『古代に真実を求めて』第十八集

「天孫降臨の詳察」(会報四十五号)
「神代と人代の相似形」(会報六十号)

神代と人代の相似形Ⅱもうひとつの海幸・山幸 西村秀己(『古代に真実を求めて』第十八集)../sinjit18/umiyaman.html


神代と人代の相似形Ⅱ

もうひとつの海幸・山幸

西村秀己

一、はじめに

 古事記中巻品陀和氣命(応神)記の終り頃、品陀和氣命の子供たちの将来を描いた段の中、大雀命(仁徳)と若野毛二俣王の間に理由もなく不思議な説話が挿入されている。天之日矛説話及び秋山之下氷壯夫(あきやまのしたびをとこ 以下、秋山という)と春山之霞壯夫(はるやまのかすみをとこ 以下、春山という)の物語である。
 その物語とはこうだ。

  又昔、新羅の國主の子有りき。名は天之日矛と謂うひき。是の人参渡り來つ。

 その訳は、天之日矛が日光に感応して生まれた赤玉の変化した嬢子を摘妻にしたところ、

  「凡そ吾は、汝の妻と為るべき女に非ず。吾が祖の國に行かむ」といひて、即ち竊ひそかに小船に乗りて逃遁げ渡り來て、難波に留まりき。

 天之日矛はその妻を追い掛けて難波に向かうが邪魔をされ、結局多遅摩國に本拠を定め子孫を生んで行く。その中には多遅麻毛理や息長帯比賣が含まれる。それで、天之日矛の子孫の一人に、

  故、茲の神の女、名は伊豆志袁登賣神坐しき。故、八十神是の伊豆志袁登賣を得むと欲へども、皆得婚ひせざりき。

 ここで秋山・春山兄弟が登場する。兄の秋山は「私は伊豆志袁登賣に求婚したが振られてしまった。お前はできるか?」すると弟の春山は「簡単だよ」と答える。そこで秋山は「もしお前が結婚できたら、私の持っている財産をやる」と誓う。春山がこの話を母親にすると、

  即ち其の母、布遅葛ふぢかづらを取りて、一宿の間に、衣褌及襪沓を織り縫ひ、亦弓矢を作りて、其の衣褌等を服せ、其の弓矢を取らしめて、其の嬢子の家に遣はせば、其の衣服及弓矢、悉に藤の花に成りき。

 こうして母親の段取りのままに春山は伊豆志袁登賣を得るわけだが、秋山は約束を守らない。そこで春山はまた母親に泣きつく。すると母親は秋山を呪詛して

  其の兄の子を恨みて、乃ち其の伊豆志河の河島の一節竹を取りて、八目の荒籠を作り、其の河の石を取り、鹽に合へて其の竹の葉に裏みて、詛はしめて言ひけらく、「此の竹の葉の青むが如く、此の竹の葉の萎ゆるが如く、青み萎えよ。又此の鹽の盈ち乾るが如く盈ち乾よ。又此の石の沈むが如く、沈み臥せ。」といひき。

 秋山は八年間「干萎病枯」となって「患ひ泣」いて、母親に泣きつき春山に詫びを入れ元に戻る。

 天之日矛は日本書紀(天日槍)では活目入彦五十狭茅天皇(垂仁)三年三月の入朝であるが、その説話の神秘性からむしろ神代に属するものと考えられる。現に播磨国風土記(天日槍)では、葦原志許乎や伊和大神と争う文字通りの神として描かれている。また、記の天之日矛の系譜にはその玄孫多遅麻毛理やさらにその孫息長帯比賣(神功)の記述がある。ならば何故この説話は伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁)記や帯中日子天皇(仲哀)記に置かれなかったのだろうか。

 

二、もうひとつの海幸・山幸

 この疑問を次の秋山と春山の説話の解析で解決したい。
 だがその前に唐突ではあるが、まず海佐知毘古(以下、海幸という)・山佐知毘古(以下、山幸という)の説話に言及したい。これは邇邇藝能命の息子たちの争いに仮託されているが、実は壱岐(本国)と筑紫(占領地)の闘争であると思われる。古田武彦氏が既に言及されている通り、天孫降臨後もその主流は天国にあった。

