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KAPPA BOOKS 『吉野ヶ里の秘密』光文社

2章 吉野ヶ里の王と技術と軍

古田武彦

外濠(そとぼり)の内側だけでは、吉野ヶ里は分からない

 「事実認定」の問題にぶつかったいま、吉野ヶ里遺跡の全貌(ぜんぼう)にふれておこう。
 わたし自身は、今回の出土以来、何回も現地に足を運んだ。三月はじめに二回、三月下旬に一回、四月になって二回と。
 しかし、読者の中には、一回も現地をおとずれなかった人も多いであろう。一回はおとずれたものの、人また人。足を棒にしただけで、よく分からなかった。そういう人も、少なくあるまい。
 なにしろ、県の教育委員会の方々も、突然おしよせた、人間の大群に辟易(へきえき)。ぼう然として打つ手にとまどっているのが実情。
 先日は、佐賀県の自然と文化を守る会の方が、ボランティアで、解説をかって出ておられた。それでも、とうてい、人足りず、声足りずである。どうしようもない。なにしろ、前代未聞の経験なのだから。
 さて、ここは、紙上。書くほうも、読むほうも、時間はタップリある。すくなくとも、あの現地の混雑のなかよりは。だから、腰をすえて説明しよう。
 外濠については、すでにのべた。
 幅約六・五メートル、深さ約三メートル。南北約一キロ、東西の最大幅約四〇〇メートル、外濠内の面積は約二五ヘクタール。先にのべたとおりだ。これは、甲子園球場の約六倍。
 これも、たいへんな広さだが、問題は、さらにそのにひろがっている。
 その一は、高床倉庫群。
 はじめは、木造建築物が数棟と報ぜられたけれど、十数棟。いや、二十数棟か、と、だんだん数を増しつつある。
 低湿地の田んぼの方角へとつらなっている模様だから、それらを全部「発掘」せぬ以上、総数はつかみにくいかもしれない。もし「発掘」してみても、歴代のお百姓さんが、ていねいに、痕跡(こんせき)をすでに“消し去って”おられるかもしれない。
 倭人伝に「邸閣ていかく」とあるものか、とされている。“軍事用倉庫”のことだ。
 その二は、壮大な、一キロにおよぶ、二列甕棺(みかかん)のつらなり。
 これも、吉野ヶ里遺跡の性格を考えるうえで、不可欠のキイ・ポイントだ。外濠(ぼり)内側だけ見ていたのでは、吉野ヶ里の本質は分からない。
 その三は、右の外濠と、一キロ甕棺との間にある神杜。日吉(ひよし)神社という。この二字を「ひえ」と読む例も多い。だが、ここは「ひよし」のようだ。祭神は、大山咋命(おおやまくいのみこと)。この神社を“見のがし”てはならぬこと、後にのべるごとし。

吉野ヶ里が明かす北部九州の繁栄 2章吉野ヶ里の王と技術と軍 吉野ヶ里の秘密 古田武彦 光文社

 

