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近代法の論理と宗教の運命 古田武彦
古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編3 『わたしひとりの親鸞』 明石書店
明石選書 『わたしひとりの親鸞』
このテーマをさらに次なる局面へとおしすすめる前に、再び最初のテーマにたちかえらせていただきます。
いわゆる「来世」の問題も、先にあげたわたしの根本方針、つまり格率から見ると明白です。わたしは来世などに行ったこともなく、それを自分の手で自分の掌ににぎりしめたことがないのですから、そんなものを本当だと見なすことはできないのです。
"いや、それはお前が生きているからだ。死んでみればわかる。" そう、言う人があったら、その人に言い返しましょう。 "あなたは死んでみたのですか。"
と。
その人も、知らないくせに知ったかぶりをしている。わたしにはそれを疑うとができません。たとえ "その人" が親鸞であっても、イエスであっても。わたしには何ら変わりはありません。
わたしは今は、彼等(イエスや親鸞たち)を "後光(ごこう)のさした" 永遠の超能力者として見ているのではなく、また「歴史上の人物」として
"理解" しようとしているのでもありまぜん。ただ、わたしと同じ、この大地に生まれ、そして死んでいった、ひとりの人間として見ているのです。ですから、その彼等が、生きているうちに「来世がある。」「天国がある。」などと言ったら、彼等はやはり
"見てきたような顔をして"真赤なウソをついているのです。
わたしは彼等を愛していますが、にもかかわらず、いや、限りなく愛すればこそ、こう、言うほかないのです。
わたしが彼等を愛するとは、彼等が生きながら来世の秘密をのぞいて帰ってきたような、異能の超能力者だからではありません。従って彼等が「死後に浄土がある。」「必ず天国がある。」など言ったとしても、わたしには全くそれを信ずることはできないのです。
もし、「いや、ほかならぬ、あの親鸞が.言うのだから。」「イエスの言うことなら、わたしは。」などと言う人があれば、それはその人の勝手ですが、わたしにはそれは、学問研究の場合、「あれほどの有名大学の教授が言うのだから。」という発想で考える、肩書主義者と変わらぬものと見えるのです。
また、ある宗教学の大家がいて、「お前はまちがっている。三国志や親鸞文献の解釈なら、お前の方針でも、それはそれで意味があろう。しかしそんな文献解釈のときのやり方を、『来世』といった、信仰の重大事にあてはめるのが心得ちがいだ。」そう言うかもしれません。
しかし、これに対するわたしの態度は簡明です。 "何かしらないが、あの人はえらい人だから、きっとすばらしいことを、言っているのだろう。"
こういったうけとり方を、わたしはすでに捨てました。
それはわたしの人生に対する態度そのものに根ざしています。わたしは決して文献に対する専門家ではありません。古代史に対しても親鸞に対しても、人間として当然の、平明な方法、
"なっとくできるものだけをなっとくする。" そういう姿勢を貫いてきたのです。ですから人生に対してだけ態度を変える。そんな器用なことは、わたしにはできません。
ことに生死の問題についてこそ、万人平等です。特別 "うまい死に方" を心得た専門家がいるわけではありません。どんな「名士」でも「大家」でも「有徳者」でも、わたしのように平凡かつ愚劣な人間と、全く同じように冷たい一塊の死塊になってゆく。この対等な
"ぶざま" な姿ほど、この人の世においてすばらしい事実はありません。「人間はみな対等だ。」そんな百のお説法をしなくても、この一個の事実がすべてを簡明に語っているのです。一国の権威あふれた王者であれ、輝かしい革命社会の元勲であれ、いかに全国家の荘厳な儀式や芸術的な装飾や科学的な保存術で、その屍体(したい)を美々しくよそおうとも、しょせん
"隠しおおせぬ" 、これは根本の事実です。
そしていかなる宗教学の大家にも、高僧にも、「死後を予見する」超能力は与えられていない。この与えられていないという一事こそ、人間同士の根本の対等を、残るくまなく証明するものではないでしょうか。
従って「文献とはちがって信仰の事実は。」などと、荘厳なこけおどしをのべられても、わたしはその人の顔を黙って見つめ返すだけです。
古来、「来世」は、いつも人々にとって熱い関心の的(まと)となってきたようです。これは「来世」を知りえない人間の性格から見て、当然とも言えましょう。そこでこのニーズ(需要)に答えて、歴史上いれかわりたちかわり、「来世」に関する
"情報屋" が登場してきました。
卑弥呼のような古代の宗教的権威者は、「鬼道(きどう)を以(もっ)て衆を惑わした」と言われています。これもおそらく民衆の中に "わたしたちとはちがって、あの方なら、それを見通しておられるにちがいない。"
という共同の幻想をふきこむことに成功していたからでしょう。その点、現代も東北にある「オソレ山」のイタコ(巫女)は、卑弥呼のささやかな後裔(こうえい)たちともいえましょう。
いや、それどころか、テレビという近代的装置でも、しばしばこの種の番組を日本列島の上に流しつづけています。
