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古田武彦
もどろう、吉野ヶ里へ。最後の里程標を見に。
四月六日だった。中央の大型甕棺(みか)の開かれた日。そこには、ドンデンがえしが待っていた。
この二月下旬以来、絶えず、意外なニュース。よくもつづく、と思うくらいだった。もちろん、報道関係者にせかされつづけたせいもあろう。現場の発掘事務所で、テレビ・ラジオ・新聞などの記者にせめたてられ、「もう、ありませんよ」と憮然(ぶぜん)としておられた高島さんを、背後から見ていて、同情した。
ために、針小棒大に伝えられたむきも、なしとしない。いったん発表されて、あとで訂正されることもあった。
だが、それだけではない。
世界最大クラスの環濠、わが国はじめての、弥生の物見やぐら。同じく、はじめての、弥生の祭祀(さいし)遺構、鳥居らしき柱穴跡。それよりなにより、「時と空間」の双方が、まとまって、組織的に出現した壮観。
日に、日に、わたしたちの前に全貌を現わしてきた。
そして ーー。墳丘墓の発掘。中央西寄りの甕棺から出土した有柄(ゆうへい)銅剣と七十個のガラス製管玉(くだたま)、南寄りの甕棺から出土した、分離型有柄銅剣(そして絹らしき付着物)。日々、地元紙(佐賀新聞や西日本新聞)の一面をカラーで飾った。連日の汚職(おしょく)記事で、胸の悪くなってきていた、読者の心を「夢」にさそった。
だから、最後の、この中央大型甕棺から何が出るか。
人々の期待は集中した。
わたしも、三月二日の夕暮れ時、中央西寄り甕棺から有柄銅剣と二個のガラス製管玉の出たのを見て、心をはずませた。
「この甕棺の位置は、中央より、やや西に寄っている、確かに。とすれば、このすばらしい有柄銅剣とガラス製管玉をもった人物、この被葬者は、家来。その御主人は、中央の地下に眠っているのではないか。
この有柄銅剣やガラス製管玉の持ち主は、当然、倭国の将軍クラス、おそらくは、副王クラスといっていい。並みの細剣とはちがう。(他には、山口県の油谷(ゆや)町向津久(むかつく)遺跡だけ、と、あとで分かった。ほぼ同型の有柄銅剣が、土砂くずれのさい、出土している)
そのような、倭国の有力者を、なお“家来”として、横に従えて眠っている人物とは。もしかしてーー 」
わたしの胸はおどった。こわかった。
金印とまでいわずとも、せめて銀印くらいは、出土するかもしれぬ。ぜひ、なにか、「文字」が出土してほしい。そう願った。
はじめは、四月五日。一日のびて、六日になった。五日には、現場に行ったが、六日は待機していた。ジリジリして。
ーーそして、銅剣一本。それが答えだった。最後の逆転劇、肩すかし。ショック。ガッカリしたんだ、本当に。
予想どおり、中央に大型甕棺は、たしかにあったものの、中身が、これ、とは。誰が予想しよう。すくなくとも、わたしはしなかった。まったくの“予想はずれ”といっていい。
四月七日、ふたたび、現場へ行った。
ふたたび夕暮れ。おおいに隠れる、寸前の、中央大型甕棺、そして隣りの南寄り甕棺の内部を、心ゆくまで観察した。写真に撮った。
同じ夕暮れでも、あの三月二日は、期待に満ちていた。今は、失望の中にいる。えらいちがいだ。
しかし、帰る途次、夜に入ってから、気がついた。わたしは、ガッカリすることのできぬ「唯一」の人間だ、ということを。なぜか。
この中央大型甕棺の主は、「三十分の一」だ。倭人伝の中に、国名だけ投げ出された三十国。その一国だ。それなら、細剣一本。ふさわしい。
近畿や東日本には、出ない。しかし、北部九州や瀬戸内海(淡路島以西)なら、かなり出る。「倭国の中の三十国の当主なら、O・K」そういった感じなのだ。
すなわち、この墳丘墓の主は、「倭国、三十分の一」の“位取り”である。これが、第一世代。
その南の甕棺は、第二世代だ。新聞で見ていたときは、中央の頂上から、ちょっとさがった、南寄りのところにあるのか、と思っていた。
