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訳書『倭人も太平洋を渡った』(創世記、八幡書店) 1977年

補一 日本の古代史界に問う1

新しい方法を求めて

見えない手 ーー分布図解読に王道なし

古田武彦

 一枚の地図がある。
 ところは日本列島西半部、ときは弥生期。この時期はわが国では青銅器使用時代に当る。その出土分布図がこれだ。絶対年代は西暦二〜三世紀。つまり卑弥呼(三世紀前半)とその前後の王たちが日本列島内部で統治していた、まさにその時期の状況をしめす地図なのである。

青銅器分布図 日本の古代史界を問う倭人も太平洋を渡った 訳古田武彦


 さて、その周知の分布図は何を意味するのだろう。“黙って坐ればピタリと当る”という言葉があった。その占いもどきに言うのではないが、この地図をジーッと見つめていると、あのかまびすしい邪馬台国論争の喧騒をよそに、卑弥呼の都域の地はおのづから明晰に判明する。 ーーわたしにはそう思えてきたのである。なぜか。
 では、わたしの感じたところをそのまま述べよう。
 まず第一に、女王の都域の地は、この分布図の中にある。なぜなら、この地図以外、たとえば中部以東、沖縄、これらは当然この青銅器圏とは別圏だ。独自の、旧来の石器や土器の祭祀文明を堅持しつづけている。その意味では独自の“王朝”をもち、独白の領城に属する、といってもいい。
 けれども、この分布図中の青銅器圏をさしおいて、これら外辺の石・土器持続領域中に女王の都域の存在した可能性は、先ず、ない。なぜなら、この青銅器圏自体、従来の石・土器圏の上に、一層前進した形態として出現しているからである。従って旧来の石・土器圏に対する先進性、優越性、これを疑うことはできない。これは武器の問題を考えてみれば、多言を要せず、明瞭であろう。金属の有無の差だ。その上、三国志の魏志倭人伝にも、女王国は金属類(青銅器、鉄群)の所有圏、使用圏として描写されているからである(後述)。
 では、この地図の中のどこだろう。それが次の問題だ。ここにはA・B二種類の青銅器がある。(A)武器型祭祀圏と(B)銅鐸圏だ。そして前者はまた西圏(中広・広矛と中広・広戈。 ーー北・中部九州)また東圏(平剣 ーー瀬戸内海)に分れている。
 つまり一時代前(弥生中期。紀元前一世紀〜後一世紀)のA圏(細矛・細戈・細剣 ーー淡路島以西)は、今や東・西二圏に分裂し、それそれ別個の祭祀圏として対立していたのである。これを要約すれば、日本列島内の青銅器圏は、西から東へと
 (一)西A圏
 (二)東A圏
 (三)B圏
の三つに分れていることとなる。
 以上の基本認識が明らかになれば、もうことは簡単だ。この三圏のうち、どれか一つが中国・朝鮮半島側と実際に国交を結んだ、とすれば、一体どれだろう。いうまでもない。(一)の西A圏だ。地理的に見て、これ以外にない。ここをすっ飛ばして(二)の東A圏や(三)の銅鐸圏が中国等と国交を結ぶ。そんなことは考えられない。またそのような異常に飛躍した国交状況がことさらに成立していた形跡も、倭人伝には見出せない。
 このように平明に論じてくるとき、従来の論者の中の、ある人は言うだろう。“いや、(三)は(一)、(二)をすでに統一していたのだ”と。事実、いわゆる邪馬台国近畿論者の主張はそれだった。なるほど、それも一つのアイデアにちがいない。では、そのアイデアはこの分布図からどのように立証されるか、されないか。それを調べてみよう。
 もし、そのアイデアが分布図上の事実と相応しているなら、少なくとも九州北岸の要所々々に、点々と一定の銅鐸が出土せねばならぬであろう(できれば九州の北・中部全面に銅鐸が出土すればむろん間題はない)。たとえば下関、博多、糸島郡、唐津、壱岐、対馬、これらだ。
 なかんずく、「一大率」が置かれ、魏使が駐留し、伊都国王がいた、と倭人伝に書かれている糸島郡など、欠かせぬキイ・ポイントだ。しかし、そのいずれの地にも、この時期に当る(中)後期銅鐸の一片のかけらも出土しない。すなわち、右のアイデアは、分布図上の事実に妥当せぬ“アイデアだおれ”だった。こう言うほかはないのである。
 この点は、この事実を逆にとって考えてみれば、容易に検証できよう。
 つまり、今、瀬戸内海西半部から九州北岸、さらに壱岐、対馬、果ては釜山近辺まで、その要所々々に点々と一定量の銅鐸が出土した、としよう。とすれば、近畿中心統一論者は、喜んで“これを見よ! この分布図のしめす通り、二、三世紀には、近畿を中心権力の所在地として、九州にまで統一が及んでいたのだ”こう言うであろう。それは正しい。然り、そのような分布図上の事実を前にしてはじめて、その近畿中心の統一論議は、事実の裏づけをもっているのである。