これも "こわいもの見たさ" という無邪気な好奇心と共に、右の二ーズが古(いにしえ)から今まで底流において決しておとろえていないことをしめしているのだと思います。そこでは、東北だけではない、日本の各地にその道の専門家がいて、「わたしこそ来世からのおとずれを知る者だ。」と称して人々の関心をひきつづけているのです。今、わたしがこういった文章を書くと、すぐ「いや、お前はまちがっている。現にわたしは来世の人と交信した。」といった類の「反論」が、これまた郵便局という近代装置を通して、わたしのもとへとどけられること、おそらく疑いないところと思います。
けれども、わたしは幸いにもそのような虚報にまよわされることはありません。なぜなら、幼年時代、一つの実験をおこなったからです。
わたしは子供の頃、おばあさんの手もとでいつも可愛がられていました。父の母、つまり祖母に当たる人です。神経痛に悩まされていて、自分で自由にふるまうことができない。そこで孫のわたしに命じて所要のものを買いにやらせたり、他(ひと)にものを持たせたり、便利に
"使って" いたようで、その代わり、といっては何ですが、とても可愛がってくれたのです。
わたしが泥だらけで飛ひまわり、けがなどして帰ってくると、小さな鉄の棒(独鈷 どくこ の類)、真言宗のおまじないの道具ですが、それを自分のひきだしからとり出して、「何とか、かんとか、ソワカ」といった幻妙な呪文をとなえてくれました。そうすると、わたしは今までけがが痛くてたまらなかったのに、何かスーツとその痛みがひいてしまうように感じられたものです。
祖母と孫との日常会話。これほど平和で "安全無害" なものは、世にありますまい。そのある日、わたしは真剣な顔をして言いました。「おばあちゃん。お願いがあるで。聞いてくれる。」「何ぞね。言うてみ。」「おばあちゃんが死んで、もし本当にあの世があったら、僕に知らしてほしいんじゃ。」「?」「幽霊になったらええじゃろ。」「幽霊いうもんが本当にあるんなら、どうしても僕に出てきてほしいんじゃ。」「・・・よし。出てきてやるよ。」「きっとやぜ。出てこんかったら、やっぱり幽霊はないんじゃ、思うけん。」「ええわ。幽霊いうもんがあったら、どうしても出てきてやる。まちがいない。」
かくして両者の間に荘厳な契約が成立しました。普段の冗談口ではなしに、わたしはじーっと祖母の目を見つめ、そのほそい手をにぎりしめて言いました。祖母も、話の途中から、わたしの、普段とちがう態度に気づいて、真剣に答えをかえしてくれたのです。
そしてまもなく祖母は死にました。しかしそれ以来、全くわたしの前に、祖母の幽霊など出てきませんでした。幼いわたしが期待と緊張にみちた日々をすごしていたのにもかかわらず。
このような次第ですから、わたしは祖母との約束を信じ、「幽霊」などという、 "来世からの通信者" の存在しないことを確信できるのです。
・・・
略
・・・
再び筆を転じ、人間が宗教と今までどのようなかかわりをもってきたか。この問題について考えてみたいと思います。
大きく、三段階の変転をへてきた、わたしにはそう思われます。
まず第一は、アニミズムの時代。木や山や石に神聖な霊の存在を認め、これを尊崇していたと言われる時代です。ギリシャ神話で、西風の神ゼピュロスや太陽の神エーエリオス、雷の神ゼウスなど、自然物がひとつひとつ神格化されて語られているのも、その名残でしょう。
いや、そんなエーゲ海の彼方まで行かなくても、この日本列島にもそのあとかたはどの地方にでも残っています。巨石信仰と一言で呼ばれていますが、今見たところ、ただの石塊ながら、何かかっては深い由緒を帯びていた。 ―― そんな石を見出すのは、そうむずかしいことではありません。
また大和路へとたどった人は、三輪神社という由緒ある古社があり、ここでは三輪山という山そのものが神体としてまつられていることは、有名な話です。これもはるか古えのアニミズム信仰が後代の時の流れにさらされながらも、今にその片鱗(へんりん)を残存させている姿、と言えましょう。
何千年か何万年かつづいた、このような時期ののち、第二の部族宗教の時代がやってきます。自然物ならぬ一部族の長が神の権威をになうのです。彼は、あるいは神との媒介者であったり、あるいは時として神そのものであったりします。その神聖なる権威によって、その部族の全員を一体化し、統合するのです。
このような新しい信仰は、旧来のアニミズムに安んじていた人々の精神の平和に大きな亀裂を投じるものだったでしょう。 "あの、物言わず亡びることのない、神秘の石や神聖な山なら、われわれ亡びやすい人間にとって、全身全霊の崇敬に値いしょうが、何であんな、うつろいやすい人間、必ず亡び去る人間そのものを神聖視できようか。"
こう言って眉をひそめ、古い信仰に固執しようとした、当代の老人たちも必ず多かったにちがいありません。
しかし、意志的・意欲的な、この新しい信仰形態は、新時代の若者たちをひきつけたことでしょう。この部族信仰を中核とした新しい集団、これは部族の戦闘員たちに、宗教的権威にみちた王者のためにいのちをささげて悔いぬ気風を生み出し、その炎のような勢いで新しい時代の強烈な勢力を築いていったことと思われます。部族信仰の英雄時代です。
