地理的中心部が薄弱なのか”。この問いだ。いや、それどころか、“前代(弥生中期)は、中央に集中、次代(弥生後期)は中央が薄弱で周辺に多い”。そんなことが果してありうるだろうか。
 考えた末、わたしは一つのアイデアに到着した。それは、もっとストレートに両者(「漢式鏡」と小型坊製鏡)を同一線上に並べることだった。すなわち両者を同時代のものと見なすのである。そうすれば、「漢式鏡」の集中した中央(筑前中域)を遠ざかって地方にゆくにつれて、小型イ方製鏡が連なって分布している、という、自然な(ナチュラル)分布状況が見られるのだ。ここでもまた、第一部でのべた矛・戈と同様に、わたしは「弥生中期」とされた漢式鏡と「弥生後期」とされた小型イ方製鏡を同期と見なすべき、分布図上の必然性をかいま見たのであった。

 

 同期補完の視点

 “「漢式鏡」と小型イ方製鏡は同期”。このわたしの新しい命題を裏づけるべき「発見」が、すでに朝鮮半島の東南部で行われていた。大正七年、韓国漁隠洞(永川郡、琴湖面)から出土した十一面である。
 はやく梅原末治が「支那古鏡のイ方製に就いて」で紹介し、そこからは四花鏡(異形糺*きゅう竜紋鏡)や日光鏡二面といった「支那鏡」と共に日光鏡と大きさの似た小型イ方製鏡が十面ばかり出土した、とのべ、
「質も又支那製作と認むべき日光鏡の白銅に対して、これは青銅質を呈して我が銅鐸の示す色合に近くその点にも両者の相違を示す」(梅原『鑑鏡の研究』所収)と論じている。そしてさらに大正十二年の講演たる「考古学上より観たる上代日鮮の関係」において次のようにのべた。
     糺*(きゅう)は、糸偏の代わりに虫。JIS第3水準ユニコード866C

「処がこれに就いても実は基づく処が韓半島にあったといふ事を証拠立てる面白い資料が発見せられました。即ち慶尚北道の永川郡の琴湖面から出た鏡の一類がそれであります。是は大正八年に偶然に発掘したのでありますが、その時其処から小さな鏡が十数面出ました。これは何れもよく似た鏡でありましたが、細別すると大体二種に分けることが出来ます。一つは『見日之光天下大明』といふ銘のある支那製品で、これは大体年代が判ってゐますが、他の多くのものは銘がなくて趣の少々違った類であります。そして一方は白銅であるが他方は銅の質が悪い。それは後程御覧を願ひますが両者を比較致しますると、同じやうな模様ではあるが、銘文のある支那鏡は形が整ってゐて線も鋭いのでありますが、他方は線が著しく丸味を帯びてゐて、且つ紋様が崩れて変なものになって居ります。そこに現はされた紋様の感じは全く違ひます。そして支那鏡でない一方の示す手法は上に数へた内地イ方製鏡の特色を具備して居りますから、彼が模造品であればこれも模造品でなければなりません。基づく処は同出の漢鏡である。処が此の鏡は明かに前漢時代と推定せられるものであるから、模作のものもまたそれの伝はった頃のものとしなければなりません。先程ちょっと申し落しましたが、内地の古墳から出るイ方製鏡の年代は大体に於て漢よりも三国時代から其の以後のものが非常に多いのであります。さうすると此の永川の古鏡はそれよりも古く、同出の支那鏡はまさに須玖や三雲の遺跡から出たものと同時代に当ります。当代にはまだ内地には明白にイ方製とすべきやうな鏡が現れて居らぬ様でありますが、支那に近い朝鮮に於いては我が内地のイ方製鏡と同一性質の古いものが存して居ります」(同書所収)。
 梅原の論点を要約すれば、次のようだ。
  (一)朝鮮では、小型イ方製鏡は、前漢鏡と共存している。
  (二)日本では、両者は時期を異にし、前者は「弥生後期」、後者は「弥生中期」だ。

 けれども、この梅原論法は、よく見つめるとおかしい。なぜなら、第一に、小型イ方製鏡も日光鏡も、それぞれ博多湾岸(須玖)から出てくるものと漁隠洞のものと同類物だ、という。第二に、漁隠洞と博多湾岸は、弥生時代にはまさに朝鮮海峡をはさんだ対岸といっていい、同質文化領域だ(第13図参照)。これを「朝鮮と日本」というふうに、別圏として峻別するのは、現代的観念にすぎぬ。しかも漁隠洞は、釜山を遡る洛東江の支流にのぞみ、「中広・広型」の矛・戈類を出土した大邱(洛東江上流)からすぐ東隣に位置している。その上、「多鏡冢」という性格は、日本列島古家期の筑前中域と共通しているのである。
 以上の状況から見ると、この漁隠洞の例からえられる示唆は次のようだ。“九州北岸側の例について、「漢式鏡」と「小型イ方製鏡」の時期を別に考えていたのは、あやまりではないか。むしろ両者同一期であることを暗示している”と。
 この点をさらに裏づける事実がある。日本側で最初に発見された小型イ方製鏡の事例は、中山平次郎によって報告された(「銅鉾銅剣発見地の遺物追加」『考古学雑誌』第八巻第十号、大正七年十月)。中山は、これを日光鏡と見なしたのであるが、烱眼な富岡はこれを“中国製に非ず”と見破った。そして彼の遺稿たる「九州北部出土の古鏡に就いて」(大正七年七月)にこれを書いたのである(読者は前にも引用した、この遺稿の名を記憶せられよ)。

須久岡本遺跡出土の細型銅剣(拓本) 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 ところが、この小型イ方製鏡は、もう一つの大型の鏡(これについては後に詳述)と、細剣をともなって甕棺の中から出土した(第15図)。「細剣」とは、日本の考古学界で「弥生中期」に擬せられた“宝器”だ。したがって「細剣」をふくむ甕棺とは、すなわち「弥生中期」の甕棺なのである。三雲・須玖の時期だ。その中にこの「小型イ方製鏡」がある。これは、どういう意味をもつだろう。
 例の四王墓のうち、三雲は「細剣1」をもち、須玖は「細剣4」をもつ。だが、「井原」や「平原」には「細剣」はない。したがって、右の「細剣入り甕棺」の時期は、この点から見れば、むしろ“三雲・須玖に近い”のである。そういう甕棺から「小型イ方製鏡」が出ているのだ。 ーーここでも、漁隠洞に近似した様相があらわれているのである。
 やはり「漢式鏡」と「小型イ方製鏡」をそれぞれ「弥生中期」と「弥生後期」に峻別して年代づけしてきた、従来の手法。それは方法上、大きな錯誤をふくんでいたのではあるまいか。そういう疑いがわたしの中に生れた。
 だが、そこは終着点ではない。より新しい次元の世界が、実はそこから出発していたのである。

 