ところが、来てみると、ちがう。頂上部に、中央巨大甕棺と、まさに“並んで”いる。二つの甕棺の間は、三〜四メートル前後。埋められた深さも、同じくらい。墳頂部は、尖(とが)ってはいない。なだらかな平地状だから、二つの甕棺が、南北に並びうるのだ。
これは、主人と家来ではない。親と子、そういった“並び方”だ。家来なら、こういった“並び方”はできないだろう。だから、北の中央巨大甕棺を「第一世代」、南寄りの甕棺を「第二世代」と呼んだ。例の、西寄りの甕棺は、あるいは、「第三世代」か。
ここで、わたしの提起する仮説。それは、「世代差の仮説」。
第一世代は、先に書いたとおり。倭国の三十国の一つの首長だった。
しかし、第二〜第三世代となると、激変した。急速に、富と軍事力を蓄積した。その秘密は何か。
おそらく、第一のカギは、「巴型銅器の鋳型」だ。前にも書いたように、弥生時代という銅器の時代、その最高度の技術だった。その先端技術集団を、この「第二〜第三世代」の首長はにぎっていた。
すぐ隣りの大和町から、剣や矛の鋳型(破片)も、出土している。金属器時代の花形の技術集団、それが富と軍事力の源泉だった。(吉野ヶ里の外濠からも、細剣の鋳型出土)
中国・朝鮮半島の製銅技術を摂取したうえ、ユニークで、高度の技術を有する、東アジアでも出色の工業技術、それがこの、東脊振・吉野ヶ里・大和町の一帯に存在していたのだ。(「巴型銅器」は、中国・朝鮮半島でなく、日本列島、それも北部九州・瀬戸内海周辺、独自の紋様だ)
第二のカギ。それは、ガラスだ。 ガラスは、現在でこそ安い。大量生産の技術が開発されたからだ。それ以前には、宝石だった。弥生では、もちろん、最高度の貴重品だ。
三月二日の夕暮れ、わたしは西寄りの甕棺から出た二個のガラス製管玉を見た。“中国や朝鮮半島からの輸入品か”そう思った。
ーーが、翌日、翌々日と土がとり除かれると、出るわ、出るわ、総計七十個。最長六・六センチのものまであった。
こうたると、「輸入」なんて、到底無理。倭国産の可能性が高くなった。
そのうえ、隣りの大和町の石蓋(ふた)つき土壙(どこう)墓。三本の銀の指輪と、約六千九百個のガラス製丸玉。この土墳墓は、年代が決めにくい。弥生にも、古墳にも、ある。
だが、吉野ヶ里の展示場にも、これとソックリさんがあった。数は少ないけれど。おそらく、吉野ヶ里と同じ、あるいは、それにつづくものか。弥生末から古墳初の頃だ。
これらのガラス製の玉類の多さは、ただごとではない。
おそらく、ガラス製造工場を、この吉野ヶ里「第二〜第三世代」の王者たちは支配し、あるいは関与し、掌握していたのではあるまいか。
これらの、新しき富と力、それがこの広大な、環濠、墓地、集落を作らせた、根本のエネルギーだったのであろう。
「第二〜第三世代」それは、けっして三十分の一ではない。倭国の副王クラスの実力をもつ。「東脊振〜吉野ヶ里〜大和町」この一帯は、倭国の副心臓部だ。それは、
巴型銅器(ともえがたどうき 吉野ヶ里)
剣(吉野ヶ里)
矛(大和町)
剣(大和町)
小型銅鐸(東脊振)
といった、バラエティ豊かな鋳型群の存在がそれを語る。
倭人伝も語る。卑弥呼の前に、男王がいた。治世(ちせい)七十〜八十年、「二倍年暦」を考えれば、三十五〜四十年。その死後、複数乃至多数の「倭王候補者」が乱立し、激戦をくりかえした。前にのべたとおりだ。そして卑弥呼という巫女が、各「倭王候補者」たちの“妥協”によって成立した。
その「倭王候補者」群の一人、それがこの「第二〜第三世代」の当主だった可能性もあろう。すくなくとも、その一人を擁立していた実力者、それに当たることはまちがいないであろう。なぜなら、右のような鋳型群の存在が、それらの支配者の経済力と軍事力、すなわち、実力をしめしているからだ。
では、倭国の主心臓部はどこか。それは、八一ぺージの鋳型分布図がしめしている。福岡市・春日市の周辺だ。
この点は、八七ぺージの絹の分布図も、同じ帰結をしめしている。博多湾岸とその周辺丘陵部が、その中心部だ。
