『倭国の源流と九州王朝』(目次) 古賀達也・「君が代」の伝承 釈迦三尊像台座墨書の解
討論 絹の出土と九州王朝・・・・神話学と歴史的事実 魏志倭人伝と吉野ヶ里 九州王朝の物証 史料の読解 吉野ヶ里遺跡は邪馬台国ではない 考古学の編年の問題性
「日の丸」と「君が代」の歴史と自然認識について
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「君が代」は卑弥呼(ひみか)に捧げられた歌 へ
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『シンポジウム 倭国の源流と九州王朝』(新泉社 古田武彦編)

「君が代」と九州王朝

古田武彦

 私が話をさせていただく最初に、哀悼の意を表させていただきたいことがございます。それは明日、お弟子さんたちに舞っていただくことになっている筑紫舞の宗家、西山村光寿斉さんの旦那様が、先般亡くなりになられましたことです。その旦那様が私の本『盗まれた神話』をお読みになって、光寿斉さんに何か参考になりはしないか、ということをおっしやっていただいた。そういうことが出発点になって、九州王朝の舞楽としての筑紫舞という問題が、私にとって出てまいったわけでござます。明日も光寿斉さんの解説でご覧いただけるわけです。が、その最上の理解者であり後援者であった旦那様が、この博多の地でお亡くなりになった。ということに対して、心から深く哀悼の意を表させていただきます。

 

「君が代」の起源

 有限な人間には死は必ず訪れるもの。だからこそ人間は無限を願うわけでございます。そういうことを典型的に示した歌を日本人なら誰でも知っております。それは「君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔のむすまで」という歌でございます。これについて非常に優れた研究を用意しておられる方がございます。この会の世話役で古賀達也さんという方で、京都に住んでおられます。この方が非常に優れた研究を進めておられるので、おそらく活字でご覧いただけることであろうと思うわけです。本日も来ていただいておりますので、できれば明日蘊蓄を傾けていただければありがたいと思います。
 じつはそれを今持ち出しましたのは、私にとって一番新しい発見というかテーマになっているんです。というのは、昨日こちらの世話役の灰塚さん、鬼塚さんに御案内いただいて、糸島郡を回ったわけです。どこを回ったかといいますと、天降(あまおり)神社、これが糸島郡にたくさんあるのですね。少なくとも現在わかっているところで十社ぐらいある。もちろんすべてニニギノミコトを祭っているわけです。これはもう非常に意味のあることですね。しかも、その天降神社はただバラバラと気まぐれに広がってるんではないんですね。高祖山の方の側から唐津の方へ向かう路線を、ほぼ一直線のようにして繋がっている。あと糸島水道沿いに四つほどある。しかし、主な線は唐津の方から入ってきて、高祖神社への通路沿いにずっと広がっているわけです。これは、倉光さんといって非常に神社郷土史に詳しく、飯盛神社の世話役になっておられる方のサジェスチョンを得て、灰塚さん、鬼塚さんが土地鑑を生かしてお見つけになったわけです。
 この問題も天孫降臨が高祖山をめぐって行われたというテーマに関連するわけですが、その時に灰塚さんからお教えていただいたことに、はっとする言葉があったわけです。それは何かと言いますと、『糸島郡誌』の一三一七頁に「村社引津神社」というのがございまして、その摂社に桜谷神社というのがございます。この祭神がコノハナサクヤヒメ、これは有名で皆さんよくご存じです。ところがもう一人祭神がいらっしゃるわけです。コケムスメの神。変なといったら悪いんですが、博多に住んでおられても、福岡県に住んでおられても、お聞きになったことのない方が多いんじゃないでしょうか。私ももちろん初めてです。ここで当然「売」と書いてあるのは女神のことで、固有名詞部分は「コケムス」なんです。
 そうしますと、これはもう当地の皆さんは、全員ご存じと思うんですが、糸島郡には細石(さざれいし)神社というのがございますね。この細石神社のすぐ裏、すぐ裏ということは昔は境内だったということですね。今は小さな神社で境内も小さいんですが、あれは切り縮められて切り縮められた挙げ句があれでございまして、本当はあそこを中心にして大きく境内があったわけです。ということは当然のことながら、あの有名な三雲・井原、江戸時代に発見された弥生の王墓ですね。それは、はっきり言いまして倭国王墓。あれを伊都国王墓と聞かされていた人は、「それは間違いである」と古田が言っている、と理解してお帰り下さい。
 これもあんまり理屈はいりませんよね。だって伊都国王墓であんなにすごかったら、他にどこに倭国王墓がありますか。倭国王は伊都国王を統属させたと書いてあるでしょう。伊都国王が倭国王を統属させたわけじゃないんで、倭国王がご主人、伊都国王が家来です。少なくとも三世紀段階では。その家来があんな前漢式鏡・戦国鏡・諸鏡を含めて三十数面、それから剣だの矛だの勾玉だのですね、それから璧がものすごい数出るでしょう。中国の天子に対する諸侯が腕にはめる腕輪、ガラス璧がたくさん出てきたわけです。私ははっきり言ってあれ国産だと思っています。あれだけたくさん中国からもらえるはずないですよ、璧を。
 しかし、いくら国産であっても、璧を着け得るのは、中国の天子にとっての諸侯に当る、つまり倭国王しかないわけです。倭国王の家来、家来のまた家来が璧を着けたら、それこそ縛り首になってもしかたない。東アジアの世界の位取りではね。あれは先入観なく見れば倭国王墓である。同じくその隣りの井原。これもやはり後漢式鏡を二十数面出した。また剣とか勾玉とかの三種の神器セットをやはり出した。これもさっきと同じ理由で倭国王墓である。伊都国王墓なんてとんでもない。教育委員会がそんな看板をいくら立ててみたって、私から見れば、ナンセンス。何の力もない。真実に勝ち得る権力はかつて地上に生まれたことはない。と、思います。さて、そういうものを含んだ細石神社ですが、いかにすごい神社であるかはおわかりでしょう。
 それからもう一つ。はじめ「井原」を「いばる」と読み違えたこともあったんですが、これは「いはら」と読むんだと教えられたことがありました。それ以来、「いはら」と読んできたんです。もう二十年近く。ところが去年なんですが、今日の世話役になっておられる鬼塚さん、この方は生活上仕事上、糸島に非常に強い方なんですが、その鬼塚さんとお話していると「いわら」と発音されたんです。そこで私が、あれ、今のどうおっしゃいました、もう一回言ってみて下さいとお願いすると、「いわら」。「『いはら』じゃないんですか。」「『いわら』と言いますねえ」「言いますねえ」というとこが、地元の人の強いところなんですね。それでやっとわかったんです。なぜかと言いますと、地図で見ますと井原山という山があるんですが、雷山の隣りに。井原と普通に考えたら井戸がある原っぱみたいな感じですわね。しかしそれが井原山というのでは何となくあいませんね。そのことが何となく気に残っていたんです。ところが、「いわら」だということを聞きましたら、あっ、そうか、つまりこれは「いわ」は岩石の岩、「ら」は新羅の羅です。この辺には「ら」が語尾に付いている地名がいくつもありますよね。そうすると、「いわ」プラス「ら」だ。巨石信仰の対象になる岩、それがある場所を「いわら」と呼んでいる。その神聖な岩のある山を井原山と呼んでいる。それにちなんだ井原という地名なんだろうと、という形で了解したのがじつは去年なんです。
 そうして見ますと、だいたい揃ったんですね。というのは、細石の巌となりて苔のむすまで。しかもですね、これは繰り返し言わねばならんのですが、この問題に一番情熱的に取り組んでこられた古賀さん、分厚いノートを作っておられ、さっきも見せてもらったんですが、その資料のコピーを見ると、今の君が代の歌は志賀島の海人らがこれを歌ったということが記録されている。我々が知っているのは、「読み人知らず」という『古今集』あたりに出てくるのを皆さんも聞いたことがあるでしょう。ところが、それは「中央歌人」が編集した『古今集』とかそういうもので「読み人知らず」として処理した。しかし、まったく行方不明の歌がそうたくさんあるとは思えないわけで、『万葉集』や『古今集』とかで「読み人知らず」として出てくるのは曲者なんですね。何かの理由で「読み人知らず」にさせられている可能性が強いわけなんです。
 ところが、この場含は幸いに、志賀島の海人集団がこれを歌ったという記録があるわけなんです。
 ここから先は私の想像ですが、京都の平安の歌人の目には集団が作る歌なんかない。誰か一人作者がおるんだろう。それは誰だ。いやわかりません、我々はいつもこれを歌っております。それじゃあ「読み人知らず」だ。と、こういうふうにやったんではないかなあと、悪意がないとした場合は、考えられます。
