『古代に真実を求めて』 第十七集

聖徳太子の伝記の中の九州年号 岡下英男(『古代に真実を求めて』 第十七集)../sinjit17/syoukyus.html

聖徳太子の伝記の中の九州年号

岡下英男

要約

 数多く存在する聖徳太子の伝記には九州年号が散見されるが、それらの殆どは、太子の全生涯を九州年号で表示する『正法輪蔵』に由来することが分った。
 太子の伝記そのものが『正法輪蔵』をもとにして生まれたと見られているが、それらの中に含まれる九州年号には性格の異なる二種類が存在する。一つは、書写の際の消し忘れ的な残存で、日光輪王寺本『太子伝』や醍醐寺本『聖徳太子伝記』などに見られる。二つは、九州王朝の太子「利」の書簡を消息往来説話として聖徳太子の伝記に取り込む際に、『正法輪蔵』との整合を考慮して導入されたもので、天王寺本『太子伝』や『聖徳太子伝秘抄』などに見られる。太子の伝記の生成の過程で、九州年号は、ある場合には無視され、また、別の場合には重視された。

 

第一章 『正法輪蔵』の中の九州年号

1.はじめに

 『正法輪蔵』は、聖徳太子の一生を、一歳一帖の型式で書いた伝記である。太子の伝記の書誌・解説などによれば、その祖形は、四天王寺の絵伝の絵説本えときぼんである。太子を祀る四天王寺の一角に絵堂があり、そこには聖徳太子の一生を表す絵が飾られており、それを説明するための台本として一歳一帖型式の『正法輪蔵』またはその祖形が成立し、それを元に、いくつかの合冊型式の聖徳太子伝が生まれた。
 写本として複数現存する『正法輪蔵』の中で、最も著名で、且つ、その全体像を窺い知ることの出来るのは、いくつかの真宗寺院に分散して伝来する『正法輪蔵』である。この『正法輪蔵』の大きな特徴は、太子の年次が九州年号で表記されていることである。数多くある聖徳太子の伝記の中で、この『正法輪蔵』だけが九州年号を使用している。このことについては、小山正文氏によって、「これ以外の太子伝や注釈書類にも若干の九州年号が見られないではないが、『正法輪蔵』のごとく太子の全生涯をそれで表すというのは他に全くない」と紹介されている(註1)。本報告はこれに触発されたものである。ここでは、『正法輪蔵』の中の九州年号を確認し、九州年号に着目して聖徳太子の伝記の系統を考える。

 

2.真宗寺院に伝来する『正法輪蔵』の中の九州年号の確認

 複数の真宗寺院に散在して伝来する『正法輪蔵』の写本の殆どが翻刻・出版されている。それらの内の一つ、『聖法輪蔵』(註2、ここでは聖の字が使われている)を見ると次のように書かれている。たとえば、
  三歳帖:是ハ太子三歳御時 年号金光五年歳次甲午・・・

  十歳帖:是太子十御歳
       年号ハ鏡常二年歳次辛丑春二月・・・

であり、その他の歳帖もほぼ同様である。「ほぼ」とするのは、各寺院に伝来するものを総合しても帖欠失の歳や九州年号記載の無い歳があるからである。このような『正法輪蔵』に記載された九州年号による太子五十一歳の生涯を、各種の年代資料と合わせて表に示す。五十一箇年のうち、翻刻または影印出版された四種類の写本から九州年号記載を確認し得たのは四十三箇年である(註2)。空白年が八箇年存在するが、空白年の前後の年次から、この間の歳帖にも連続して九州年号が用いられていたであろうと推測される。

