古代史再発見1 卑弥呼と黒塚
邪馬台国論争は終わった=その地点から(『続・邪馬台国のすべて』)朝日新聞社 ヘ
『「邪馬台国」はなかった』
『失われた九州王朝』

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2010年6月刊行 古代史コレクション4

邪馬壹国の論理

古代に真実を求めて

ミネルヴァ書房

古田武彦

2013.01.校正 正誤表(服部和夫氏校正、有り難うございます。)

備  考
290 後7 発見れた 発見れた  
291 5 続三角文 続三角文  


始めの数字は、目次数です。「はしがき ーー復刊にあたって」「はじめに」と「おわりに」は下にあります。

【頁】【目 次】

口絵 (竹原古墳奥室の壁画、珍敷(めずらし)塚奥壁壁画)

i 「はしがき −−復刊にあたって」

iv はじめに  

003 I 戦後古代史学への疑問
    造作ではない記・紀神話/安易な「原文改定」論者/実在の証拠史料無視/厳正な史料処理貫く
016  邪馬台国論争は終わった

043 II 邪馬壹国への道 −− 榎一雄氏への再枇判
    はじめに ーー崩壊する歴史の虚像/誤読の幻影/中国版刻の手法について/虚像と実態
087   直接証拠と間接証拠−好太王碑文《酒匂本》の来歴 ーー後藤孝典氏に答える
110   邪馬壹国の諸問題−−尾崎雄二郎・牧健二氏に答う
     一〜九、十・十一、十二・十三
176  補注1 「一字一音主義」的理解について
179  補注2 「伊都国」の表音表記について
182  補注2の注 甲類乙類の問題、「都」には「天子の居する所」の意義もある。
183  補論 史料批判の条件について

186   魏晋(西晋)朝短里の史料批判−−山尾幸久氏の反論に答える

223 III 『翰苑』と東アジア
225   銅鐸人の発見
    従来の研究の大きな欠落/その「魚偏」の意味/青銅器分布と倭人の位置/倭の五主は九州筑紫の王者である/貢献記事の史料性格/突然消えた二つの存在/私はこう結論する
244   金印の「倭人」と銅鐸の「東[魚是]人」
    古代史の中の空洞/孔子は知っていた/神聖な音楽を献上
251  七支刀と年号の論理
255  九州王朝の古跡

261 IV 「海賦」と壁画古墳
    「海賦」/海の四至/「名」の論/異城の光景/喬山の帝像/馬銜 (ばがん)とはなにか/「海賦」の史料価値/珍敷塚/謎の一点
306   倭人の南米大陸への航行について −−その史料と論理
324   エバンス夫妻との往復書簡

343 V 神津恭介氏への挑戦状 ーー『邪馬台国の秘密』をめぐって
368   推理小説のモラル ーー松本清張氏と高木彬光氏の論争をめぐって
378   続、推理小説のモラル

391 史料 『海賦』

411 おわりに
413 古田武彦古代史関係論文等一覧

415  日本の生きた歴史(四)
417 第一 「論争」論
417 第二 「二島定理」論
418 第三 「短里」論
423 第四 「真実」論
426 第五 「誤認」論
430 第六 続「誤認」論
432 第七 「黒歯国・裸国」論
438 第八 「合致」論
439 第九 「海賦」論
444 第十 倭語論

  人名・事項・地名索引

 ※本書は、朝日新聞社『邪馬壹国の論理』(一九七五年刊)を底本とし、「はしがき」と「日本の生きた歴史(四)」を新たに加えたものである。
 本書内で引用されている『「邪馬台国」はなかった』、『盗まれた神話』、『失われた九州王朝』の該当ぺージには、ミネルヴァ書房刊「古田武彦・古代史コレクション」版のぺージが記載されている。