 ようするに、これは志賀島の海人たちが歌っていたという記録があるわけです。そうすると志賀島と糸島郡とでは近いではないですか。糸島郡を知らない志賀島の海人がいるとは私には理解できない。しかもこれは言うも愚かですが、「千代に八千代に」。そうです、千代の松原。千代町。博多のど真ん中にあるじゃないですか。志賀島のお向かいさんじゃないですか。ここを知らない志賀島の海人がいるとお考えでしょうか。しかもね、今のコケムスメの神、桜谷神社ですね、灰塚さん鬼塚さんが地図を買ってこられて、ここですと、私に示してくださったんですね。それを見ますと、その場所は小富士村大字船越字大園、現在の志摩町ですね。すなわち、船越という所です。引津湾の出っ張った所で、こっちの方からあっちの方へ船で遠回りするのは面倒臭いわけで、船を引っ張って越すわけですね。それはつまり縄文・弥生の船です。後世の大きな船だったら引っ張って越せはしません。そういう縄文・弥生の時代にそれをやったわけです。だから対馬にも有名な大船越小船越がありますように、船越という地名があるわけです。ここも船越なんです。
 船越というのは、志賀島の海人たちにとってやはり仕事場ですよね。しかもそこの船越のそばにワタツミ神社というのがあるのです。これは志賀島の海人にとってたいへん大事な神社でしょう。しかもこの桜谷というのは、「さ」は「狭」、「くら」は祭りの場。ようするに、ずばり結論から言ってしまえば、私は旧石器・縄文からある言葉だということをこの二三年来気がついて、新しい視野が開けてきた。
 これも理由を一つだけ言っておきましょう。伊万里に行きまして腰岳の黒曜石を見に行った時、市役所に寄ってお聞きしたら、黒曜石のことを「からすんまくら」と言う。「からす」は黒い鳥の鳥、「ま」は真実の真、「くら」は祭りの場の「くら」、「たかみくら」の「くら」だろうと、ご一緒していただいた方にお話したんです。黒曜石を祭りの場に使うということは、旧石器・縄文しかないんです。弥生にやや残存するぐらいで古墳時代以後はないんです。とすると黒曜石を「からすんまくら」と呼ぶことは、黒曜石が祭りの場に使われていた時代の言葉である。つまり、旧石器・縄文語であるという、自分で言って自分で評価するというものなんですが、日本の言語学を一変させうるような内容を含んでいると思うんですね。縄文時代に烏は「からす」と呼んでいたということで、祭りの場は「くら」と言っていたということになるわけです。
 この問題も入りだすと、間口は狭くても奥は広すぎますので引き返しますが、「さくら」というのはその谷が祭りの場である。これが桜谷でしょう。桜谷神社の祭神は、もとからあったのか近所から持ってこられたのかどっちかですが、もってこられたとしても、そう遠くはないでしょう。当然、コノハナサクヤヒメはニニギの奥さんということで祭られているのでしょうが、もともとの祭神は『古事記』『日本書紀』に出てこないコケムスメ神だろうと思うんです。そうしますと結局、「君が代」というのは今の志賀島の海人たちが、目の前の千代、それから彼らは船が得意の海人族ですから、船で糸島へ回って船越へ行って、そしてさっきの天降神社のコースを入っていって細石神社に到着するという考えもありますね。あるいはもう一つは高祖神社でしょうね。高祖神社と細石神社とが非常に関係が深いということは皆さんもうご存じですね。お祭りが両方の神社をつなぐ内容であることはご存じだと思います。この細石神社の祭神を歌った歌であると考えるのが一番自然ではないでしょうか。
 昨日見てきて、今日楽屋の裏で地図を見て思いついたということなんで、聞いていただくのは皆さんが本当のホヤホヤのとこなんです。ですからこれはもちろん一つの仮説としてお聞きいただければいいんですが、しかしこの仮説かなり行けるんじゃないかな、という感じを持っているんです。そして繰り返し申しますが、これはやはり古賀さんの先頭をきった努力、またもう一人本日の司会の高山さん、この人が博多の地名は面白いものがいっぱい出てきますよと、たしか千代町の千代も聞いた記憶があるんですが、そのことによりこうした考え方が進展してきたのだと思います。そして何よりも鬼塚さん灰塚さんの現地の土地鑑で導かれたということで、もっと他にもいらっしゃるかも知れませんが、古賀さんを初め私も入れていただいて五人の仮説であると、古賀さんプラス四人と考えていただいてもいいんですが、その仮説であるということでお聞きいただければいいと思います。これは仮説ですので、違った、ということになるかもしれませんが、案外行けるかもしれませんね。
 それが今のように近畿に伝えられ、近畿ではそれを切り捨てて、悪意か善意か知りませんが、悪意とすれば九州王朝の歌なので、わからないように「読み人知らず」にしてしまえと、これだったら「故意」ですね。それからさっき私が言ったような、集団で作った歌なんてないから、個人がわからなければ「読み人知らず」にしてしまえと、これは善意と言っていいのか知りませんが悪意は別にないですね。いずれかのケースで近畿に伝わったのを明治以後、言葉の問題、たとえば「我が君」と「君が代」という問題などもありますが、今は立ち入って言いませんが、要するに国歌になっていった。
 ところが、明治以後の天皇家は、あの歌の意味をよくわからなかったみたいで、『天皇学事始』という本の中で私が言っているのですが、石を尊崇する神社は随分あるんですが、旧石器・縄文は金属器はないんですから石に決まってるんです。ところが、明治政府は、石を崇拝したりするのは淫祀邪教であるとして弾圧するんです。平田篤胤の平田神道だけが、天皇家を中心にした神道だけが、正しい神道である。石なんか拝むのは怪しげなけがらわしい撲滅すべき神道であると、こういう立場に立って撲滅していくわけです。撲滅された痕跡だけ残っているのが、日本全国にあっちこっちにあるんです。
 だから、私はこれまでの廃仏殿釈という言葉で覚えさせられたので、仏教だけ弾圧され、神道は優遇されていると思い込んでいたのです。無邪気にもね。ところがそれはまったくの間違いであった。仏教も弾圧されましたけど、ある意味ではそれ以上に、現代でも「同じ仲間が憎い」ということもありますから。例えば、我々から見たら似たような意見を持っている「過激派」が、過激派という言葉はきらいですけど、いわゆる急進的なグループがたがいにものすごく殺し合いをしたりしますね。そういうようなことで、自分たちより本当は淵源の古い匂いがする神道が邪魔になったのかもしれませんけど、そういう巨石崇拝の神道をさんざん弾圧するんです。そういうことをやりながら「君が代」を「国歌」にするんです。
 「君が代」というのは、「君」という言葉で明らかなように、人間のことなんですから、有限なんです。有限だからこそ、それに対して無限に続くと信ぜられた巨石、信仰の対象の石ですね、あの岩のように永遠に続きますように、そういう意味の歌なんです。有限なもののみが歌いうる無限への憧れの歌があの歌なんです。だから巨石信仰をバックにして作られた歌ということは、私にとっては「仮説」ではなくて疑いないことです。細石というのは、「細かい石」ではなくて「神聖な石」という意味でしょうが、その解釈にも今は立ち入りません。とにかく巨石信仰を背景にした歌である。神聖な石を無限と見たて、そして有限な人間の世が無限に近づきますように、と祈った歌であることは動かないと思っております。
 ところが、そういうあの歌の理解を明治政府は持たなかった。平田神道に“酔っ払って”いた。あの歌を国歌にしながら、反面では、巨石信仰の神社を、信仰を、弾圧するという、そういう目のくらんだ行為になってしまった。そのように私は見ているのです。愚かしき悲劇でしょう。ということなんですけど、どうも元の原産地がご当地筑前の地にあった。その筑前の中でも一番の中心地は糸島郡と博多湾岸にあった。ということが、今は「仮説」ですが将来定説になりうる、イデオロギーで邪魔されたりしない限り、真実という面では、定説になりうる仮説ではないか、こう思っております。その点、古賀さんや灰塚さん、鬼塚さん、高山さんたちの先見の明に非常に感動するわけです。
 ついでにもう一言いいお話をご紹介させていただきますと、灰塚さんからお聞きしたお話なんですが、中学校時代に学校で九州という言葉についての話があった。九州というのは中国の言葉で、中国の天子を中心にしてその統治領域を九州と呼んだんだと、そういう話があった。そこで灰塚少年が立ち上がって、先生質問があります、そうするとこの九州にも天子がいたのではないでしょうか。そしたら、「馬鹿野郎」とやってきてボカンとものすごい衝撃でぶん殴られた。それ以後、その先生の教科の成績はあんまり良くなかったそうですが、しかし、灰塚少年は自分の感じた道理を忘れることができずにいて、ある日私の『失われた九州王朝』をご覧になって、「ああこれは」とお感じになったということでございます。その灰塚少年の感覚というのは、もし「君が代」の原産地がここであったとすれば、正しかったということになりそうです。