そして鏡。
問題の論理性をしめそう。
わたしたちは知った、吉野ヶ里によって。「これは、倭人伝の世界だ」と。環濠と城柵、そして楼観(物見やぐら)の存在がそれをしめした。
それは、墓制においては、甕棺の世界だ。倭国は、甕棺国家だった。とすれば、その甕棺の中で、もっとも豪勢・華麗な副葬品をもつところ、そこが倭王の墓域だ。
まず、室見川流域。
吉武樋渡遺跡(福岡市西区)では、六個の甕棺が墳丘墓にあった。
今回の吉野ヶ里と似ている。
その中に、漢式鏡(重圏じゆうけん「不久相見ひさしくあいまみえず」銘鏡)が一面、素環頭(すかんとう)大の一振りをもつ甕棺(中期後半)があり、他に「鉄剣」「鉄鏃」各一をもつ甕棺、鉄剣一振りをもつ甕棺、素環頭刀子一をもつ甕棺、十字形の把頭飾一、細形銅剣一をもつ甕棺、細形銅剣一、鍔(つば)金具一をもつ甕棺が囲繞(いじょう)していた。「鏡」の件を除けば、今回とよく似ている。
また同じ場所の木棺墓(もっかんぼ 弥生後期)からは、鉄剣一振りと、玉類多数が出土した。(碧玉へきぎょく、輝緑凝灰岩きりょくぎょうかいがん製管玉十四、ガラス小玉三十六、水晶製算盤玉二)
わたしたちの目を奪ったのは、すぐ隣りの吉武高木遺跡だ。これも、福岡市西区。高祖山連峰の東麓で、はじめ、飯盛(いいもり)遺跡と呼ばれた。
細形銅剣一振りをもった甕棺は、珍しくないけれど、時期が古い。(前期末か)また木棺墓(中期初頭)から、多紐細文鏡(たちゅうさいもんきょう)という、古い形式の鏡(遼東半島・朝鮮半島から分布)が一面と、細形銅剣二、細形銅矛一、細形銅戈一が出土、さらに硬玉(こうぎょく)製勾玉(まがたま)一、碧玉(へきぎょく)製管玉九十五も加わっていて、注目を集めた。「最古の三種の神器」セットだ。
これを「渡来人の墓」と称した人があったが、例の、悪いくせ。
勾玉は、日本列島固有、縄文以来の宝器だ。
むしろ、大陸・朝鮮半島伝来の「鏡」〈日用品〉を、日本列島で祭器〈太陽信仰の道具〉として転用しはじめた、早い例と見なすべきものだ。
同じく、この遺跡から、細形銅剣をもつ甕棺三、また多数の玉類をもつ甕棺、磨製石鏃(ませいせきぞく)をもつ甕棺、細形銅剣をもつ木棺墓二、と群立叢出した。
その偉容は、圧巻だった。前期末から中期初頭とされるものだ。次にあげる王墓群に比べ、もっとも時期が早いのである。
次は、糸島郡。
ここには、江戸時代、黒田藩の中で出土し、藩のすぐれた学者、青柳種信(あおやざたねのぶ)が記録した、三雲・井原遺跡が有名だ。
まず、三雲遺跡。(三雲南小路しょうじ)
前漢式鏡二十六面以上、中細銅戈一、有柄(ゆうへい)中細銅剣一(棺外)中細銅矛二、金銅四葉座飾金具(こんどうしようざかざりかなぐ)八、さらにガラス壁八、ガラス勾玉三、ガラス管玉六十以上、また朱入れ壼一、これらがすべて、一個の甕棺から出た。(中期後半)
もう一つの甕棺からは、前漢式鏡、戦国式鏡、あわせて十七面以上。さらにガラス製垂飾(すいしょく)一、硬玉製勾玉一、ガラス勾玉十二、が出た。これも、「中期後半」とされている。
注目すべきこと、それは、「編年の時期」(形式編年)が、同じく「弥生中期」として、しかも「その後半」として、わが吉野ヶ里と同じ様式、つまり“時期がダブる”ことだ。まったく同じ、とはいえなくとも、大差はない時期なのだ。そして副葬品には「大差」がある。この点は、見のがせない。
次に、井原(いわら)遺跡。(井原鑓溝いわらやりみぞ)
ここも、一つの甕棺から、後漢式鏡(方格規矩鏡片)数十枚が出た。二十〜三十面だろうか。そして例の巴型銅器(実物)。刀剣類。そして鎧(よろい)の板のごときものも、あったという。(弥生後期)
ただ、これらの「編年」は、当然、当時(江戸期)のものではない。現代の「推定」だ。(福岡市立歴史資料館「早良王墓とその時代」による)
そして、例の平原遺跡。故・原田大六氏が心血をそそがれたもの。