 富岡四原則

 “こんな、小型のうすぼけたものだけを、イ方製鏡と称する。その「判定の基準」は一体、何か。誰がその基準を作ったのだ”。
 このような問いをいだいて、考古学の研究史を渉猟してゆくうち、その回答をなす論文がわたしの前に出現した。富岡謙蔵『日本イ方製古鏡に就いて』がこれである。
 これは富岡の没(大正七年十二月)後、弟子の梅原末治が生前の覚書や談話をもとにして「梗概」としてまとめたものだ(大正八年)。その中に「富岡四原則」とも呼ぶべき、中国製の鏡とイ方製鏡とを判別する“リトマス試験紙”が提示されている。
 (一)鏡背の文様表現の手法は支那鏡の鋭利鮮明なるに対して、模造の当然の結果として、摸糊となり、図像の如きも大に便化され、時に全く無意義のものとなり、線其他円味を帯び来り一見原型ならざるを認めらるゝこと。
 (二)支那鏡にありては、内区文様の分子が各々或る意味を有して配列せるを常とするに対し、模イ方と認めらるものは一様に是れが文様化して、図様本来の意義を失へるものとなれること。
 (三)本邦イ方製と認めらるゝものには、普通の支那鏡の主要部の一をなす銘文を欠く、図様中に銘帯あるものと雖も、彼の鏡に見る如き章句をなせるものなく、多くは文字に似て而も字躰をなさず、また当然文字のあるべき位置に無意味なる円、其の他の幾何学的文様を現はせること。
 (四)支那の鏡に其の存在を見聞せざる周囲に鈴を附せるものあること。
以上を簡約すれば次のようだ。
 (1) 鋳上がりが悪いため、文様・図像・線などがあいまいになっていること。
 (2) したがって図様(文様・図像)本来の姿が失われていること。
 (3) 文字がないこと、もしくは“文字に似て文字に非ざる”文様めいたものにくずされていること 。
 (4) 鈴鏡(鏡の周辺に数個の鈴をつけたもの)は、中国にないから日本製である。

 なるほど、この「判定基準」なら、ピタリ「小型イ方製鏡」があぶり出されるしかけだ。“鋳上がりが悪い、文様がこわれている、文字がない、もしくはくずれている”と三拍子そろっている。その上、“中国人はこんなお粗末な、不器用なものを作りはしない”。だから、第四項の「中国にない」点にも当っている。
 このようにして「小型イ方製鏡」という概念が生み出され、現今考古学界の「定説」を形造ったのだ。 
 だが、わたしがこの四原則を見て感じたこと、その第一は、この四原則は(A)(1)〜(3)と(B)(4)との二グループに分れ、判定の方法が両者ちがっている、ということだ。
 (4)の方は、わたしには、よく理解できる。“その出土分布図は、日本列島に限られていて、中国や朝鮮半島に出土しないから、それ(この場合、鈴鏡)は日本製だ”。こういう考え方である。はじめに挙げた(二ページ)わたしの根本格率からもピッタリだ。
 他の例で言えぼ、巴形銅器など、それがいかに上質の精巧な技法で作られていても、分布図上、日本列島にしか出土しないから、これは日本製だ。 ーーそういう判断方法なのである。
 ところが(A)の(1)〜(3)はちがう。“日本人が作ったのなら、どうせ鋳上がりは悪いだろう。文様や図像の意味もわからず、くずしてしまうにちがいない”。これは前の客観的基準とはうって代った主観主義まるだしの判定基準。そう言ったら言いすぎだろうか。
 この判定基準でいけば、志賀島から現に鋳型の出た、いわゆる細剣も、国産ではないことにしてしまわねばならぬ。鋳上がりがいいからだ。一方、日本列島独特の形式の巴形銅器。あんな精巧なものは、どうにも国産には“不似合”だ。“中国の工人にでも依頼して洛陽の工房で倭国側の「注文通り」に作ってもらった”。こんなりくつでもひねり出さねばならないだろう。
 だが、強引にそんな風にりくつづけてみても、結局第四項の基準とは、全く矛盾してしまうのである。

 

 第三項の秘密

 わたしの刮目(かつもく)した点。それは第三項だ。
 “レッキたる文字があったら、駄目”。もう、それだけで日本製としては、永久失格の烙印を押されてしまうのだ。日本人には“文字など、お呼びでない”というわけである。
 ここに至って、わたしの目には、富岡の描いた“虚像”がハッキリと映ぜざるをえなかった。なぜなら、わたしはすでに古冢(弥生)期、日本列島内の「文字認識」について、一定の明確な結論をえていたからである。
 この点、昭和五十二年にわたしの出した訳著『倭人も太平洋を渡った』(創世記刊)の中にのせた「日本の古代史界に問う」の一文の中ですでにのべた。要旨は次のようだ。

 倭人伝によると、魏の明帝は卑弥呼に対して詔書を送り、その文面がかなり長文のせられている。例の「銅鏡百枚」をふくむ文面だ。とすると、卑弥呼側はこの見事な漢文が“読めた”のだ。いいかえれば、倭国朝廷内に文字官僚が存在し、これを解読していたこととなろう。
 たとえば「倭国が一定の造船能力をもっていた」という概念は、“倭国の朝廷が一群の造船工人をかかえていた”ことを意味するだけであって、朝廷のメンバー全員がその造船技術をもっていたことを意味しはしない。
 これと同じく、「文字」の場合も、卑弥呼や倭国朝廷の全メンバーが文字解読能力をもっていたことを意味する必要はない。これは当然だ。

 また卑弥呼は、そのときの魏使に托して、上表文を魏朝に送っている。すなわち、一定の作文能力をもっていたのである。これも不思議ではない。あの長文の漢文を解読する能力のある文字官僚。彼は当然若干の作文能力ももっているはずだからである。したがって「三世紀の倭国の朝廷は、文字の解読能力と若干の作文能力をもっていた」 ーーわたしはこの命題を疑いえない。
 かつて一世紀なかば、建武中元二(五七)年、博多湾岸なる倭国の王者に対して金印が授与された。曰(いわ)く「漢の委奴いど(ぬ)の国王」(「漢の委の奴の国王」ではない。 ーー古田『失われた九州王朝』参照)。
 ここに描かれた「文字」、それは倭国の朝廷を震憾する強烈な印象を与えたであろう。すなわち倭国は少なくともすでに一世紀半ば、確実に「文字を認識した」のだ。そのあと二世紀近い年月を閲(けみ)した三世紀前半。倭国の朝廷は、その間において“文字官僚を養成した”、そう考えてあたり前だ。“何ら文字への欲求をもたず、文字を知る渡来人(中国人・朝鮮半島人)を招かず、倭国の青年・工人にも一切学ばせなかった”。そう考える方が不自然なのである。したがってわたしたちは「一世紀半ば〜三世紀半ば」の二〇〇年間を“倭国朝廷の文字修得史”に当たる時代、そう見なさねばならぬ。 ーーこれは不可欠の命題だ。
 さて、この文字の問題こそ、卑弥呼の朝廷のありかを、もっとも簡明に指定する論証力をもつ。
 日本列島の全弥生遺跡の中から集中して出土する「文字遺物」と言うべきものが果たしてあるか。 ーーある。その「文字遺物」に当たるものは一つ。いわゆる漢式鏡だ。「前漢式鏡」といわず、「後漢式鏡」といわず、その多く(半ば)は「文字」がある。いわゆる銘文だ。その文字をもつ鏡が一つの甕棺に二〇〜四〇も入れられていることはすでにのべた。それらは筑前中域に存在する。では問おう。その被葬者や当人を葬った人々は、果たしてその文字を「文字」として認識していなかったか。ただ“四角い模様”としてしか見ていなかったのだろうか。 ーーそんな馬鹿げた話はない。一世紀半ば、金印の「文字」がすでにこの地の人々を直撃していた。その上、この領域(筑前中域)の海一つへだてた対岸の朝鮮半島(楽浪郡、帯方郡)では、早くから文字が使われている。だのに、どうして彼等が文字を「文字」として認識できないはずがあろう。当然、知っていたのだ。
 ところで、このように「文字遺物」が集中的に出土し、その領域の人々が確実に文字認識をもっていた、そのように推定(あまりにも確実な推定である)できる領域が、全日本列島中の全弥生期を通じてほかにあるか。全くない。