古田武彦古代史関係論文等一覧

☆は本書収載のもの

 古事記序文の成立について ーー尚書正義の影響に関する考察 『続日本紀研究』2-8  昭和30.8
 邪馬壹国 『史学雑誌』78-9 昭和44. 9
 邪馬壹国 『読売新聞』 昭和45. 1.24,25,27
 邪馬壹国と金印 『朝日新聞』 昭和47.4. 5
☆邪馬壹国の諸問題(上)・(下) 『史林』55-6・56-1 昭和47.11,48. 1
 邪馬壹国と海賦 『中外日報』 昭和48. 3.29〜 4.1
☆「海賦」と壁画古墳 未発表 昭和48・4
 好太王碑文「改削」説の批判 ーー李進煕氏「広開土王陵碑の研究」について  『史学雑誌』82-8 昭和48. 8
☆邪馬壹国論 ーー 榎一雄氏への再批判『読売新聞』 昭和49.11〜29
 記紀説話と九州王朝 『朝日新聞』 昭和48.10.24
 九州王朝と日本神話 『中外日報』 昭和49. 1.18〜2.27
☆神津恭介氏への挑戦状 ーー「邪馬台国の秘密」をめぐつて 未発表昭和49. 3
邪馬壹国の論理性 ーー「邪馬台国」論者の反応について 『伝統と現代』26 昭和49. 3
☆『翰苑』と東アジア 『朝日新聞』昭和49. 6.19
☆銅鐸人の発見 『歴史と人物』昭和49・9
☆魏晋(西晋)朝短里の史料批判 ーー山尾幸久氏の反論に答える 『古代学研究』73 昭和49. 9
☆金印の「倭人」と銅鐸の「東[魚是]人」 『週刊朝日』 昭和49. 9.13
☆直接証拠と間接証拠 ーー好太王碑文《酒匂本》の来歴 『東アジアの古代文化』昭和49. 秋
 邪馬壹国の史料批判  『邪馬臺国の常識』(毎日新聞社刊)所収 昭和49.11
☆倭王への献上か下賜か 『毎日新聞』昭和49.11.6

 邪馬壹国の論理と後代史料(上)(下) ーー久保・角林両氏の反論に答える 『続日本紀研究』176・177 昭和49.12. 1,50. 2. 1

☆九州王朝の古跡 『歴史と旅』 昭和50. 3
☆推理小説のモラル 『小説推理』 昭和50. 3
☆戦後古代史学への疑問 『朝日新聞』昭和50. 3. 8,15,22,

 「邪馬台国」はなかった一その後 『日本古代史の謎』(朝日新聞社刊)所収 昭和50.3

☆倭人の南米大陸への航行について 未発表 昭和50. 4
 まぼろしの「邪馬台国」への道  『聖教新聞』 昭和50.6.13

☆続・推理小説のモラル 小説推理』 昭和50. 7
☆邪馬台国論争は終わつた 『別冊週刊読売』昭和50. 7
 古代船の航路 『中外日報』昭和50. 7・26〜8.2
 飛鳥(ひちょう)の海流 『野性時代』昭和50. 9
 九州王朝の論理性 ーー白崎昭一郎氏に答える 『東アジアの古代史』 昭和50.秋
 古代船は九州王朝をめざす  『野性時代』 昭和50・10特別号
 九州王朝の史料批判 ーー藪田嘉一郎氏に答える  『歴史と人物』 昭和50.12(予定)

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古田武彦・古代史コレクション4

邪馬壹国の論理
ーー古代に真実を求めて

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2010年 6 月20日 初版第1刷発行

 著 者 古田武彦

 発行者 杉田敬三

 印刷社 江戸宏介

 発行所 株式会社 ミネルヴァ書房

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?古田武彦,2010  共同印刷工業・藤沢製本

ISBN978-4-623-05216-5

   Printed in Japan


 はしがき ーー復刊にあたって

     一

 「今度の本の題は『邪馬壹国の論理』とさせていただきます。」
 最初から、鮮烈な宣言、そういった“ひびき”だった。朝日新聞の大阪本社、出版局次長の田中明さんの言葉である。今も、ハッキリと覚えている。
 田中さんはそれまでのわたしの本『「邪馬台国」はなかった』以降、『失われた九州王朝』『盗まれた神話』だけでなく、各所に発表した論文類もふくめ、熟読し、深く理解して下さっていた。そういう方だった。「知己」である。
 その田中さんの企画による一冊、それが今回の本だった。わたしの論文が“至れり尽くせり”の形で収録された。だから、当の本の題まで、ズバリ構想の中に入っていたのである。それが右の言葉となったのだ。
 こよなき理解者の「手」によって成立した本、幸せな運命をもつ一冊だった。
 今回、「復刊」に当って、読み返してみると、まさに田中さんの“見通し”通りだった。否、当時(昭和五十年)の日本の学界や論壇の「水準」が、果してこの三十余年の中で、どう変ったか、変らなかったか。「復刊」の読者はつぶさに知ることができよう。貴重な本となった。

