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『邪馬壹国の論理』

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古代史再発見1 卑弥呼と黒塚

 この報告は、みなさんが素朴に考えられる疑問にお答えしていると思います。
原文通り技術的に表示できませんので、引用されるときは注意して下さい。参考です。


邪馬一国の証明 角川文庫

邪馬壹国の論理性

「邪馬台国」論者の反応について

古田武彦

 問題意識の初源

 わたしは少年時代、つぎのように聞いたことがある。算術(算数)のときだ。“解けなかったら、問題の一番はじめまでたちもどって考え直せ。そしたら、必ず解ける。”と。
 思うに、日本古代史学界の難問とされた、いわゆる「邪馬台国」問題にたちむかったとき、期せずしてわたしを導いたのはこの鉄則だったようである。それは、近畿説、九州説相競う中で、史料の根本において“重大な書き変え”が行われている。 ーーその事実を見たからである。
 わたしの関心はつぎの点だった。“原文(現存諸版本の文面)を改定するとき、そのために必要にして十分な論証がなされているか、否か。”と。学問研究において史料を使用する場合、これは根本の吟味だ。この重大事を抜きにして、「邪馬壹国→邪馬臺国」という書き変えを行っていたとしたら、もしかりにそれが“結果的に当っていた”場合ですら、学問の方法上、致命傷を犯したこととなろう。まして古代史上の問題は、“結果的に当っているか、当っていないか。”それ自体、簡単には判明しない。それが通例だ。だからこそ、「史料批判の省略」という、この飛躍は決定的に危険なのだ。
 このような論理の筋道は、わたしにとってどうしても疑うべからざるものだった。
 もっとも、三国志の中の「壹」と「臺」のすべての用例の調査をはじめたとき、わたしは自分に言い聞かせていた。.“まあ、十中八九、かなりの数の「壹」と「臺」と両字の錯乱が見つかるだろう。そしたら、従来の論者が省略していた「蓋然(がいぜん)性の論証」を明瞭(めいりょう)にしめすことができる。それだけでも、意義はあるのだ。”と。
 もちろん、その背後に、逆の場合 ーーつまり、両字の錯乱実例が全く存在しないという場合を“決して想像しなかった”と言えば、うそになろう。けれども、やはり“まさか、そんなことにはなるまい。”そう思って調査をすすめていったのである。
 しかし事実は、十中の一、二の方だった。両字の錯乱として“認識できる”実例を一例も発見できなかったのである。このようにしてわたしの第一論文「邪馬壹国」の基本の論点は成立した。


 至高文字の存在

 第二の論点は、右の調査の最中に見出された。「臺」の字が魏(ぎ)志におびただしく出現するのに対し、蜀(しょく)志、呉志には少ない。(魏志四六個、蜀志二個、呉志八個)しかも魏志の「銅爵臺」「金虎(きんこ)臺」といった、固有名詞としての三世紀の宮殿を指す用法は、他の二志には全く出現しないのである。
 “これは見逃せぬ現象だ。”わたしにはそう見えた。しかも「臺に詣る」(魏志第二十四、第三十〈倭人伝〉)といった用法では、「臺」の一語で“魏の天子直属の中央官庁”を指していた。いや、むしろこれは、端的に言えば「天子に詣る」という句と同義と見られるのである。

 ○魏臺、物故(ぶっこ)の義を訪(と)う。高堂隆、答えて曰く・・・。(蜀志第一、裴松之註)

 高堂隆は魏志第二十五の伝に詳記されているように、魏の明帝に対する「正諫」「補導」の高士であった。それゆえ、右の「魏臺」は他ならぬ、この明帝を指している用法だ。つまり「魏の天子」と呼ぶ代りに「魏臺」と記しているのである。これは裴松之の文章であるから五世紀の用法だとも言えるけれども、反面、その典拠は当然魏代(三世紀)の史料にもとづいているものと思われる。つまり、ここでも「臺」は「天子」その人を指す用法として用いられているのだ。これは先の「臺に詣る」=「天子に詣る」の場合と同一の用法である。
 すなわち、右の用例から見ると、三世紀の魏晋(ぎしん)朝において「臺」が“至高の意義をもっていた”という事実は疑えない。こうしてみると一方で夷蛮にふさわしく、「卑」「邪」といった卑字をもって倭人伝の倭国の固有名詞を表記した魏晋朝の記録官や史官(陣寿等)が、同時に同じ文面、同一句中にこのような至高文字「臺」を表音漢字として使用した ーー他におびただしく存在する「タイ」「ト」に当る表音漢字を一切斥(しりぞ)けてーー 、そのような可能性は到底ありえない。これは不可避の道理だ。わたしにはそう考えるほかなかった。(なお、これを「天子の諱いみな」のような“直接の使用禁止文字”の問題と混同してはならぬ。あくまで朝廷内の記録官、史官たちの、夷蛮固有名詞表記のさいの“用字撰択の妥当性”の問題である)


