『古代に真実を求めて』第十八集
「消息往来」の伝承 岡下英男

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集


「景初」鏡と「正始」鏡は、いつ、何のために作られたか

薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈

岡下英男

要約

 魏の年号を銘文に持つ鏡のうち、「景初三年」鏡と「正始元年」鏡は、卑弥呼の継承者であることを誇示しようとする倭王――おそらく、倭讃よりも古い時代の倭王――によって、卑弥呼が魏から贈られた銅鏡を偽装する目的で、後代に作られたものである。「景初四年」鏡は「景初三年」鏡の銘文の欠陥を修正する目的で作られた。卑弥呼の朝貢と関連のない紀年銘鏡は作られなかった、必要ではなかったのだ。

 

一 はじめに

 銘文に魏の年号を持つ鏡には、景初三年鏡、景初四年鏡、正始元年鏡、青竜三年鏡がある。これらのうち、「景初」鏡と「正始」鏡は、その年次が卑弥呼の朝貢と合致するところから、『魏志』にいう「銅鏡百枚」に含まれるものではないかと議論されている。
 これに対して森浩一氏は、その著書の中で、
 ①「ここで不思議に思うのは、魏の年号鏡は、本場の中国の古墳では青龍とか景初とか正始という年号をつけた鏡はまだ出ていないのです。」
 ②「どれもが鏡の額面上の年号と、古墳の推定の年代とのあいだには、百数十年のズレがある。」

と書かれている。 (文献1)

 また、別の著書では、薮田嘉一郎氏の仮説を、「景初三年は記念すべき年として、それを記した銅鏡を製作したとする説」として紹介された後、「魏の年号鏡を出す古墳の考古学的年代は、四世紀末から五世紀初頭とみられていることからも、薮田説は重視すべきであろう。」と書かれている。(文献2)
 このように、これらの鏡については、魏から贈られたとする魏鏡説と、日本列島内で鋳造された鏡に魏の年号が付けられたとする国産説がある。私は、森氏の著書に触発されて、薮田説に従い、これらの鏡が、いつ、何のために作られたのかを考察したので報告する。

 

二 魏年号銘鏡の銘文

 銘文に魏の年号を持つ鏡のうち、卑弥呼の朝貢と関係のある紀年を持つ鏡は次の四種類である。
  A:景初三年鏡(島根県出土)
  B:景初三年鏡(大阪府出土)
  C:景初四年鏡(京都府出土ほか)
  D:正始元年鏡(兵庫県出土ほか)

 これらの鏡の形式、サイズ、銘文を表1に示す(文献3から作成)。以降の議論においては、文の煩雑を避けるために、各鏡をA~Dの記号で表す。
 各鏡の銘文には次のような特徴がある。
 ①全ての鏡に「陳是作鏡」とある。銘文の文字数の最も多いのはA鏡で、B~D鏡の銘文はA鏡の銘文を部分的に使用した形となっている。これらのことから、四種類の鏡は同一の工房で作られたと考えられている。

 ②鏡の銘文では、「陳是作鏡」の次には、通常、吉祥句と鏡の効能の詩句が続くケースが多いのであるが、A鏡やD鏡では、吉祥句の代わりに「自有経述本是京師杜地命出」(概略、「私の経歴を述べると、元は都に居たが、遠くの土地に亡命して来た」と読める。)とあり、中国の技術者が日本で鏡を作ったと述べていると理解される。

 このような解釈から、この銘文は国産説の根拠となっている。
 ③B鏡の銘文はA鏡の銘文を十四文字に省略した形になっている。しかし、紀年の「景初三年」は残してある。

 ④C鏡の「景初四年」は「正始元年」に改元されて実在しない年である。この鏡だけ紀年に月日「五月丙午之日」が入っており、また、サイズが小さいなど、他の鏡と異なっている。

A:景初三年鏡                        
  神原神社古墳出土
  (三角縁神獣鏡)
  出土一面、直径23.0㎝                      
B:景初三年鏡                      
  和泉黄金塚古墳出土                          
  (画文帯同向式神獣鏡)                  
  出土一面、直径23.0㎝                              
C:景初四年鏡            
  広峯15号墳出土他                      
  (盤龍鏡)
  出土二面、直径16.8㎝                      
D:正始元年鏡                        
  豊岡市森尾古墳他
  (三角縁神獣鏡)                                
  出土三面、直径22.7㎝                

表1 銘文の比較

 