そのさい、古い信仰との調和もまた、はかられたようです。たとえば先の巨石信仰など、この新しい部族信仰のシンボルに用いられた可能性が十分あります。今、わたしたちの眼前にする巨石信仰は、すなわち、それを信じ、それを集団統合の中核的シンボルとしていた、その遺跡なのではないでしょうか。
三輪山信仰の場合も同じです。のちに九州から入ってきたと自称し、これを伝承として伝えさせた、天皇家が、反面、この在来からの古き三輪山信仰と深い再結合をしめしていったのは、古事記などの説話群の語るとおりです。
もはや新しい時代(わたしたちが普通「古代史」と呼んでいる時期ですが)には、三輪山信仰は、単なるアニスム風の信仰形態ではなく、新しい部族信仰の統合中心圏の中に再び位置づけし直されてきたのです。
また、あの卑弥呼は、先代の男王の死後、歴年(れきねん 十年弱くらい)におよぶ戦乱のあと、「共立」されて女王となったといいます。(彼女は、わたしが『「邪馬台国」はなかった』や『邪馬一国への道標』で論証したように、博多湾岸の王者です。)。その宮殿は、銅矛や木の弓や矢で守衛されていたといいます。太陽信仰の道具としての銅鏡、死者のための甕棺(かめかん)。それらを小道具、もしくは大道具とし、それらの背景のもとに、この神秘的・宗教的祭司の風貌をそなえた大女王は君臨し、その大女王の統率下に戦乱によって分裂した倭国を
"再結集" させようとしたのです。
ですからこの時点の三世紀は、もはやこの "やり口" の創始時代や英雄時代ではありませんでした。かえって、かつてその倭国の歴史上、
"輝ける、巫女(みこ)的女王のもとで原初の倭国は平和だった。" こういった「共同幻想」がすでにあった。そこでその民族的記憶・伝承をたよりに、卑弥呼を新たにかっぎ出した
"知恵者" がいたわけです。
そして三国志の-伝えるところ、この "策謀" は功を奏したようです。けれども次の一与(いちよ 壹與)という後継者のあと、急速にこの女王形式は衰滅してゆくようです。三一六年の西晋(せいしん)の滅亡によって朝鮮半島の楽浪郡・帯方郡の衰退、政治的・軍事的空白化をめぐって東アジアは大規模かつ激烈な大戦乱時代に突入しました。おそらくその新たな情勢と関係があることと思われます。これらのことは、すでに書きました(『失われた九州王朝』)ので、今ははぶきますが、要するに、わたしたちの日本列島でも、確実にこの部族信仰の時代は誕生し、中興し、衰退した、その歴史をもっていたのです。
いや、それだけではありません。明治維新を実行したあと、やはり "知恵者" がいて、この部族信仰の「再興」を企てました。それは昨日のことです。
おわかりでしょう。わたしの青年時代のはじめ、友人たちは次々と戦場に身を投じてゆきました "天皇陛下のため、いのちを惜しむな。" との時代の声の大波にのみこまれつつ。わたしの小学時代(広島県の北、十日市小学校)の無二の親友(石野くん)もまた、フィリピンへ向う途次、海底に沈みました。
この部族信仰について、貴重な記録の集大成となっているのが、旧約聖書です。ユダヤ人が部族神エホバの名のもとに、あるいは栄光の時代、あるいは屈辱の時代を経験したことが美しい詩的な韻律をもって語られています。
ところが、前一世紀になってこの部族信仰は重大なピンチをむかえたようです。
地中海中央部のイタリア半島の一画から拡大しはじめたローマ。その侵入者がイスラエルの地を占領しました。そして昨日の敵国の統治者と提携して統治していたのが、先にものべた総督ピラトです。
この新事態は、一般の民衆や在野の宗教的伝道者(預言者)たちに、重大な不信と混乱をまきおこしたものと思われます。なぜなら、かつての日ユダヤ王は、宗教的なユダヤ国粋主義のシンボルであり、外敵たるローマ軍と闘うとき、
"青年よ、死を恐れるな。神の敵と闘って死んだ者の魂は、エホバの神によって永遠に嘉(よみ)されよう。" そう「宣言」しつづけていた人々だったからです。
その当の人々が一転して、ローマ軍と握手し、総督という名の占領軍の首領、ローマの手先と並び統治する。それを見たユダヤ人たちはどのような感慨をもったでしょら。おびただしい青年たちを、エホバの神の名のもとに、戦場で死なせてしまったユダヤの母たち、姉たちは。
このような一種言いがたい、歴史の「皮肉」は、 "幸いにも" わたしたちには、大変理解しやすいものです。 ―― そう、一九四〇年代後半の経験です。
イエスはこのような環境の中で青年期をむかえました。かつては熱烈に支持された部族信仰にポッカリあいた空洞の中で、彼の若々しい精神は育っていったのです。
ここで再び、わたしのイエス体験にふれることをお許し下さい。
一九四五年の四月、わたしは幼少年時代をすごした広島の地をあとにし、東北の彼方、仙台へと向かっていました。十八歳。旧制広島高校を終え、東北大学の村岡典嗣さん(日本思想史)のもとへといそいでいたのです。
今とちがって全線鈍行。車中で時間はタップリあります。そこでバイブルを携行。“このさい、読みとおしてみよう”そう思ったのです。
もちろん、わたしクスチャンなどではありませんでした。しかし、イエスの言葉とされる一句を人から聞いて、それが矢のように心にささっていたのです。
それは旧制高校一年、十六歳の春でした。