 以上である。
 このまごうかたなき事実からも、空問的には、“文字解読能力ある卑弥呼の朝廷”のありかは、この「筑前中域」という領域にしかなく、時間的には、この「文字鏡、冢」の時代をさしおいて、卑弥呼の時代(三世紀)はない。
 これは「もの」のしめすところに対し、率直に目を見ひらき、見すえることができる人なら、誰一人避けえぬ選択、唯一の帰結ではあるまいか。

 

 文字の道

 歩みきたった“文字の道”の里程標の前で、ひとたびたちどまって富岡論断をふりかえってみよう。そこからあまりにも遠く、わたしははなれてきたようである。
 わたしの認識では、三世紀の倭国で文字が知られていたのは確実だ。これに対し、富岡はなぜ、こともなげに“文字知らぬ倭人”を自明の前提のようにして、第三項の命題を建立したのだろうか。富岡は、その理由を語っていない。
 “大家とは、理由抜きで結論をしめすことの許された人のことだ”。このような見地でこの場合の富岡を批評するならば、あまりにも、それは辛辣(しんらつ)にすぎるかもしれぬ。なぜなら富岡は他の論文の場合、“自己の論証過程をしめして帰結をのべる”。この当然の姿勢をしめしている。ほぼそのように言うことができるからである。では、この場合の“理由抜き”はなぜか。
 思うに、富岡が“理由抜き”ですませえたのは「時代の常識」に依拠している、と彼に思われていたからではあるまいか。「時代の常識」とは何か ーー五世紀文字初伝説である。
  又百済国に「若し賢人有らば貢上せよ」と科賜(おほせたま)ひき。故(かれ)、命(みこと)を受けて貢上せる人、名は和邇吉師(わにきし)。即ち論語十巻・千字文一巻、并(あわ)せて十一巻。是の人に付けて即ち貢進す。
        (『古事記』応神記)

 戦前の教育をうけた人なら、多くの人に覚えがあろう。これを「文字初伝」として学校で教えられたことを。
 富岡も、この「時代の教養」の上に立っていた。したがって“四世紀以前(弥生時代や古墳前期)の日本人が文字を知らぬことは自明だ”。そう考えたのではあるまいか。それが理由抜きの第三命題となったのである。すなわち、考古学界に根本の基準尺を与えた富岡論断の史料的基礎は、何と『古事記』『日本書紀』にあったのだ。
 これに対し、戦後史学は津田史学を基盤とした。津田史学は『記』『紀』の記事をそのまま信ぜず、六・七世紀の史官の「造作」と見なした。したがって戦後の史学者は、右の文面をそのまま信ぜず、“時代を切り下げ”、いわば“割り引いて”理解するのを常としたのである。「文字の初伝は、五世紀末だ」「いや、それでも甘すぎる。六世紀前半だ」「やはり、文章らしい文章となると、七世紀前半では」。こういった風に各自その立論の“厳密さ”を各自の“切り下げ率”によって競うような観を呈したのである。
 したがって、“『記』『紀』に依拠した”富岡論断が、『記』『紀』を「否定」したはずの戦後史学においてもまた、“疑われず、支持された”こと、それは右の事情から見れば、あやしむに足りない。
 しかしながら、わたしは後代の『記』『紀』を根本史料として立論するのでなく、同時代史料たる倭人伝を根本史料とするという立場だ。そのかぎり、わたしが今のべた判断に至る以外の道はない(この点、詳しくは、先の『倭人も太平洋を渡った』所収のわたしの論文を参照されたい)。

 

 虚構の「文字初伝」

 なお、もう一つの“盲点”がある。
 右の王仁の記事を「文字初伝」記事と解したのは、実は戦前史学の立場、それも一種の「教科書用語」だったのではあるまいか。
 なぜなら、文字を全く知らぬ国へ、いきなり『論語』をもちこむあわて者がいるだろうか。それでは、文字通り“猫に小判”ではあるまいか。『千字文』もそうだ。この文献の使用価値、それは“目に一丁ちよう字もない者に文字を教える”ためのものではない。“一応文字はあれこれ習得したが、まだ依然知識に片寄りがあり、十分に体系的でない”。そういう場合に、卓効をはなつ資料なのである。とすると、この時点(応神期)で、『千字文』や『論語』がプレゼントされた、というのは、百済側が“すでに日本列島には、散発的ながらかなり文字が普及している”ことを知っていたせい、そう考えるのがすじだ 。
 要は、右の記事自体に「文字初伝」と書いてあるわけではない。「記事として最初」であっても、その資料事実は、明白に「五世紀初頭以前に、すでに日本列島には文字があった」。その事実を指示する記事だったのである。
 それを誰かが早のみこみし、「文字初伝」として教科書に書き、全日本国民に“憶えさせ”、これが「時代の常識」となったのである。
 このように分析してくると、もはや事態は明らかだ。わたしたちが「文字の伝来」について依拠すべき史料、それは『記』『紀』ではない。光武帝から金印を送られたことを記す『後漢書』の倭伝、倭国との間に詔書や上表文の交換されたことを記す『三国志』の魏志倭人伝だったのである。
 してみると、やはり富岡四原則の第三論断には、依るべき史料上の根拠がない。それが今や白日のもとに明らかとなったのである。

 

 注目の富岡遺稿

 わたしたちが新たに依るべき根拠、それは先に記したものだ。“一世紀半ば〜三世紀半ばは、「倭国の文字習得史」の時期であり、もはや三世紀には相当の文字認識に達していた”という、この命題である。
 とすると、この時期に作られたイ方製鏡があるとすれば“そこに文字が現われていても、何の不思議もない”こととなろう。 ーーこのような前人未踏の驚くべき指標、しかし適正な史料と適正な論理に従う限り、必然の帰結点に立っている自分、それをわたしは見出したのである。
 では、本当に“文字のあるイ方製鏡は実在するのか”。この問いに「イエス」の答を最初に投げかけた人、 ーーそれは、意外にも富岡謙蔵その人であった。
 「富岡遺稿」と称すべき、この問題の論文「九州北部出土の古鏡に就いて」は、大正七年七月、彼の死(同年十一月、没)の年の夏、書かれた。これは同年六月、中山平次郎が「銅鉾銅剣発見地の遺物追加(上)」と題して報告した二つの“異鏡”に対する、いち早き反応であった。