  「兄の天火明命の方が“正統的な”名前であるのに対し(中略)それ故、天照の直系は天火明命であって、瓊瓊杵命ではない。これが端的な結論だ。」(「盗まれた神話」第八章 傍流が本流を制した)

 ところが周知の如くその後の倭国史の中心は邇邇藝能命の子孫たちである。とすれば、いつのことかは不明であるが、本国天国と新領土筑紫との権力交代劇があったことは確実だ。これに仮託したのが海幸・山幸の説話ではあるまいか。つまり海=天、山=筑紫(=邪馬)である。そして天国の中心を壱岐とするならば、壱岐は筑紫のほぼ西に当る。
 さて秋山・春山である。これも海幸・山幸と同様兄弟の争いで弟が兄を制する物語である。五行説によれば秋=西、春=東で壱岐・筑紫の位置関係と符合する。また、氷は水の一属性であり、霞は山に掛かる。呪いのアイテムに竹で造った「八目之荒籠」があるが、山幸が綿津見神之宮へ向う乗り物は「无間勝間之小船(竹籠の船)」である。さらに二人の母親の秋山への呪詛は「又此の鹽の盈ち乾るが如く盈ち乾よ。」である。ここに使われる「盈」はほとんど無意味だ。 『「盈ち」には意味がない。』(岩波文庫版古事記、倉野憲司校注)

 ところが、海幸山幸決戦の最終アイテムが「鹽盈珠」と「鹽乾珠」であることに思いを致せば「盈」を敢えて使用する意味が俄然明らかになる。そして極めつけは彼等の母親が春山を勝たせるために使用する「布遅葛」「藤花」だ。海幸・山幸の母親は木花之佐久夜毘賣だが、この女神は「富士」の神でもある。

 つまり、山幸・海幸と秋山・春山は同じモチーフを持った説話なのだ。本稿のタイトルを「もうひとつの海幸・山幸」とした所以である。

 

三、神代と人代の相似形

 ではこの秋山・春山説話が何故この位置にあるのだろうか。ここで拙著「神代と人代の相似形」(古田史学会報六十号)を想起戴きたい。既に十年が経過しているためご記憶の諸兄も少ないとは思うので簡単に説明すると、神代の神話群と伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁)から品陀和氣命(応神)の説話群が同じモチーフを持っている、というものである。

 神代の水蛭子は

   此の子は葦船に入れて流し去てき

 と、不具であったために父親の跡を継げない。

 人代の品牟都和氣命は

   然るに是の御子、八拳髭心の前に至るまで眞事登波受まこととはす

 と、しゃべることが出来なかったために、同じく父親の嗣子とはなれなかった。

 水蛭子の母、伊邪那美命は

   此の子を生みしに因りて、美蕃登炙かえて病み臥せり

 と、火の神を生んだせいで焼け死んだ。

 品牟都和氣命の母、沙本毘賣は

   火の稲城を焼く時に當りて、(中略)然して遂にその沙本比古王を殺したまひしかば、其の伊呂妹も亦従ひき

 と、焼死する。

 伊邪那美命の夫、伊邪那岐命は

   是に其の妹伊邪那美命を相見むと欲ひて、黄泉國に追ひ往きき

 と、死んだ妻を取り戻そうとするが

   宇士多加禮許呂呂岐弖うじたかれころろきて

 と、伊邪那美命が既に腐敗していたため目的を果たすことが出来なかった。

 沙本毘賣の夫、伊久米伊理毘古伊佐知命は

   其の御子を取らむ時、乃ち其の母王をも掠ひ取れ

 と、妻の奪還を命じるが

  亦玉の緒を腐して、三重に手に纏かし、且酒以ちて御衣を腐し、(中略)其の御手を握れば、玉の緒且絶え、其の御衣を握れば、御衣便ち破れつ

 と、アクセサリーや着衣が腐っていたために失敗する。

 伊邪那岐命の息子、建速須佐之男命は神代のスーパーヒーローである。しかも草那藝太刀の発見者であり、又泣き虫であり乱暴者である。

 伊久米伊理毘古伊佐知命の孫、倭建命は人代のスーパーヒーローだ。そして草那藝劔の行使者である。泣き虫であり乱暴者であることも同様なのである。

 建速須佐之男命の姉、天照大御神が巫女的性格を持つことは周知だ。そして草那藝劔の授与者である。

 倭建命の姨おば、倭比賣命は伊勢の斎宮であり、やはり草那藝劔の授与者だ。

 