     二

 たとえば「邪馬壹国の諸問題」(上・下)は、京都大学の学術誌『史林』に掲載された二篇だ。尾崎雄二郎・牧健二のお二人とも、当時、京大の現役の教授だった(文学部と法学部)。尾崎・牧両論文は、わたしの「邪馬壹国」論(東大・『史学雑誌』七八 ーー 九)に対する批判だった。これに対する、詳細な再反論、それを『史林』に投稿し、掲載された。当時の京都大学の「学問的対応の公正さ」、それを如実にしめしていた。
 今ふりかえってみても、ここで取り上げられた論点、論争の急所は生きている。生きているどころではない。ここで「論証」され、「定置」されたテーマに対し、漫然と“読まずに”、あるいは“読まぬふり”をして、出されている「論文」や一流の新聞・雑誌の「特集」がいかに多いことか。唖然とする他はない(たとえば、二〇〇九年十月前後、『週刊朝日』四回連載の「邪馬台国」特集など)。

     三

 わたしにとって「論争の発起点」となったのは、東大教授の榎一雄氏との論争だった。
 昭和四十六年に朝日新聞社から刊行されたわたしの本『「邪馬台国」はなかった』に対して、翌々年(昭和四十八年)の五月から読売新聞に榎氏の批判が掲載された。題は「『邪馬台国はなかった』か」である。端的に、わたしの本一冊を批判対象とされた長篇だ。五月二十九日から六月十六日まで、十五回にわたる連載である。
 わたしは再反論を書いた。榎氏と同じく、十五回分。読売新聞の要請で「十回」に圧縮され、掲載された。この本に収録されているのは、本来の「十五回」分だ。のみならず、榎氏は(みずからの原稿と共に)「これは『前半』です。」と添え書きして書簡を送ってこられた。しかし、わたしの詳細な再反論の“あと”、「後半」の掲載を断念されたようである。
 「前半」は「国名」問題などに“限られ”ていた。「後半」は当然、「里程」問題、「邪馬臺国」の位置問題、ことに榎氏得意の「伊都国・中心読法」等のテーマがあっただけに残念だ。後藤・尾崎・牧・山尾氏等の再反論も、絶えて久しい。その後、現在に至る、学会の研究者達の「古田説、無視」の大勢は、あるいは実質上は「古田説、肯定」の“別表現”なのかもしれぬ。とすれば、歓迎すべき現象である。「復刊本」の刊行にさいし、痛感した。この刊行に踏み切られた、ミネルヴァ書房の杉田啓三社長、神谷透・田引勝二・東寿浩・宮下幸子等の諸氏のお志に深謝したい。

  平成二十二年五月五日
                古田武彦


 

   はじめに

 “諭理の導くところへ行こうではないか。 ーーたとえそれがいずこに至ろうとも”
 わたしの生涯を導いてきたもの、それはこの一語に尽きるようだ。
 かつて青春のはじめのとき、この言葉をわたしに語ってくれたのは、旧制高校の恩師であった。『ソクラテスの弁明』に、はじめてわたしがふれたときのことである。“この言葉の大切なところは後半ですよ” ーー語ってくれた人はそのようにつけ加えられた。見事な“注解”だった。
 親驚への探究に明け暮れた三十代、「邪馬壹国」の小道から古代史の大森林へと入りこんだ四十代、そのいずれの日にも、ただ一つの声が聞こえていたように思われる。

 “真実を求めよ。他は、一切関知するな”