眠っていたのは倭国“副王クラス”の人物

吉野ヶ里全体図 吉野ヶ里の秘密 古田武彦 光文社

 さて、いよいよ、眼睛(がんせい)をなす、外濠の内側の世界。「睛」は「日へん」でなく、「目へん」。“ひとみ”のことだ。一番大切なもののたとえ。
 まず、内濠が、住居址(あと)をとり囲んでいる。このほうが、いうなれば“関西風”もしくは“東海風”の環濠集落、といっていいのかもしれぬ。文字どおり、「集落」つまり、住居を囲む、堀だからだ。
 この“正味”の「内濠集落」は、二つある。六二〜六三ページの図で、AとB。わたしが名づけたもの。
 Aのほうがやや古いが、ほとんど未発掘。また、かなり畑地として“荒らされ”ていて、先行きの見通しも、あまり明るくはない。(発掘不能の部分、多し)
 これに比べてBの方は、やや新しく、弥生後期、とされる。(この時代区分については、あとで詳しくのべる)
 南北約一六〇メートル、東西約七〇メートル。これが、Bの内濠だ。
 その中の、約五割弱(四割前後か)。発掘してみると、約百戸。未発掘部分をふくめると数百戸にも及びそうだ、という。
 この内濠に、先にのべた、二つの「物見やぐら」が、東西に見いだされた。あと、これは四つ、もしくは、それ以上に“ふえた”という。
 もちろん、時期にズレがあり、いっぺんに、そんなにたくさんあったわけではない。しかし、常時、「警戒状態」もしくは、その準備の必要な状態がつづいていたようだ。もちろん、楼上で望見を楽しむ“ゆとり”まで、なかったわけではないだろうけれど。
 そしてこの外濠の内側の中枢。眼睛中の星、北極星にもたぐうべき位置にあるもの、それが墳丘墓(ふんきゅうぼ)だ。(南にも、もう一つの墳丘墓のある可能性が指摘されているが、未発掘)
 まず、この墳丘墓の前(南側)には、二列の甕棺のつらなりがつづいている。わたしはこれを、「参列甕棺」と名づけた。逆の側(北側)にも、同類の列があるようであるけれど、すでに破損をうけ、明確にはしにくい模様だ。
 次いで、問題の墳丘墓。
 三月一日、第一回に現地を訪問した。翌日の夕方、再び、念のため、墳丘墓のところへおもむいたところ、偶然にも、甕棺から有柄(ゆうへい)銅剣の出土したところだった。剣身と垂直に交叉(こうさ)した、一枚づくりの青銅剣。その頭部の露出した、そのときの印象から、わたしはこれを「十字剣」と呼んだ。
 これと、ほぼ、同型のものが、山口県油谷(ゆや)町の向津具(むかつく)遺跡から出土している。
 この点も、のちにのべる。さらに、このときの十字剣出土の甕棺から、二個のガラスの管玉(くだたま)が出土していたけれど、数はふえつづけ、結局、約七十個にも達した。その中には、長さ約六・六センチ。従来の管玉中、最長のものまでふくんでいた。
 わたしは、夕暮れの中に立ちつくしつつ、考えにふけった。
「この甕棺の位置は、墳丘墓の真ん中から、やや西寄りにずれている。とすれば、この甕棺の人物は、まだ中心者ではない。この墳丘墓の真の中心者は、別にいるのではないか。
 ところが、この十字剣の甕棺の人物は、明らかに“将軍クラス”だ。
 とすると、その“将軍クラス”の人物を、一族、あるいは『一の腕』『二の腕』とするような人物とはーー 。
 それは、倭王その人に非ずんば、すくなくとも、“副王クラス”の人物。そう考えざるをえないのではないか。 ーーとすれば」
 わたしは“こわく”なった。うすら寒い冷気が肌におしよせてきたのは、夕暮れから夜気につつまれはじめた。そのせいだけではなかったようである。(その夜、ファックスでその旨の記事を朝日新聞社に送り、三月十七日号の週刊朝日、巻頭記事となった)

 

文明伝播(でんぱ)「日本神話ルート」をしめす出土品

 わたしの予感は的中した。ただし、その前半は。“予感”というより、論理的思考の結果だった。墳丘墓の中心、奥深くに巨大な甕棺が横たわっていた。
 周辺の甕棺(それも、墳丘墓の一部)と比べて、墓壙(ぼこう 甕棺を埋納するために掘りこんだところ)が三〜四倍も大きい、という。
 この中心甕棺の周囲に、点々と数個の甕棺が見いだされている。その中の二つから、それぞれ細形銅剣、および細形銅剣と十字形の把頭飾(はとうしょく)が出土した。いずれも、優品である。
 細形銅剣が対馬・壱岐(いき)から、唐津・糸島・博多湾岸(福岡市・春日かすが市・太宰府市・筑紫野ちくしの市)さらに朝倉・東脊振(ひがしせぶり)といった地帯に多く分布していることは知られている。
 また後者のセットは、長崎県の対馬、シゲノダン遺跡、福岡県の福岡市西区の吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡に次ぐ、三例目だという。
 この三例の系譜は、当然ながら、朝鮮半島側からの影響と伝播をしめす。と同時に、日本列島側としては、
 対馬→筑紫(高祖山東麓。室見川流域)→肥前(吉野ヶ里)
という文明伝播、いわば「日本神話ルート」だ。この点、あとでのべよう。

 

墳丘墓に残る「墓前祭」の跡(あと)