 さて、ここで建速須佐之男命と倭建命では一世代の差がついた。ところが古事記はこれを次のように修正する。

   伊久米伊理毘古伊佐知命、(中略)生みませる御子、石衝別王。次に石衝毘賣命、亦の名は布多遅能伊理毘賣命(中略)倭建命の后と為りたまひき。

 この操作で彼等の息子たちは同世代となる。尚、日本書紀ではこの父娘は何の関係もない。

 建速須佐之男命と天照大御神の息子、天忍穂耳命は葦原中國への降臨第一候補だったが、

   僕は降らむ装束しつる間に、子生れ出でつ。(中略)此の子を降すべし

 と、歴史から途中退場する。

人 倭建命の息子、帯中日子天皇(仲哀)は熊曾國を撃とうするが、

 幾久もあらずて、御琴の音聞えざりき、即ち火を擧げて見れば、既に崩りたまひぬ。

 と、急死して、これも途中退場するのだ。

 天忍穂耳命の妻、萬幡豊秋津師比賣命は本来夫と一緒に降臨する予定だった。その名の「師」が表わす通り軍隊の指揮官でもある。記紀には明確には書かれないものの、邇邇藝能命が赤ん坊であった以上、息子を抱いて天降ったと思われる。(詳細は古田史学会報四十五号「天孫降臨の詳察」をご覧戴きたい)

 帯中日子天皇の妻、息長帯日賣命(神功)はやはり生まれたばかりの品陀和氣命(応神)を胸に抱いて香坂王・忍熊王と戦う。

 そしてこの次に邇邇藝能命の息子たち、海幸・山幸の説話が登場するのだ。

 従って、秋山・春山説話の位置はもはや明快だ。つまり、この相似形の中で海幸・山幸説話と同じポジションにあるのである。これは古事記の構成にも関係がありそうだ。すなわち、古事記上巻は海幸・山幸の説話で終り、古事記中巻は秋山・春山の説話で幕を閉じる。

 

 但し、この論考には多少の無理がある。海幸・山幸は邇邇藝能命の息子だが、秋山・春山は品陀和氣命と何の関係もないことだ。だが、この秋山・春山説話は天之日矛からスタートする。相似形の始まりは、伊邪那岐命・伊邪那美命と伊久米伊理毘古伊佐知命・沙本毘賣だ。伊邪那岐命と伊久米伊理毘古伊佐知命の相似は、去った妻を連れ戻そうとして果たせなかった、ことである。そして天之日矛もまた

   是に天之日矛、其の妻の遁げしことを聞きて、乃ち追ひ渡り来て

 とあり、伊邪那岐命・伊久米伊理毘古伊佐知命とまったく同じ立場となっている。つまり、ここには初めと終りだけだが、小型の相似形が存在するのである。これは先の欠陥を補って余りあるのではあるまいか。

 

神代と人代の相似系図
神代と人代の相似系図

 

四、相似形の意味

 古事記にこのような相似形が存在することは、ご納得戴けたと思う。問題は何故このような相似形を安萬侶は象ったのだろうか、ということだ。
 筆者は前稿の執筆以来十年間、この問題を考え続けてきた。だが、一向に回答が見つからない中、これはむしろ相似形でない部分に眼を向けるべきではないのか、と思いつくに到った。つまり、安萬侶の暗号という訳である。
 古田武彦氏は古事記序文と「尚書」正義序文(上五経正義表)の関係を考察するにあたり、「古事記」にはなく「上五経正義表」にある「秦始皇帝の焚書坑儒」に注目した。