後漢式鏡(方格規矩鏡)等、三十八面以上。その中に、日本列島最大の鏡、五面をふくんでいたことは著名だ。
また、同じ木棺墓(割竹わりたけ式木棺)の中に、素環頭大刀(すかんとうだいとう)一、刀子(とうす)一をふくみ、さらに、千数百個の、ガラス勾玉・ガラス管玉・ガラス小玉・メノウ管玉・メノウ小玉・コハク丸玉・コハク管玉等をふくんでいた。まさに「玉たまの王者」だ。これは、原田氏は「弥生後期初」においたが、「古墳初?」とする見解もある。
さて、いよいよ、春日市。博多のベッド・タウン。博多駅と太宰府の間だ。
須玖岡本(すぐおかもと)の甕棺。農家の庭先から出土した。(前出)
一つの甕棺から、前漢式鏡三十面前後、キ*鳳(きほう)鏡二が出ている。同時に、銅矛五、銅戈一、異形銅剣一、銅剣残欠三が出土。さらに、鹿角製管玉十三、ガラス勾玉一、ガラス壁残欠二が出土。そのうえ、同じこの甕棺から、倭国製の絹と、中国製の絹が出土している。倭国製の絹の出土は、八七ぺージの表のようだ。博多湾岸から、朝倉郡、そして東脊振から、この吉野ヶ里周辺へと分布している。そして飛び石のように、三会村(島原市)。
キ*鳳鏡のキ*は、インターネットでは説明表示できません。冬頭編、ユニコード番号8641
ところが、中国絹。すなわち、洛陽漢墓や楽浪漢墓(ピョンヤン)から出土する、中国の絹とまったく同一の絹。それを出したのは、この一例だけ。布目順郎さんの顕微鏡検査だ。
倭人伝に、中国(魏)の天子、明帝の詔勅がある。その中に、数々の錦(かざり絹)がふくまれている。
絳地交竜錦(こうじこうりゆうきん 赤い地に、二匹の竜の模様のついた錦)
紺地句文錦(こんじこうもんきん 青い地に曲線模様のついた錦)
といった風に。
そして卑弥呼からも、錦を献上。
(倭王)生口・倭錦 ーーを上献せしむ。
(正始四年)
次の壱与も、そうだ。
因りて台(天子の宮殿)に詣(いた)り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔、青大句(こう 勾)珠(しゅ)二枚、異文雑錦(いもんざつきん)二十匹を貢す。
そうすれば、倭国とは「絹の国」だった。だから、倭国の中枢部を探ろうと思えば、
「絹を探せ」
この一語だ。そして、その、もう一つ、中心、つまり、「中心の中心」を探そうと思えば、中国絹の出土地を探せばいい。それは、いまのところ、春日市しかない。
また、右の「キ*鳳きほう鏡」というのは、魏・西晋の鏡。これが、本来から、この須玖岡本の甕棺(朱をふくむ。「中期後半」とされた)にふくまれていたことを、梅原末治氏が詳しく論じた。はじめの見解を、学問的良心に立って、訂正されたのだ。(「筑前須玖遺跡出土のキ*鳳鏡に就(つ)いて」『古代学』第八巻増刊号、昭和三十四年四月、古代学協会刊。古田『よみがえる九州王朝」III理論考古学の立場から 角川選書に詳しい。ぜひ見てほしい)
ところが、原田大六氏が『邪馬台国論争』(三一書房刊)の中でいささか乱暴な論調で、「梅原は、骨董(こっとう)屋にだまされた」といった攻撃を加えた(ただし、その裏づけ調査をされた形跡はない)のち、九州大学の岡崎敬氏が、これ(「キ*鳳鏡」は他の甕棺から出たものを、梅原氏がまちがえたこと)を承認した(ただし、同じく、論証はない)形の記述を行なわれたため、「原田 ーー 岡崎」説が、“定まった”かに見えている。(「学界作法さほう」としては)
ただし、これは、真の「学問の作法」ではない。真摯(しんし)な学術研究者なら、梅原論文に反論すべきだ。
ちょうど、今回、吉野ヶ里では、佐原真氏は、自己の信奉する「邪馬台国、近畿説」に不利な「物見やぐら」認定を、敢然と行なわれた。
それと同じく、京大考古学の重鎮(じゅうちん)、梅原氏は、今まで、自分が立て、学界全体が従ってきた「編年体系」を突きくずす認定を行なわれたのだ。 ーーいわく、「弥生中期の甕棺に、魏・西晋朝の『キ*鳳鏡』が入っていた」と。いうまでもなく、魏・西晋朝は、三世紀、倭人伝の時代だ。