三 鏡は、どこで、いつ、何のために作られたのか

 これらの鏡の生産地については、卑弥呼に贈るために魏で作られたとする魏鏡説と、日本列島内で作られた鏡に魏の年号銘が付けられたとする国産説がある。私は、後述する銘文の流れから国産であると考える。
 鏡が作られた時代に関しては、銘文の紀年に作られたとする実年代説と、後代の偽装であるとする偽装説がある。実年代説は菅谷文則氏(文献4)、王仲殊氏(文献5)その他の各氏によって報告されている。偽装説は薮田嘉一郎氏の説(文献6)である。

 

四 景初四年鏡の問題

 C鏡の銘文には「景初四年」とある。景初三年と正始元年は実在の年であるから、それらの年を銘文に持つ鏡があっても問題は無いが、景初四年が加わるとややこしくなる。景初三年の翌年は正始元年と改元されているので景初四年は存在しない。同一の工房で作られたと見られている鏡に、なぜ、同じ年を意味する銘文を持つC鏡とD鏡があるのか。これは、実年代説、偽装説、いずれの説においてもクリアーしなければならない問題である。

 

五 国産―実年代説

(1)王仲殊氏の説

 実年代説をとる報告は多いが、ここでは中国の王仲殊氏の考えを取り上げて吟味する。
 王氏は、A~D鏡は、呉から渡来した陳是(=陳氏)が日本で作ったとして、次のように書かれている(前掲文献5)。

 「陳是本人は海東の「絶域」にあったので、魏がすでに「正始」の年号に改めていたことを製作の時点では知らなかった。そこでさきに三角縁神獣鏡をつくった際に銘文の中で使った「景初三年」という紀年の後を受けて、三角盤龍鏡では「景初四年」の紀年を記してしまった。」
 また、別の個所で、「おそらく陳是は、中国で正始元年と改元されたことを知った後で、紀年を「景初四年」とした錯誤を償うために、「正始元年」紀年銘の同向式三角縁神獣鏡をつくったのであろう。」とも書かれている。
 王仲殊説によれば、鏡の鋳造は左記のように行われたと理解する。

西暦 年号 行事 鏡の製作
二三九 景初三年 遣魏使出発 景初三年銘の鏡を鋳造
二四〇 正始元年初め   改元を知らずに、景初四年銘の鏡を鋳造
正始元年中頃以降 遣魏使帰国 改元を知って、景初四年銘の鏡を鋳造した
錯誤を償うため正始元年銘の鏡を鋳造

 この状況を岡本健一氏は、「遣魏使の出発(景初三年)から帰国(正始元年)までの年次と改元に合わせて、時々刻々、リアルタイムで魏の年号を刻み、鏡を鋳造した」と評されている。(文献7)
 このような考えは既に菅谷文則氏などによって報告されているが、ここでは正始元年鏡鋳造の理由なども推定されている王氏の説を取り上げた。

 (註1)
  王氏の著書に対しては、「王の論点は、このほかにも多岐にわたり、重要な洞察と識見にあふれている。ただ、個々の論点に関していえば、それらはすでに先行研究により提示されていたものであった。」との評価がある。(文献8)

 

(2)王仲殊氏説への疑問

 呉の職人が日本で作った鏡に、何故、魏の紀年が使われているのか。
 王氏は、当初、「三国時代にあって、魏は大国であり、その首都の洛陽が中国の伝統的都城であり、あたかも正統性の所在のようであった。このことのため、東渡の呉の職人は呉の年号を使わずして魏の年号を使ったことは理解の出来ることである。」とされている(前掲文献5)。これには賛成できない。亡命した呉の職人が敵対関係にある魏の年号を使うとは考えられない。
 其の後、王氏は、「陳是」が、「景初三年と正始元年が倭と魏王朝との通交を開始した年にあたり、重大な政治的意義を含んで」いるから、「特に意識的に鏡銘中に刻んだことは理解できないことではない」とされ、この見解はC鏡の「発見によって証明された。」と書かれている(文献9)。この考えに従えば、最初の鏡に「景初三年」の紀年を入れる目的は使節の出発を記念することであり、次に鏡を作るのは使節が帰国してからとなろう。しかし、C鏡は使節の帰国を待たないで作られている。使節の帰国を見込んで作ったという可能性もあるが、その場合には、遣魏使の出発と帰国の記念として対になるように同じ形式の鏡が選ばれるのではなかろうか。現に、C鏡の錯誤を償ったとされるD鏡はA鏡とほぼ同じ鏡式・サイズの三角縁神獣鏡である。しかし、C鏡をA鏡と比較すると、鏡式・サイズ・紀年の書式まで変わっている。不審である。
 また、景初三年と正始元年が倭国にとって重要な年として認識されているのであれば、それらの年を銘文に持つA鏡やD鏡が地方の権力者に記念品として配布されることは理解できるが、錯誤であることが判明している紀年銘のC鏡が回収されずに現存している、すなわち、地方の権力者に配布されている。説明し難いところである。