墳丘墓と参道 2章吉野ヶ里の王と技術と軍 古田武彦 光文社

 次に、目を見はらせるもの、それは墳丘墓をめぐる祭祀構造(さいしこうぞう)だ。
 はじめ、内濠(ぼり)集落の中に、祭祀跡もしくは殯(もがり本葬の前の仮埋納)の跡か、と報道された、一画があった。行ってみた。なにやら、そういった臭(にお)いはある。だが、祭式(さいしき)土器も出土せず、たんなる“推測”もしくは“期待”の域を出なかった。
 ところが今回、堂々たる遺構が、その全貌を現わしてきた。
 上の図を見てほしい。
 まず、墳丘墓の形。変形八角形とも、亀甲(きっこう)型とも伝えられた。その上に、方形(矩形)の盛(も)り土が加えられた、二段築造だと報道されたけれど、この点、若干、発掘上の“一種の誤認”があった模様。今後、慎重に「確認」されるであろう。
 その周りを、周溝がとりまいている。この形が、いわば、亀甲状に、断続しているように見える。
 前面に階段が「土」で造成されており、その最上段の両側に「柱の穴」がある。位置からいうと、「鳥居とりい」ではないか、といわれた。肝心の“木の構造物”がないから、それとは断言できないけれど、興味深い。日本の神社神道(しんとう)に欠くことのできぬ、あの鳥居。その源流にさかのぼる、これは新しい、重要な手がかりとなるかもしれぬ。
 また、その東側の「柱の穴」のそば(東北部)に“焼けた土”があり、ここで「火を使う神事」が行なわれた可能性がある。(あとでもう一箇所発見された)
 圧巻は、高坏(たかつき)・つぼ、それに筒形器台(つつがたきだい)といった祭式土器の出土だ。これはもう、まぎれもない、祭式遺構(いこう)である。このような祭式遺構をともなった、弥生墓など、それこそまったく、前例がない。
 ないけれど、これも当然、予測できたことだ。
 たとえば、福岡県糸島郡の三雲みくも・井原いわら・平原ひらぱる、同じく福岡県春日市の須玖岡本すぐおかもと、これらの王墓が、ただ“あれ”だけ。そんなことがあるだろうか。立派な鏡を三十〜四十面ともちながら、一つの甕棺(三雲・井原・須玖岡本)や一つの割竹式木棺(平原)の中にそれらを内蔵し、同時に細剣や細矛や勾玉(まがたま)や錦類をビッシリ、入れている。そんな「王棺」が、ただ、なんの儀式もなく、土中に“投げ入れ”られる、そんな話はない。
 当然、荘重な墓前祭が行なわれたはずだ。その王者の偉容にふさわしく。とすれば、その墓前祭の遺構も、本来、存在したはずである。
 そして何よりも、封土(ほうど 盛り土)の存在。
 江戸時代に三雲・井原が出土した。農民の耕作中だった。黒田藩のすぐれた学者、青柳種信が、当時としては、驚くべき精細さで、描き取り、記録している。(『柳園古器畧考りゅうえんこきりゃくこう』)
 さらに須玖岡本。明治三十二年に出土した。農家の庭先だった。小舎(こや)の建て替えのさい。当時の常として、古物(こぶつ)商も来たらしく、これが鏡などの“正確な出土物”を知るうえで、禍根をなした。(しかし梅原末治氏の注目すべき研究がある。後述
 平原は、幸いにも、故・原田大六氏が直ちにかけつけた。その後は、氏一流の徹底した発掘が行なわれたけれど、いかんせん、そこは果樹園。植え替えのさいの発見だった。
 と、いう次第で、どれも、これも、いうなれば、平地の下から、いきなり、そういう感じの発見だった。
 つまり、“原状は破壊されきった、あと”そう、わたしは考えた。本来、かなりの封土はあったのだ。それが今回は見つかった。
 では、その「かなりの封土ほうど」とは、どれくらいか。わたしはそれを求めた。
 その「基準史料」となったのが、やはり、倭人伝(わじんでん)。有名な、卑弥呼(ひみか)の墓だ。
  卑弥呼以て死し、大いに冢(ちょう)作る、径百余歩
 この記事の、「百余歩」とは、どのくらいか。これがわたしの探究目標となった。

 