 『正法輪蔵』の九州年号を『二中暦』(註6)などと較べると、いくつかの年号で差異が認められる。また、「願転」が無い。「*」印は明らかな書写ミスであろう。

確認し得た『正法輪蔵』の九州年号

西暦 干支 太子 『正法輪蔵』 『二中暦』

『如是院
  年代記』

『聖徳太子伝暦』
     年齢          
572 壬辰 1 壬辰 金光 3 金光 3 金光  3 敏達天皇 1
573 癸巳 2 癸巳 金光 4   4   4   2
574 甲午 3 甲午 金光 5   5   5   3
575 乙未 4 乙未 金光 6   6   6   4
576 丙申 5 丙申 賢称 1 賢接 1 賢称  1   5
577 丁酉 6          2   2   6
578 戊戌 7 戊戌 賢称 3   3   3   7
579 己亥 8 己亥 賢称 4   4   4   8
580 庚子 9 庚子 鏡常 1   5   5   9
581 辛丑 10 辛丑 鏡常  2 鏡当 1 鏡常  1   10
582 壬寅 11          2   2   11
583 癸卯 12 癸卯 鏡常 4   3   3   12
584 甲辰 13 甲辰 鏡常 5   4   4   13
585 乙巳 14 乙巳 勝照  1 勝照 1 勝照  1   14
586 丙午 15 丙午 勝照 2   2   2 用命天皇 1
587 丁未 16          3   3   2
588 戊申 17 戊申 勝照 4   4   4 崇峻天皇 1
589 己酉 18 己酉 端政   1 端政 1 端政  1   2
590 庚戌 19 庚戌 端政 2   2   2   3
591 辛亥 20 辛亥 端政 3   3   3   4
592 壬子 21 壬子 端政   4   4   4   5
593 癸丑 22 癸丑 端政 5   5   5 推古天皇 1
594 甲寅 23 甲寅 吉貴 1 告貴 1 吉貴 1   2
595 乙卯 24 乙卯 吉貴 2   2   2   3
596 丙辰 25 丙辰 吉貴 3   3   3   4
597 丁巳 26         4   4   5
598 戊午 27         5   5   6
599 己未 28         6   6   7
600 庚申 29         7   7   8
601 辛酉 30       願転 1 願転 1   9
602 壬戌 31 壬戌 吉貴 9   2   2   10
603 癸亥 32 癸亥 吉貴 10   3   3   11
604 甲子 33 甲子 吉貴 11   4   4   12
605 乙丑 34 乙丑 吉貴 12 光元 1 光充 1   13
606 丙寅 35 丙未 光宛 1   2   2   14
607 丁卯 36 丁卯 光宛 2   3   3   15
608 戊辰 37 戊辰 光宛 3   4   4   16
609 己巳 38 己巳 定居 1   5   5   17
610 庚午 39 庚午 定居 2   6   6   18
611 辛未 40 辛未 定居 3 定居 1 定居 1   19
612 壬申 41 壬申 定居 4   2   2   20
613 癸酉 42 癸酉 定居 5   3   3   21
614 甲戌 43 甲戌 定居 5*   4   4   22
615 乙亥 44 乙卯* 定居 6*   5   5   23
616 丙子 45 丙辰* 倭京 1   6   6   24
617 丁丑 46 丁丑 倭京 2   7   7   25
618 戊寅 47 戊寅 倭京 3 倭景 1 倭景縄 1   26
619 己卯 48 己卯 倭京 4   2   2   27
620 庚辰 49 庚辰 倭京 5   3   3   28
621 辛巳 50 辛巳 倭京 6   4   4   29
622 壬午 51 壬午 和京* 7   5   5   30

 

3.伝記の分類


 太子の全生涯を九州年号で表すという特異な形式の『正法輪蔵』は、他の太子伝とどのような関係にあるのであろうか。
 阿部康郎氏は『正法輪蔵』から派生した各種の太子伝を甲類~丁類の四種類に分類されている(前掲註4)。阿部氏の分類に筆者の考えを併記してその概略を左に示す。

  甲類 乙類 丙類 丁類
代表史料名 真宗寺院
『正法輪蔵 』
輪王寺本
『太子伝』
醍醐寺本
『聖徳太子伝記』
万徳寺本
『聖徳太子伝』
構成
(阿部康郎氏による解説に九州年号関連の特徴を加えてある)
『正法輪蔵』と題する、基本的には各歳一帖形式の伝本。
太子の全生涯を九州年号で表記する。
甲類と共通本分をもつ冊子形式の伝本。
四箇年の九州年号がある。金光三年に「異説」の付記がある。
乙類と構成を同じくするが異なる本文の伝本。
輪王寺本と全く同じ九州年号がある。金光三年の「異説」の付記が本文に取り込まれている。
目次がある。
甲・乙類と共通する本文を含むが大幅に異文記事(消息往来説話等)を交える伝本。
九州年号は使用されていない。
目次がある。

 

4.九州年号の取り扱い

 聖徳太子の伝記に関する従来の研究では、九州年号は、「私年号」として無視されて来た(註7など)。真宗寺院に伝来する甲類の『正法輪蔵』で九州年号が使われていることが認識されているにも拘らず、である。
 しかし、筆者は、九州年号の有無は、特定の説話の有無などと同様に、伝記相互の比較(近縁関係の有無の考察)に役立つと考える。
 太子の伝記を書写する場合、初めは、体裁を同じにしようとして、太子の年齢や出来事の日付など、元本がそのまま書写されるが、書写が進んで太子の事跡の部分になると、書写者が持っている説話情報を付加するなどの改変が加えられることがあったのではなかろうか。この意味で、書写の系統を考える際に年号表記は重視されるべきと考える。

 

5.伝記の系統

 甲類~丁類の四種類に分類された太子の伝記類はどのような関係にあるのであろうか。先行する諸氏の報告をもとに系統図の作成を試みた。
すなわち、「『正法輪蔵』が、その成立期から室町期に到るまで、四天王寺に伝えられていたことは確か」であり(阿部康郎氏による、註 8)、『正法輪蔵』と輪王寺本が、「祖をおなじくして、分れたもの」であり(阿部隆一氏による、前掲註7)、「日光輪王寺蔵本と万徳寺蔵本とは異種の太子伝記であるゆえ、四天王寺の芹田坊には二種類の太子伝記が秘蔵されていたといえよう。」(小島、渡辺氏らによる、註9)とされる諸氏の説に、輪王寺本と醍醐寺本の関係および万徳寺本と醍醐寺本の関係に関する筆者の検討を加えて作成したものが左記の系統図である。