 

 天神の起源

 さて、本日予定していましたテーマも話さなければなりませんが、今日参ります時に、地下鉄に天神という駅がございました。あっ、ここにも天神があったのかと、今さら言うのもおかしいのですがね。というのは、去年の夏、対馬へ参りました。そして最初に、厳原(いずはら)にある椎根部落の文化財になっている石屋根を見ました。要するにスレートみたいな石を何重にも重ねて屋根を葺いてあるんです。そして椎の頑丈な木の柱があって横に引っ張る引き戸がついているんです。そこへ行ってみて私は、「あっ、これだったか」と今までの迷いを払拭できました。
 と言いますのは、天の石屋戸。「あまのいわやど」と我々は読んできましたね、『古事記』『日本書紀』で。アマテラスがスサノオの横暴ですねて、引きこもる所です。『古事記』に三回出てきます。あれはじつは「天石屋戸」と書いてあります。天というのは天国、壱岐・対馬の海上領域を天国(あまくに)と呼んでいるんだと、それを天という美しい字で表わした、こういうことです。私は『盗まれた神話』では、沖の島をアマテラスの場と考えたんです。もちろん沖の島は大事な島なんですが、ところがどうもはっきりしないことがあった。
 「天の石屋」という洞窟、と一般に考えますね。絵馬なんかにもよく掛かっていますが。洞窟は人間がこもるのにはいいですね。ところが戸がどういう戸かわからない。しかもあれ、外でドンドンヒャラリと騒いでいたんで、どうしたんだと。そしたらあなたよりも素晴らしい女神が来られたんだということで、女らしい嫉妬心でちょっと覗いて見たら、手力男がバーッと開けてしまった。ああいう仕組みになる戸って、そんな洞窟の前に付けられますかね。もう一つよくわからなかった。私の小学校時代の教科書でもあの辺ちょっとごまかしてありましたよ。挿絵が必ずありましたけど、国史の教科書にね。
 ところが、今の「石屋」の「石屋戸」ですが、普通穀物を入れるんですが、中にこもってつっかい棒を中からすると、どんな力持ちだって開けれないわけです。ところが、中にいる者が外を見たいと思って、つっかい棒を外してちょっと覗いたら、もうしめたものです。力持ちがいたらパーッと開けれるわけです。あのスタイルになっているんです、『古事記』の話は。そうするとあれはね、本居宣長は対馬の「石屋根」を知らなかったから「あまのいわやど」と読んだのですが、『日本書紀』には磐戸と書いてあるんですが、しかしこれは「いしやど」なんだと気がつきました。
 その後さらに面白い発見がありました。タクシーに乗って北へ向かっていますと、ご存じのように対馬には部落ごとに小さいけど古い神社がある。そこに天神神社というのがあった。鳥居がたくさんあって、全部天神神社という額が付いている。ちょっと待っていて下さいと運転手さんに頼んで降りて、「あっ、これか」と思いました。これも私、十代の終わり、初めて旧制の広島高校で中島光風先生から『古事記』を習ったとき以来、じつは疑問だったんです。これもやはり灰塚少年と同じで、少年の持つ疑問て、恐いですね、やっぱり。もちろん少女でも同じですよ、恐いんですよね。女の人は大人になっても恐いですね、直感が。
 そのとき、どうもおかしいな、と思ったんです。なんでかと言うと、ほかの神さんは皆固有名詞ですよ。イザナギ・イザナミ・スサノオ・アマテルでしょう。ところがイザナギ・イザナミが国生みをしょうとして失敗して不具が生まれたので、何で失敗したのでしょうといって、天神の所へ聞きに行った。そしたらあれは女が先にやったから失敗したんだということを聞く話がありますね。女性中心の時代から男性中心の時代に転換する時代に作られた神話だと、つまり弥生時代に作られた神話だと思うんですが、あの時イザナギ・イザナミがお伺いをたてた相手が天神。これを「あまつかみ」と宣長は読んで、天上の神、すなわちヘブン・スカイ、天上にいる神様と解釈したんです。だから天孫降臨とは天から降りて来るんだと、私たちの子供のときの国史の教科書には、雲がたなびいてニニギノミコトが降りてくる挿絵があったわけです。
 ところが、天上にいる神様なら、五人おろうと十人おろうと百人おろうと全部天神ということになるでしょう。つまり普通名詞の神で、なんかこう引っ掛かっておったんです。引っ掛かりながらも忘れずに頭に残っていたんです。それが対馬の天神神社を見たときに、あっ、と五十年近く前の疑問が復活したんです。つまり、アマツカミとはこの神さんのことだったんだと。つまり海人(あま)族の氏神だ。もちろんこれも一人じゃなくて複数でもいいんですが、しかし海人族の氏神と言えばあそこだと、場所が特定されているわけですよ。そこへ行って聞いたんだなと、あの『古事記』の神話の元になった話を、あの領域で聞いた人にはわかっていたわけです。別に、私みたいに迷わなかった。あの神社のあそこへ行ってお伺いたてなさったんだなと、こう思ってみんな納得して聞いていたんです。つまり、最初聞いたのは海人族の人が聞いているわけです。天族(海人族)のいわゆる主神と言うか、氏神が天神(海人あまつ神)。だから具体性は十分だった。
 ということに去年やっと気が付いた。それで解けてきたんです、永年の疑問が。何かというと、大阪の市民の古代の講演会だったでしょうか、それもあったし、東京の朝日カルチャーでも聞かれたと思います。こういうことを聞かれたんです。「九州に天照大神を祭った大きな神社は、ありますかね」こう聞かれたわけです。意味おわかりでしょうか。つまり、天照大神を祭ってある所は、伊勢の皇太神宮であることは日本人なら誰でも知っています。それは天皇家の氏神でしょうね。ところが私の講演を聞いた、本を読んだ方はですね、近畿の天皇家は「分家」なんだと、自分でさんざん『古事記』『日本書紀』で言っているように分家なんだと。どこから来た分家かというと九州から来た分家である。九州の端っこ、日向の国、宮崎ですから九州でも中心ではない。九州でもすでに分家筋なんです。そこから来たと言っているわけです。本家はやはり筑紫で、そこに九州王朝があったんだと、私の本では繰り返し述べている。とすると九州王朝も天照大神を祭っていたはずだと。そうすると、本家だから分家の作った伊勢の皇太神宮よりももっと大きな巨大「伊勢の皇太神宮」が九州になきゃおかしいが、ありますかと。詳しく言えばそういう意味の質問なんです。
 聞かれたとたんに質問者の意図の意味がわかった。わかったから私は困ったんです。ですが、困る質問ほど有難い質問はないですね。すぐお答えできる質問はもちろんすぐお答えしますよ。しかし、そこですぐお答えできない時にグジャグジャグジャとごまかしては駄目なんです。相手に悪いだけではなく自分に悪いんです。そういううまく答えられない質問こそ、新しい研究の世界に飛び込んでいく、窓口になっている質問なんです。
 九州博多の皆さんには説明する必要もありませんが、沖の島は宗像大社がありますが、あれは三人の娘さんたちであって、けっして天照大神を祭っている神社ではないですよね。もちろんほかに天照大神を祭った神社はたくさんあります。たとえば、岩戸山古墳の後円部の上にある神社は天照大神が祭神です。そのほかにもいくらでもあります。しかしあるけど小さいですわ。さっき言った、これこそ九州を代表する、少なくとも筑紫を代表する神社である、という感じではないです。それを聞かれた。私はつまったわけです。それで、いいご質問ですね、よく考えてみますとお答えしたんです。もう随分前の話ですが私の中にはずっと残っていたんです。
 ところが、今度それがわかったのは、変な言い方をさせて下さいね。つまり天孫降臨はニニギノミコトですが、ニニギノミコトにとってはアマテラスはお祖母ちゃんなんです。ニニギにとってはアマテラスはお祖母ちゃんで、タクアンをポリポリ食っているのを見たこともあるし、トイレに行って通じが悪くなったと悩んでいるのも聞いている。そういうお祖母ちゃんです。そうでしょう。そのお祖母ちゃんを祭るのはいいですよ。明治神宮だってできるのですから。祭るのはいいが、明治神宮は日本全土の中心の神社にはならんですな。伊勢神宮の方はなるけどね。というのは、みんな明治天皇というのを知りすぎているから。ひとつの神社にはなっても、全国至る所に明治神宮があるというわけにはならない。どこの神社に行っても明治天皇を祭っている、とはならないですね。新しすぎるから。
 同じであって、九州王朝の始まり、ニニギの時にはアマテラスでは新しすぎるわけです。じゃあ、誰が新しすぎないか。ニニギはどう言ったか。そういえば、天孫降臨のところで私も皆さんもそうだと思いますが、何回も読んでてすらっと通ってたじゃないですか。つまりニニギノミコトは「我は天照大神の子なり」とは言ってないでしょう。そんな台詞読んだことないでしょ。「我は天神の子なり。」「アマツカミの子なり」と言っているでしょう。「子」と書いているところと「裔」と書いているところとあります。つまりアマツカミの子孫なんだと言っているわけです。ならば当然祭るのは天神に決まっているじゃないですか。天照大神ではないわけです。天神を祭るわけです。
 おわかりでしょう。天満宮、天神さん。と言うと皆さんは、菅原道真だよと、こうおっしゃる。私もそう思っていた。しかし、博多近辺で育った人なら小学校か幼稚園時代で、質問したことが一回はあると思うんですよ。お父ちゃんかお祖父ちゃんお祖母ちゃんに。どう質問するか。「どうして菅原道真のことを天神というの。」と質問したことのない人はいないんじゃないか、と私は想像するんですがね。どうせ天満宮に一回ぐらいは親に連れられて行ったでしょうからね。おかしいですよ、考えてみれば。親はその時はごまかすよりはしようがないですよ。菅原道真は学問の神様で、非常に偉いから天神と呼ばれているんだとかね。それぞれのキャラクターを反映した答えをされると思うんです。しかしそれは、生意気言ってご免なさい、結局ごまかしですよね。だって、偉い人だから神さんになるというのはわかりますよ。日本の多神教のメンタリティーでは偉い人は神さんになる。明治天皇も神さんになるわけですから。しかし神さんの中でも、よりによって何で「天神」になるんだ。いかに菅原道真が学問に優れていたからといって、その答えにはならないでしょう。
 私は神社に十何年か夢中になってきましたので、この答えは簡単なんですが、要するに本来そこは天神を祭る神社だったわけですよ。そこへ平安時代、菅原道真が合祀されたわけですよ。そのあとで合祀されたのが主神と入れ替わった。これはもう日本中の神社至る所に見られる現象です。よくある日本の神社のルールの一つなんですから。だから、この天神に代って菅原道真が主神になって学問の神と言われてきた。しかし、昔の姿を留めているのは、天神という表現であった。始めから菅原道真が「天神」であるはずはない。言ってみれば、誰だって当たり前と思うでしょう。ところが、我々みたいなよそ者は当然ですが、天神という言葉をよく知っている土地の皆さんが、かえってそういう疑問をおこす前に、知りすぎてて、「天神と言えば、菅原道真」と頭のコンピュータに差し込まれてしまい、それについて考えようとしないで来られた人が多いのではないでしょうか。あるいは疑問にして悩んで来られたか、どっちかですね。
 ところが今、私は解けたと思いますよ。あれはまさに九州王朝のアマツカミの神社ですよ。あの場所のあのスケールなら、これは不足ないじゃないですか。近畿天皇家の伊勢の皇太神宮に比べても不足ないじゃないですか。そしてまた、天神を祭ってある神社は福岡県にはやたらとあるんですね。『福岡県神社誌』をご覧になったらまた出てくる、また出てくるといったものです。だから中心的な存在もあるし、そういうたくさんもある。そしてまた、非常に古いものもあるわけです。糸島郡にもありますね。天降神社という呼び方になっているものもいくつかございました。ということで去年の夏、吉野ヶ里へ行くついでに時間がありましたので、対馬へ行って、こんな大きな収穫がありました。