「道義」という時間がありました。前は、「倫理」といっていたのを、戦時色豊かに“改名”されていたのです。しかしその内容は、全くそれに反し、青年の心にズバリ飛びこんでくる迫真の授業でした。岡田甫(おかだ はじめ)先生。その人が毎時間、全力をうちこんでおられたのです。
わたしはそのころ、生意気にも人生になげやりになっていて、毎時間居ねむりばかりしていました。けれども、この時間だけは、目をはちきれるように見開き、岡田さんの一語一語に聞き入っていたのです。
その中で次のようなイエスの言葉を聞きました。
―― 「色欲をもって女を見たる者は、 すでに姦淫したるなり」
わたしは授業から出てきて、芝生に腰かけ、身ぶるいしながら、そばの友人に話したのを覚えています。 もし、イエスの言うのが本当なら、おれなんか、毎日姦淫していることになる
わたしの思いつめた口調に、そばの友人は ―― のちに裁判官になった男ですが ―― 何とも当惑したような様子でした。
ですが、イエスとは恐ろしいことを言う奴(やつ)がいたものだ。一体何者だ。そんなにきびしい言葉を吐けるそういう疑問の矢がわたしの中に突きささっていたのです。
そこで二年後の車中、イエスの四つの伝記を読みすすむうち、ある箇所に来て、ハツとしました。
イエスがオリブ山にいたとき。夜明け。ユダヤの学者とパリサイ人らが一人の女を引っ立ててきたというのです。彼等は言います。
「この女は、人の妻でありながら、姦淫をおかし、その現場をおさえられたのだ。ユダヤの律法では、 このような女は、石撃ちの刑にすべきことを定めている。イエスよ、お前はどうすればいいと思うか」と。
思うに、これは双刃(もろは)の剣をイエスに向けたものです。もしイエスが「女を許せ」と言えば、イエスは「律法を破れ」と言ったと言い立てることができます。「律法」が至高の掟(おきて)であったユダヤ社会ですから、この一事だけで、イエスを告訴できるでしょう。“破法の扇動者”というわけです。
これに対し、イエスが「女を石撃ちにせよ」と言えば、彼等は「イエスは虚言者だ。一方では、愛の教えなるものを説きながら、他方では、これに反することをすすめた」と宣伝し、イエスを中傷し、民衆・女たちの人気を落とす。 ―― この両面作戦だったのです。いわば○×いずれを答えても、イエスは“わな”にはまるのです。
学者や弥次馬もまじえて、がやがや声高に言いたてる騒ぎの中で、イエスはじっとだまったまま、つぐなんで土の上に何か字のようなものを書いていました。
彼等は、威たけだかにカサにかかって「どうした、イエス。答えられないのか」と責めたてました。
すると、イエスは身をおこし、「あなたたちのうちで、自分をふりかえって罪のない者があったら、まず石を投げてみろ」こう静かに言って、また身をかがめ、土の上にものを書きつづけていました。
彼等は、これを聞いて、とまどった様子で、 ―― 今の言葉で言えばしらけてきたのでしょう。 ―― 一人去り、二人去り、あとに残ったのは、つぐなんだイエスと、立ちすくんだままの女だけだったといいます。
しばらくしてイエスは再び身をおこしました。「女よ、お前を訴え、お前を罪しようとする者は、もういないのか」女「主よ、誰もいません」するとイエスは「わたしもお前を罪すまい。行きなさい。このあと、再び罪を犯さないように」そう言ったというのです。
この有名な物語をわざわざ書きましたが、これはご承知のとおり、ヨハネ伝第八章です。ヨハネ伝は先にもふれた通り、後代のキリスト教イデオロギーの立場から“作られた”作品ですが、その素材になった原材料は、先の三つの伝記とはちがった独自資料もあったようです。それをふくみこんで、集大成されているのです。
(もっとも、これはイエス伝の原資料の史料批判に基づくものではありません。あくまで“わたしひとりのイエス体験”なのです 。)
この夜明けのオリブ山でのエピソードにふれたとき、わたしはハッとしました。文字通り“目からうろこがとれた”思いがしたのです。
学者やパリサイ人たちを“しらけさせ”たもの、その核心は何でしょうか。それはイエスが口に出さなかった一点にあると思います。すなわち、 あなた方の中で、みずからの内心をかえりみて、「自分は潔白だ」そう言い切れる人があったら、どうぞ彼女に石を投げなさい。少なくとも、わたしにはできません”と。
つまり、このイエスの言葉の本質的な道徳性(モラリズム)、その原点は、右の傍点部にあったのです。言いかえると、そうです。あの言葉、「色欲をもって女を見たる者は、すでに姦淫したるなり」です。
あの道理がイエスの内心を支配していたのです。そしてその道理に従えば、イエスもまた 日常において姦淫しつづけている 男だった。 ―― その事実は、誰に隠そうとも、イエス本人が一番よく知っていたのです。その一番よく知っている事実を原点とした発言だったという一点に、真の迫力があったのです。
“何を隠そう。わたしはまぎれもない、そういう男だ。だから、この女に石など投げる資格はない。もし、あなた方の中に「我はその資格あり」と信じる人があったら、よろしい、まず石を投げてみろ”
これは賭(か)けです。人間対人間の。心の底が心の底に問うているのです。そして人々は“しらけ”、イエスは賭けに勝ったのです。