今回の吉野ヶ里のしめしたところ。それはこれらの王墓(おうぼ 弥生中期)もまた、(二、三世紀にあたる)弥生後期の集落や環濠(かんごう)に取り巻かれていた。 ーーこの姿だ。
果然、梅原論文が生き返ってくるではないか。これは「事件」だ。
もう一つ、鏡で注目。
今回、吉野ヶ里の外濠から、鏡が何個か出土した。「小型イ方*製鏡こがたほうせいきよう」と呼ばれる、小さな鏡だ。
イ方*製鏡のイ方*は、人編に方。第3水準ユニコード4EFF
ところが、この鏡の鋳型が出た。これも、春日市。目下、日本列島の弥生遺跡から出土した、唯一の鏡の鋳型だ。
実物が、吉野ヶ里。鋳型が春日市。この事実ほど、今回の吉野ヶ里という、印象的な大遺跡に立った道標がさししめす、真の倭国の主心臓部、邪馬壱国の所在を明らかにするものはない。
「博多湾岸とその周辺」。 ーー『「邪馬台国」はなかった』で、わたしは、そう書いた。(朝日新聞社、角川文庫)
「筑前中域」。『古代は輝いていた」第一巻「風土記にいた卑弥呼」(朝日文庫)で、わたしはそう書いた。“糸島・博多湾岸から朝倉まで”を指す言葉だった。
倭国の主心臓部、邪馬壱国の中心をズバリさししめす言葉として、それはやはり、あやまっていなかった。
吉野ヶ里の中央巨大甕棺から、四月六日に姿を現わした、銅剣一本。それは、右の真相を、ピタリと指示していたのだ。
この出土で、「失望できない」人間、その唯一の探究者、それは、ほかならぬ、このわたしだった。そして忘れてはならぬ、わたしの探究をささえてくださった、数多くの読者、その一人、一人もまたーー 。
ここでハッキリさせておきたいこと。それは倭国の中心構造だ。
糸島郡は、伊都国(千余戸)と奴国。(二万戸。「ぬ」だ。「な」ではない)もし、糸島全部を伊都(いと)国とすれば、大変な過疎(かそ)地、あの豪華な出土状況と合わぬ。むしろ、過密地のはずだ。
志賀島の金印を「漢(かん)の委(わ)の奴(な)国」と読んだのは、三宅米吉。そして「那の津」つまり博多湾岸に「奴な国」を“当てはめ”、この地を「邪馬台国に非(あら)ず」とした。これがすべての禍根(かこん)、「邪馬台国」の乱立と混乱の元凶だ。彼は、「邪馬台国」近畿説だった。
これに対して、わたしの解説。博多湾岸と周辺丘陵部が邪馬壱国の中心部。その中の中枢地として、一に室見川流域、二に那珂川と御笠川流域をあげた。(『「邪馬台国」はなかった』)
当時は、わたしに考古学的知識は皆無。ただ倭人伝の論理的分析、それだけだった。
ところが、いまーー 。
前者は、吉武高木、吉武樋渡遺跡。最古の「三種の神器」セット、および墳丘墓の地だった。
後者は、問題の須玖岡本の王墓の地だった。(有田遺跡〈前期末〉は最古の絹を出土)
糸島とともに、これらは、たんなる「地域王墓」ではない。今回の吉野ヶ里が、これを証明した。銅剣一本の、第一世代の中央甕棺、これこそが「地域王」の時代、いわば、「三十分の一」だった。
だから、これほど副葬品の卓絶したものを、「伊都国王墓」(三雲・井原いわら・平原ひらばる)、「早良さわら国王墓」(右の前者)、「奴な国王墓」(右の後者)たどと呼ぶのは、いずれも、ミス・ネーミング。名前のつけちがい、だ。実は、倭国王墓だったのだ。
だが、倭国の首都圏は「筑前中域ちくぜんちゅういき」から「肥前東域ひぜんとういき」にひろがっている。現代も、横浜や千葉や大宮が「首都圏」であるように。同じく、まさに吉野ヶ里は「首都圏の一端」に属していたのである。玄海灘にのぞむ糸島と、有明海にのぞむ吉野ヶ里、それは“二つの横浜”だったのだ。
(わたしのインタビュー記事の題として、「吉野ヶ里は邪馬台国だ」〈週刊文春四月一三日号〉とあったのは、編集部のワーク。それを“うけて”わたしの説が「吉野ヶ里月邪馬台国」説であるかのように紹介したものもあった。〈月刊ASAHI創刊号、佐原真氏〉)
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