倭人伝の「卑弥呼の墓」の直径は三〇〜三五メートル

 卑弥呼の墓、「百余歩」とは、どのくらいか。 ーー約三〇〜三五メートルくらい。
 これが、わたしの提出した、解答だった。いま、その計算をしめそう。
 「歩」は、長さの単位。その、上の単位が「里」。ちょうど、センチメートルの、上の単位がメートル。あれと同じだ。ただ、メートルはセンチの百倍だけれど、「里」は「歩」の三百倍。
  一里=三〇〇歩
というわけだ。
 では、その「里」は。三国志で用いられているのは、「短里」。一里が約七七メートル。周(前一一三四〜前二五〇)代に行なわれ、「秦しん・漢」を飛び越えて、魏・西晋朝(ぎ・せいしんちょう 二二〇〜三一六)に復活した。(『東方年表』による。以下同じ)
 一方、秦朝(前二四九〜前二〇七)に創始された「長里」。一里が約四三五メートル。漢代(前二〇六〜後二二〇)にうけつがれ、「魏・西晋」を飛び越えて、東晋(後三一七〜四二〇)以降、復活した。
 従来は、右の「長里」を金科玉条とし、この目から倭人伝を見た。だから、
  郡(帯方郡。ソウル近辺)より女王国に至る、万二千余里。
 という表現が、途方もない“大デタラメ”に見えた。誇張と考えたのだ。(たとえば、明治時代の白鳥庫吉)
 しかし、「魏・晋朝の西晋朝の短里」の目から見れば、倭人伝の記事は、みな真実(リアル)だった。
(この点、くわしく知りたい方は、古田『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、『古代は沈黙せず』駸々堂刊、参照)
 右が、わたしの到達した判断。この問題では、幸いに論争にめぐまれた。ところが不思議なことに、考古学者が、全然この論争に参加してこない。つい最近まで
 “卑弥呼の墓は、直径一五〇メートルくらい、と書かれている”
といった類いのコメントを、平気で発表している。神経が太いのか、不勉強なのか、わたしには分からない。もちろん、これは「長里」。「百余歩」を“一三〇〜一四〇歩”ととれば、「径百余歩」は「一八〇〜二〇〇メートル」となろう。
 これに対して、わたしの場合。
 「百余歩」を、同じく“一三〇歩〜一四〇歩”ととれば、先に書いた「三〇〜三五メートル」。もちろん「余歩」というのは、「正確な数値」ではないから、大きく幅をとれば、約三〇メートルから四〇メートル前後」の目見当だ。

 

吉野ヶ里の墳丘墓は「卑弥呼の墓」と同じサイズ

 わたしが、吉野ヶ里に“驚いた”のは、この墳丘墓の広さが、その一因だった。
 まだ、キッチリと計測されてはいないけれど、だいたい、
  南北四〇メートル前後
  東西三〇メートル前後
ではないだろうか。
 これから、数値に若干の変動はあろう。が、大異はありえない。とすれば、なんと、倭人伝の記した卑弥呼の墓、その大きさと、ほぼ一致しているのだ。
 わたしが、大きな“おそれ”さえ、覚えた理由、お分かりいただけるだろうか。
 もちろん、「だから、この墳丘墓は卑弥呼の墓だ」そう思ったわけではない。そこまで短絡(たんらく)、つまり“気短か”ではない。
 ただ、知ったのだ。
 「やはり、弥生の王墓は、このくらいの大きさをもっていたのだ」と。
 わたしにとっては、大きな発見だった。
 この卑弥呼の「径百余歩」を根拠として、弥生時代のことを「古冢こちょう時代」というべきだ。そうのべた、わたしの判断は、あやまっていなかった。
 わたしがこの「古冢時代」のことをのべたとき(昭和五十四年)、まだ、今回のような墳丘墓は発見されていなかった。
 福岡県福岡市の吉武樋渡(よしたけひわたし)遺跡、あの墳丘墓の存在も、まだわたしの耳にも目にもとどいて、いなかった。
 あの、佐原真氏も、この点について、「それは、もうありますよ」とも、書いてはこなかった。ひょっとしたら、「ありうる」と内心思っておられたか、しれないけれど。
 それはともあれ、あった。実在したのだ。
 それはとりもなおさず、次の二つの事実をさししめす。
 第一、やはり「短里」と「短歩」の計算は正しかった。
 第二、やはり、倭人伝の記述は事実(リアル)だった。
 この、二つの「やはり」は、わたしにとって、たとえようもなく大切なものだ。
 考古学者や古代史学者たちが、この二つの「やはり」には、そ知らぬ顔で、今後、墳丘墓に関する論議を“ぶち”つづけようと、本書の読者、そし未来の探究者はことの真相を見あやまらないであろう。

 