 もしそのような分布図上の事実を前にすれば、わたしもまた、喜んで近畿中心統一論者となるにやぶさかではない。わたしの欲するものは「ーー論者」の面子(メンツ)ではない。いつでも、真実に従う、それ以外にはないのであるから。
 しかし、分布図上の眼前の事実は逆だ。九州をふくむこの地帯には、その「点々」がないのである。むろん「全面出土」もない。この、ない事実を目の前にしつつ、同じく近畿中心統一論を唱えるとしたら、 ーーもはや分るだろう。その論者には、分布図なと、本質的にはどうでもよいのだ。答は、いわばはじめからきまっているのだ。こんな分布図などは、りくつづけのため「机上の素材」にすぎない。こういって果して過言だろうか。
 この自明の道理を、今わたしが事新らしくここに言い出すのは、ほかでもない。この本の中にしるされたアメリカの考古学者の分布図に対する処理の方法に、一語々々、かたわらの辞書とにらみあわせつつ、ふれていったとき、このことをとくに痛感せざるをえなかったからである。
 もっとも彼等の論証結果が正しいかどうか、わたしにそれは断言できない。なぜなら、そこで用いられた分布図の基礎について、あまりにも知識をもたないからである。もちろん、一九六一年のシカゴ大学出版の地図( (一)のドーラン論文)であったり、今までの報告論文にもとづくもの( (二)のベイルネ論文)であったり、それぞれの史料根拠が明示されている。それは論文として、当然の用意といえよう。ただ、わたしのような、かつてそれを探究したこともない一介の門外漢には、それ以上“可否”など言う資格がない、というだけなのである。
 けれども、そのわたしにも言うことはできる。彼等の分布図自体に対する処理法には“偏見”がない、と。
 世界各地にはここであつかわれた「物」についての伝承があろう。またそれにまつわる、各地の権力についての既成概念もあろう。しかし、彼等は、当然のことながら、それらには一切かかわりなく、分布図それ自体のさししめす論理帰結をひたすら追っている。もし、その追い方があやまっていれば、当然それとして反論を他の人類学者、考古学者たちからうけるだけなのであるから。 ーーいわばその論争は“乾いて”いる。国内権力者側の伝承などの先入見によって“しめって”はいないのである。
 このような研究論文を見、その目からひるがえって日本の弥生期の青銅器分布図を見たとき、その地図自体のさししめす帰結があまりにも明断かつ自明なのに驚いたのである。
 先の二氏が対象とした分布図の場合、全地球上という広大な領域をあつかい(たとえば石斧等)、紀元前のはるか昔から現代にいたる存在物(たとえばイカダ)をあつかっている。その時間、空間両面にわたる広大さから、あるいは反対論者によって異論の出る余地もありうるかもしれぬ。
 しかし日本列島弥生期の場合は、そうではない。時は三世紀、ところは“猫のひたいのように狭い”日本列島だ。しかも、対照さるべき文献は、中国側の三世紀同時代史料だ。右の二氏から見れば、まさに“垂涎すべき明確さ”をもっている。つまり時間と空間はあまりにも限定されているのである。明断な答が出て、当り前だ。
 だが、そんなにハッキリしているのに、なぜこれまで逆の意見、たとえば邪馬台国近畿説などが主張されてきたのだ。このように問いかえす人もあろう。もっともだ。
 だが、右のような論者(近畿説)は、この分布図をどのように理解してきたのか、それを見てみよう。
 第一の典型的な説明法は、「文化圏と政治圏の区別」というやり方だ。つまり先の(一)〜(三)の三圏は文化圏のちがいであつて、政治圏としては、近畿大和を中心に日本列島の統一はすでにほぼ(九州から中部地方まで)でき上っていた、という説明法なのである(たとえば原田大六『実在した神話』参照)。
 これだと、一見『三文化圏を統合した近畿中心の統一』という形で、うまく説明できるように見える。 ーー果してそうだろうか。
 むろんこのように、異質の、複数の文化圏の上に、統一的政治力が貫通して成立する、こういった事態は当然ありえよう。たとえば、有名なアレキサンダー大王の大遠征の結果、成立した広大な大帝国など、その好例だ。いや、海外に例をとるまでもない。日本列島弥生期にも、それはある。たとえば、南九州。ここには北・中部九州とちがって矛や戈の出土がほとんどない。
 明らかに矛や戈を「祭器や宝器」の類としていない領域なのだ。すなわち、いわば“異質の文化圏”なのである(ただ古代社会で政治と別個に文化が存在していたとは思えないから、当然、これは“異質の政治圏”であったことをしめしていよう)。
 ところが、その中に注目すべき事例が現われる。
 ○中広戈 ーー 伝日向国(文政年間)〈鎌田共済会蔵〉
 ○中広矛 ーー 曾於郡有明町野井倉下原〈滝之口伝九郎『考誌』8 ーー 2〉
(いずれも古代史発掘5「大陸文化と青銅器」の巻末表による)