 

六 国産―偽装説

(1)薮田嘉一郎氏の説

 薮田氏は、和泉黄金塚古墳からのB鏡の出土(一九五一年)を受けて、一九六二年に、「和泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」を発表された(前掲文献6)。その中で、B鏡は、すでに出土していたD鏡ともに、国産であるとされ、概略、次のように想像されている。
 ①倭讃は、景初三年に倭国が魏から莫大な贈りものを貰ったことを聞き伝えており、

 ②自分が卑弥呼の後継者としてそれを持っていることを内外に誇示しようとした。

 ③それで、魏鏡を踏み返して、これに景初三年の銘を付けて、卑弥呼が貰った鏡に偽装した。

 『宋書』によれば、倭讃は、宋に「安東大将軍」などの称号を求めている。彼が、国外にそのような権威を求めるからには、国内では、卑弥呼の後継者であることを誇示しようとしたであろうことは容易に想像出来ることである。
 倭国は宋に対して「世ゝ貢職を修」めていた。倭讃が宋に対して除授を求めるそのはるか以前から倭国は宋に朝貢していたから「遠誠」を認められるに至ったのだ。彼以前の倭王も、自分が卑弥呼の後継者であることを内外に誇示して宋に通交していたのではなかろうか。これらの鏡はその時代、卑弥呼の記憶がまだ残っている、恐らく四世紀に作られたとみるべきであろう。しかし、四世紀は中国史書に倭国の記述の無い「空白の四世紀」であって、讃以前の倭王は中国史書に記載が無い所から特定できないので、薮田氏は鏡の製作を讃の除授の頃とされたと理解する。

 (註2)
 薮田説に対しては、「「倭女王が魏王より優遇を受けた紀年すべき年」を政治的に利用するための、いわゆる「後代の符牒――メモリアル・イヤー」説の端緒」との評価がある(前掲文献8)。

 

(2)薮田説の修正

 薮田氏はB鏡の出土を受けて論文を発表されたのであるが、その後、A鏡(一九七二年)とC鏡(一九八六年)が出土した。私は、これらA~C鏡の銘文を比較して、倭王が卑弥呼の記憶から偽装したのはB鏡ではなく、それよりも後に出土したA鏡であると考える。理由は、表1に示すように、A鏡の銘文は、その文字数が最も多く、また、銘文としては特異な形式の文ではあるが、他のB~D鏡の銘文はそれを部分的に用いたものとなっているからである。

 

七 私の考え

 「景初」鏡と「正始」鏡は次のように作られたと考える。
 ①鏡の工房に対して、中国製の鏡を踏み返し、それに「景初三年」と「正始元年」の紀年を入れた鏡を製作することが指示された。

 ②工房では、大陸から渡来した鏡の技術者が自分の経歴を主題とする銘文に紀年を付加して依頼主の注文に応えたのではなかろうか。これがA鏡とD鏡である。この二鏡の鏡式、サイズが同じであることがそれを物語っていると考える。
依頼主が鏡を作る目的は銘文に「景初三年」と「正始元年」の紀年を入れることだったので、銘文のその他の部分には注文がなかったのであろう。紀年については、正統な、または、本格的な銘文では月日や干支を入れるのであるが、依頼主にそこまでの細かい記憶が無かったので入れられなかったのであろう。

 ③A鏡は地方権力者に配布する目的で製作されたが、さらに、彼らの臣下のために銘文を大幅に省略したB鏡も製作された。和泉黄金塚古墳において、この鏡が棺の外に置かれていた(文献10)ことがそれを示している。すなわち、臣下は権力者の葬儀の際にその鏡を捧げた。B鏡は、その程度の、価値の低いものであると認識されていたのだ。(註3)

 ④このように作られたA鏡であるが、その後、紀年に月日を入れて銘文を正統な形にし、偽装をより完全なものとすることが企画された。この時、表1に示すように、踏み返しの原鏡として前回よりも小型のものが選ばれたので、銘文に彫ることのできる文字数が少なくなる。そこへ、「五月丙午之日」を追加するのであるから、字数がオーバーする。それで、「自有經述」以下を削除してC鏡を作成したのではなかろうか。ここでも紀年(年月日)が重視され、銘文の意味するところは考慮されなかったのだ。紀年の「景初四年」は、銘文に月日の無いA鏡と同年(景初三年)であってはおかしいから、景初三年につながる年として選ばれたのであろう。その際、はるか昔に魏が改元したことは考慮されなかったのだ。C鏡が、紀年だけでなく、鏡式・サイズまで変わっていることはこの考えで説明できる。(註4)