わたしは誤解していました。イエスの言葉を。“髪ひとすじでも、色欲をもって女を見るようなことをするな”そういうきびしい道徳的要請だ、そう勘ちがいして、かつては身ぶるいしたのです。
しかしそれはイエスが自己の内面を洞察した言葉だったのです。イエスにとって真の倫理とは、かつてのようなユダヤ王や学者たちの“仰せ”から来るものではなく、そういう自己の内面、そして万人の内面の事実から出発すべきものだったのです。
この発見以来、わたしは“イエスを知った”のです。
モーゼに発する律法に守られ、ユダヤ王を頂点とした、ユダヤの部族的宗教、その退廃の中からイエスの宗教は誕生しました。第三の、文化的宗教の時代です。
ここでは、宗教的権威者は、在野の預言者、真理を自己の内面でとらえた人です。決して部族社会の権力をにぎる神権者ではありません。このような新しい宗教者の出現がどれほど新鮮であり、どれほど人々の内面をふつふつとゆりうごかしたか、その感激は、たとえばイエス伝の各所ににじみ出ています。
このような十字架にかけられた在野無位の人に対し、次々と「伝記」が作られたこと自身、そのことを語っているといえましょう。先にのべた釈迦における根本経典の阿含部、親鸞における歎異抄、それらの成立もまた、同じ事情です。
そしてそれにつづく原始キリスト教時代や大乗仏教運動の時代も、これらの感動の源泉から流れ出た大河だと言えましょう。この意味では、ヨハネ伝や大乗経典もまた、イエスや釈迦の真の精神の発露、そう言ってもまちがいとは言えないでしょう。けれどもそれから、あまりに多くの時が流れました。キリスト教も国教化し、さらにヨーロッパ、アメリカの社会全体をおおう公的宗教となりました。そして当然のことながら、数々の退廃にむしばまれるようになったのです。
遠藤周作さんに『沈黙』という小説があります。昭和四十一年に出て、世に喧伝(けんでん)された作品ですが、わたしも読んでみて、なるほど佳品だと感じました。
けれども、この作品が言おうとしていること、それはわたしにはむしろ“さかさま”のように思われました。
この作品の主題、それは次のようだと思われます。
“ヨーロッパでは正統的、かつ本格的な姿で伝えられているキリスト教も、日本という陰湿な地帯に来ると、ゆがめられ、変質させられてしまう”と。
この作品の主人公の、若い宣教師が江戸時代の日本に宣教にやって来ながら、巧妙な対キリシタン対策の前に、彼自身も“退転”してしまう
(この「退転」とは、十字架の「踏絵」をふむ行為ですが、それは農民への迫害を見るにたえなかったため、すなわち農民への「愛」のためだとされています) 、といういきさつを通じて、右のテーマが語られているのです。
しかし、わたしの目には、この宣教師がヨーロッパの宣教師の“正統的な”学校で学んだキリスト教こそ、ゆがめられた“チャチな作りものの教義”だと思われてなりませんでした。
“ヨーロッパ以外は、まだキリストを知らぬ、あわれで無知な異教徒世界だ。諸君は、彼等の知を救ってやるために、地のはしまでおもむくのだ。彼等は神の福音に歓喜し、神は諸君を守りたまうであろう”
このような教育をうけて、彼は東洋へやってきた。キリスト教単性社会の中で生まれ育ち、異なった「神」と「神」との間のあつれきを知らぬ、彼はいってみれば、宗教上の“おぼっちゃん”だったのです。
これに対し、日本列島には新井白石、松平伊豆守(「知恵伊豆」)といったような、儒教という「無神論」で知的にも鍛え抜かれた高度の知識人が“老獪ろうかい な”統治技術を発揮していました。これに対して“すぐれたキリスト教教化の勝利と無知な異教徒の帰服”という「必勝の信念」しか与えられていなかった彼は、ついに屈服してしまうのです。
これは、ヨーロッパが「単性化」したキリスト教社会として、その花園の中で、ながらく精神的過保護状態にあった、その事実を見事に反映しています。そこでは“キリストを信ずる行為”は、決して“責められる”ことではなく、“賞められる”ことです。異教徒の支配のもとに酷烈な弾圧や拷問に耐え抜いてきた原始キリスト教時代。それはもはや遠い“夢の跡”となっていたのです。
ところがこの原始キリスト教の精神をそのままうけついで再現している人々がありました。日本の江戸時代、九州(長崎、五島)の農民たちです。遠藤氏の感動的な描写を引用させていただきます。
「十字架に組んだ二本の木が、波うちぎわに立てられました。イチゾウとモキチはそれにくくりつけられるのです。夜になり、潮がみちてくれば二人の体は顎のあたりまで海につかるでしょう。
……………………
参ろうや、参ろうや
ライソ(天国)の寺に参ろうや
パライソの寺とは申すれど……
広い寺とは申すれど
みんな黙ってモキチの声をきいていました。監視の男も聞いていました。雨と波の音で、途切れ途切れてはまた聞こえました」
次の日は声もとぎれ、ただ二人の呻(うめ)き声だけが聞こえ、「百姓たちは体中を震わせて泣き」ます。彼(主人公)は、この日本の殉教は、自分たちが「聖人伝」で読んだような、あの輝かしい殉教ではなく、「こんなにみじめで、こんなにも辛いものだったのです」と言い、「ああ、雨は小やみなく海にふりつづく。そして、海は彼等を殺したあと、ただ無気味に押し黙っている」と結んでいます。