そのようにひびいてきたのである。その声は現実のものとは思われぬひびきを帯びていた。それは、一個の“夢”という方がふさわしかったかもしれぬ。けれども、わたしの現実は唯一の夢によって導き通されてきたのである。
 今、わたしは京都の西郊に住んでいる。竹林からもれるあかつきや夕焼けの光の中を歩きながら、不思議な気持ちで思いかえすことがある。
 わたしにおいて、歴史の探究とは、自己の中なる論理の声との対話にほかならなかった。その意味では、徹頭徹尾、“私的な”わたしの内部のいとなみだった。それがはからずも、早々と公の場にさらされるようになったこと、 ーーそれはあの日からであった。
 ある年の冬近い日、突如(とつじょ)わたしの職場に現れた訪問客があった。その人は一カ月半前に出た、わたしの論文「邪馬壹国」(『史学雑誌』78-9号)のコピーをたずさえていた。そしてこれをもとにして本の形をなすよう、切にすすめられたのである。・・・。以来、今日まで『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話 ーー記・紀の秘密』の三書が相次いで世に出ることとなった。このようにして、わたしの一個の私的な実験は、世間の定説と厳しく対立する場に立たされたのである。
 この第四の本は、ここ数年間のわたしの闘いの跡だ。学界に確固たる業績をもつ大家たちとの歯に衣を着せぬ論争、多くの学者たちの嘲笑に対する容赦なき反論、それがこの本の生命である。人、あるいはこのようなわたしの闘いを不遜とするかもしれぬ。けれども、これはただ真実のための闘いであって、全く私怨ではない。それゆえ、わたしに批判や悪罵や嘲笑をそそいで下さった人々に対し、わたしは心の底において深い変わらぬ感謝をいだいている。なぜなら、大家の中には、流布された「定説」を守るため、ひたすら黙殺という名の“たこつぼ”にとじこもっている人々がなお数多いからである。
 また「盗用」問題についての処女論文がはじめて日の目を見たことを喜びとし、種々の障害をのりこえて掲載にふみきって下さった関係の方々に厚い感謝をそそぎたいと思う。これもささやかな真実を守るための、その記録にほかならなかったのであるから。
 わたしの三冊の古代史の本は、この五年間に世に送られた。今、わたし自身ふりかえってみて、一個の「奇跡」を見るような感慨を覚えざるをえない。わたしのような辺隅孤独の探究者を深く支えてくれたのは、思うにこれらの本のおびただしい読者たちであろう。それは無力なわたしにとって、心厚い励まし手、相見ぬ協力者だった。
 その人々に対し、わたしはこの本で心楽しい「海賦(かいふ)」の一篇を付載することのできたことを深い喜びとする。第一書『「邪馬台国」はなかった』において、論理がわたしを導いたもっとも危険な断崖、それは「三世紀倭人の南米航行」という帰結だった。“常識的”な論者の嘲笑をもっとも集中して受くべきこの地点において、豊富かつ詳細な新史料をここに加えることができたのである。さらにこの点に関し、海の彼方から送られてきたエバンズ夫妻の貴重な写真と手紙を掲載できたことは無上の喜びだ。今後、心ある人々は、この「海賦」を「三世紀倭人の史料」として、『三国志』魏志倭人伝と並んで、決して無視することができないであろう。
 さはあれ、わたしは今、この論争の書を世におくる。さらに一段と烈しい論争の渦中に身をおくために。それがわたしの求めてきた、歴史の真実を証(あか)す唯一の道なのであるから。


   おわりに

 わたしの母は、四国の室戸岬(ざき)に近い海辺の村の出身だった。わたしも子供の頃、太平洋に向かう荒浪の浜辺で、祖父から海の話を聞いたことがある。
 黒潮は、朝は仕事場、夕は墓場。遭難の恐怖と女たちの心配。海に立ちむかう男たちの知恵と勇気。 ーーそれらの話に幼いわたしは目を輝かせて聞き入った。
 思えば、日本の古代史を彩(いろど)る、「定説」という名の蜃気楼。その数々へのわたしの挑戦も、古(いにしえ)からの漁夫たちの日常の闘いと変わるところはない。板子一枚、下は地獄だ。一片の真実を求め、一寸の虚偽をうち驚す熾烈(しれつ)な論戦。それは今もつづいている(次表、論文等一覧、参照)。だが、その中からどうしようもない真実が、太陽のように疑いようもなく、徐々に明確にその姿を現している。
 遠い未来の日に、この本を手にとる人よ! あなたが、真実という名の、ささやかな一つの真珠をこの中に見出されんことを ーー過ぎ去りしわたしの、この孤立の闘いの中から。

  夢をはらまぬ真実はなく
  真実を生まぬ夢はない

     昭和五十年夏
               古 田 武 彦


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