『東日流外三郡誌』と九州王朝

 さて、次も大きな問題で、去年の十一月十二月に大きな発見が私にとってあったんです。この二〜三年来、『東日流つがる外三郡誌』、これは寛政年間に出た津軽の天才的学者秋田孝季と妹りく、その弟子で富農の出身の和田長三郎吉次、りくはこの長三郎の奥さんになりますが、この三人がなした大きな業績でございます。この『東日流外三郡誌』は疑いの目で見られることが多かったんです。今でもそう見ている人は多いと思います。私はこれはどうも偽物ではないという判断に到達せざるを得なかった。超古代史というと讃める意味で使う人もありますが、それをインチキの意味で使う人もより多いですね。そう言われてきたけれども、とんでもない。これは非常に重要な史料であるということに気が付いてまいりました。
 そこで去年の十一〜十二月にぶつかった問題は、この『東日流外三郡誌』の中心的な人物は安日彦・長髄彦ですが、その中に「安日彦長髄彦大釈願文・十三領神於瀬堂二柱神語印釈記」という文章がありまして、これはようするに語邑(かたりむら)というのが青森県の日本海岸側にありまして、伝承を専門とする伝承のプロの村というのがあるんですよ。現在でもあります。残念ながら、敗戦の頃、旧満州、中国の東北地方へ村から大量に出かけて行って全員戦死された。今は行かれなかった人だけが残っている感じです。そこで伝えられてきた言葉を、文明年間(一四六九年)に記録している。語邑の竜之介拝文記となっている。ですから文章もあったのでしょう。それで語りもあった。読んでみましょうか。
     「安日彦長髄彦大釈願文」
          十三領神於瀬堂二柱神語印釈記
  いにしふることのかたりまをさく、あな遠き世の耶馬台国になりませる二柱の君安日彦命長髄彦命築紫日向の賊に住むる国を侵されけむこそ住むる国をぬけにして東日流なる国果にぞ住居けれ。
  (後略)
      文明元年〈一四六九〉正月元旦     語邑 竜之介拝文記
                              土崎 安東社中
                              桧山 安倍社中

 と、こうなっている。これをですね、秋田孝季をはじめ室町末期以来の津軽の学者が読み違えた。本居宣長と同様に読み違えた。どう読み違えたかというと、筑紫を全九州と理解し、日向を日向の国と理解した。言ってみれば、これは神武天皇にあたる人物と理解した。そして神武天皇に追われて長髄彦が津軽に逃げてきたと、これが超古代史になってしまった。ところが『東日流外三郡誌』を調べていきますと、そういう史料群と、(これをR型の史料群と名付けました。)それとは違う、より古いQ型の史料群がありました。今読んだものが、その一つです。
 ちょうど一年前に私が書いた論文(昭和薬科大学紀要「歴史学の成立」)のテーマがこれと関連します。すなわち、従来、宮崎県と鹿児島県との間の霧島高千穂連峰が天孫降臨の場所と考え、その場合、筑紫を九州全土と考え、二番目にある日向を日向の国と考える。三番目の高千穂を高千穂連峰と考える。そして、クシフルダケはないから残念ながらなくなったと考える。つまり、四つつながっているうちの二番目と三番目で勝負する。よく私は言うのですが、私が住んでいる所は東京都文京区本郷鳳明マンションとこうなっている。それを、東京というのは日本全土を東京と言ってよいのだろう。外国人は日本へ行くことを東京へ行くということもあるから、と言って日本全土を東京とする。そして鳳明マンションは今なくなったのだろう。二番目と三番目の文京と本郷で古田の場所はわかる。本郷なんて日本中至る所にあります。文京はこの頃流行であっちこち付けています。だから、文京と本郷なら私の住まいは日本中あっちこちできてしまう。住むには便利でいいけど、えらい迷惑します。
 そういう無茶な読み方を本居宣長はやった。目的ははっきりしております。要するに神武天皇は日向の国から出た、これははっきりと書いてある。その神武天皇をアマテラスの直系にするには宮崎県の近くに降ろしたかった。そのために今のような無茶な読み方をしたわけです。ところが、これに対して私は原田大六さんと同じく、筑紫は福岡県だ。そして日向は、ヒナタ。高千穂は日向峠や日向山・日向川がある、あの高祖山連峰、そしてクシフルダケはちゃんとある。この高祖山の第二峰ないし第三峰にあたるところがクシフル岳。だからここである、という立場をとった。
 しかも、ここで大事なことは、『古事記』に日子穂穂手見命が五百八十年、二倍年暦と考えても二百九十年、だから日子穂穂手見というのは称号ですね、その称号を持つ人々の御陵は高千穂の山の西にある。地名の「御陵」は博多近辺にあります。しかし、遠きいにしえの御陵は高千穂の山の西にある。つまり糸島郡にある。実際、アマテラスの系列を引く三種の神器セットを持った御陵、つまり倭国王墓が三雲・井原・平原と出てきているわけです。そして同志社大学の森浩一さんが言っておられるように、一つ出てきたらその五倍十倍実物はあったと考えるべきだ。私もまったく同意見です。つまり、ああいう王墓が三つ出てきたということは、五倍で十五、十倍で三十あるということです。だから、三十なら三十から引いた二十七はまだ地下に眠っているということです。
 だから私は不思議なんですよ。博多などに住んでる少年たちがなぜ糸島郡で残りを探そうとしないか。たとえば、日子穂穂手見命第一代に関して言えば、日向の高屋にある。高屋橋というのがあるんじゃないですか。これもじつは灰塚さんに見つけていただいたんですがね。なぜその辺の今山の近くを探そうとしないのか、そう思うんです。まずそれよりも、クシフル岳をなぜ掘らないか。私の解読がもし正しければ、クシフル岳に何かありますよ。弥生の人間の住んだ跡が。場合によってはニニギのいた所、それはたいしたものではないかもしれない。しかし、後々、九州王朝の元祖になったんだから、それをこういうふうに伝承しているのだから、そこへ何かを埋めたかもしれない。たとえば金印を埋めてあったって私は驚きませんね。あの高祖山連峰の所だったら。志賀島だけに金印が集中する必要はないわけです。もちろん春日市近辺が一番可能性があると思いますがね。
 やはり今、発掘はできませんが、文化財保存のためのルールができましたので、素人には。私にだって発掘はできないんです。しかし、掘ることはできるんです。つまり、掘って文化財にぶつかったら報告すればいいわけです。文化財にぶつかっても掘り続けたら文化財保護法違反になるんです。しかし、ぶつかるまで土を掘ってはいけないなんて法律はないですから。日本国憲法にもない。だから、この辺に私が住んでいたら毎日でも探しに行くんですが。博多に住む人、なぜ行かないのか。大人は忙しいでしょうが、少年少女は時間か有り余っているのですから、なぜ行かないのか。こう思っているんです。(土地などの所有権の問題は、もちろん前提ですが。)
 さて、そういう観点から見ますと、さっきの文章は違うふうに読めますね。つまり、「筑紫の日向の賊に追われた」と読めるわけです。「筑紫の日向の賊」というのは高祖山連峰にやってきた賊、言い換えればニニギノミコト。だから我々はニニギノミコトと言えば、『古事記』『日本書紀』では後光がさしているように聞かされていた。もちろん神社に祭られているニニギノミコトは輝ける祭神です。ところがそれはその側の目であって、逆の目から見れば賊である。私が初めてこれに気が付いた時には、ちょっとふるえあがるような気がしましたよ。しかし、それでいいんじゃないですか。誰から見ても尊いなんていう人はこの地上にはいないんじゃないでしょうか。神様だって、おそらくいないんじゃないでしょうか。それを尊崇する民には、もうこれ以上のものはないけれども、それから「自分の神」を滅ぼされた人たちにとってはこれ以上憎い相手はいない、というのが人間の世の常ではないでしょうか。それがリアルな姿ではないでしょうか。それがそう見えないのは一方の目だけで、我々が『古事記』『日本書紀』やそれにもとづく『教科書』からテータを提供されて、頭にセットされていたからではないでしょうか。
 こういう意味で『東日流外三郡誌』はすごい史料である。そして幸いなことに現在ではこれを裏付ける事実があります。八年ぐらい前から青森県で発掘が行われて、六年ぐらい前に垂柳遺跡から弥生の水田跡が出てきた。これは弥生の中期後半前後の遺跡である。さらに今から四年前、砂沢遺跡というのが出てきた。これは弥生の前期から、ないし弥生の中期前半にかけての遺跡である。考古学界では現在このことは認められている。しかも私は垂柳の資料館でお聞きしたんですが、この水田のノウハウは板付のノウハウです。博多の板付の水田の作り方でこの土地にあうように作られています。ですから、弥生の前期末か中期前半に筑紫から水田のノウハウを知っている人たちが移ってきて、これを作ったことは間違いありません。
 幸いに、現在そのことは学問的認識になっている。ただどんな人間が来たかは考古学者にはわからないわけです。ところが『東日流外三郡誌』には安日彦命・長髄彦命がやってきたと書いてある。しかも怖いことに『東日流外三郡誌』には繰り返し書かれているが、安日彦命・長髄彦命は稲穂を持ってきた。秋田孝季は自分の認識をよく絵に描くんですが、安日彦命・長髄彦命は稲穂を持って描かれている。
 こういう伝承に対する私の分析、これは正しい、リアルだと思っている。いくらほかの学者が言ったって、あの霧島・高千穂説は駄目だ。その証拠に、あそこの西には三種の神器セットを持った弥生墓は出てきていない。いわゆる隼人族の伝統的な文明と墳墓はありますよ。しかし、それは金属器のようなチャラチャラしたものなんか中に入れられるか、という誇り高き文明であって、三種の神器セットを持つ文明ではない。それをもって見ても、やはり私の解読は正しいと思うんです。つまり、解読と出土事実が一致したのですから、糸島郡で。同じく、糸島郡でだけ一致したのではなく、津軽でもまた伝承・文献の分析と出土事実が一致したわけです。そうすれば安日彦命・長髄彦命伝承は歴史事実であった。
 しかも驚いたことに、私より以前の人はよく知っている天壌無窮の神勅、「豊葦原の千五百秋の瑞穂の国は是れ吾が子孫の王たるべき地なり。」「豊」というのは明治の教科書からくっつけたもので、『日本書紀』では「葦原」から始まっています。それを見ますと、もう水田耕作ができている所へやってきて征服して、子孫にこの征服を伝えようと言っているのですね。一言もニニギノミコトが、私は稲穂を持ってきましたとか、水田耕作のノウハウをお前たちに教えたから私の言うことを聞きなさいとか一言も言っていない。『古事記』も『日本書紀』の本文・一書どれも全部言っていない。全部すでに稲作ができている所へ来て、私は今からお前たちを支配するぞとだけしか言わない。非常にリアルだ。
 津田左右吉が言うように、『日本書紀』は六世紀以後の天皇家の史官がでっちあげたんだとすれば、なぜもっと格好よくニニギノミコトに稲穂を持って来させないのか。そしてまた稲作のノウハウは私が教えましたと言わせないのか。一回も言わせておりません。これはやはり造作説では説明できない。
 だから私はつくづくと思うんですが、戦前の学者や学界があんなに津田左右吉を村八分にするべきではなかった。論争をまったくしなかった。論争していたらそこで今の間題を問いかけたら津田左右吉は困ったと思いますよ。困っただけではなく、あれだけの人だから、また新しい前進をされたと思います。しかし村八分にしていたから学問の進歩が遅れたんです。
 おわかりでしょう。今、村八分にされているのは私なんです。私が九州王朝といくら言ったって、九州大学の国史学・考古学は一回も応答せず、反対も賛成もせず、一切無視しているのです。これでは絶対に日本の学問は遅れます。後の人は、なぜあの時論争しなかったのか、こう言いますよ。だから戦前を笑うのはラクですよ。現在の我々こそ笑うべき状況にある。
 このことを博多の皆さんに一言うのは、皆さんのお身内や知り合いに九州大学の学者や先生や後輩がいらっしゃると思うんです。その人たちに、古田はこう言っていたと言っていただきたい。それで九州大学が来いというのなら、日本史学だって考古学だって私は喜んで手弁当下げて、もちろん自分で費用出して博多へとんで来ますよ。そして十人でも二十人でも三十人でもよろこんで袋叩きにあいますよ。それを本当に願っているのです。ということを皆様にお伝えいただきたいと思って、申し上げたわけでございます。