 中山は、本業の九州大学医学部教授としての生活のかたわら、博多近辺を中心に筑紫一帯、はては九州北半を歩き尽くし、その足下から数々の貴重な出土品を発掘、あるいは採集し、これをいちいち詳細に『考古学雑誌』等に報告していた。その諸論文を渉猟し、わたしはそのおびただしさとその情熱に驚嘆したのである。
 しかしながら、当時の考古学界は、必ずしも彼の熱意に報いようとはしなかった。“医学ならぬ考古学については一素人”と、これを“冷眼視”していたからである。たとえば彼がある論文の中に、
 「此卑見に対しては素人の暴論なる罵声を聞かぬでも無かったが、学界の大勢は無期黙殺に処すと決せられたものと見えて、爾来何人からも顧みられずに其儘今日に及んだのである」(「須玖岡本新発見の硝子製勾玉」『歴史と地理』第二十三巻第二号、昭和四年二月)

と書いているのを見ても、当時の雰囲気を察することができる。

 

 L・V鏡の謎

 けれども、ここに貴重な例外があらわれた。 ーー富岡遺稿だ。中山の先の論文の一か月後、早くもその論文は書かれた。ただ、未発表のまま、その年の暮れ(十一月)、富岡は四十八年の生涯を終えたのである。
 もっともこの場合、中山にとってこの二つの鏡は、必ずしも「異鏡」とは見なされていなかった。逆に富岡の平常説く漢鏡(前漢式鏡もしくは王莽鏡)の姿によく一致している旨を説述していたのである。
 けれども、富岡の烱眼はこの二鏡のもつ、独自の性格を見逃さなかった。

TLV鏡 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 第一の鏡。それはLV鏡ともいうべきものだ。通例、TLV鏡と“あだ名”される一群の中国鏡がある。第16図を一見すれば、この呼称があまりにも適正なのに一驚されるであろう(別名「方格規矩鏡」と言われる)。王莽鏡や後漢鏡において代表的な様式となっている。井原・平原にも、この様式の鏡が多い。
 ところが、今問題のこの鏡には「T」がない。それに「V」がバランスを失して大きい。通例「T・L・V」の三者ほぼ同じ大きさであることは、第16図にも見る通りだ。
 そこで、多くの中国鏡観察に生涯の心魂をそそいできた富岡は、“これは中国鏡ではない”。そう直観したのである。
 第二の鏡は、前漢の日光鏡がモデルになっている。しかし文字がくずれ、文様も不明確だ。これに対しては、富岡は易々として推定した。「中国鏡ではなく、イ方製鏡ではないか」(この二鏡が細剣と共に甕棺から出土していることは、すでにのべた。 ーー 九八ぺージ)と。
 右の第二の鏡は、先にのべたように「小型イ方製鏡」として後年定式化されたものだ。今やこれがイ方製であることを疑う人はいない。これは、あの「富岡四原則」にぴたりあてはまる、申し子だったからである。
 問題は第一の鏡だ。これに対して富岡は慎重な考察を加え、「TLV鏡」の形式をおそいながら、その形式がくずれ、「文様の線刻は何れも丸味を帯びて太く、多くの四神鏡の鋭利なると異なる所あり」と注意した。またこの鏡には王莽時代の「四神鏡」や前漢時代の「方格四乳葉紋鏡」や「清白鏡」といった各様式が「雑然と集め」られてできたものだと論じ、その結果、「或は其の成れる地の本邦に非ざるかを察せしむるものあり」と結論したのである(富岡は写真をもとにこの論文を書いたが、弟子の梅原末治が九州の現地でこの鏡を実見し、富岡認定を再確認して付記している)。
 わたしも、この富岡判定は正しいと思う。なぜなら、右側(斜行)の一行六字を観察すると(第17図)、最初の二字とあとの四字とがいささかずれているからである。このような「文字のずれ」は、中国鏡の中に発見することはできぬ。この点、代表的にあげた、先の第16図と比較すれば、読者もその様相を知るであろう。“文様の簡略化”だけなら、あるいは“中国側でも、そのような時期があったのではないか”そのように疑うこともできよう。事実、魏代に「TLV」の「LV」を略した「T鏡」と も称すべきものが年号鏡(「景元四年鏡」)として作られていることは、鏡の研究史上、よく知られたところなのであるから(第18図)。けれども、このさいにも、そのような「文字のずれ」など、とんでもないのである。四囲にスッキリした様態でおさめられているのである。
 したがってこの点からも、わたしは「この鏡は中国製ではない」という富岡の診断を支持せざるをえない。

LV鏡 T鏡 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 

 四原則の崩壊

 しかし、真の問題はここからはじまる。
 なぜなら、この鏡にはハッキリした「文字」があるからである。

  日有熹月内富 (写真左方)
  憂患樂已未□ (写真右方)

 これに対し、富岡は「文句整はざるが如し」と言い、「又た銘文に於いても、其の銘は全き語句をなさず、完文の所々を切り取れるが如き感あり」と言っている。これは最初の句について富岡が「日有熹月(有)富」と書いているところからみると、“この「内」は「有」でなければならぬ。”と他の鏡の銘文例から判断したのであろう。しかし、これは「日に熹有り、月に富を内(い)る」であって、文意に狂いはない(「内」は「したしむ」とも読みうる)。事実、『礼記』の「令」に、

 無。(内るに務めざる無し)
  〈注〉内。収歛(れん)して之を入るるを謂(い)うなり。

とあって、「月 ー 内」の関係は、まさに典拠をもっているのである。「文句整はざる」どころではない、古雅なる文体だ。「全き語句」や「完文」であるかどうかは、四辺の中、二辺しか現存しないのだから、公平な判断はしようがない。一つの鏡の長い銘文の中から、他の鏡では一部分の句が撰出されて銘刻される。これは珍しいことではない。問題はその“抜き出し方”だ。一定のルールで抜き出され、撰出結果が一定の意味をちゃんと構成していれば、問題はないのだ。
 そしてこの異鏡の場合、二分の一しか現存しないのだから、何とも判別できぬ。これが公平な判断ではあるまいか。富岡は、ここでは“論断をいそいでいる”ようだ。その理由は ーー全体としてイ方製鏡の様態をしめしている以上、“文章もくずれているはず”という、あの「富岡四原則」が、富岡の脳裏にあって、判断の“いそぎ”をさそったのではあるまいか。
 けれども、“二分の一から全体の文意がととのっているかいないか判断する”。こういった主観的観測法からはなれて、冷静に考えてみょう。何はともあれ、ここにあらわれた十一文字が立派な「文字」であること、これには一点の疑いもない。それでなければ、富岡も、読めはしなかったであろう。“文字がくずれて文様化している”ような、小型イ方製鏡の類とは、わけがちがうのであるち 。
 ここに富岡四原則はくずれた。 ーー「文字あるイ方製鏡」それが筑前中域たる、博多湾岸から出土していたのである。
 峻敏な富岡がこの事態の重大さに気づかなかったはずはない。その切迫感は、
「なほ其の製作が或は本邦にあらざるやすらを疑ふ」
「或は其の成れる地の本邦に非ざるかを察せしむるものあり」
「これまた本邦の模作にてはあらざるかを考へしむ」
と一論文の中に三回もくりかえされる表現のくどさの中にも、よくにじんでいる。遺稿として未発表に終った「未定稿」であるにもかかわらず、いや「未定稿」だからこそ、富岡の息づかいがありありと浮かび上がっている。そのことにわたしは深い感慨を覚えざるをえない。