 以上、銘文の考察から、「景初」鏡は、A→B→Cの順に作られたと考える。
 また、このような銘文の流れは、これらの鏡が、遠くの中国ではなく、全て日本列島内で作られたことを示すものと考える。 (註5)

(註3)B鏡の原鏡には画文帯同向式神獣鏡が選ばれている(文献11)。この鏡式の鏡は、多くの場合、十四個の方格
を持ち、一個の方格の中に四文字を刻むのであるが、日本列島内の工房では技術レベルが低く刻線を細くでき
ないので、一文字しか刻めなかった。そのため銘文の文字数は十四文字としなければならない。それでA鏡の
銘文から十四文字を選んだと考える。
この鏡の銘文の特徴である「詺詺」は、A鏡の銘文から十四文字だけを抽出しなければならないという制約の下での選択であると考える。

(註4)A鏡において、銘文に追加された「五月丙午之日」の「之」の使用に倭習を感じる。中国製の鏡の銘文に「正月丙午日」「三月丙午日」「五月丙午日」の例はあるが、「之」をこのように使う銘文の例は見当たらない(文献12)。陳是が作ったA鏡の銘文に「五月丙午之日」を追加するという修正は倭人――陳是の工房に入門した弟子――によってなされたのではなかろうか。このことも、C鏡がA鏡、B鏡、D鏡と同時ではなく、その後で作られたとする考えに矛盾しない。

(註5)古田武彦氏は銘文の検討から、「この画文帯神獣鏡自体もまた中国製ではない。その上、国産である可能性が高いのである。」とされている(文献13)。

 

八 各説の比較

 表2に、以上に述べた各説の比較を年表的に表現して示す。
 実年代説、偽装説、修正偽装説の各説により鏡の製作順序が異なる。C鏡とD鏡の二つの鏡は、銘文の紀年からみれば同じ年に作られたようにみえるが、そうではない。A鏡とD鏡が同時期に作られ、C鏡はその後(翌年とは限らない)に作られたと考える。




?



















西














(景



)

























 

使



使

         

C




D




B




A




D
正始元年鏡
B




  D




C





B




A




     





 


   本




 





     王







         

表2 各説の比較 -- 鏡の制作順序

 

九 終りに

 薮田説に従う考察により、「景初四年」鏡の問題をクリアーして、魏年号銘鏡がいつ、何のために作られたかを説明できたと考える。
 薮田説によれば、さらに、そのほかの問題も説明できる。
 森氏のあげられた不審、
  ①中国の古墳から出土していない、

  ②鏡の年号と古墳の推定年代との間のギャップ、

は、これらの鏡が、日本国内で、後代に、卑弥呼の記憶から作られたとする薮田説に従えば解消する。

 岡本健一氏は、著書の中で、「なぜ、紀年鏡はこの「景初」「正始」年間に集中するのだろうか。」という疑問を呈しておられるが(前掲文献7)、薮田説に従えば、これに対して答えることは容易である。紀年鏡が「景初」「正始」年間に集中するのではなく、景初三年鏡と正始元年鏡だけが、卑弥呼の記憶から作られたのだ。卑弥呼の朝貢と関連のない紀年を持つ鏡は作られなかった、作る必要はなかったのだ。

 

参考文献

(1)門脇禎二・森浩一『古代史を解く「鍵」』(学生社 一九九五年)

(2)森浩一ら『京都の歴史を足元からさぐる』(学生社 二〇一〇年)

(3)福山敏男「景初四年鏡をめぐって」『謎の鏡』所収(同朋舎出版 一九八九年)

(4)菅谷文則『日本人と鏡』(同朋舎出版 一九九一年)

(5)王仲殊『三角縁神獣鏡』(学生社 一九九八年)

(6)薮田嘉一郎「和泉黄金塚出土魏景初三年銘鏡考」『日本上古史研究』第六巻第一号(日本上古史研究会 一九六二年)

(7)岡本健一『邪馬台国論争』(講談社 一九九五年)

(8)下垣仁志『三角縁神獣鏡研究事典』(吉川弘文館 二〇一〇年)

(9)王仲殊「日本出土の青竜三年銘方格規矩四神鏡について」『京都府埋蔵文化財情報』第五四号(一九九五年)

(10)森浩一「銅鏡の銘文を読む」『古代日本金石文の謎』所収(学生社 一九九一年)

(11)樋口隆康『古鏡・古鏡図録』(新潮社 一九七九年)

(12)三木太郎『古鏡銘文集成』(新人物往来社 一九九八年)

(13)古田武彦「古代史を妖惑した鏡」『歴史と人物』第8号(中央公論社 一九七九年)

(この報告は、古田史学会報No.124に報告したものを加筆・修正したものである。)


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