 たゆまぬ検証の成果

 右のような二つの理路を、わたしは第一論文「邪馬壹国」の中に書いた。その末尾はつぎの句で結ばれている。  
 「特にこの際銘記さるべきは次の一点であろうと思われる。すなわち、今後再び、三世紀における『邪馬臺国』の存在を前提して立論せんと欲する学的研究者には、史料批判上、『臺』が正しく『壹』が誤である、という、必要にして十分なる論証が要請される、という一点である。」
 そしてわたしは、この昭和四十四年九月以降、いわゆる「邪馬台国」論者がいかなる対応をしめすか。それを注視したのである。
 その反応はつぎの各種の型に分れていた。
 第一の型は、一切“口を閉す”手法である。わたしの、史料批判の根本に対する問いかけを無視し、「邪馬台国」という命題があたかも今もなお「自明の真理」であるかのようにふるまう。それがいかに著名の学者のものであっても、この人々には学問的率直さが欠けている。失礼ながら、わたしにはそのように見えたのである。
 第二の型は、“邪馬臺国でなく、邪馬壹国だという説もあるが、採用しがたい。”とだけ言って、反証の論理を一切しめさぬまま“切り捨てる”やり方である。あるいは“いろいろ反対説も出ているから、わたしは採用しない。”といった抽象的な言いまわしで切り抜け、自分自身の積極的な反論を避けているものも、これに準じよう。
 思うにこれらの論者は“自分は通説側に立っている”という安心感に依拠しているのであろう。その上、“高名な自分が、こう言うのだから、明確な理由などしめさずとも、人々は信用してくれるだろう“そういう「自己の世評」の上にあぐらを欠いた筆法ではあるまいか。すでに真実に対して誠実な姿勢はどこかに置き去られている。わたしにはそのように見えた。
 なぜなら、反対理由が一切明示されていないから、わたしの方からこれに対する再反論もできぬ。すなわち“論争の中で真理を深める”この学問の大道から、みずからを敢えて遠ざけているのであるから。
 これに対して第三の型は、わたしには敬重すべき人々と思えた。この人々は、わたしに対して一定の理由をしめして反論されたからである。
 わたしはその反論に聴き入り、その中に一片でも真実があれば、直ちに従いたい、と思った。けれども、結果としては、いずれもわたしに“意外とするもの”を見出しがたい。そういう帰結に達するほかはなかったのである。それらを個条書きして左にしめそう。
 (一)中国の史書、宋版の各本および三国志中に“あやまりがありうる”ことをしめすことによって、わたしへの反論になる、としたもの。
 この方法は、率直に言って“わたしの立論への反証とはなりえない。”という論理的性格をもつものだ。なぜなら、いつの時代のいつの書物でも、“可謬(かびゅう)性”をもつ。それは人間の手による産物である限り、当然の原則だ。だからこそ、わたしは「臺と壹」という特定文字に対する、具体的な検証に立ち向ったのである。すなわち、わたしの調査はまさにその“可謬性の原則”そのものから出発しているのであるから。
 その上、「壹」と「臺」という特定字の検証のみによって、三国志全体はもとより、宋版全体、さらには中国の史書全体の「無謬性」など到底主張しうるはずはない。これは自明の真理ではあるまいか。(三国志魏志倭人伝中の「絳地」(景初二年十二月詔書)の語について、裴松之が「此の字、体ならず。魏朝の失に非んば、則(すなわ)ち伝写者の誤なり。」として、“三国志文面のあやまり”について推定している。また、わたしも、宋版紹興本、三国志倭人伝の「対馬国」の「馬」は「海」(紹煕本)のあやまりと見なした)
(二)後漢書の方に明らかに「国」という字面がある以上、“古田の「卑字と貴字との背反」の論理は成立できない。”と論じたもの。この問題は、わたしの新著「失われた九州王朝」ーー以下新著と呼ぶーー (第一章II)において詳記された。後漢書の「邪馬臺国」は、范曄(はんよう)がこの本を書いた五世紀における、倭国の国名である。この時代には、「臺」の唯一性はすでに失われていた。なぜなら、西晋滅亡の三一六年以後、中国はいわば「臺のインフレ」の時代に突入した。五胡(こ)十六国相競って「臺」を各地に乱立させたからである。すなわち、三世紀の三国志には三世紀の道理があり、五世紀の後漢書には五世紀の道理がある。 ーーこの平明な真理をわたしは見失うことができない。この歴史的時間の誤差を安易に交錯させたこと、ここに従来説の致命的なおとし穴が存在したのであろ。
(三)『隋書』・『梁書』・『北史』・『通典』・『太平御覧』等、七、八世紀以降の各種唐宋代史書類に「邪馬臺国」とあることは、三国志の原形にもそのようにあった証拠だ、という論。これは三世紀と七、八世紀との間に、五世紀の後漢書が存在することを忘れた議論ではあるまいか。三世紀の「邪馬壹国」は五世紀において「邪馬臺国」という国名へと、いわば拡大して継承された(「壹=倭」→「臺=大倭」第二書六九ページ参照)。それゆえ、七・八世紀以降の唐宋代史書類がこれ(後者)によって記録したのは当然だ。「日本の神武天皇」「中国の孔子」といって怪しまないように、古い名称を後代名称によって“置換”して表記する。これは中国史書でも慣例的な手法なのである(第二書七六ページ参照)。それゆえ、これもまた、何等わたしへの反論となりえない性質の問題であるというほかない。
 以上、右の三種類の反論は、遺憾ながら、いずれも、わたしの従うところとはなりえない性格のもの、と言うほかはなかったのである。