 

朝鮮半島の「倭地」問題

 その点、中国の学者は非常に率直でして、朴ジュンソクさんという学者、多分民族的には朝鮮人だと思いますが、中国の延辺大学の学者の方です。この方が私に対してストレートな反論をしてくださった。古田の論文「好太王碑の史料批判」(『よみがえる卑弥呼』所収・駸々堂)に対して反対だと。何が反対かというと、朝鮮半島内に倭地があったと古田は言っているが、これに反対だと、論証を一点に絞って展開されたんです。
 一番おもしろいテーマだけ言わせていただきますと、先ほど藤田さんが言われましたように『三国志』の倭人伝を受けて好太王碑文は書かれている。倭人について一切説明していない。これは『三国志』にあるあの倭と同じに理解していいよとサインを送っているわけです。沈黙は最大の雄弁である。そういう目から見ますと、『三国志』の倭人伝あるいは韓伝で、すでに朝鮮半島内に倭地があると書いてある。つまり、韓国は、東西は海に限られ、南岸は倭に接していると書いてある。どう読んでも、朝鮮半島の南岸部四千里は倭地であると読まざるを得ないわけです。ところが弁辰伝で、其の賣*盧国倭と界を接す、と書いてある。この賣*盧国は韓国全体を面とすれば一点みたいなものだ。具体的には一点しか書いてないのだから、最初のは大風呂敷でウソであり、具体的には一点で倭に接していると考えるべきだと、こう朴さんは言われるわけです。ところがこの賣*盧国というのは釜山・巨済島付近だと韓国の学者は言っている、そうすればそこから南にはもう海しかない。だから倭地というのは対馬だ。こういう結論になっている。だから朝鮮半島には倭地はない、ゼロなんだという論証を展開されている。
     賣*盧(とくろ)国の賣*(とく)は、三水編に賣。JIS第三水準、ユニコード番号7006

 私はそれに対してこう反論したんです(「『倭地』の史料批判 ーー朝鮮半島内の『倭地』に関し、中国、延辺大学の朴ジュンソク氏の批判論文に答える」『昭和薬科大学紀要第24号』一九九〇年)。それでは朴さんの論法によれば、初めに書いてある巨視的な文と中に書いてある具体的な文とが矛盾したら、巨視的な方をペケとし、具体的な方をマルにするという方法論に立っておられるわけですね。よろしい、それなら巨視的な所で東と西は海で限られていると書いてある。ところが具体的な五十幾つ小国が出てきているが、その中で一つとしてこの小国は海に面していると書いてあるのはない。このことは『三国志』の倭人伝の前の韓伝をご覧になればすぐにわかります。ならば、さっきのように、巨視的な文と具体的な文とが矛盾しますよね。その場合は具体的な方をマルとして採用しますと、韓国は東西は海に面しているという方をペケ、間違いであると主張する勇気はおありですか。と、朴さんにそういう反論をしたわけです。おそらくはこれはそうだとは言えないでしょうねえ。もしそうだとしたら、韓国の東西はどこかの国と接していなければならなくなる。
 さてそれでは、人に質問を投げるのはラクだが、自分で答えられるのか、ということになります。事実、朴さんはこれを古田はどう説明するのか、とっ言っておられる。これは良い質問です。なぜかと言うと、東夷伝の最初に次のようなことが書いてある。漢の張騫は西域に使いを出し、その国々のことを『史記』『漢書』に記載することができた。同じく我が魏王朝(それを受けた西晋王朝)は倭国に使いを派遣して、その途中の国々の風俗・国名を詳しく書くことができたと書いてある。そのとおりです。『三国志』の東夷伝の中で、高句麗伝には小さい小国のことは一切書いてありません。穢伝、把婁伝、東沃沮伝にも書いてありません。書いてあるのは韓伝と倭人伝だけです。これはなぜか。ここで出てくるのが私の「韓国陸行」というテーマなんです。
 これには本当に腹がたっているんですよ。なんでかというと、私が『「邪馬台国」はなかった』であれだけ繰り返し述べた。それは倭人伝にはソウル近辺の帯方郡治から狗邪韓国まで七千餘里と書いてある。ところが韓国は方四千里と書いてありますね。韓伝の最初に。とすれば、こっちで四千里、こっちで四千里ですから八千里じゃないですか。狗邪韓国すなわち釜山が韓国の一番端ではないにしても八千里弱ではないですか。それにこんどは、帯方郡治から韓国の西北端までどうしても千五百里ぐらいはあります。そうすると八千プラス千五百で九千五百里弱ではないですか。絶対に七千里にはならんですよ。だからこの説は駄目だ。従来、私以前の人は皆そうだ。以後も全部そうなんです、私に賛成した人以外は。ではどうしたら良いかというと、それは韓国を陸行したんだ。韓国を歴るに乍(たちま)ち南し、乍ち東しと読んだ。だから階段式読法です。そうすると計算上だいたいこれが五千五百里ぐらいになる。そうすると五千五百里プラス千五百里でちょうど七千里となる。こう論じたわけです。
 ところが、この問題に関して九州大学を含めプロの学者は私に対して一回も反対賛成を述べない。この博多でシンポジウムが何回開かれました。一回もこの問題を議論しないでしょう。そして、去年あったNHKの邪馬台国の特集番組で、韓国の地図を出してナレーションでいわく、“この韓国の西岸と南岸を通ることについてはどんな学者にも異論はありません。”今はビテオがあるから何回でも繰り返し見れます。(会場爆笑)。そうはっきりナレーションで述べている。古田は学者じゃないから無視してもいいのだということでしょうかねえ、NHKは。確かにどの学者も今の問題を完全に無視している。一切議論しない。議論したらなかなか勝てないのではないでしょうか。私の説に対して、韓国陸行しなくても従来説で七千里になるのだとは、奇術でも使わないかぎりは難しいのではないでしょうか。だから論争せずに無視しているわけです。
 さて、それが今度、そのツケが回ってきた。つまり、私の理解では倭地は南岸部にある。そしてそこへ陸行して来る。その途中の小国を書いているわけです。だから倭地には一点でぶつかるわけです。横に広がっている所へ斜めに来れば一点でぶつかるでしょう。それが弁辰の賣*盧国なんです。「倭と界を接す。」だから韓国陸行に立ってこそ、この目視的な文と具体的な文とが矛盾しない。それだけではない。今のように斜めに陸行するからこそ海に面している小国は通らない。狗邪韓国に出るまで。だから小国を五十幾つ書いてあるけど、「この小国は海に面している」とは書いてないわけです。
 やはりこれ以外の回答はないのではないでしょうか。どっちかをウソだと言わない限りね。ウソだとへたに言ったら自己矛盾に陥る。やっぱり「韓国陸行」しかないですよ。NHKがいくら“どんな学者も賛成している、古田以外は賛成している”とお墨付きで言っても駄目なんです。NHKのためにちょっと言っておきますが、NHKの中でも私のものすごいファンがおられて、一生懸命古田説ということで頑張られたらしいんですがね。という経緯はともかくとして、やはり韓国陸行でなければいけない。そして例の「島巡り読法」を加えて、これも議論をプロの学者はしないのですが、博多湾岸とその周辺を邪馬壹国と考えざるを得ない所に至ったわけです。
 ということで、朴さんは正面から、「古田の意見には反対だ」で始まって、「古田の意見はぜんぜん駄目だ」で終わっている論文ですから、こんな気持ちの良い論文はありません。だからこっちも一生懸命になって答えている内に、私自身も気がつかなかった今の問題に気がついてきたわけです。勝ち負けの博打ではないのですから、学問は。どちらが正しかったって間違っていたって、間違っていたら間違っていましたとはっきり言えばいいだけのことなんですから。ということで私も還暦を過ぎまして六十三歳ですから、どれくらい命があるか知りませんが、生きているうちに大いに袋叩きにしていただきたいと思っておりますので、どうぞ博多の皆さん是非よろしくお願いします。そしてまた今の小さい方々を大いに扇動していただきたいとお願いして、今日の話を終わらさせていただきます。