 これらは、この異質の南方文化圏に北方の青銅器圏から勢力が波及していたことをしめす事例なのである。つまり、この九州南域は、北方の金属圏と無関係ではなかった。その政治的影響下にあったことがうかがわれるのである。これが“文化圏と政治圏”の相関の最少限の道理だ。
 ところが、右の論者の説明法の場合、(一)(二)(三)の三文化圏に一貫して、共通の政治権力の波及していた証拠、いや痕跡すらあるだろうか。ない(博多湾岸に一個出土した小型銅鐸は弥生前期のものであるから、この地域もかっては〈前三〜前二世紀〉右の祭祀領域に属していたことを物語ってはいる。しかし、今、間題の事例とは全く別だ)。
 この場合は、右の九州の南北間題とは異り、同じ青銅器祭祀圏同志であるだけに、その証拠と痕跡はことに要求されねばならぬ。しかし、それはない。ないままに依然、「政治的権力の統一」を説く。これは、典型的な分布図上の事実無視のやり口である。
 第二の“卓抜した”説明法は、九州の(中)広矛、(中)広戈の類に対し、これは「航海の安全」を祈るためのもの、とする理解である(『シンポジウム弥生時代の考古学』学生社 一一四頁参照)。
 この場合、問題は、“誰がそれを祈るのか”だ。それがその鋳型の出土中心地たる“博多の王者”がそれを祈った、というのなら、一応は分る。分布図から見て。ただその場合は、中国大陸・朝鮮半島へと航海した中心人物は、博多の王者の使者だ、ということとなろう。すなわち、中国等と国交を結んだのは、博多の王者だということになる。近畿圏などとは関係がない。しかし、今の「航海の安全」説の論者の真意はそうではない。それは次のようだ。
 つまり、近畿の権力者が中国大陸、朝鮮半島方面へ使節等を送るとき、「航海の安全」を祈るために奉納したものがこれらの武器型祭祀品だというのである。
 ところが、これらの祭祀物は必ずしも海岸近い所から出土する、とは限っていない。そこでこれらについては「陸上の安全」を祈るためのものだ、との説明法が、さらに考案され、つけ加えられている。(同右)“海上と陸上の安全”これなら全部包括できるわけだ。
 では、先ず、この説明法の“効用”を検討してみよう。先の(一)の西A圏は(そしておそらく東A圏も)、一挙に独自圏としての意味が拭い去られる。なぜなら、いずれも真の主人公は、(三)の銅鐸圏の人々だ。(一)や(二)は見せかけの姿。(三)の人々の途次の“手すさび”、といって悪ければ、“麗わしき宗教心の現われ”にすぎぬ。要するに(三)の入々の行動の痕跡がそこ( (一)、(二)のような地)に遺存したにすぎず、本来の(一)(もしくは(二))領域の人々は、青銅器祭祀人ではなかった、そのように見なすのである。
 この説明法によれば、日本列島中、真の青銅器圏は(三)だけだ。かくして近畿こそ三世紀日本列島(大半)統一の主体、こういうことになる。キレイに。
 だが、この“卓抜した”説明法を“分布図の事実に従う解読”の立場から批判してみよう。
 もし、この説明法の言うようであるならば、なぜこの主人公たちの居住する中心領域からこの武器型祭祀物が相当量出土しないのだろう。