 (前略)そのような書物は焚かれ、語部は廃滅させられたのだ。「焚書刑語」である(「刑語」は、語部を刑する)。
 そのようにして“公然の語部”は失われた。しかし、語部の家の「内側」では、内々に語り継がれていた。その突端が稗田阿礼だった。その阿礼の「伝誦」の事実を太安万侶は知った。けれども、「阿礼は誰から伝誦したのか」その肝心の一点を隠し、代って天武天皇の絢爛たる業績を讃美する美文をもって、その「隠匿」の事実を、読者の目から背後に遠ざけたのである。
 しかしながら、史家の良心において、安万侶は一個のトリックを文章の内側に“仕込ん”だ。それが「義表」との対比、酷似した文脈構成だ。当代か、後代かは知らず、「義表」を知る者ならば、ここに「重大なカット」の存在することを知る、そういうメッセージを秘めた構文だったのである。(ミネルヴァ版「盗まれた神話」三百九十五頁 補章 神話と史実の結び目 『記・紀』成立の秘密)

 史書の編纂を命ずる立場(権力者)の意図と、命令されて史書を編纂する立場(史家)の意図は必ずしもイコールではない。倭国(九州王朝)が滅んだ後、史家たち(その過半は倭国系の史家であっただろう)が目指したものは「倭書」の編纂であったに違いない。それが東アジアの通例だったのだから。ところが彼等の意に反し、新政権から命じられたのは「倭国史」の抹殺であった。そんな彼等に「史家の良心」を僅かばかりでも期待するならば、古田氏のいう「文章の内側に“仕込”まれたトリック」を見いだす他はない。

 では、話しを相似形に戻そう。
 神代で相似形の外にある部分、それは先ず天之御中主神から始まる「天国」始原譚だ。
 人代では神倭伊波禮毘古命(神武)からの「近畿王権」の成長譚である。これらは、あまり関係の無いように思える。
 それでは神代で相似形に挟まれている部分は何か。それは日本書紀では一切顧みられていない大國主神の「国造り」譚である。そこにはご丁寧にも大國主神に到る系譜と大國主神からの系譜が附されている。つまり、如何なる読者でも気付くであろう「別王朝」の事績と系譜である。
 では、人代での同じ部分は何か。それは倭建命と帯中日子天皇の間、若帯日子天皇(成務)の事績だ。

 若帯日子天皇、近淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき。此の天皇、穂積臣等の祖、建忍山垂根の女、名は弟財郎女を娶して、生みませる御子、和訶奴氣王。(一柱)故、建内宿禰を大臣と為て、大國小國の國造を定め賜ひ、亦國國の堺、及大縣小縣の縣主を定め賜ひき。天皇の御年、玖拾伍歳。(乙卯の年の三月十五日に崩りましき。)御陵は沙紀の多他那美に在り。

 これが若帯日子天皇記の全文である。特筆すべきは、 「大國小國の國造を定め賜ひ、亦國國の堺、及大縣小縣の縣主を定め賜ひき。」の部分である。これは国家の最高権力者しかなし得ない事績だ。古事記に記される他の天皇たちの事績とは次元を異にしているのだ。勿論、単なる地方政権であった「近畿王権」のなし得るものではない。
 すなわち安萬侶は、この若帯日子天皇の事績は新政権の祖先のものではなく「別王朝」のものだ、と明示しているのではあるまいか。すなわち、「近畿王権」に先在する王朝の密やかな提示である。
 尚、十年前の前稿にも筆者は「これ以外にも可能性のある答があるならば、筆者としては受け入れるに吝かではない」と書いた。現在の思いも変るものではない。是非ご意見をお寄せ戴きたい。

 

五、最後に

  今までの筆者もそうであったのだが、記紀を論じるに記紀には存在しない「神武」とか「崇神」とかの漢風諡号を用いることが通例となっている。勿論それは、和風諡号を完全に憶えている読者(筆者を含む)が少ないこと、和風諡号であれば字数が多くなること、古事記と日本書紀では和風諡号の表記が異なり煩雑になること、などの利便性によるものであり、他意は無いに違いない。しかしながら、原文にない表記を用いることで、誤読や混乱を惹起する可能性もまた否定できない。従って、本稿では出来るだけ古事記の原文にある表記を使用することに意を用いた。ご理解戴ければ幸いである。
 (『古事記』の引用文は、岩波書店『日本古典文学大系』版を用いた。)


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