 文字の機能と文章

 わたしはこれまでわたしへの反論を賜わった方々に対して、逐次再反論の論文を発表させていただいてきた。
 (1) 「邪馬壹国の諸問題」(上下) ーー尾崎・牧氏への再批判ーー〈史林55-6,56-1 昭和四十七・八年〉
 (2) 「邪馬壹国論 ーー 榎一雄氏への反論」(全十回)〈読売新聞夕刊、昭和四十八年九月十日〜二十九日)
 (3) また、昨年「続日本紀研究」第一六七号に一挙に掲載された、久保泉氏と角林文雄氏の、わたしの立論への御批判に対しても、わたしの再批判論文を用意している。(「邪馬壹国の論理と後代史料 ーー久保・角林両氏の反論に答えるーー 上・下」「続日本紀研究」一七六・一七七、。昭和四十九年。後期。)
 さて、右の三論文に洩(も)れたものにつぎの著書がある。(ただし、右の(3) の中で、左の著書中の、久保氏の所引部分だけは扱った。)

 大庭脩氏「親魏倭王」(学生社刊、昭和四十六年十二月)
 氏は三国志魏志倭人伝中の文面に“あやまり”のある証拠として、つぎの二例をあげられた。これに対して吟味を加えよう。

 (一)「遣使」問題
 A(景初二年六月)・・・太字劉夏、を遣わし、将いて送りて京都に詣(いた)らしむ。
 B(其の十二月)詔書して倭の女王に報じて日く、「・・・帯方の太字劉夏、使を遣わし、・・・」