遠藤氏のこの描写は、それ自体が日本文学史上のすぐれた一ページをなすものだとわたしには思われます。
そしてわたしの注目する一点、それは次のようです。ここ日本の五島では、キリスト教は、見事に“生きて”います。もっとも正統的 本格的な姿において。
教義の未熟など言うに足りません。彼等の真の怒りの前には、“生かさぬよう、殺さぬよう”巧みに仕組まれた老獪な為政者たちの統治術も、全くその機能を失ってしまったのです。人間が真に決意し、人間の誇りをかけて立ち上がるとき、人間の被造物、つまり人間がこの大地に生きてゆく便利のために作られたものにすぎぬ「国家」や「権力」にはなすすべがありません。それらがなしうるのは、たかだか人間を“殺す”ことだけなのですから。その魂まで奪うことは不可能なのです。
その日本では、すでに仏教という高度の宗教がありました。ありはしましたが、それらは今や老獪(ろうかい)な「無神論」の統治者に奉仕し、百姓たちに「あの世」を約束する魔術、つまり「アヘン」供給者になり果てていたのです。浄土宗といわず、浄土真宗といわず、日蓮宗といわず、禅宗といわず、そのほとんどが。神道もむろん例外ではありません。
これに対し、農民たちが新来のキリスト教に見出したものは、これらの「アヘン」からの精神的解放のためのイデオロギーだったのです。
そのありていな姿を遠藤さんは ―― 全篇に加工された主題の方向とは別個に ―― 真実(リアル)に叙情的に描写されている。わたしはそう感じたのです。
さて、このように見事な人間精神を地球上の各地で “発掘”しえた文化宗教という第三期も、もはや全体として衰滅に向かっているようです。
僧侶や宣教師は手厚く文明の手によって保護されています。“宗教への非課税”といった措置まで加わって。しかし、それはかつてのように人々に腹の底からふきあげる感動、いのちとひきかえにして悔いぬ“何物か”を果たしてひとりひとりの内面にふきこんでいるでしょうか。“そうだ!”とおっしゃる方には、わたしはただ黙って“あなたはお幸せです”というほかありませんが、わたし自身に関しては、先ほどからのべましたように明らかにそうではありません。
そしてわたしのような「無信の徒」は、見まわしてみますに、この地球上にますますふえてきているようです。おそらく文化宗教を“知らなかった”ためではなく、逆に“ 知りすぎた”ために。
今後も何十年か何百年、間欠的にふきあげる残りの火は、ありましょうけれども、大勢として今の地球には、文化宗教の草創時代の炎や英雄時代の火はすでにすぎ、大きな衰退期がやってきているのです。わたしにはそう思えます。
そしてそれはすばらしいことです。なぜなら、地球上に第三期が終わり、未知の第四期がまさに開始しようとする、その輝かしい夜明け。いや未明の闇の中に今わたしたちは息づいているのだからです。みなぎる不信は、みずみずしい新しい精神をはぐくむ空洞。それは今までの歴史の変転の中で、わたしがしっかりと目にしてきた現象なのですから。
「神が人間を生んだのでなく、人間が神を生んだのだ」 ―― 若きマルクスは、この言葉をもって、すべての宗教批判は終わったのだ、と断言しました。このフォイエルバッハをうけついだ洞察によって、“”神の絶対性”という理念の欺瞞(ぎまん)性が暴露された。彼はそう信じたのです。
しかしわたしの目には、このテーマは、宗教批判の終着点ではなく、新しい出発点としか見えません。
“神という概念は人間が産出した”考えてみれば、当たり前のことです。うそだと思うなら、庭先に飼っている愛犬にでも“聞いて”みれば、すぐ判明します。彼とわたしとの間で「共有の神」についての対話などできはしません。“犬に対して布教しようとした”牧師さんの話も聞いたことがありません。
明らかに「神」とは、人間の、人間による、人間のための概念なのです。
では、この明白な事実から、直ちに“神なんてくだらないまやかしもの”そうなるでしょうか。わたしにはそうは思われません。
率直に言って、わたしには「神」とは、人間の行った、もっとも重要な 発明”の一つだと思われます。ちょうど「言葉」や「文字」や「道具」や「国家」や「科学」などと同じく、人間の六大発明の一つに数えてもいい、とすら思っています。人間がこの「発明」によって、いかに生き生きとして野性的な、そして誇りにみち、従前には夢想だにしえなかったような人間精神を「自己開発」することが可能となったか。それは今までのべてきたことでハッキリおわかりのことと思います。
けれどもそれが逆に、人間を眠りこませ、うつけさせ、「来世」を期待して、生き生きと創造的・意欲的に現世を生きることを忘れさせる。人間の解放のために闘うことをあきらめさせ、新たな認識へとたちむかう、ふきあげるエネルギーをむしばむ。そういうようなものになりさがったとき、わたしたち人間は断乎(だんこ)、この古びた発明品を破棄すればいいのです。
あの「国家」もまた、そうです。これは人間がこの荒れ果てた大地の上に生きてゆくとき、“なくてはならぬ”便利な、調法な、人間の発明品でした。他の動物たちの“停滞”とわたしたち人間という動物の“躍進”とを分ける、重要な差異、その決め手は「国家」の有無だった。今までの歴史をふりかえる限り、そう言いたいくらいです。