 

 文字あるイ方製鏡

 死の直前の富岡の脳裏をひたしていた、この「文字あるイ方製鏡」問題が、その後の鏡の研究史において、また考古学の研究史上において、“禁断の地”のように避けられつづけてきたように見えること、それは必ずしも不思議ではない。なぜなら、いったん手をつけはじめたら、ガラガラと既成の全体系に及ぶ、そういう深刻な問題性を蔵していたからである。第一、戦前の教科書にも書かれ、『記』『紀』に依拠すると信ぜられていた「応神期、文字初伝」の「神話」すら、一挙に吹き飛ばされてしまうことは、見易い道理であった。そのような難事よりも、安定し、かつ明快な「富岡四原則」を師標として守る。 ーーこれが梅原末治以降、その後の研究史上の各論者が歩んで現在に至った道なのであった。
 生前の富岡の覚書や談話によって、没後、梅原が記述したという「梗概」、「日本イ方製古鏡に就いて」において、再三「筑前須玖出土の一遺品を除きては」という表現がくりかえされている。これは生前の富岡が右の「文字あるイ方製鏡」の問題を「?」視し、深い関心をもっていたことの反映であろう。
 たしかに、死の直前において、富岡の脳裏にこれが一つの「保留問題」とされていたことは認めてもよい。先の富岡遺稿が未発表のまま終わったことも、あるいはその「保留処分」の一表現と見れぬこともなかろう。
 しかし、その後の鏡と考古学の研究史において“あれは例外だよ”、そう言って処理しつづけることができるか、どうか。次の一事を考えればすぐ判るだろう。
 “応神以前に「文字」はなかった。ただあるとき(弥生期)、筑前中域に変わった奴(やつ)がいて、偶然何かのはずみで「文字のある鏡」を作ったにすぎない”。
 こんなことがありうるだろうか。考えられない。ましてその「筑前中域の弥生期」とは、先述来のわたしの論証のしめすとおり、“文字の修得史の真只中”にあったのだから。

 

 ゴシック式文字の探究

 富岡は「文字あるイ方製鏡」について、この文字は「書体所謂ゴシック式にて」とのべている。この「ゴシック式の文字」の発見こそ、富岡生涯の鏡研究の一頂点をなすものであった。
 三雲・須玖から出土した多くの銅鏡の銘文の書体が、通例の中国鏡に例を見ぬ、異例の書体であることに富岡は注目した。三雲現存鏡として有名な、聖福寺(福岡市)蔵の連弧文清白鏡(第19図、現在、京都国立博物館保管)がそれであり、須玖岡本の王墓甕棺から出た鏡の破片にもそれが見られた。

連弧文清白鏡 須久岡本出土鏡片拓本 中国帰化城出土磚 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 第20図で、左側( I )が典型的な小篆(しょうてん 漢字の書体の一。大篆から脱化した字形で、筆写に便にしたもの。秦の李斯の創始という。隷れい書・楷書の創始以来、鐘鼎(てい)・碑銘・印章などだけに用いる。 ーー『広辞苑』より)であるのに対し、右側(II・III・IV)がこの異例の「ゴシック式」の書体とされたものだ。
 富岡は八方、この書体を求めた。そして内藤湖南の示唆(呉王発神讖碑・禅国山碑銘との類似)をヒントとして、ついにこれと近似した書体を前漢代の瓦当文(がとうもん 瓦当は、軒丸瓦の先端の部分。そこに銘刻された文字)・磚文(せんもん 磚は、土を焼いて方形また長方形の平板としたもの。煉瓦の類。そこに銘刻された文字)類の中に見出したのである(第21図)。
 その結果、“日本出土の鏡といえば漢末三国時代以降のもの”といった観のあった当時において、予想できなかった「前漢鏡」の存在を三雲・須玖の出土鏡の中から富岡は立証することができたのであった。これがいかに当時の輝ける成果であったかは、“論敵”であった高橋健自が次のように証言している。
 「王莽時代の鏡に就きては故富岡謙蔵氏の特筆に値すべき論文あり(『考古学雑誌』第八巻第五号「王莽時代の鏡鑑と後漢の年号銘ある古鏡に就いて」)、・・・・(中略)・・・・斯くの如く銅鉾銅剣伴出鏡及びそれらと類を同じうせる支那鏡の型式進化の流れが極めて自然的に王莽時代に入り、まさに第四期を成せる如くなるは、問題の諸鏡が前漢代に属すべきを証言せしものと謂ふべし。況んや彼の諸鏡銘文の字体が旧説の如く三国時代前後のものにあらず、遠く前漢初頭まで遡るも不可なきこと前述の如くなるをや」(高橋「銅鉾銅剣の研究」大正十四年)
 けれども当の富岡の筆致を見ると、意外に慎重かつ渋滞の跡をとどめている。
「吾人は此の銘文の書体を、秦漢の瓦当文と比較し、一方銘文の解釈よりして、後世の模造の存在は之を認むべきも、其の起源古く、主として行はれしは、前漢代より後漢に亘(わた)る期間なるべきを推定したり」(「九州北部出土の古鏡に就いて」)

 そしてこの論文の末尾に「直ちに之を以て前漢代に限るが如く解釈」することの不可なることを厳に注意したこと、前述(七九ぺージ)のごとくだったのである。
 これは不思議ではない。なぜなら、富岡にとって今回の論証は”中国出土のレッキたる中国鏡の中から、この「ゴシック式」書体そのものを発見し、指摘し、それによって立証した“というていのものではなかった。
 富岡論文自体のしめす通り、その立証根拠はもっばら鏡ならぬ「瓦当文」「磚文」なのであった。しかしながらこの時点(大正七年六月以前)では、「中国鏡」である、という証明にとって、それで十分だった。なぜなら「自明の大前提」として、「応神以前の倭人には文字はなかった」という概念があったからである。それは東の高橋と西の富岡を結ぶ「共通の土俵」だったのである。したがって「文字」がある以上、中国鏡であり、前漢代の「文字」であることが検出された以上、前漢鏡”それが高橋の肯定した、手持ちの論理だった。
 しかしながら当の富岡には、一抹の危倶が念頭にあった。“「前漢の文字」を使って書いた鏡ではあっても、銘刻された時点は、後漢以降かもしれぬ”そういう論理の必然が右の富岡の文を生んだのである。