 すぐ近接した文面である上、同一事実を指しているのに、Aでは「遣吏」、Bでは「遣使」だ。これについて大庭氏は「これは当然、中国の制度の上から吏に統一すべきところである。」と言われる。「中国の制度」とは、「皇帝の官僚である帯方郡の太守が、皇帝に対して使を遣わすということはあり得ないのであって、郡太守が皇帝に報告する必要がある時は、とうぜん部下の吏をつかわすものだという当時の制度」のことだ、と解説しておられる(同書一九六ページ)。
 一見、明快にして疑う余地のない理路と見える。しかし、三国志の表記様式を調べてみると、氏の論断には思いがけぬ盲点が伏在している。
 (a) (正始四年)冬十二月、倭国女王彌呼、遣使奉献。(魏志、第四、斉王紀)
 ここで注目されるのは「彌呼」という表記だ。倭人伝では全出現個所、五個所とも、「彌呼」である。従って「卑=俾」は共用と見るほかない。
 (b) 倭人伝中、つぎのような表記がある。
 (イ) 始。(狗邪韓国 ーー 対海国間)
 (ロ) 又南一海。(対海国 ーー 瀚海 ーー 一大国)
 (ハ) 又一海。(一大国 ーー 末盧国)
 これによってみると、「度=渡」の共用であることがわかる。
 (c) 三国志紹煕本によってみると、魏志の背文字(一紙の中央の折半部にある「魏志」の字)は、「魏志」「委志」「鬼志」が交々(こもごも)出現している。すなわち「魏=委=鬼」の共用であることがわかる。
 (d) これと類同するのがつぎの例だ。
 (イ) 漢奴国王印(後漢の光武帝、志賀島出土の金印)
 (ロ) 如面(漢書、如淳註 ーー倭人項)
 これらに対して、『漢書』(本文)・『三国志』では、「倭」字が使われていることは周知の通りだ。してみると、後漢代((イ) と『漢書』本文)、三国期(魏の如淳註と『三国志』)とも、「委=倭」の共用期であると見なされる。

 以上(a) 〜(d) の諸例から帰納すべき点は何か。それは、三国志はいまなお漢字の、いわば形成期に当っており、「人偏*」「三水編*」等の「へん」の有無にかかわらず、「共用」されることが多い、という一点である。

「人偏*」「三水編*」は、それぞれの編漢字表示は略(文字で表しています。)

 このような史料事実からみると、問題の「遣吏」と「遣使」の場合も、おのずから帰結は自然に導かれよう。すなわち「吏=使」は「共用」であり、いわば“未分化”の状況にあるのである。これは単なる、史料状況からの推定にとどまるものではない。つぎの実例がそれを証明する。
 (イ) 乃以表為鎮南将軍・荊州牧、封成武侯、仮節。天子都許。表、雖使貢献、然与袁紹相結。(魏志第六)
 (ロ) 以謙為徐州刺史、・・・天子都長安。四方断絶、謙遣ノ使間行致貢献。遷安東将軍・徐州牧、封漂陽侯。(魏志第八)

 (イ) では表(劉表)は鎮南将軍で荊州の牧であったが、天子に対して「使を遣わして」いるのである。(ロ) では徐州の刺史であった謙(陶謙)が天子に「使を遣わして」いる。

 反面「遣王欽等」(魏志第十二)といった用例も存在するから、やはり「使=吏」は“共用されている”というべきであろう。すなわち「使と吏」峻別の議論は、他の時代や他の文献(たとえば唐宋代史書類)にはふさわしくとも、三国志には適用しえないことは明らかである。
 こうしてみると、大庭氏の理路は、三国志表記の実際を検証しないままでの立論であったことが判明する。

 (二)「建中校尉」問題
 ○正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儒等詔書・印綬倭国。「(倭人伝)」
 右の「建校尉」について、大庭氏は「建校尉」のあやまりだろう、と推定されている。その理由は
 (イ) 呉には建中郎将と建都尉がある。
 (ロ) 「魏には建忠将軍があることは『三国志』で明らかなのだ」、従って倭人伝の場合も、「建忠」が正しい。
 とされるのである。
 けれども、右の(ロ) について疑問がある。三国志魏志中の「建忠将軍」の例を見よう。
 a 鮮于輔、将其衆奉二王命。以輔為建忠将軍、督幽州六郡。太祖与袁紹拒於官渡。・・・文帝践炸*、拝輔虎牙将軍。(魏志第八)
 b 董卓敗・・・・・繍随済、以軍功稍遷至建忠将軍、封宣威侯。・・・太祖南征。(魏志第八)

炸*は、火偏の代わりに阜(こざと)偏。JIS第4水準ユニコード963C

 a は「文帝践昨」以前であるから、魏以前、つまり漢末の記事である。同じく
 b も董卓の乱後、太祖の活躍していた時期であるから、漢末の記事だ。すなわち、この「建忠将軍」は漢制の官名なのである。
 これは三国志以外の典拠でも同じだ、
 c 建忠将軍、昌郷亭侯鮮于輔・・・等勧進、帝命無或拒違、公乃受命。(「魏書」 ーー魏志第一、裴松之註、所引)