しかしその、わたしたちの発明品が、逆にわたしたち人間の生活やわたしたち人間の根源の自由を奪おうとするとき、わたしたちには敢然とその「国家」なるものを、“こわし捨てる”不滅の権利があります。「革命」とはロマンチックで夢にみちた表現ですが、要するに主人公であり、作り手である人間が、自分の作った発明品が古び、越権にも、“主人公を縛りはじめた”から、これを破棄する。それだけのことです。
さて、「国家」論にまで手をのばしましたが、今のテーマ「宗教」に足をかえしましょう。人間が作り上げた「神」が越権にも、主人公たる人間を縛りはじめる。そのとき「神」は棄てられる。これは今までしばしばおこった“宗教改革”なるものの論理構造です。
しかし今はもっと「神の病」の病状は進行しています。ひろがる人々の無関心や不信。つまり「神」が本来の機能を失ってきたのです。イエスも“塩あじを失った塩は、無用だ”と言っていますが、人々の心に永遠の感動をふきこみえない神(あるいは仏)とは、まさに“塩あじを失った塩”にほかなりません。当然捨てられるべきなのです。
わたしは青年の日、広島の原爆の荒地の上に立ち、ごろごろころがる、愛するこの地の人たちの屍の海の中をとぼとぼとさまよいながら、天に向かって問いかけました。「アメリカの兵士は、どう思ってこの上空からピカをおとしたんだ」と。
―― 「ピカ」とは、当時の広島の人たちが原爆を呼んだ名です。のちに「ピカドン」という名が知られましたが、これは広島市外の周辺部に住んでいた人々の命名。広島市内部では、その超高音が人々の鼓膜の受容波数を越えていたため、ピカッという大閃光以外、何も耳には 聞こえなかったと言います。わたしはこれを広島市内爆心地から二キロの地帯のわたしの家にいた、折しも病床にあった父を看護していた母から聞きました。
「兵士よ、お前はクリスチャンだったのか。その投下のとき、『神よ、許し給え』と祈ったのか」
「神よ、お前は、それを聞いたのか。それを黙って許容したのか。それなら、お前こそ最高の戦争犯罪人ではないのか」
しかし、天からは、何の答えもありませんでした。
では、今までの第三期に達成されたもろもろの 成果 。 ―― 「神」を捨てるときの人間にとっては、それらも「神」と共にもはや、捨てられるべきものなのでしょうか。
わたしはそうは思いません。たとえば親鸞は「弟子一人ももたずさふらう」と言って、“仏の前での人間の対等”を強調しましたが、「仏」を排除すれば、この「対等」も廃棄されるのでしょうか。わたしたちは今まで以上に一層、飛躍的にこの「対等」を全身させるべきだと思われます。第三期では、この親鸞の明言にかかわらず、また親鸞の血脈を引くことを名とした「法主様」のもとに人間の“不平等”が増幅され、再編成されてきました。
しかし、「仏」という人間の発明品によって、原初的宗教性の時代に人間の中に生み出された、“人間みな対等”という認識、それはわたしたちの、もはやゆるがぬ “信仰”となるべきだと思います。カトリックのローマ法王とも、社会主義国の元首とも、わたしは根源的に対等であり、彼等の面前にひとり立っても、わたしは一片の道理をゆずる必要はない。これは自明のことです。
一例をあげさせていただきましょう。
ヨー ロッパというキリスト教単性社会の中で生み出された“傑作”の一つに、基本的人権という概念があります。“人間には、皆、神から与えられた固有の根本の権利があり、それはいかなる政治権力も奪うことができない”
中世の神をめぐる教義学(パウロのロマ書から淵源するようですが)の中から生み出された右の概念は、近世以降において、人間の基本的人権という美しい結晶を生み落としました。
けれどもこの概念は、誕生の当初から「キリスト教単性体」に“似つかわしい”一種の歪みをもっていました。この点では、別の論文「近代法の論理と宗教の運命」に書きましたから、今は 詳述しませんが、たとえば「ヒューマニスト」の元祖とされているエラスムスらが、“同じ神を信ずる、われわれ(新教徒と旧教徒)が殺し合うのは、やめよう。同じ殺すなら異教徒(イスラム教徒)を殺そうではないか。ならば、神もこれを喜びたまうであろう”といった発言をしているのを見ても、その輪郭は察せられましょう。
けれどもわたしたちは、キリスト教単性社会をはなれても、いやはなれればはなれるほど、この人類史上に生まれた“傑作”を「自分の目」のように大切にすべきではないでしょうか。神を信ずる者も、神を信じない者も、一切平等にこの“結晶”を守る。これが「神」を生んだ人間の分別、その未来への道と言えましょう。
その点、マルクスは ―― 思想的探究者としてのすぐれた見識の数々にもかかわらず「神」を投げ捨てると共に、この“結晶”をもまた投げ捨ててしまったのではないか。わたしにはそのような危惧があります
たとえばスターリンの行った ―― もはや歴史的事実となりましたが ―― 大量粛清。そのスタ ―リンに、右の「基本的人権」に関する思想的欠落がなかったでしようか。“マルキシズムが最高の真理であって、それへの敵対者(と見なされた者)の基本的人権などとるに足りぬ。それはひっきょうブルジョワ的概念にすぎぬ“こういった思いあがり”が果たしてなかったでしようか。
