古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 3 明石書店 『わたしひとりの親鸞』

これは旧版(毎日新聞社刊 昭和五十三年七月二十五日発行)の「まえがきと目次」です。


わたしひとりの親鸞


はじめに

 五十年有余の生涯をふりかえってみると、確かなことがひとつあります。それは親鸞に会ったことがわたしにとって決定的な事件だったことです。
 鎌倉初期の京都の一室で、年老いた親鸞が若い唯円に向ってゆるぎないひびきで語ったこと、それが若者の心をうち、彼は後年、正確にしるしとどめました。ー歎異抄。この記録が七百年後に十代のわたしの心を打ちました。それはささやかな偶然のようにも見えますが、さて、わたしが自分自身の魂の軌跡をふりかえってみたとき、 "もし、親鸞と会うことがなかったら。"そのように問うてみても、そういう自己を考えることができません。考えても意味がないのです。 "もし、自分が母から生まれなかったら。"などという問いが無意味であるよらに。
 マルクスの才気あふれる著述に感奮した青年時代、古代史の洞窟深く掘りすすんだ近年、いずれの日にも、わたしの根本をささえていたもの、それは幼い耳に聞いた、あの親鸞の声だったように思われます。それは次のようにひびいていました。 "深い真実を語れ。そのとき人間に、恐れるものは何物もない。" と。
 この本に対して"大(だい)それたこと。 "そう言って眉をひそめる人も数多いでしょう。宗教・歴史・社会科学などを専門とする学者、各界の錚々(そうそう)たる有識者、「人生の達人」のように言われている人々、こぞって軽侮の言葉を投げつけるでしょう。ー "幼稚なことを。 "と。それは当然です。
 かって少年の口、広島湾にのぞむ河口に坐り、夕焼けにかがやく高潮のせせらぎと遠い海鳴りに耳を傾けながら思いつづけていたこと、それはここにしるしたことと変わりはないように思われます。
 人間とは、自己の中に幼いとききざしたものを成就すること、それしか他に能のない存在なのではないでしょうか。今回、みずからの精神の歴史を遡ってゆくうち、そのことを思い知りました。左岸や右岸にさまざまの光景が立ち現われては消えてゆきます。ですが、自分の乗っている舟は一つなのです。
 けれどもそれは、イエスや釈迦、そして親鸞や日蓮、その他どのような人々にとっても、同じだったのではないでしょうか。あるいはガリラヤの湖(うみ)のそば、あるいはガンジス河のほとり、あるいは賀茂川の岸辺、あるいは房総の海岸、そこで幼い彼等の感じたもの、それをそれぞれの一生をかけて成就していった、それ以外の何物でもないのではないでしょうか。
ーとすれば、このわたしがいかに卑小にして無恥な存在であるにせよ、幼い心の限りに感じ求めていたもの、それを今、自分ひとりの切実な真実として、みずからの掌ににぎりしめたとき、わたしは証人の前でもそれを恥じる必要はないと思います。
 わたしがこの本を書きつづっていたとき、わたしの部屋に小さな歌が流れてきました。北国の少女が作曲し、みずから歌っていると聞きましたが、それはときには鳥のように空が恋しいと歌い、ときには海鳴りとの孤独な対話を果てぬリズムでくりかえしていました。(「この空を飛べたら」「海鳴り」)
 時代はうつり、世界の情勢は変転しても、悩み、あがき、求める人間の魂、それにうつろうことはありません。人間はその真只中からさまざまのものを、生み出し、築き上げ、結実させてきました。たとえば権力、国家そして宗教などを。ーこの荒涼(こうりょう)たる大地の上に。
 その人間の秘密にひとり挑戦したこの本が、いかなる潮笑を浴びようとも、悔いるところはありまぜん。ただ、知るところ、信ずるものをわたしはここに書きつけ、刻みこんだだけなのですから。
最後に。この本の中で親鸞探究の敬すべき先達に対し、遠慮せず批判の言葉をのべさせていただきました。いずれか是、いずれか非、後代の判ずるところと存じます。学問の道はただ正解によってでなく、誤解によっても前進するもの、と聞いています。みな、遠く時の流れをよぎり、親鸞の真実を求めあった探究者同士。深く、失礼の段、御寛恕を願います。
 なおこの本を出すために御苦労いただいた森啓二さんに感謝させていただきます。

目次の次の番号はページ数です。(半角数字です。)

目次
第一部 わたしひとりの親鸞 8
 第一章 人はいかに生きるか10
 根本の動機10/わたしの格率19
 第二章宗教の二面性21
 アヘンの問い21/ アヘンと反アヘン27/ 最後の詰問29/真実の釈迦34/ マルクスの時代38
 第三章 死について43
 来世のウソ43/ わたしの実験46/ 広島の教訓50/ わたしひとりの真実53
 第四章衰退と新生55
 人類と宗教55/ 退廃と新生58/ わたしのイエス体験59/ 文化的宗教の時代64/ ヨーロッパと日本65/ 未明の闇68/ 天に問う71/ 未知の光景72/ わたしの信仰告白76
第二部親鸞思想の秘密をめぐって79
 I 親鸞探究者の群れー戦後の系譜80
 三木清の章80
 牢獄の中から80/ 三木さんの三願転入論83/ アリストテレスの転覆88/「 朝家の御ため」90/ 三木さんの文体96/ 隠された言葉99/三木さんの「主上・臣下」106 /親鸞閲歴
 服部之総の章 117 
 研究界を震憾させた一『親鸞ノート』117 / 三木と服部の間118 / めでたき人々120 / 親鸞思想を見のがす 120 / "本音を隠した" 親鸞123 / 三願転入の欠如126 / 服部さんの面目130/ わたしの理解132 / 法然の遺志135
 家永三郎の章 143
 家永さんを知る143 / 村岡さんの思い出136 / 超越的批判148 / 念仏排棄のすすめ151
 滝沢克己の章 169
 親鸞一人がため154 / 閑話休題ー芭蕉158 / 親鸞思想の秘密160 / 特(こと)にひとり164 / 古代末の思想者 167
 野間宏の章 169
 骨格の視点169 / 野間さんからの問い171 / 教行信証の成立176 / 信巻別撰論179 / 研究史の先達182 / 実名抜きの手法184 / 「主上・臣下」論186 /「寺と僧の否定」問題187 / 如来堂の謎193 / 「反神秘主義」論196 / 「死後の浄土否定」論199 / 「聞信」の迷い道200 /教行信証と歎異抄の間204 / むすびに 206
 II 叡山脱出の共犯者 208
 III 親鸞系図の史料批判 231
第三部現代との接点を求めて 257
 I 晩年の親鸞ー念仏迫害文と建長の事書 258
 II 「親鷺の眼」 274
 III 真実の親鸞ー吉本降明『最後の親鸞』を読む 280
 IV 親鸞論争のすすめ 287
 はじめに287 / まぼろしの教行信証290 / 親鸞集団の「国王不拝」294 / 義絶状の謎 300
あとがき 310


目次そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 3『わたしひとりの親鸞』と同じです。

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