親鸞
ー人と思想ー
古 田 武 彦 著
II. 斗いと思想の生涯 ー裏切らざる人生ー
生きている安楽・住蓮の書 ー生涯の著述『教行信証』
『教行信証』はなぜつくられたか
『教行信証』は、真宗の権威ある根本教典とされている。宗門(しゅうもん)学者が、たくさんの注釈書を書いてきた。しかしわたしにとって、この本は、かれらとはまったく別な光の中に見えている。親鸞が自分の一生をかけて、何をたたかいとろうとしたか。死におびやかされてもいい。それでも訴えようとしたものは何か。その生涯のたたかいを証明しようとした本として、わたしにはみえている。このような見方から、徹底して、実証的にこの本をしらべぬいてゆくと、これまでの「宗門の経典」としての評価とは、まったくちがった姿が浮かび上がってきた。それは、かれの生きた苦悩を一つ一つ裏付けていたのである。かれは、なぜ、この本を書かねばならなかったのか。それは、最後の「後序」と呼ばれる文章がしめしている。前に述べたように、この部分は、若いころから書かれた四つの文書をふくんでいる。
(一)承元の奏状 ー承元四〜五年ー三八から九歳
(二)法然追悼(ついとう)の文 ー元仁元年ー五十二歳
(三)吉水入室の文 ー建仁元年ー二十九歳
(四)選択書写・肖像画模写の文ー元久二年ー三十三歳
右について注目されるのは、時間の順序が、さかさに置き換えられていることだ。(三)→(四)→(一)→(二)が年代順なのである。これは倒置法だ。(一)・(二)を強調しているのである。
不当な承元の弾圧。その赦免(しゃめん)日もなきころ死んだ法然。この世で、生きてふたたび、師と相見ることができなかったかれの悲嘆。その七転八倒の傷ついた心が、この本の出発点に横たわっていることは、疑いない。
生きている安楽・住蓮
この点をもっと掘り下げてみよう。まず、「承元の奉状」。これが先頭に突き出ている。もっとも強調されているのだ。三十代末、流罪の日に、権力者に投げつけたはげしいことば。それを、そのまま『教行信証』の中に取り入れ、「後序」の先頭に強調する。あとで述べるように、五十二歳ころ書かれて後、九十歳で死ぬまで添削(てんさく)の手をやめなかった。文字どおりのライフ-ワーク(生涯の著作)の中で、この事実はいささかも変えられていない。これは、なぜだろう。
すなわち、この「奏状」のテーマは、親鸞の一生を流れる、“いちばん根本の基調”となっていたのである。体制的な、古いあやまった仏教と、新しい真理、専修念仏の教えとの対立。その意味を知らぬ権力者の理不尽(りふじん りくつにあわぬ)いいがかり。同志、住蓮・安楽の死刑。これこそ永遠に忘れ得ぬ怒りの日だ。ついで師法然と自分たち弟子への流刑。なつかしい吉水集団の解散。このような記述の中心をなす、「主上・臣下背法ニ違シ義
分/心* 成シ怨ヲ結スフ」(主上臣下、法に背(そむ)き、義に違(い)し、分/心*(いかり)を成し、怨(うらみ)を結ぶ)のことばは、親鸞一生の思想の背骨となっていたのである。
注)インターネット事務局 [分/心](いかり) 分の下に心編
わたしたちは、明治以後、こんな「伝説」を聞かされてきた。人間が鋭い問いを純粋に発する。そういう姿勢をもてるのは、若いころの話だ。中年になって、社会生活や家庭生活に責任をもつころになってくると、そうはいかない。まして老年になると、若いころの純粋さは、青くさく見えてしようがない。人間とはそういうものだ。これは、一見、人間の生理にもとづいた「真理」であるかのように語られる。しかし、必ずしも、そうでないことは、たとえば老年のソクラテスがどのような非妥協性をつらぬいたか。それを考えてみても、すぐわかるだろう。真相はこうだ。明治以後の体制の中で、青年は外来の急進思想に感激し、それを叫ぶ。ところが、そのような「近代人」を体制は要求している。したがって、やがて居心地の悪くない位置を与えられる。近代ふうの家庭とインテリらしい職業。そういう安楽椅子(いす)の上で、かれの「内部」がくさりはじめるのだ。