ブルジョワ社会で、あるいはキリスト教単性社会で“未熟”であり、“建て前”だけだった、人間の基本的人権が、この国(社会主義国)では、その体制の支持者であるとないとにかかわらず、徹底して守り抜かれる。 ―― そういう“体制”であるなら、人間はそれこそそのような国、つまりそのすばらしい“人間の新たな発明品”を、いかなる周辺敵対諸国からの中傷にもかかわらず、自分の目より貴重なものとして、守り抜こうとするのではないでしようか。
ここには、ちょうど「古びたたらいの水と一緒に赤ん坊を捨てた」たとえのように、マルクスの宗教批判の理論的未徹底性が現実に深い影を落としている。 ―― わたしにはそう思われます。
要するに、「神」は捨てられても、「神の面前」で生み出された、人間の本来の基本的人権の概念。それが捨てられてはならないのです。
(あのナチズムに抗してフランスの人民が立ちあがったとき、神を信ずる者も、「信じない者も」その基本的人権のために闘いました。そのときのフランスの共産主義者の英雄的な闘い、それは世界の人々の記憶に焼きついています。人間の基本的人権の側に立って闘うとき、一個のイデオロギーは、不法権力の弾圧をうければうけるほど、栄光に輝くのです。
これと反対に、「権威と権力」をもつイデオロギーの側が、人間の基本的人権を軽視したり無視したりしつづけるとき、結局捨てられるのは、イデオロギーの側。これは当然です。イデオロギーとは、結局、人間が作ったもの、人間の被造物なのですから。)
もはやわたしの長広舌も終わりにしましょう。わたしは某国の大統領のように「人権」を時の政策にするような政治家ではありません。ただわたしひとりに納得できる、ひとにぎりの真実を求め、とぼとぼと歩んで墓場に至る者にすぎないのですから。
わたしの墓場には、十字架もなく、仏教の卒塔婆(そとば)もないでしょう。わたしは、もはや「神」も「仏」もない者であることをみずから認めた身なのですから。ただこの荒涼たる大地に帰してゆく、それだけでわたしには満足なのです。「墓石」といった “記念碑”も不要です。
わたしのことなど、きれいさっぱり忘れてもらって結構。人々がいくら忘れてみても、もしここでわたしの語ったことにひとかけらの真実でもひそんでいるならば、人々は未来においてくり返しくり返しその真実にゆき当たるでしょう。わたしにとってそれ以上のことはありません。
逆に、わたしのここでのべたことに一片の真実もないとしたら、そのときわたしの名だけ記憶してもらおうと、墓石などに刻みつけてみても、一切無駄なことです。それこそきれいさっぱりと忘れてもらうにしくはありません。
最後に、わたしの「信仰告白」をのべさせていただきます。
わたしはどこから生まれてきたか。むろん直接には父母からです。祖先からえんえんと血統をうけついでわたしに至ったわけですから、また未来も子孫に血統を伝えてゆくことでしょう。
その上、“血を同じゆうする”親戚縁者をたぐってゆけば、それだけ血をついだ祖先の数もふえ、従って血を伝える子孫も多いことでしょう(わたしたちが普通、「祖先」と言っているのは、いわゆる男系に限られ、真に生物学的な意味で、つまり「すべての血の上の祖先」ではないことは、ご承知の通りです)。
さらに目を拡げれば、アジアモンゴリアン全体、いや人類全体が「親戚・縁者」であることは、 他の動物の視点 から見れば、自明の事実です。
けれども、今の視点は、こんなせせこましい話ではありません。もっと巨視的なものです。
なぜなら、人間は自己を成り立たせるのに、水や植物や他の動物、それらを使っています。すなわちそれらもわたしたちと同根なのです。そしてその水や植物は大自然の中から生い出でたものにまちがいありません。従ってわたしたちは正確に見つめれば見つめるほど、大自然と同根であることを疑うことはできません。この「大自然」とは、生物か無生物か。そのいずれでもない、それらを生み出した淵源です。ですからわたしたちは、やがてそれに再び帰し去ってゆく。これは自明のことです。
この帰しゆく先の大自然を何と呼びましょうか。“名づけがたいもの”なのですから、それは逆に言えば、何と呼ぼうと各自の自由です。
“大いなるもの”“真実なるもの”“母なるもの”こういったイメージがわたしにあります。
そこで「大真実」とか、「大母だいも」とか、という名前を作ってみました。
これは“名を作った”だけであって、わたしが大自然、すなわちこの大宇宙を作ったものでないことは明白です。
大宇宙がわたしを作ったのです。いったんわたしを作った以上、誰かが ―― たとえば地上の権力者が ―― わたしを“気に入らない”といって消してみたとしても、大宇宙は何たびでも“わたし”を作るでしょう。この“わたし”の存在に一片の真実がふくまれている限り。
悪罵(あくば)も、嘲笑(ちょうしょう)も、無視も、大母の描いた、この筋書きを消すわけにはいかないでしょう。
わたしは自分を何もたいそうな者だとは思いません。うわべは平凡、内面は愚劣。無恥において無上の者です。
といっても幸いに、案ずることはないようです。このようにどうしようもないわたしでさえ、やがてある日、大母のもとへ帰り至れること、それは他の何ごとよりも確実、疑いようもないことなのですから。
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