 ところが、富岡の死の直前に至って、“ゴシック式文字で書かれたイ方製鏡”が眼前に現われたのだ。けれども、富岡にとって“三雲・須玖の多くのゴシック式銘文鏡”の全体については、「中国鏡」としての確信はいまだゆるがなかったと思われる。
 それは銅質に関する次の描写からもうかがえよう。
「次に鏡鑑の化学的研究は京都帝国大学理科大学の近重教授の熱心に従事せられつつある所にして、其の須玖出土古鏡の破片に就いて、試みられたる分析の結果を聞くに、・・・・(中略)・・・・錫頗る多量なり。質より見るも純然たる漢鏡なること疑なく、氏の分析せる六朝時代の古鏡の成分とは、全く異なれり」(「九州北部に於ける銅剣銅鉾及び弥生式土器と伴出する古鏡の年代に就いて」)
“ゴシック式という異例の文字でも、皆良質の銅だ。だから中国鏡であること、疑いない”こういう論法である。富岡四原則中の第一・二項(一〇〇ぺージ)がここに適用されているのだ。
 しかし、富岡の死後(昭和二十八年。筑紫豊・森貞次郎・渡辺正気等の検査による)志賀島から細剣の鋳型が出土していることが判明し、鋳上がりのいい、良質の銅製品を倭国内で作りえたことが立証された。
 またあの“立体銅製品の傑作”たる巴形銅器もまた、その事実を裏書きしていたのである。
 すなわち、富岡が「文字あるイ方製鏡」を唯一の例外として、他の一切の「ゴシック鏡」を「中国鏡」としてとどめんとした、“良質の銅製品だから中国製”という、堤防の柵の止め金は、もはやはずれてしまったのである。
 のちに梅原末治によって紹介せられた「居攝元年内行花紋鏡」(朝鮮楽浪遺跡出土)を「ゴシック式」と称して、右と同一視する論者があるが、両者の書体は全く異っている。『増補鑑鏡の研究』『漢三国六朝紀年鏡図説』で紹介(第22図)。

居攝元年内行花文鏡 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 

 井原のイ方製鏡

 研究史に対する批判から、わたし自身の発見に移ろう。
 わたしがまず注目したのは、井原出土の“発見”にうつろう。「後漢式鏡」だった。江戸時代、黒田藩の碩学、青柳種信の『柳園古器畧考』は、彼の時代に出土した二大遺跡、三雲(文政五=一八二二年)と井原(天明年間=一七八一〜八八年)についての貴重な記録となっている。その中で彼は現物の拓本等をとって慎重を期した。これがわたしにとって貴重な史料となったのである。
 この(第23図。右は拓本。左は青柳の模写)第六〜九字(模写)は、富岡〜梅原によって「漢有善銅」(漢に善銅有り)と読まれ、この文章もまた、これが「漢鏡」であることを立証するもの、そう考えられたのである。
 けれども、一見して明らかなように、一連の文字の大小、左右のズレ、いずれもいちじるしくアンバランスである。ことに「漢」と読まれた文字も、通常の「漢」ではない(第24図)。
 これを「漢」と読むのは、既成の成語(「漢有善銅」)に当てはめて読むからにすぎぬ。文字そのものが直ちに「漢」と読める、そういった代物ではないのである。
 検証の第一点として、まず次の一点を確認しておこう。“中国鏡には、こんなデコボコの文字配列はない”ことを。わたしはこの点を再確認するため、幾多の鏡の実物・写真・拓本類を渉猟した。第25図はその一例だ。いずれも自然(ナチユラル)な配列だ。この井原鏡のようにひどいものはない。したがって「文字あれば、必ず中国鏡」といった、今やあまりにも“無邪気すぎる”前提命題に“おんぶ”しない限り、これを「中国鏡だ」と断ずるのは、あまりにも「武断」。“中国人でも、拙劣な文字書きはいるさ”。そんな遁辞が一体、通用するだろうか。
 中国は「文字の国」としての歴史をすでに長く閲(けみ)している。工人の技法の洗練されていることは、右にあげた事例からも、容易に察せられよう。いわんや管理された「尚方」などの公的な工房で制作され、厳重な管理のもとにおかれていた中国鏡。その公的技術史を知る人ならば、そのような“遁辞の幕”の裏に隠れることをいさぎよしとしないであろう。少なくとも“井原鏡を本来の中国鏡と見なすには、大きな困難がある”。わたしにはこの命題を疑うことができない。

井原出土の後漢式鏡  漢字四種 男と勇 字 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

洛陽・焼溝漢墓出土の鏡 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 

 危険な断崖

 認識の“危険な断崖”をさらにもう一歩すすもう。
 先ほどの「漢」は「漢」とは断せられない。そう言った。ところが、もしかりに「漢有善銅」と読んでみても、その句と上の文字とのつながりがむつかしいのだ。すなわち(A)「王□日月光」につながりにくいのである。あるいはこの(B)「漢有善銅」を環状銘文の「起句」としてみても、右の(A)が終句では、何とも“落着きが悪い”のだ。わたしには右の□は「知」のように思われる。「王知日月光」つまり「王、日月の光を知る」だ。このような句は、中国鏡にはない。「王」が出てくれば、
  宜侯*王師命長(宜よろしく侯・王・師の命長かるべし) 〈永寿二年鏡、梅原末治『漢三国六朝紀年鏡図説』〉
  王有千萬長生久壽(王、千万の長生・久寿有り) 〈建安十四年鏡、同右〉
      侯*は、侯の異体字。JIS第4水準ユニコード77E6

のようだ。通常の理性的な文面であり、「王」と「日月の光」を結びつける、といったものではない(「知」を「如」としてみても、この点、大同小異だ)。
 次に「漢」に当ててきた文字。これはあるいは「湧」かもしれぬ、と思う(第26図)。
 つまり、「王、日月の光湧くを知る。善銅有り、・・・・に出づ」という文形なのである。
 もちろん、以上のわたしの解読は、二つの疑問点を「推定」で補ったものだ。だから決して“安定した読み”とは称しがたい。ただ“通常の中国鏡の銘文で慣用されている文体とは、異なった様相を呈している”。そのことだけは、わたしには疑いえないように思われる。

 

 立岩のイ方製鏡

 “しかしそれは、江戸時代の学者の手による拓本ではないか”。そう言う人の前に、わたしは明白な現存出土鏡を資料とした分析をしめそう。
 立岩から出土した「前漢鏡」は、“考古学上の発掘による出土物”として貴重なものだ。福岡県飯塚市立岩遺蹟調査委員会編の『立岩遺蹟』(河出書房新杜刊、一九七七年)は、その成果の見事な表現である(岡崎敬をはじめとする九州の考古学者等による)。ここには、出土した「前漢鏡」の写真と拓本と銘文が掲げられている。その一号鏡と四号鏡はほぼ同文だ(第27図、第28図)。