しかし、鎌倉の体制と、親鸞の位置はちがっていた。朝廷貴族に代表される古代権力に、対抗する勢力として独立しはじめた地方武士団。かれらは、源頼朝を「帽子(ぼうし)」として、権力をにぎると、変質しはじめる。ことに承久の変(承久三年、一二二一、親鸞四十九歳)によって、自分たちが時代の主導権を完全ににぎると、逆に古い勢力(朝廷の貴族)と手をにぎりはじめた。そして自分たちの真の支持者であった農民たちに対し、むちの統制を向けはじめたのである。そのため、農民たちを中心として、その強い精神的支柱となっていた専修念仏運動が、おそるべき敵とみえはじめた。元仁、嘉禄、建長と、親鸞の五十代から七十代にかけての、相つぐ念仏禁圧の動きは、そういう支配者の恐怖を物語っていたのである。
こういう中で親鸞は、東国の農民や商人、下級武士たちの運命と自己とを、あまりにも深く結合させていた。それゆえ、体制側に自(みずか)らを逃避させる道をもたなかったのである。
これが親鸞に「承元の奏状」のテーマを、生涯もちつづけさせた真の理由であった。天皇は代わり、朝廷と貴族は政治の主舞台から離れる。支配者たちは、昨日の弾圧には口をぬぐっている。一見、忘れた顔をしている。しかし、親鸞は忘れない。なぜ、わたしたちは弾圧されたのか。わたしたちがまちがっていたのか。いや、かれらが、まちがっていたのだ。では、なぜ、まちがった者が正しい者を苦しませるようなことが起きたのか。この世の人々の救済を、永遠の昔から見透(みとお)しているはずのミダの前で、なぜ、このような不当なことが起こりえるのか。
このように、親鸞は問うて、問いぬくのである。ことに、弾圧の中で、いのちをすりへらし、むなしく死んでいった法然。
「先生、このことの意味は、いったい、何なのですか?」亡師孤独の中で、親鸞は問いつづける。
住蓮・安楽は殺された。しかし親鸞は「なお生きている住蓮・安楽」として、生きた。そして、この問いに生涯を賭(か)けたのである。したがって、わたしたちは『教行信証』を、何よりも「生きている住蓮・安楽の書」と見る視点を、『教行信証』理解の根本にすえねばならぬ。
親鸞という名まえの意味
このような親鸞の生涯の志(こころざし)は、彼の名まえの中に刻みこまれている。かれが「愚禿(ぐとく)親鸞」という名まえを名乗りはじめたのは、流罪中のことだ。これは弟子の唯円が書いた『歎異抄』の終わりの流罪の記録や、中心の弟子、性信(しょうしん)の編集した『親鸞聖人血脈文集』の中に、しるされている「禿(とく)」の字については、先に述べた「破壊僧」のことであり、それが末法の当然の姿である。従って、支配者がこれを処罰するのは、たいへんな悪逆の行為だ。そういう主張をふくんでいるのだから、このことばは、単なるけんそんでは、けっしてないのである。
「親鸞」の場合も同じだ。「天親(てんじん)」と「曇鸞(どんらん)」という中国で念仏をすすめた人々の名まえからとったのである。その曇鸞について、親鸞はつぎのように書いている。
「中国の梁(りょう)の天子だったソウ王は、いつでも、北の方、曇鸞のいる方に向かって、“鸞菩薩”といって、礼拝した。」
親鸞は、晩年の和讃にも同じことを書き、書物(『浄土論註』)を写したあとの奥書や小冊子にも、同じ文を書いた。かれにとって、「曇鸞」のイメージと、離ちがたく結合していたのである。
ところが、日本の天子はどうか。中国での曇鸞の仕事を日本で行なった人、「専修念仏」として、これを深めた人、その法然に対して何をしたか。ほしいままに法に背き、正義に反して、流刑・死刑の悪逆を行なったのである。
流罪のまっただなかの親鸞が、その「曇鸞」の名まえをもって、自分の名まえを構成したとき、かれの心をみたしていたものは何か。日本の天子たちの非道への怒りと、抗議にほかならなかったのである。
かれが流罪赦免後、九十歳の死にいたるまで、「親鸞」という名を変えなかった。その心は何か。それは『教行信証』の「後序(こうじょ)」の先頭に、「承元の奏状」を突き出させ、これを終生変えなかった心である。
私は、「親鸞」という名を見るたびに、この名に刻みこまれた、「生涯の志(こころざし)」を思わないわけには、いかないのである。
内容そのものは古田武彦著作集 親鸞・思想史研究編 I『親鸞』ー人と思想ーと同じです。
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制作 古田史学の会