 これは「魏書」に出てはいるものの、やはり漢末の有名な事件だ。太祖に対し、臣下としての最高の位たる「魏国之封、九錫之栄」を贈るよう、諸侯、諸将軍が天子(漢の献帝)に勧め、天子はこれを命じたため、公(太祖)はこれを受けた、というのである。この諸将軍名中に出てくるのが「建忠将軍」だ。これはa と同一人物(鮮于輔 せんうほ)である。
 このように魏志、魏書に出てくる、この官名は実は漢代の称号だ。そして文帝践祚、すなわち明らかに魏朝になってからは出現しないのである。この点を大庭氏は見誤られたのではあるまいか。

 次に「建中」の字義を考えよう。
 大庭氏は「中郎将や校尉の冠っている称号は皆意味のよく通ずるものであったが、建中というのは何とも通じにくい組合せである」と言われる。果してそうだろうか。
 (イ) 王懋昭大徳于民。《懋=勉、つとめる)(書経、仲[元虫]之諾)

[元虫]は、JIS第4水準ユニコード867A

 この「建中」は「建極」と同義であり、“中正の徳を定める。標準とすべき道をたて示す。”(諸橋轍次「大漢和辞典」)の意だ。唐、宋代には年号にも用いられている。
 さらに注目すべきは左の用例だ。
(ロ) 昔劉備自成都白水、多作伝舎、興費人役、太祖知其疲民也。今中国力、亦呉、蜀之所願。(魏志第二十二)
(ハ) 柔所統烏丸万余落、悉徒其族中国。(魏志第三十、烏丸鮮卑伝)

 右の(ロ) では呉、蜀に対して、(ハ) では烏丸に対して、いずれも魏を「中国」と誇称している。三国分立の中で、自己のみが正統の天子の国であることを、意識して他にしめそうとした筆法であろう。すなわち、三国期においてこそ、この「中国」という魏の自称は、ことさら重要な“使用意義”をもったものと思われる。こうしてみると「建中校尉」という称号は無視できぬ響きをもって感ぜられるではないか。
 正始元年、魏の天子(従って帯方郡の太守弓遵きゅうじゅん)が「建校尉梯儁(ていしゅん)等」を遣わし、銅鏡百枚をふくむおびただしい財貨を授与したのは、当時の政治状勢から見れば、倭国が真西の海上近接したに「朝貢」せず、正統の天子の居する「中国」(魏)にはるばると貢献しきたったことを賞美したものと見られる。こうしてみると、ここに出現する使者の官名が「建中」であることは、まことにふさわしき字面をもつもの、と見ることができよう。
 このように検しきたれば、大庭氏の、この語の字義に関する疑いもまた、根拠なきもの、といわざるをえないのである。
 以上を簡約しよう。
 はじめにのべたように、わたしの立論は「三国志無謬(むびゅう)説」とは関係がない。従って必要にして十分な論証をもってすれば、“三国志のあやまり”を指摘しても、何等さしつかえないのである。これがわたしの立場だ。だから、この大庭氏の論は、ことの本質上、わたしへの反論とはなりえぬ性格の議論なのであった。
 その上さらに、明らかにたったことは、氏の挙げられた事例それ自身について見ても、それは“三国志のあやまり”と速断できるものではけっしてなかったということだ。それが検証の帰結である。ただ、大庭氏は右の著書では、わたしの第一論文「邪馬壹国」だけしか参照されえなかった。従って“「邪馬台国」はなかった”“失われた九州王朝”を参照されたならば、その論点はいささか変化されたかもしれぬ。早い段階における氏の御批判の労に感謝したい。


 史料のに依拠するものの勁さ

 最後に方法上、肝要の一点につき、簡明に個条書きしよう。
 (一)(1) 後代の研究者が原文面(三国志の現版本)を“あやまり”だ、として改定しうるためには、それ(原文面)があやまりであり、これ(改定文面)が正しい、という必要にして十分な論証が必要である。
     (2) 右の論証が「必要にして十分な論証」ではないことが反証されれば、その「後代改定」は根拠を失う。
(その「後代改定」がいかに長期 ーーたとえば江戸期より現代までーー にわたって「定説」視されてきたとしても、本質は同じだ)
 これをつぎのように“逆立ち”させてはならない。
 (二)(1) すなわち定説視されてきた「後代改定」を疑う者には、その「改定文面」が決してありえないことの、完壁(かんぺき)な証明が必要とされる。
     (2) 逆に「定説」の側に立つ者は、“「後代改定」の方もまたありうる”ことをしめせば、“「後代改定」の正当性(「定説」性)は証明された”ものと見なす。