 

 補足報告

「君が代問題」について、その後また面白い進展がございました。といいますのは、きのう申しましたのは、いわゆるサザレ石というのが「細石神社」、そして、キーポイントになった「コケムスメ神」というのが船越というところにある「桜谷神社」に祀られているということだったのです。
 そうすると、イワホというのは、 ーーこれは繰り返して言っておきますが、この問題は古賀達也さんのリードによる問題提起、また解答でございますのて、私はそれを補っているに過きないのてすーー 我々は「イワオとなりて」と歌っております。ところが、イワオはワヰウヱヲのなんです。ところがそうじゃなく、古賀さんが調べられた古い形では「イワホ」である。ということが私にとって一つのポイントになりまして、今の井原が「岩」プラス「羅」であるということを年来思っておりましたので、それと結びつくんじゃないか、だから結論として言えば、例の細石神社を中心に置いて、その回りに山がずっと、高祖山連峰 ーー 高千穂が囲んでおります。それをイワホと言っているんではないかと考えた訳です。そして干代というのは、県庁所在地の千代、千代県庁口と書いてありますが、そのあたりの干代であろう、そして船で行ってずっと向こうに糸島郡を回り込んで入るところに船越、船で越えるところに「コケムスメノ神」という古き女神が祀られているところを背景にしたんだと理解したわけです。
 ところがこれに対して、ご本人にここに来ていただいて話してもらうつもりだったんですが、時間の関係で私がかわって言わしていただきますが、藤田友治さんがまた面白い発見をされた訳です。というのは、今の井原山のあるところが「水無」で、そこに鍾乳洞がある。これも土地に詳しい鬼塚さんの説明を聞いて、藤田さんがパッとひらめかれたのです。要するに鍾乳洞の中で、雫がポタポタと落ちて、そこにイワホができます。突出です。 ーー上と下に。これがイワホじゃないか。サザレ石とは小さな石というように理解してもいい訳ですが、もともとの状態がサザレ石で、それが岩穂となりて苔のむすまでという、鍾乳洞の長期間に亙る変化を見て、それがバックになってこの言葉はできたんじゃないか。これは非常に面白い目のつけどころです。実際、藤田さんも私もその鍾乳洞に行っていませんので、一般的な鍾乳洞の知識で言っている訳です。これは非常に面白い仮説だろうと思います。そういうのが起点になって、そしてそれより拡大されて、糸島郡の回りの岩穂が細石神社を取り囲んでいるという、そして入口は苔牟須売神がいるところである。桜谷であると、こういう形になってくるのじゃないかという風に今考えているわけです。
 それからもう一つ面白い問題が出てきましたのは、これも古賀さんの教えによるのですが、あの歌が最初は「わが君は、千代にましませ」と、こうなっているのが古いんだというお話しなんです。「千代にましませ」の千代は、今の県庁所在地のある千代です。そうすると、その場合、「わが君」というのは、九州王朝の君主が千代にいらっしゃるということを歌っているのじゃないか。それがつねにいらっしゃるかわかりませんが、なぜ千代に出て来ていらっしゃるかというと、志賀島に渡るためである。金印のある聖地、その「志賀海神社」のある志賀島に渡るためには、千代から、今でも中央の船着場が千代のさきにありますが、そこから志賀島においでになると、それを迎えている歌ではないかという問題がきのう出て参りまして、私もそう考えて、もしかしたら“行ける”かも知れないという感じを持った訳でず。
 これは仮説ですから、そのつもりでお聞き頂けたらいいんですが、私は前からの疑問があるのです。というのは、「隋書」イ妥国伝、その中に多利思北孤のことを「吾輩のキミ」と書いてあります。あれを普通岩波文庫などでは「オオキミ」と読んでいますね。しかしこれは、いくら何でも「オオ」とは読めないと思うんですね。「阿輩」という字を「オオ」とは読めないと皆さんもお思いでしょう。これもさっき、中小路さんの言われた分ではないですが、こちらの結論を持っていて、オオキミに違いないんだと、だから何とか読めることにするという方法をやれば別ですが、私はそういう方法論ではないので、やはりこの字を正確に見れば、どう見たってオオキミとは読めない。しかも奥さんは、鶏弥(キミ)でしょう。それに対して、阿輩というのは先頭についているので、私は前から一つの仮説というか、それまで行かないアイデアを持っていた。中国で阿輩というのは臣下が「われわれ」という自分たちというとき吾輩といいます。諸橋の漢和辞典にも出ている。つまり阿輩というのは中国語じゃないのか。「われわれ」という「われわれの君」という表現を、下半分は倭語、上半分は中国語ではないかという疑いを持っていた。そうなりますと、この場合どう読んだかというと、「ワガキミ」なんではないか。つまり、多利思北孤のことを「ワガキミ」と呼んでいるという風に隋の裴世清が聞きとって記録したのではないか。
 「ワガ」とは何だ。「私たち」のことです。それでは阿輩だという形で表記になったのではないかという ーー ーつのアイデアなんてすがーー 思っていたんです。この間題について思うんてすが、「わが君」というのは「阿輩の君」ではないか。つまり多利思北弧だけじゃないでしょうが、代々の九州王朝の君主を「わが君」と呼んでいたんじゃないか。そうなりますと、「わが君は千代にましませ」というのは、「今千代のところにいらっしゃっている。これから志賀島へおいで頂くんだ」という、「わが君」の淵源は糸島の細石神社ですね。あの神聖なる地の権力者としてお立ちになった「わが君」とこういう風な歌になるのじゃないかなあという感じを持ったんですが、今回の私の考えの“裏付け”を与えて下さったのは一番前に座っている古賀達也さんですので、ちょっと、一番この問題の人 ーー リーダー ーーに、一言お願いします。

 

古賀達也・「君が代」の伝承

 私はこの間題は文献から調べてきまして、結論は古田先生から細石神社とか苔牟須売神のことを聞いてびっくりした訳です。文献と申しますのは、一番古い出典がさきほどありました「古今集」の、しかも「古今集」の中にはいろいろなジャンルがある訳ですが、その賀の部分の筆頭に挙げられているのですね。それで古い写本に三通りあるのですが、「わが君は千代に八千代に」、「千代にましませ」最後は「苔のむすまで」と「苔むすまでに」という三通りがあると言われています。
 しかもその歌が「読み人知らず」「題知らず」と天皇家が勅撰で作らせた和歌の歌です。万葉以降和歌の道がすたれてきたので、勅撰で和歌の歌を作ろうというとき、賀のジャンルの筆頭に挙げた歌に「読み人知らず」、「題知らず」という、こんなおかしな話はない。「万葉集」に載っていたということで、定説では万葉以降古今までの作だろうと言われている訳です。しかし、筆頭に載せるすぐれた歌が「読み人知らず」「題知らず」ではおかしい。これは万葉より古いのではないかという感じをもった訳です。そこで思い起きれるのが「万葉集」は筑紫の歌をカットしているという事実である。とすればこの歌は筑紫に淵源をもつ可能性があるのではないかと思った訳です。
 現地の伝承を調べますと、香椎宮の文書の中に、志賀島の海士たちが風俗楽を奉納する。その中の一節に「君が代」が出てくる訳です。それは事実か、どこまで遡れるかというのを調べますと、天皇家の六国史の三代実録の中の貞観十八年だったと記憶します。その中の一節に、太宰府いわく、香椎宮に志賀島の海士男十人女十人が春と秋に風俗楽を奉納する。これは非常に古いものであるということを太宰府が言ってきたということをちゃんと記録しているんです。ということは、志賀島の海士たちの風俗楽「君が代」の伝統は非常に古い、しかも九州が発祥の地であるという疑いを持っていた訳です。その中にさらにもう一つ、謡曲の中に「菊慈童」というのがございます。そのもと歌になったと、言われている田楽の中の「菊水」という歌がある訳ですが、その中に「君が代」の一節が出てくる。「菊水」とはどういう内容のものかというと、時代背景が魏の文帝、「われは魏の文帝の臣下なり云々」がある訳です。魏の文帝、文字どおり卑弥呼が金印をもらった時代です。そういうことは、金印をもらった時代の中に君が代の一部が入っている。こうなるとますます「君が代」という歌は、九州に淵源があるという風に間題意識をもって、このシンポジウムに来て、古田先生にお話ししたところ、先生は別の論証から、現地の地名から同じような帰結にたどり着かれたということで、非常にびっくりした訳です。
 さらにもう一点だけ付け加えさせて頂きますと、明治政府が古い古典を歌にしたのが二つございます。一つは「君が代」、もう一つは「海行かば」です。この「海行かば」はどうなのか中小路先生から以前お聞きしたのですが、「海行かば水づくかばね」というような生々しい戦争の歌が、水軍をもたない大和朝廷に作れるかという問題がございます。そうすれば水軍をもってはげしい海戦を戦ったのは何処か。白村江の経験をもつ九州王朝とすれば、万葉集でカットされた筑紫の歌が、『古今集』や、「海行かば」の出典となっている『続日本紀』、「海行かば」は『万葉集』にも載っていますけれども、そういう形で紛れ込んでいる可能性もあるのではないかという問題意識を現在もっております。さらに論証を高めて何かの機会にご報告したいと思っております・