連弧文「日有喜」銘鏡銘文(1号鏡 4号鏡) 文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

第27図 連弧文「日有喜」銘鏡(四号鏡)銘文
日有喜月有富  日に喜びあり、月に富あり。
樂母事常得意  母事(ぶじ)を楽しみ、常に意を得。
美人會竿瑟侍  美人会して、竿瑟侍す。
賈市程萬物平  賈市程々にして、万物平らかなり。
老復丁死復生  老丁に復し、死生に復す。
[酉辛]不知乎醒旦星 酔いては知らず、旦星に醒む。 
          (『立石遺蹟』より)
     [酉辛]は、JIS第3水準ユニコード9A02

 ところが、一号鏡の場合、この漢詩の第二行の末字「意」を欠いているのだ。「欠いている」と言っても、発掘時あるいはその前後に「破損」したのではない。はじめからないのだ 。
 わたしには、この事実は重大だと思われる。なぜなら“漢詩中の一字がない”ということ事態、中国人が銘刻した中国鏡の場合、生じにくいことだ。なぜなら、それでは意味が通じない上、漢詩のように一行六字ずつ、といった風に、几(き)帳面に数字上の整合がとられている場合、容易にその脱漏を発見できるからである。ところが、この場合はそれどころではない。第二行の末字だから、「脚韻」のふまれた文字だ。この漢詩でも「意 ーー 侍」といった風に脚韻が連ねられているのは、わたしたちにでも容易に見抜けるだろう。
 まして中国人の場合、「返点で読み下しする」のではなく、文字通り“中国音で上から下へ順次読み継いで、末尾の脚韻に至る”わけだから、その「脚韻」の“文字抜き”を気づかない、などということは、万に一つもありにくいのである(英米の詩の場合も同様だ)。
 これは、たとえば日本の石工が句碑を刻んでいて、たとえば「酒なくて何の己が桜な」とあるべきところの「か」を脱刻した場合、一回読みかえしてみればすぐ気づくだろう。俳句には「五・七・五」の定形があるからである。これと同じだ。
 しかも石刻なら、その石全体を排棄してやり直さねばならぬかもしれぬ。しかし鏡の場合は簡単だ。もう一度溶かしてやり直せば、それですむからだ。
 しかるに、工人が鋳型(砂型)段階でも気付かず、成形・鋳上がりの実物完成後にも気づかず、「尚方」などの監督官も気づかず、異国(倭国)への下賜の担当者も気づかぬ。こんな偶然が重なった。そんな何乗もされた仮説、否、臆測説を誰が信じるだろうか。わたしには、どうしてもこのような臆測説に左袒することができない。

重圏「精白」銘鏡銘文(2号鏡 3号鏡)  文字の考古学 『ここに古代王朝ありき』 ーー邪馬一国の考古学 ミネルヴァ書房 古田武彦

 だが、問題はこんな「一脚韻」にとどまっていなかった。同じ立岩の二号鏡(第29図)を見てほしい。“穴あき”部分は原文からカットされた、個所だ。
 この点、同じ立岩の三号鏡(第30図)と比べれば一目瞭然だ。これでは漢詩としての意味などまるで通じない。ただ眼前の漢詩から「文字」を適当に引き抜いて、文字装飾(銘帯の形式をとるため)として利用しただけ。そういった感じだ。これは果たして中国の鋳鏡者の仕業だろうか。わたしにはそうは思えない。

 もちろん、中国でも、文意の通じない“変な銘帯”を作る職人が一人もいなかった、とは断言できないかもしれぬ。しかしそれは極めて“ありにくい”話だ。これに対して日本側の作鏡の場合、はるかに“おこりやすい”事態ではあるまいか。これを“疑いなき舶載鏡”と称してきた従来の考古学界の目 ーーわたしにはそれを理解することができない。

第30図重圏「清白」銘鏡(3号鏡)銘文
潔*清白而事君  清白を潔くして、君に事(つか)えしも、
[宛/心]云*驩之弁*明  驩を云*(ふさ)がれ、明を弁*(おおわ)れるを[宛/心](うら)む。
[イ及]玄錫之流澤  玄錫の流沢を[イ及]し、
忘疏遠而日忘  疎遠にして、日に忘らるるを忘(恐)る。
懐糜美之窮[口豈]  糜美(うるわしきび)の窮[口豈](ひそかなわらい)を懐(おも)い、
外承驩之可説  承驩の説(よるこ)ぶべきを外にし、
思窒*佻之靈京  窒*佻(たおやか)なる霊京(景)を慕う。
願永思而揖絶*  願わくは、永えに思いて絶(た)ゆる母(なか)らんことを。
(『立石遺蹟』より)
潔*は、三水偏なし。JIS第3水準ユニコード7D5C
[宛/心](うら)むは、宛の下に心。
云*(ふさ)ぐは、三水偏に云。JIS第4水準ユニコード6C84
弁*(おおわ)れるは、合の下に廾。[合/廾]JIS第3水準ユニコード5F07
[イ及]は、JIS第3水準ユニコード4F0B
窒*は、至の代わりに交。JIS第4水準ユニコード7AA3

 これと対照的なものとして連雲港市海州、羅[田童]庄(らどうしょう)の本槨墓出土の連弧文清白鏡(一七・五センチ)の銘文がある。

   潔*清而事君 [宛/心]云*驩之合明 [イ及]玄錫之澤
   恐疏遠日忘 口美之窮[口豈] 承驩之可説
   莫窒*之靈景 願母願
    (『立岩遺蹟』三六六ベージ)
     羅[田童]庄(らどうしょう)の[田童]は、ユニコード7583

 一見すれば判るように、先の立岩三号鏡(したがって二号鏡も)と“同文”から抽出して作られた詩句だ。ところが、これ自身で十分、文意の通ずる文面となっている。これが中国人の抽出法だ。先の立岩二号鏡のような、文意をなさぬ“でたらめな”省出とは、全く別物、抽出の姿勢が本質的にちがっているのである。

 

 大型鏡の秘密

 “しかし、この立岩の「前漢鏡」は、まことに見事な鋳上がりだ。全体の形姿は、中国出土の中国鏡にも多く類例を見次いほど立派だ。それなのに、何でそれがイ方製鏡なものか”。こう言って反問する学者もあろう。
 しかし、それはその論者の頭を縛する大前提が、あの富岡四原則だからだ、とわたしには思われる。あの第一、二項の真上に彼は依然突っ立っているのである。
 考えてみよう。中国にあっては、「前漢鏡」は本来婦人などの身辺の化粧道具だった。このことは、その銘文に“夫君からの愛が変らずつづくことを祈念する”類の意のもののあるのを見ても察せられよう。
 いわゆる「後漢鏡」になってすら、“この鏡の所持者が侯王・三公といった貴位に至れるように”といった、個人的な立身出世を願う吉祥句にすぎない。“国の運命にかかわる”ことを「鼎の軽重を問う」とは言っても、「鏡の軽重を問う」などとは言わないように。およそ鼎や玉璽の類とは、その位相を異にしているのだ。
 これに対し、倭国の場合はちがう。国家統治の呪術的基礎たる太陽信仰をバックにして、「鏡」は国家統治至高の貴重品だった。このことは「多鏡冢」という弥生墓の様式そのものが語るところである(『記』『紀』にもその反映が見られる)。
 だから“鏡を作る”という作業は、中国で言えば「鼎を作る」にも当たる、重味をそなえていた。だからこそ、あるいは中国伝来の白銅が使われ、あるいは細剣や巴形銅器を作りうる、最高の技術がここに注ぎつくされた。したがって中国における婦人の化粧道具としての鏡より“立派”で、当たり前なのである。
 わたしたちは、三雲・須玖等の、これらのいわゆる「漢鏡」について、興味深い現象を見出す。
「草葉文鏡。重圏文によるものと、方格文によるものとあり、面径は前者のものとして二三・六cmと二三・〇cmの両例、後者のものとして二三・六cmの例があり、これは中国においても見られない大形のものである。・・・・方格の内側に沿って、異体文字による『見日之光 天下大明』とか、『見日之光 常母相忘』などの銘がある」(杉原荘介『日本青銅器の研究』)。