甕棺(みかかん)の並びがしめす「身分階層」

 もう一つ、わたしの目を奪ったもの。それは甕棺の大海だった。総計二千三百個。
 いままでにのべたもの以外に、外濠内の甕棺群がある。これも、参列甕棺と同じく、二列に並列している可能性もあるけれど、よく分かっていない。
 ここで、今まで出てきたものを、まとめてみよう。
 〈その一〉墳丘墓(外濠内)
 〈その二〉参列甕棺(外濠内)
 〈その三〉その他の甕棺(外濠内)
 〈その四〉一キロ甕棺(外濠外)
 右の各甕棺のしめす「身分階層」のちがいは何か。
 まず第一の身分、支配の頂点に立つ人々。
 その人々は、墳丘墓に葬られた。
 第二は、参列甕棺。“死しても、主君の御前に”そういった感じだ。これは彼等の、生前の「生きざま」や身分を反映しているだろう。
 第三は、その他の甕棺(外濠内)。右の人々につづく身分。もし、右と連続したつらなりだった、としても、こちらより、「墳丘墓の直前の人々」のほうが、“生前も、死後も”上位にあること、当然だ。
 第四は、一キロ甕棺。間に“谷あい”があるから、実質、九〇〇メートルくらい。だが、これは、重要な甕棺列だ。
 なぜなら、この存在によって、右の第一〜第三が、全体の社会構造の中で「上位」に立つ。そのことがしめされているからだ。
 彼等は、外濠の内側に、葬られることができない。そしてこの一キロ内には、金属器なく、ただ、ゴホウラ(沖縄の南海で産する貝)の貝輪(かいわ)が出てきている。
 金属器人間と、ゴホウラ人間と、この二つの層が、外濠によって、画然と区切られている。
 この点、いかに重要視しても、重要視しすぎることはない。当時の社会構造、その仕組みが浮きぼりになっているからだ。
 だが、問題はここで終わらない。なぜなら、当時、こんな大型の土器、甕棺の中に葬られる人々、その資格のある者は、少数だからだ。大多数の人々、いわゆる庶民は、甕棺にも入れてもらえず、土中に“素のまま”で葬られたであろう。
 今回出土した、二千三百の甕棺中、人骨の出てきたのは、約三百。他はみな、“蒸発”してしまっている。わが日本列島の風土では、よほど条件に恵まれなければ、見事に“消え去って”しまう。
 “条件に恵まれる”とは、土壌の条件が乾燥しているか、あるいは逆に、水分に恵まれているか、どっちかだ。“中途かげん”なら、消え去るのだ。アジア・モンスーン地帯の日本列島は、だいたい、“中途かげん”なのだ。
 だから、“素のまま”埋められた人骨は、だいたい、消え去ってしまう。もっとも、わたし自身の好みからいえば、へんに残って「研究材料」になるより、微生物の“えさ”になって蒸発してしまうほうがいいけれど、これは自分自身のこと。歴史学の研究者ともなれば、そうはいっておれない。勝手なものだ。

 

弥生時代とは、「落差の時代」だ

 下には、下がある。奴婢(ぬひ)だ。生口(せいこう)だ。生口とは、捕虜。彼等の遺体の運命は、まず分からない。まとめて、堀か溝か谷あいか、そんなところに投げこまれたことだろう。「奴婢」とか「生口」とか、「名」だけ残して、考古学的探究の対象としては“消え失せ”ている。
 しかし、倭人伝という文献には、ハッキリと、倭国の「階層秩序」が描かれている。
 第一、女王。卑弥呼は「共立」された、と書かれている。
 第二、有力大人。前に、男王がいて、「在位七十〜八十年」に及んだという。「二倍年暦」(一年を二年と見なす暦。春・秋に正月あり)だから、「三十五〜四十年」。その男王が死んで、後継ぎ争いの「倭王」候補者が対立した。三人か、五人か。あるいは、二人か。
 結局、足の引っばり合い。決着がつかず、ダーク・ホースとして浮上した卑弥呼。当時、著名の巫女(みこ)だったのであろう。各、倭王候補者が妥協した。それが「共立」という二字のしめす歴史の真相ではあるまいか。
 第三、一般大人。各三十国の中の、支配層であろう。
 第四、有力下戸。下戸の中にも、「一夫多妻」の者が出ていたという。経済活動で富をたくわえた者であろう。社会変動の動態を探るうえで、重要なポイントだ。
 第五、一般下戸。いわゆる、庶民である。
 第六、奴婢。
 第七、生口。先にのべたように、捕虜。
 弥生時代とは、「落差の時代」だ。、大陸伝来の金属器をもつ者と、縄文以来の金属器なき者。その間に、人種のちがいがあったかどうか、不明だけれど、武器のちがいのあったこと、それは確かだ。
 そのちがいは大きかった。
 戦争すれば、前者が勝つ。もちろん、個々の戦闘ではいろいろだろう。だが、結局は「金属器をもつ」者の側が勝つ。そういう大勢だったのではあるまいか。「金属の武器」とは、銅剣(けん)や銅矛(ほこ)、銅戈(か)。それらはやがて鉄製にかわる。そして鉄の鏃(やじり)
 一方、当時は稲作の時代。際限なき肉体労働を必要とした。
 生産力をあげようと思えば、方法は一つ。人間の数をふやすことだ。どうしてふやす。攻めることだ。「金属器なき民」を襲撃し、これを「捕獲」し、奴隷として「労働力」にくりこむこと、これだ。
 そして、彼等は、死しても金属器をもたず、甕棺にも入れられず、そして“消えて”しまった。
 以上が、倭人伝のさししめす世界だ。七層の階層秩序。その頂点に卑弥呼はいた。「共立」されたのだ。
 この社会構造を、今回の出土は見事にしめした。もう一度、まとめてみよう。
 第一、墳丘墓(外濠内)
 第二、参列甕棺(外濠内)
 第三、一般甕棺(外濠内)
 第四、一キロ甕棺(外濠外)
 第五、甕棺に入れない人々(I)〈庶民〉
 第六、  同右     (II)〈奴隷〉
 右のように、歴然たる階層秩序、それが吉野ヶ里の視界の中に、あるいは視界の外に、しめされているのだ。
 ここでも、倭人伝はやはり、虚(きょ)ではなかった。その記述は「ニセ物」ではなかったのだ。
 この点、いままで注意されること、少なかった。