(再び古田)非常に濃密なお話でございました。今のは古賀達也さんで、灰塚さん、鬼塚さん、高山さん、藤田さん、私と、地理的に言うと博多 ーー 九州の人が二人、高山さんが神戸、藤田さんが大阪、古賀さんが京都で、私が東京と、日本列島にかなり分布してこの六人の説である。だからシックス・メンズ・セオリーと言うか、S・Tと記憶頂ければいいと思います。失礼いたしました。

 

 “法隆寺”釈迦三尊像と九州王朝

 さて、その次はさっき高山秀雄さんからご紹介のありました、法隆寺の釈迦三尊をめぐって、最近NHKで三回にわたって放映がなされました。新聞でも報道がなされました。ところがどうも法隆寺が発表し、東大の万葉の学者、それから井上光貞さんのお弟子である鬼頭清明さんなどが出しておられる解釈がちょっとおかしいのではないか。と言いますのは、あの十二文字ですが、あの釈迦三尊像の台座の下から出てきたというあの銘文の読解はおかしいんじゃないかという問題にぶっつかった訳です。その前に、高山さんが昨日ご紹介になりました、重大なテーマがあります。と言いますのは、釈迦三尊像の右と左の脇侍が入れ違っているのがわかった、という問題があるのです。
 薬生菩薩と薬上菩薩が両側にいらっしゃいます。真中にお釈迦様がいらっしゃる訳です。それはちゃんといらっしやる位置が決まっているのが、普通決まっている位置とは逆違いになっていたということが確認されたという報道、近畿なんかでは詳しく報道されたようです。新聞でも、NHKでも述べられておりました。その説明としては、「これはトリ仏師が間違えたのではないだろうが、現場で入れるときに入れ違えたんだろう」と、こういう説明になっていたんです。しかし、私は見ていて、今は幸いにビデオで繰り返し見れますので、繰り返し見て、これはおかしいなという気がしました。そうでしょう。トリ仏師が間違えたんじゃないというのは、まあそれはいいですよね。ところが現場監督が間違えた、トリ仏師は設計図だけ書いて、あとは寝ていたというのか。やっぱり現場に、例の金堂に入れるためにうまく入れたという話が『日本書紀』にありますように、当然現場監督でもある筈です。また仮に病気で寝ていたとしても、でき上ったものを一回も見なかったのだろうか。見たら入れ違いはわかるではないか。当然些細なことではないのですから、なおさせる筈ではないですか。そう考えますと、トリ仏師は正しく作ったのだが、入れるとき現場の人が入れ間違えたという解説は、私はどうも納得できません。皆さんは納得できますか。
 これは従来の立場じや説明不可能になっている訳です。それじゃ何から説明できるかというと、私がかねて言っておりますように、あれは九州で作られたものを、法隆寺が焼けたあと、あちら(飛鳥)に運んで置いたものだ、と。この仮説からすると理解できる訳です。なぜかというと、作ったのは九州の集団である。トリ仏師とは断定できないのではないかと私は論じました。『止』と『利』、『利』は音で、『止』は訓みたいなものですね。あれはむしろ『シリ仏師』なら読めるのです。あるいは場合によっては「トマリ仏師」ならまだ読めるかもしれません。「トマリ仏師」ならまだいいけれども、「シリ仏師」が一番すっきりしているですね。「トリ仏師」というのは、よっぽど「トリ仏師」という言葉の先入観がなければ、あれは「トリ」とは必ずしも断定できない。「シリ仏師」と一応読んでおきますが、その人が作ったことは裏に書いてあるから間違いない。ところがそれがですね、九州で作られた。作ったのは七世紀前半です。法隆寺が天智九年に焼けて、そのあとですから、七世紀終りか八世紀になって近畿へ運んで行った。運んでいるとき、当然あのままの恰好じゃこわれやすいですから、はずせるところははずして持って行った。そして近畿のあまり仏様なんかやったことのない運搬者が両側を間違えて入れてしまった。このケースならこれはありやすいのではないでしょうか。
 それに対して、はじめから近畿のものです、というときには、今のように止利仏師のあとを受け継いで、百年も経ってないですから、止利仏師のお弟子さんや孫弟子さんたちの集団が入れ間違えたというのは、やっぱりちょっと私には納得できない、ということになる。
 今の法隆寺の釈迦三尊像が九州で作られたという話。そんなべらぼうなと、初めての方、私の本をお読みになっておられない方は、思われるかもしれません。だから、その説明を簡単にキーポイントだけお話させていただきます。
 これは先ほど出ました隋書イ妥国伝、普通倭国伝と言っていますが、ここの「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」あの有名な文句は多利思北孤という人の国書であると書かれています。多利思北孤は「阿輩鷄弥」で奥さんは「鶏弥」、後宮の女は六七百人、こう書いてある。これを戦前・戦後一貫して「聖徳太子」「推古天皇」と言ってきた。戦前の教科書も戦後の教科書も一致するのはここなんですね。
 ところが、私はこれがおかしいと感じたのが「九州王朝」というイメージの問題にぶつかった最初なんですね。なぜかと言えば、『失われた九州王朝』(朝日新聞社)で書いたところをまとめて言いますと、多利思北孤というのは男である、奥さんがありますから当り前ですよね。ところが推古天皇は女である。男と女は同じではない、「男女不同の原則」。次に、多利思北孤は第一権力者である、聖徳太子は第二権力者に終始した人である。もっと生きていたら天皇になられたでしょうが。実際は皇太子で摂政に終始し天皇にならなかった。つまり第二権力者に終始したのが聖徳太子。多利思北孤は明らかに第一権力者である。だから地位は同じではない。「一・二不同の原則」、これが二番目。次に第三番目は、多利思北孤の居る所は隋書にちゃんと書いてある。「阿蘇山あり、その石、故なくして火起こりて天に接す・・・・」と。火山を知らない中国人が、火山を見て見事に表現してますね。阿蘇山は近畿にはない。近畿大和に入ったのなら、三輪山だとか、大和三山を書くのが当り前です。しかし阿蘇山しか書いていないのです。ということは、阿蘇山があるのは九州である、近畿ではない。九州と近畿は同じではない、「九・近不同の原則」。この三原則なんですね。
 どれを見られても、私の言うことはおかしいと思われる方がおられるでしょうか。恐らく、地球上どこの国へ行って話しても、私の言うことが当り前すぎて、「そんなこと当り前。そうではないと考える人間、いるはずないじゃないか」、こんな返答が返って来ることは決っていると思うのですが。どうでしょう。ところが戦前・戦後を通じて、教科書は一貫してこの三原則を無視して来た。私がこの議論を出して二十年ほど経っているのに、これについて反論した大学の、いわゆるプロの歴史学者は一人もいないわけです。みんなこれに対して無視してきて、無視したままで、書くときは昔ながらで書いているわけで、「古田説はなかった」という顔で書いているわけです。この話は昨日と同じ問題になりますので、この辺で話を戻しますが・・・。
 これが私のいわゆる「九州王朝の論証」です。七世紀前半、九州に天子がいるんだから、倭の五王が九州なのは当然です。「卑弥呼」も「邪馬台国」も九州でなけれぱおかしいのです。近畿が「邪馬台国」だったのが、七世紀前半にきて、九州に天子が現われるのでは話がゴチャゴチャになってしまいます。
 で、さらにこの立場から法隆寺の「釈迦三尊」を見ても、非常に問題は簡単なのです。すなわち釈迦三尊の裏には「上宮法皇」と書いてある。上宮法皇が死んだことに関する文章なんですね、あの銘文は。ところがその銘文によると「法皇」という言葉がある。「法皇」と言うのは仏法に帰依した天子を意味する中国の言葉です。したがってこれは第一権力者である。聖徳太子はさっき言ったように第二権力者である。だから地位は同じではない。さらに上宮法皇が死んだ年月日が書いてある。「法興元三十一年の翌年・・・」と書いてあるが、これをいわゆる「日本書紀」ふうに直せば、「推古三十年二月二十二日」に死んだと書いてある。ところが『日本書紀』に書いてあるところ、聖徳太子は一年前の推古二十九年二月五日に死んだ、と書いてある。だから両人は別人である。没年月日が違うのですからね、一年違って月日も違うのですから別人と考えるのが当り前である。で、さらに、非常に印象的な証拠を挙げましょう。
 従来説では、「干食王后」、これを膳部臣の娘、菩岐々美郎女だと言っている。ところが、聖徳太子には奥さんが四人いた。第一番目が「日本書紀」に一人だけ書かれた正妃である。菟道貝鮹皇女、そのお父さんが敏達天皇、お母さんが推古天皇、これだけ血筋のいい娘さんは珍しいですね。お父さんとお母さんが両方天皇だなんて、そんな娘さんは歴史を全部見てもほとんどいなかったでしょうね。こういう尊い身分の人が聖徳太子の第一妃、つまり正妃なんです。第二妃が身分が一番卑しい膳部臣の娘の菩岐々美郎女、第三妃が蘇我馬子の娘である、そして聖徳太子を継いだ山背大兄のお母さん。刀自古郎女です。第四番目が尾治王の娘、位奈部橘王である。
 言って見れば、第二番目膳部臣の娘というのが親が一番卑しい。これは「臣」だからいいぞと言っても、それは庶民に比べてのことであって、今あげた者に比べれば一番卑しいわけです。その一番卑しい「臣」の娘を「王后」と称し、それだけが正妃であるように裏に書いてある、と私以外の全部の人は解釈してきている。そんなことがありますかね? お父さんお母さんが天皇だという人を無視して書かない、「王后」と言わない、実力ナンバーワンの馬子の娘も無視する。そして身分的には超豪族の雄である尾治王の娘も無視する、一番卑しい「臣」の娘だけを「王后」と書く、そんな気が狂ったようなことってあるのでしょうか。私には気が狂ったようにしか思えないのですが・・・・。それを気が狂ったと、私以外のどの学者も言わずにきていることが、私には不思議なのです。
 ということで、これも、みんなが揃って口をつむって、「あのことは言わないでおこう」と言えば別ですが、一人が言い出したらもう収拾はつかなくなるのではないでしょうか。
 そうすると、この「上宮法皇」は誰かと言うと、多利思北孤である。仏法を尊重したということを『隋書』には書いてあります。そして「天子」を名乗っている。「法皇」と言って当然である。「上宮法皇」とは九州王朝の多利思北孤を指す言葉である。で、その九州王朝で造られたものを、法隆寺が焼けた後、近畿天皇家の支配下に入った九州から持って来たものである、こう言うのが私の論証であった訳です。今度調べて見ると、左右入れ違っていたという問題が出てきた。どちら側の「説」に有利か? つまり、聖徳太子のもので初めから大和にあったという。これも仮説ですが。それに有利か。いや、こちら側のものを持って行って、本来造るときにはタッチしていなかった人が入れ違えた、と見る方が有利か。皆様にはもうお解りいただけるかと思います。