 右の「異体文字」とは、ゴシック式のことだ。
「星雲鏡。面径は一五・七cmから一七・二cmで、これも中国で発見される同類の銅鏡と比較すると大きい」(同右)。

 ここで中国鏡とされているのは、湖南省長沙四〇五号墓(前漢代後半)のものだ(中国科学院、一九五七年)。

 このように、同類の「中国出土の中国鏡」に比べて、しばしば三雲・須玖等の方が“大きい”のである。これはこれらをすべて中国からの舶載品と考えたら、奇妙な話だ。中国側が自分のもとには小型のものだけ残し、倭人にだけ「大型」の立派な方を「下賜」したことになるではないか。
 これに対し、これらを「国産」とすれば、簡単だ。婦人などの顔を映(うつ)すべき中国の前漢鏡等に対し、こちらのは「太陽の顔」を映すためのものだ、あちらでは通例、室内・机上の物品であり、こちらでは屋外、儀式場での花形の儀品なのだから。
 “中国にないから、倭国製だ”。この富岡の第四項の原則に立つ限り、“一般に大形で、ゴシック式の文字を銘刻した”三雲・須玖・井原などの鏡の中には、倭国製のものがかなりふくまれている。 ーーわたしたちは、このような帰結に立ち至るまいと思っても、それは不可能なのである。

 

 富岡四原則の功罪

 以上のテーマを理論的にまとめてみよう。
 富岡四原則は、その簡便さと使いよさによって、現今までの鏡の編年、さらには考古学編年の中枢を支配してきた。しかしながら、『記』『紀』中心主義(それも教科書的独断による)でなく、同時代史料たる中国史料(倭人伝)中心主義をとる限り、この富岡四原則は、客観的に維持できないことは、見易い道理である(文字問題)。その上、「文字」と「鋳鏡」の伝来史の実際を考えれば、(一)舶載物の伝来、(二)倭人による粗雑な模倣、という順序で考えてきた思考が一個の「机上の仮説」にすぎなかったことが判明しよう。その点を次にのべよう。
 まず、「文字」について。魏から卑弥呼に与えた詔書の文章の解読、そして答礼の上表文の作製。こういった問題の背後に“文字を知る渡来人(中国人、朝鮮半島の住人)”の存在を考えることに異をとなえる人はあるまい。倭国の朝廷が“文字を知る渡来人”を招き、倭国の青年を助手として、文字官僚とする。必ず最初においてこのような段階のあったこと、それを否定できる人はあるまい。次の段階。倭国の青年は成長し、文字官僚の主体を形成しはじめる。新たな渡来人の加わることもありえよう。 ーー以上のできことが「一世紀なかば〜三世紀なかば」の間の、倭国の「文字技術の習得史」だ。
 とすれば、次に、「鏡の鋳造」においても、当然右と同類の事態が考えられよう。最初に“鋳鏡技術をもつ渡来人”とその助手の倭国青年の段階。次に成長した倭国青年を主体とする段階。そして新来の鋳鏡渡来人といった一連の経過だ。この場合、次の各ケースを考えてみよう。
  (一)鋳鏡渡来人が倭国内で作ったケース。
   (1) 輸入の良質白銅を用いた場合(渡来人が倭国内で銅を精錬した場合も、これに準ずる)。いわゆる「舶載品」と容易に区別できないであろう。
   (2) 倭国の粗銅を用いた場合。この場合も、文字は、一〇〇パーセントの中国文となろう。

  (二)倭人(右の弟子)が作ったケース。
   (1) 輸入の良質白銅を使った場合。全体として、硬質。精巧の出来となろう。ただ文字には、大きな不馴れ。齟齬(そご)を生じる可能性がある(立岩の場合)。
   (2) 倭国の銅を用いた場合。
      (イ) 技術的にかなりすすみ、文字もあるもの(中山報告、富岡遺稿の「文字あるイ方製鏡」の場合)。
      (ロ) 技術的に劣っているもの(いわゆる小型イ方製鏡の場合)。

  (三)中国鏡からの“踏み返し”(中圏鏡をモデルとして、土型をとり、それによって再製する)を行ったケース。文字や模様など、形体上は、中国鏡と同一だ。この場合も、使用銅質や“踏み返”技術によって巧拙が生れよう。

 右のような各ケース、各場合は、皆いずれも現実的なものだ。決して“机上だけの仮説”ではない。したがってわたしの原則は次のようだ。
  (一)日本列島から出土した銅鏡があったとき、それが中国製(中国本土で中国人によって中国人のために作られたもの)か、日本製(日本列島内で日本列島人のために作られたもの)か、的確に判別すること、それは一般に困難である。
  (二)しかし、何等か“特殊な条件”に恵まれたときにだけ、右の判別が可能となる。たとえば、
    (1) その様式の鏡が中国や朝鮮半島から一切、もしくはほとんど出土しない場合。
    (2) 文字の刻し方や詩文の刻し方、大きさ、図様等において“中国鏡にない特徴”が認められた場合。

のように。
 富岡四原則は、一見“どんな出土鏡でも、専門家の前に黙っておけば、ピタリと判る”。そういった簡便にして有効な物指しであるかに見えていた。そのため、古鏡の基準尺として大正以来、今日に至るまで長らく考古学者によって愛用されてきたのだ。
 けれども、奇しくも富岡遺稿が艮心的に暗示していたように、それは古代史上の真実とは、決して対応していなかったのである。

 

 第二章 三角縁神獣鏡

伝世鏡理論への疑い/富岡の論断/魏鏡の認定/大きな誤断/不明を不明とすべし/中国製か国産か/新しい指針/海東鏡の「発見」/「浮由」の根源/徐州・洛陽鏡/三鏡の実見/劣った徐州・洛陽鏡/臆測と確認/もう一つの可能性/なぜ三角縁か/銚子塚古墳の探究/ここにも、文字あるイ方製鏡/左文鏡の謎/もう一つのアイデア

 

 第三章 室見川の銘版

室見川の発見/読者の通報/わたしの史料批判/中国製に非ず/「高陽左」の解明/第二・三句の解明/書体の謎/材質の検査/金版の歴史/倭王の金版


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