 

吉野ヶ里はハイテク技術の中心地だった

 今回の遺跡で、はじめて出土したもの。それは「巴型銅器」の鋳型(いがた)だ。
 実物は、今までも出てきていた。唐津・糸島・立岩(たていわ)と、点々と出土し、その異様な姿を見せていた。
 ちょうど、伊賀・甲賀の忍者手裏剣さながら。だが、もちろん、その用途はちがう。いろいろ“推測”されてきたが、どうも、盾(たて)などの“止め金具”のようだ。
 だが、もちろん、当時のことだから、たんなる「道具」ではない。やはり、「権力のシンボル」として役立っていたことだろう。だが、用途はやはり武具の一部のようだ。
 その鋳型が、はじめて、今回出た。
 鋳型とは何か。実物の形を石にくりぬく。両側に。それを二つ、ピッタリ合わせる。その一部に注ぎ口があって、そこから銅の溶液を注入する。“溶かした銅の、熱い液体”だ。そして冷(ひ)やす。
 冷えきったら、二枚をはがす。それでいっちょう、できあがり。
 なんのことはない、タイコ焼きと同じだ。このやり方で、銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸(たく)など、各種の銅製品を作った。「弥生時代」とは、すぐれた「銅器の時代」。いいかえれば、「鋳型の時代」なのだ。だから、「鋳型」の分布を見れば、当時の生産中心、すなわち、権力中枢が分かる。倭国の心臓部が判明する。簡単な話だ。
 左(下)ぺージの分布図を見れば、倭国の中心域がどこだったか、一目瞭然。この東脊振から吉野ヶ里・佐賀市に至る一帯は、(「筑前中域」と、わたしの呼ぶ)糸島・博多湾岸・朝倉につづく「中心領域の一部」をなす。それがハッキリ分かる。
 そのうえ、大事なこと。それは、この「巴型銅器」は、各種銅器の中でも、一番、作りのむずかしいもの、最高度の技術を必要とすることだ。
 全体が“一枚岩”ならぬ“一枚銅”だ。立体的なのである。
 「この銅器が作れれば、あと、何でも作れますよ」
 関西の銅器メーカーの御当主(社長)が、そうおっしゃったそうだ。
 この吉野ヶ里は、当時、最高度のメーカー、技術者集団をもっていたようである。この一点からも、「吉野ヶ里なんて、たいしたことないですよ」という、知ったかぶりの冷笑は、やはり返上せざるをえないようである。

北部九州・  銅器の鋳型分布図 2章吉野ヶ里の王と技術と軍 吉野ヶ里の秘密 古田武彦

 