 出土しないのになぜ、この近畿の住人たちが、あの九州出土の祭祀品の「真の作り主」であることが“判明”するのだろう。これも分布図そのものから出てくる判断ではない。これらの論者にとって、その前から近畿中心説は、すでにきまっていたのだ。その分布図以前から存在する観念たる“近畿中心説”の立場から、この分布図に対して「机上の観念的な説明」を加えているだけなのではあるまいか。
 先の逆検証法を、ここにも適用してみよう。もしかりに近畿地方に武器型祭祀物が質量とも最大の出土を見、その鋳型もまた、近畿地方に集中し、限定されていたとしよう。
 これなら、この論者は喜んで“見よ! 実物と鋳型のしめす所、まがうかたもなく、近畿が中心一だ、生産地だ。だから、九州や瀬戸内海沿岸から出土する実物は、いずれも近畿の入々が運んだのだ。彼等の宗教心に従って”そう主張するであろう。然り、そのときはわたしも“拒絶なき目”でこの説を見よう。この「航海と陸上の安全説」を。
 しかし、事実は逆だ。近畿地方には鋳型はおろか、実物も、先ず、ないのだ(例外的な少数出土例に大阪湾型銅戈及び広戈〈奈良県〉があるが、これについては、機を改めて論ずる)。
 それなのに、実物も鋳型もほとんど「ない土地」の主人公を、「ある土地」の出土物の“真の”作製者へと祭り上げる。これはもはや“超分布図法”ともいうべき、魔法めいた手法だ。そういうほかはないように、わたしには思われる。
 このような説明法を“さめた目”をもつ外国の考古学者の眼前にさらしたとき、果して誰人をうなずかせることができるだろう。彼等は先験的な近畿中心説に呪縛さるべき“義理合い”は全くないからである。彼等はこう言うであろう。“分布図上の事実をそんなに自由きままに読み変えられるのなら、せっかくの資料としての分布図自体が全く無意味になってしまうではないか”と。
 以上、いわゆる近畿説に対して批判を集中した。だが、実は従来の九州説論者も、また同じあやまちをおかしてきたのである。それをのべよう。
 近畿説論者が通例、いわゆる「邪馬台国」の中心地を、近畿大和の中のどの地点、といった形で特定しなかったのに対し、九州説論者の場合はまさに百家乱立、九州内の各地点に「邪馬台国」を、“創建”してきたのである。たとえば筑後山門、宇佐、山鹿、熊本、島原半島、日向、鹿児島等々、多岐にわたっている。
 けれども、これらの地点を分布図の上の事実に立って検証してみよう。果してその中のいずれが武器型祭祀物出土の最密集地、また鋳型の集中地であろうか。これらの地点の一切は、それに妥当しない。
 なぜなら、博多湾岸、糸島郡に全出土物(中広矛、広矛、中広戈〈広戈〉)の約三分の一が集中し、鋳型に至っては、全出土物の約七割がこの博多湾岸に密集しているのである。
(古田「邪馬台国論争は終った」中の表・図参照。『邪馬壹国の論理』朝日新聞社刊所収)
 この分布図上の事実を一べつすれば、外国の考古学者は口をそろえて言うだろう。“ここ(博多湾岸)が中心地だ”と。彼等は古事記も日本書紀も読まず、三国志魏志倭人伝も知らない。知らないゆえに先入見がない。そしてただ分布図上の事実にだけ従うとき、帰結するところはおのずから明白、一点しかないのだ。
 しかも、幸なことに、わが弥生時代には同時代史料がある。三国志の倭人伝だ。そこには、この女王国の金属器の状況についてどう書かれているだろうか。
○宮室、樓観、城柵、厳かに設け、常に人有り。を持して守衛す。
には矛・楯・木弓を用う(木弓は下を短く上を長くし、竹箭は或は鉄鏃、或は骨鏃なり)。