 右の(一)が“史料に依拠する”立場であるのに対し、(二)は“定説に依拠する”立場だ。多くの「邪馬台国」論者は(二)の立場にとじこもろうとする。しかし、いかなる「定説」も、“史料の上に立脚した論理的厳密性”をもっていなければ、無意味だ。それなしには、何の権威もありえぬ。 ーーわたしにはそのように見えているのである。

 

〈補論一〉

 なお、同書二〇六頁に大庭氏のふれておられる、(A) 「帯方太守劉[日斤]」(りゅうきん 魏志韓伝)、(B) 「帯方太守劉夏」(倭人伝)、(C) 「剴*夏」(日本書紀神功紀所引)の異同について、一言附記させていただく。(A) は「景初中、明帝密遣帯方太守劉[日斤]・楽浪太守鮮于嗣、越海定二郡。」とあるものだ。これは景初二年一月、明帝の公孫淵討伐令発布にともなう“公孫淵夾撃(きょうげき)作戦のための先制行動”であった。したがって、この年の“一月前後”だ。これに対し、(B) は明白に同年の“六月頃”の記事中のものだ。
 したがって、劉[日斤]は六月以前に転任するか、または没し(たとえば公孫淵攻略中の戦死)、六月には同じ劉氏の一員劉夏がその(帯方太守の)後を継いでいた。 ーーこれが自然な理解だ。この両者を同一人物と見なすいわれは全くないのである。(これに対し、両者の「同一人物」であることが確定してこそ、はじめて“「[日斤]」か「夏」か、いずれかが誤字だろう。”という、大庭氏の「推定」につながりうる。しかし、その“確定証明”は、何等存在しない)

剴*夏(とうか)の剴*は、登にりっとう編。JIS第三水準、ユニコード9127
劉[日斤]」(りゅうきん)の[日斤]は、JIS第三水準、ユニコード6615

 また(C) の日本書紀の場合。百済系史料からの孫引きである(第二書二八一ページ参照)上、特にこの部分は、後代改定の多いト部本系の写本しか存在せず(北野本はこの個所欠落)、これをもって現存宋版(紹煕本、紹興本)の文面を疑うことは、史料批判上危険である。
 その上、卜部本系中、最も古い写本とされる熱田本では「劉」(「つくり」が「邑(おおざと)旁*」でなく、「りっとう旁*」と見える)ながら、一見「剴*」に似た行、草書体が書かれてあり、ここに「劉→剴*」と変化した一因があるようである。また「内閣文庫本、一本」(和、一九〇九三番)では明確に「劉」である。

「邑(おおざと)旁*」、「りっとう旁*」は、それぞれの旁漢字表示は略(文字で表しています。)

 それゆえ、このような写本間の異同を一切考慮せず、“日本書紀、神功紀は「剴*夏とうか」だ。”という「断案」(岩波古典文学大系のようにト部兼右本〈天理図書館蔵〉だけに依拠した「活字本」によられたのであろう。)の上に立った議論の史料的基礎は、意外に脆(もろ)いのである。
 したがって、ここに三国志(宋版)の錯乱を見出そうとする大庭氏の提言は、各写本間の史料性格を厳密に処理する限り、容易には成立しがたい、というほかないのである。

〈補論二〉
 なお、「魏晋朝の短里」問題について、わたしの立論に対する貴重な反論をよせて下さっだものに、山尾幸久氏「魏志倭人伝」(昭和四十七年七月、講談社現代新書)がある。今回、これに対するわたしの再批判を記させていただくつもりであったが、枚数が許さず、別稿において詳論することとした。(「後魏晋(西晋)朝短里の史料批判 ーー山尾幸久氏の反論に答える」『邪馬壹国の論理』朝日新聞社刊 二〇九ページ、本書では一八二ページ参照、邪馬壹国の論理 里数問題

 

『伝統と現代』26号 伝統と現代社
まぼろしの国家の原像をもとめて 1975年9月1日刊行より〔文庫の編纂にあたり、一部加正〕


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