軍事基地でもあった吉野ヶ里

 鋳型といえば、水。水といえば川。鋳型には、「川」がつきものだ。先にいった「銅の溶液」を作る。冷やす。不要部分を流す。いずれの作業にも、そばに「川」があること、これが必要条件。 大阪府茨木市の東奈良遺跡。銅鐸の鋳型が完形でいくつも出土した最大の銅鐸生産地だ。ここは、元(もと)茨木川のほとり。この川は、やがて淀川に合流する。
 すでに出てきた奈良県の唐古・鍵遺跡。ここ銅鐸の鋳型の出土地近辺には、何本もの溝が掘られ、水流が調節されていた。やがて大和川に注ぐ。
 九州では、福岡県春日市。博多のベッド・タウンだ。ここは、最大の各種鋳型密集地。鏡(小型彷製鏡)の鋳型も出た。ここは、御笠川と那珂川の中間。水の便に恵まれている。
 ここ、吉野ヶ里も、この春日市のケースに似ている。東に田手川、西に三本松川、この二つの川にはさまれたのが、吉野ヶ里丘陵だ。この地理的位置は、いかに強調しても、強調しすぎることはない。
 もっとも、この二つの川、現在の川とその名は、近世のもの。それ以前は、“暴れ川”だった、という。(佐賀県文化財保護指導委員の中園實氏による)
 そして南方は海。一〇キロくらいはなれたところに海岸線があった、という。
 以上のような自然条件は、銅器生産に最高適地だった。このような地理環境の中でこそ、弥生時代、最高度の技術世界が成立したのである。
 そして見過ごせない一点、それは、二つの川と海のもつ、軍事的意義だ。この吉野ヶ里の人々にとって、第一の防禦(ぼうぎょ)線は、外濠や内濠ではない。この二つの川と海だ。
 この自然防禦線と外濠との間、ここに吉野ヶ里を守る、軍事力がある。兵力の海がある。このように考えると、あの高床式倉庫群の位置、それのもつ意味が分かろう。それは川と外濠との間にある。
 したがってこの倉庫群を、単純に食料貯蔵庫と考えてはならない。同時に、軍事用でもあったのだ。兵器や軍事的リーダー(現地司令部)が、ここで指揮をとっていたのではあるまいか。
 このような考察の目から、もう一度、目を挙げてみよう。そうだ、あの一キロ甕棺。これもまた、外濠と川の間にある。ここに葬られた人々こそ、この吉野ヶ里の外濠内の墓地(墳丘墓)や人々を、外から守る任務を負うていたのではあるまいか。だから、死後もなお、その任地の領域に身を臥せているのだ。
 この一キロ甕棺を完全に保存しなければ、吉野ヶ里遺跡のスケールは、かならず半減しよう。(現在は、約六割、保存)

 