 つまり、女王の居城は矛と楯と木弓によって囲まれていた。とすると、当然その地にはこれらが埋っているはずだ。では、この中で腐蝕せず、今日も出土しうるものは何だろう。木弓は駄目だ。楯も「木へん」のしめすように木製だから駄目だ。矛も、柄は木製だから駄目だ。アジアモンスーン地帯に属する、湿潤な日本の風土の中では、出土の期待は少いのである。
 これとちがうのは矛の先だ。青銅だから、腐蝕しにくい。従って女王国の都域の地、宮殿の周辺からは、多量の矛先が出土するはずなのである。それはどこか。いうまでもない。分布図の直指するところ、博多湾岸だ。
 もしこれが瀬戸内海の東A圏に女王の都域があるなら、その宮室をとりまいているのは剣でなければならない(いわゆる平剣)。
 またもし、これが近畿であるなら、銅鐸がなければならぬのは、当然だ(ただ近畿大和については、弥生後期において“銅鐸の欠落”現象が見られる。〈この点、別の機会に詳述する〉しかし、“矛が集中出土しない”ことにおいて変りはない)。
 わたしが不思議に思うことがある。それは、倭人伝中の女王国を論ずるとき、変な言い方だが、“形ある国家”としてそれは考えられねばならぬ。つまり“固有の物質状態にとりまかれた、その国”として認識されるのが当然だ。夢物語でなく、歴史である以上、当り前のことだ。名前だけ漫然と投げ出されているのでなく、“特定の描写”が記載されているのだからごれは論ずるまでもないことだ。ということは、ここでは明らかに“矛にとりまかれ女王の宮域”として描かれている。ならば、「それはどこだ」といって求めはじめるのが、ごく自然の探究法なのだ。
 それなのに、そこはとりおとしておいて、国名だけクローズアップさせ(しかもその国名も「ヤマト」という先入観にあわせて“書き換え”を行い)、それから先ず候補地を大和とか山門などにおき、そのあとで“宮域周辺の描写など、信用できない魏使はそこへ行ってもみず、勝手に想像で書いたのだろう”などといった風に、“口”で言いこなす。これは、一体どういうことだろう。「国名」などという出土せず“目に見えぬ”ものからはじめるのでなく、そこに実際に書かれたその国家、それをとりまく特有の物質状況から考えはじめる。これが自然の正道である。
 とすれば、倭人伝中の「卑弥呼の国」のとらえ方も、当然このような方法を基本とすべきものではあるまいか。
 この点、従来の探究法は物質的基礎状態からでなく、国名という“観念的”存在から出発していた。まさに方法上、“逆立ちしていた”のではあるまいか。
 たとえばアメリカの探究者が世界中の石斧をあつかうとき(この本では(二) )、世界中の各出土地の古代国名など問題にしない。それに依存して立論などもしない。それは当然のことだ。この当然のことが、わが国の古代史の研究では、まさに欠落していたのではあるまいか。
 わたしは思う。今よりずっと後代、たとえば二十一世紀以降になって、その時代の人々がこのいわゆる「邪馬台国」論争を回顧したとき、“こんな明々白々な問題を、なぜ過去(十九〜二十世紀)には、これほど複綜させ、混乱させていたのか”と。彼等はそれをこそ謎とするのではあるまいか。

2“スフィンクスの問いかけ”ーー弥生遺跡の文字

3黒潮の彼方

4裸国と黒歯国の歴史

5日本民族の起源への探求

6〈補1〉
 〈補2〉ーー“現地からの「裸族・黒歯族」の報告”


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