釈迦三尊像台座墨書 「君が代」と九州王朝 古田武彦 『倭国の源流と九州王朝』

 釈迦三尊像台座墨書の解

 さて、時間がなくなりましたので、ここで台座から出てきたものについて話させて頂きます。「相見 陵面楽識心陵了時者 釈迦三尊像台座墨書の解 「君が代」と九州王朝 古田武彦 『倭国の源流と九州王朝』」ですね。新聞に出た法隆寺、および、稲岡耕二さん、万葉の学者ですが、それに鬼頭清明さん、いずれも東大出身の先生とお弟子さんだと思いますが。「死者の心を陵に鎮めようと願う時は、陵と対面しなさい」と読み、「陵の被葬者が不幸な死に方をしたとも類推できる。」と鬼頭さんは言っています。要するに、我々が死者に対面しようと思うときにはこれを見なさい、こういう解釈をしておられます。ところが、どうもこれは、いわば万葉風に読んでおられるんですが、私はこれは違うんじゃないかと、これは非常に立派な漢詩であると、いわゆる中国文学等の素養の非常に深い人であると、こういうふうに理解しました。
 しかもこれを読む場合に大事な事が二点あります。これは「断片資料」である。これは新聞に出たのでご存じでしょうが、元あったものを(図柄が全部出てませんが)一部切り取って台座の下に使っているわけです。このやり方も意味があるのですが、百済の武寧王陵などにも似た例がありまして、土地の神様のために造った石を転用した形で武寧王陵碑が造られている、という間題があるわけです。こういう、何か由縁のある物を一部使って造る、という方式があったらしいのです。とにかくこの場合大事なことは、断片資料である点が、大事なんですね。
 それからもう一つは、絵と文字が両立している資料である、と。つまり絵があって、鳥があって、魚があること。しかも、鳥は魚の方を振り返っている姿が描かれています。クレタ島の「線文字A」、「線文字B」というのが大量に出て来ました。それについて、英国の建築の青年技師マイクル・ヴェントリスがこれの解読に成功したわけです。それは「ギリシャ語である」という仮説を設け、プロの学者はみんな「ギリシャ語ではない」と言っていたのを、ギリシャ語であるとの仮説を設け、英国で発達した暗号解読のテクニックで読んだ。その結果、「線文字B」については絵がズーッと書いてあり、絵と字が並んでるので絵にピタッ、ピタと合ってきた。だから「線文字B」は読めた、ということになったんですね。「線文字A」もかなりあるのですが、絵がないためにまだ読めない。有名な話です。
 ここで、“やはり絵と両立している”という、日本では非常に珍しいケース。もちろん、これ以後は日本画に「絵伝」というような、絵と文字が両立しているわけですが、しかし古代では珍しい資料です。だからやはり絵と対応する読み方をしなければいけない、と私は思います。結論を言います。
 「相見 陵面  釈迦三尊像台座墨書の解 「君が代」と九州王朝 古田武彦 『倭国の源流と九州王朝』」の「相」、これは「柏」じゃないかという問題もありますが、今は省略しまして、「ケイ 君が代と九州王朝 古田武彦」を「ケイ」と読んで「・・・・に」という置字だと判読されております。「ハ」という字が上についた「兮」と同じだ、と。で、陵面に相見る、陵の表で相見ている、つまりお互いが顔を見合っているわけです。鳥と魚が・・・・。そして「識心」、全人間の精神すべてを「識心」という。「陵」は、「諸橋」の大漢和辞典を引くと名詞の意味と同時に、それ以上に動詞の意味がたくさんでています。いちいち申しませんが、そのうちの「ワタル」であろうと私は思います。つまり「了」という完了をしめす助辞についています。だからこれに付くことが可能です。一番可能性が大きいのはこれですね。だからこれは「渡り、陵る」、この陵るというのは中国の用例では「水を渡り陸を陵る」というような熟語で出ています。「陵り終る」とは何かというと、「鳥と魚」は人生を楽しみ終って十分満足な人生を過ごされて、そしてその人生を渡り終えられた、つまり「上宮法皇」と「王后」その夫妻、一日違いで亡くなった、看病疲れした王后が先に亡くなって次の日に上宮法皇が亡くなった。お母さんの方は一年前に亡くなっておられたのですが、その夫妻のことを言っている。
 そして、もう一つ面白い点は、この魚が変な魚で、鳥の方は振り返るぐらいのことはしますが、魚の方も、魚でありながら鶴みたいに首が出ている。そして目みたいなのがあります。じつは「陵魚」という魚があるんですが、これがなんと東夷の世界に棲むとされている「人魚」なんです。これの出てくるところが、藤田さんが昨日言われました「山海経」。「倭」が出てくる中国の最初の文献です。いわゆる蓋国、これは今のピョンヤン近辺のようですが、これは北は鉅燕に接している、南側は倭に接していると書かれている。北は鉅燕、南は倭だという。それがあって「倭は燕に属す」と。これが中国の文献に倭が現われた最初です。その記事の直後と言っていいところに「陵魚」の話が出てーる。このいわゆる倭や朝鮮あたりには「陵魚」というのがいる、魚身でありながら人面であるということが書かれているんですね。
 ということで、私はこの「陵魚」だと思います。中国の「山海経」を当然知っている人、その素養の深い人、それがここに陵魚を書いて、これを「王后」になぞらえている。そして「上宮法皇」を鳥になぞらえている。この二者はその人生を相(あ)い見ながら陵面に相い見ていると。池がおそらくあるんでしょう。それで人生を楽しんで、いまその人生を終られたと、こういう言葉です。
 全部を読んでみます。「陵面に相見る。識心を楽しみ陵り了る。時は・・・」です。
 私は一昨日糸島郡を回っていて気が付いたのですが、神社の入口の両方によく石柱が建っています。行った所にはみんな五字ずつ左右の文字が書いてあるんです。あれはもっとほかの神社もご覧になれば、全部が五字とは限らないけれども、五字がかなりあるようです。糸島で一昨日見たのは皆五字です。どうも五文字というのは、そういう伝統がやはりあるのかも知れません。ということで、その「上宮法皇」と「王后」が亡くなられた、とりあえず仮屋に葬ったと、そこに池がある、そこに立てられた「木札」というものがその鳥と魚であり、この文章であった、と。そして一年位経って釈迦三尊ができて、いわゆるもっと本格的な「陵」が造られた。そうすると元の「木札」は、元あった場所・地名など入ってるでしょう。それは不必要になったということで、さっきの東アジアの習慣に従って、(中国もそうかも知れませんが)その一部を取って台座に使った、と。そういう事であろうと思います。
 で、最後に言いますが、「時者ときは」は、このお二人が「亡くなられた時は」ですから、この下のところには上宮法皇の亡くなられた年月日が、あの「後背」に書いてある年月日、法興二十九年にあたる二月二十二日、奥さんの王后が二十一日、それが「時者」の下に書いてあったと思う。そこは切り取られているから、断片資料で解らない。
 もし私の解読が正しければ、この文字はどこかに書き取られている可能性があります。その断片資料のほかの部分がどこかにまた転用されて残っていれば最高ですが。そこまではなかなか望めないとしても、これだけのものを書き取らなかったはずはないだろう。「太宰管内誌」など、漢詩などをイヤというほど書いてあるでしょう。私も皆さんも逐一めくっては読まないですね。ところがああいうもののなかに、これが書き取ってあるかも知れません。少なくとも近畿には今のところはないようです。近畿の文字にこういうのがあったら、「ここにある」と学者がすぐ言うのですが、言わないところを見ると、少なくとも近畿では今のところ書き取られた様子がない、九州では書き取られてるかも知れません。皆さん、目を光らしておいていただければありがたいと思います。


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