日本最初のシルク・ロードの終着点は北部九州

人骨にまとわりついた絹(神崎町朝日北遺跡) 2章吉野ヶ里の王と技術と軍 吉野ヶ里の秘密 古田武彦 光文社

 次の問題は、絹だ。
 この吉野ヶ里遺跡から、目と鼻の先。神埼(かんざき)町城原(じょうばる)の朝日北遺跡。その甕棺(みかかん)から絹が出た。人骨に絹がまとわりついていた。胸も、足も。ことに脛骨(けいこつ)にいちじるしい。その絹は、サラサラとして、繊維がハッキリしているのに感動した。
 三月二十二日、午前。佐賀県の教育委員会にうかがい、出土甕棺とともに、精(くわ)しく観察できたのである。
 絹は当時、最高の貴重物。しかも、鏡のように、日本列島側でのみ、重要視され、神聖視された、そんなものではない。
 東アジア全体を通しての貴重物だった。中国を中心として、アジア文明の華(はな)だった。それは、あの、「シルク・ロード」という言葉の、ロマンチックなひびきが、よく伝えている。アジアの絹、それは西方の人々にとって、ヨーロッパの貴人にとって“あこがれ”の的だった。
 一つ、重要な「認識のあやまり」を正しておきたい。
 先日も、奈良で「シルク・ロード展」が行なわれた。すごい人出。いろいろと展示があった。それらを貫くテーマ、それは、「シルク・ロードの終点としての正倉院」につきた。奈良こそは、シルク・ロードの到着点と。
 これは“虚偽”だ。“真っ赤なウソ”だ。
 なぜなら、すでに弥生時代、日本列島の一部、この「環筑・肥山系文明圏」は絹文明のさかえる国家だった。そこでは、「倭国産」の絹が広く分布していた。そしてその中枢域、春日市(須玖岡本の王墓)には、「中国産」の絹まで出土している。
 その頃、まだ、奈良の「正倉院」など、影も形もなかった。日本列島最初の「シルク・ロードの終着点」それがどこだったか、明々白々、一点の疑う余地もない。念のため、口に出していう。「大和」ではなく、「筑紫」。「大和・河内・摂津」ではなく、「筑前・肥前」である。
 この明々白々の事実を、小学・中学・高校の歴史教科書も、掲載しようとしない。なぜか。当然ながら、明治以降の薩長(さっちょう)政権が、「日本の歴史は、いつも『菊の御紋』を中心に発展してきた」 ーーそのように描きたかったからだ。それが彼等の、「公益」、否「私益」にかなっていた。だから、「偏向の日本史教科書」を作った。百年経って、それが「国民の常識」と化したのである。
 しかし、「百年」は短い。何百万年の日本列島の歴史と比べてみよ。百年の「日本列島の全国民」も、きわめてわずかだ。日本列島の全歴史の全人口と比べてみよ。微々(びび)たるたるものだ。
 その全部が、たとえその虚偽を“金科玉条”としてみても、時が流れゆけば、朝日の前の淡雪。消えてあとかたもない。なぜなら、真実は頑固者。いかなる権力も、武力も、まるでこれには歯がたたないからである。
 わたしはけっして、イデオロギー上の「反天皇主義者」ではない。ただ“天皇家への忠義面づら”をして、歴史の真実を曲げるもの、真実をゆがめてまでへつらう者、彼等を“にくむ”にすぎぬ。 もしそれが真実と合致すれば ーー当然、「大和中心」であろうと、「東京中心」であろうと、かまわず支持する。分かりきったことだ。
 布目順郎(ぬのめじゅんろう)氏は、自然科学者。篤実の研究者、わが国の誇るべき学者だ。
 氏による「弥生絹」の分布図を八七ぺージにかかげる。かまびすしい倭人伝論争も、この分布図の前には沈黙せざるをえないであろう。
 弥生前期も、弥生中期も、弥生後期も、古墳期初めまで弥生絹は、「筑前中域」とその周囲から、けっして移動していない。とすれば、どうしてここ以外に邪馬壱(やまいち)国があろう。

北部九州、絹の分布図 2章吉野ヶ里の王と技術と軍 吉野ヶ里の秘密 古田武彦 光文社

卑弥呼は「ヒミ」、甕棺は「ミカカン」

 ここでのべておこう。
 卑弥呼は、なぜ「ヒミコ」でなく、「ヒミカ」なのか。対海国(対馬)、「一大国」(壱岐)の長官は「卑狗(ヒコ)」。わたしの名、武彦の「彦」だ。
 つまり、倭人伝では「コ」の音(おん)には、「狗」を使っている。
 とすれば、「呼」の二音「コ」と「カ」のうち、倭人伝では「コ」ではなく、「カ」の音に使っている。そう考えるのが当然だ。もし「ヒミコ」なら「卑弥」と書くはずである。
 しかも「カ」の場合、“祭りにそなえる犠牲(ぎせい 供物くもつの動物)につける傷きず”という、宗教的な、特別の意味もある。
 「鬼道で衆を惑わした」という、卑弥呼にピッタリ。だから、「日甕(ヒミカ)」、“太陽の甕棺”を意味する名。わたしはそう考えた。
 なぜ、甕棺は「カメカン」でなく、「ミカカン」か。甕(かめ)は、煮沸する日用土器。甕(みか)は、神に供える酒や水を入れる祭祀用の器。甕棺は、煮沸などしない。したら、えらいことだ。
 日用食料の代わりに遺体を入れるのではない。神酒や神水の中に(あるいは、代わりに)入れるのだ。だから「ミカ棺」だ。「カメ棺」ではない。
 考古学者は、そのような「用途と名前」の関係に無関心だった。
 文献学者も、そう。
 「奴国」を「ナコク」と読んだとき、「弥々那利(ミミナリ)」という副官が、投馬国にいたこと、そこで「ナ」の音に「那」が使われていたことに無関心、いや、無神経だったのだ。
 その無神経さのうえに、例の「漢の委(わ)の奴(な)の国」という「誤読」が生まれ、教科書のはじめを占拠した。みんなが、このまちがった読みを、おぼえさせられた。これが「邪馬台国論争、混迷」の元凶(げんきょう)
 だって、はじめに、本当の中心地を「カット」させておいて、「さあ、邪馬台国を探せ」と、号令する。そんな殺生(せっしょう)な話はない。君も、このやり口に、「被害」をうけた、一人だったのか。
 正しくは、「漢の委奴(ゐど ゐぬ)の国」だ。


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