『正法輪蔵』系統図(岡下英男氏作成)『正法輪蔵』系統図(岡下英男氏作成)


 図の意味するところは次のごとくである。
 甲類と乙類に九州年号があるのだから、それらの共通の祖である四天王寺の『正法輪蔵』には必ずや九州年号があったであろう。その九州年号を忠実に残して書写したのが真宗寺院に伝来している甲類の『正法輪蔵』であり、九州年号を消して書写したのが乙類の日光輪王寺本である。丙類の醍醐寺本は、輪王寺本につながる。万徳寺本は別の伝記につながるが、その目次は丙類の醍醐寺本に利用された。

 

6.消し忘れ的に残存する九州年号

 太子の伝記を、年次の表示に着目して比較し、次のように考える。
 太子の生涯を一歳ごとに項を分って叙述する型式の伝記の元になった『聖徳太子伝暦』では、太子の年次は天皇即位後の年数と干支で表わされているが、『正法輪蔵』では太子の年齢と九州年号と干支による表記となり、それを書写したと見られる聖徳太子伝(輪王寺本と醍醐寺本)では九州年号が消されて太子の年齢だけとなり、それでは不便ということであろうか、万徳寺本では干支が入り、さらに、干支入りの目次が付けられた。この目次は醍醐寺本にも利用された。
 右に述べたように、四天王寺の『正法輪蔵』にあったと考えられる九州年号は、輪王寺本では、何故か消されているが、四箇年だけ残っている。一歳条(誕生)の文中の「金光」、十六歳条頭首と文中の「勝照」、十七歳条頭首の「勝照」、二十二歳条頭首の「端政」である。これと同じ四箇年が醍醐寺本にもある。
 これらのうち、文中に使われている二例は、それを除去すると文の変更となるから消すことが出来なかったとみられるが、頭首の二例は書写の際の消し忘れのように見える。また、『仏法最初弘仁伝』と題する写本は、太子十八歳条~二十四歳条が現存するが、そのうちの十九、二十、二十二歳条の頭首に九州年号「端政」が記載されている(前掲註4の本文)。これも「消し忘れで残っている」ように感じられる。このような、何らかの意図による九州年号の除去の際に消し忘れ的に残存したもの、これが太子の伝記に散見される九州年号の第一の種類と考える。

 

7.先行諸氏の論旨に付加した筆者の検討

 先に示した伝記の系統図の作成にあたって、先行諸氏の論旨に付加した筆者の検討は次の如くである。

7・1 輪王寺本→醍醐寺本の関係(その一、残存する九州年号の干支の間違い)

 輪王寺本に四箇年の私年号(九州年号のこと)、すなわち、金光三年壬辰(太子誕生)、勝照三年丙午(太子十六歳)、勝照四年丁未(太子十七歳)、端政五年癸丑(太子二十二歳))があることは既に指摘されている(註10)。これらのうち、輪王寺本において、守屋との戦いが太子十六歳勝照三年丙午となっているが、翌年の太子十七歳が勝照四年戊申である(これは甲類『正法輪蔵』も同じ)から、勝照三年丙午は「丁未」でなければいけない。「丙午」は間違いである。醍醐寺本も、それに続く文章には差異があるが、年次は輪王寺本と全く同じに書かれている。すなわち、醍醐寺本は輪王寺本と全く同じように干支を間違っているので、輪王寺本→醍醐寺本という書写の系統が考えられる。

 

7・2 輪王寺本→醍醐寺本の関係(その二、「異説」の付記)

 甲類~丙類のいずれにおいても、太子生誕の年の「年号ハ金光三年」と、九州年号が用いられているが、その扱い方に差異が認められる。輪王寺本では、「年」の右に小さく「異説」の付記がある。書写者は九州年号の意味が分からなかったが、これを削除すると文の変更にな るから簡単には削除出来ない、それで「年号」の横に「異説」と小さく付記したのではなかろうか。醍醐寺本では、付記の「異説」を、本文中にやや小さい文字で取り込んでいるから、その書写者は、輪王寺本を見たのであろう。これらは影印本で見ることができる(註11)。ここにも輪王寺本→醍醐寺本という書写の系統が考えられる。

 

7・3 万徳寺本→醍醐寺本の関係(目次の転用)

 醍醐寺本と万徳寺本には目次がある(前掲註11)。万徳寺本の「太子伝目録」と醍醐寺本の「伝記歳序次第」である。一部の歳条の比較を左に示す。両者を比較すると、取り上げられている事跡は殆ど同じであるが、説明は、万徳寺本の方が丁寧である。例えば太子三歳条の内容は、桃花と松葉のいずれを好むかという問答であるが、醍醐寺本は万徳寺本の省略形となっている。
 さらに、醍醐寺本では、目次の十四歳条に、消息往来(消息往来については第二章参照)を意味する「善光寺御念仏善光寺御状遣」とあるが、その歳の本文には、善光寺のことだけで、消息往来は書かれていない。これは、醍醐寺本制作の際、本文は輪王寺本を写したが、目次は万徳寺本から写した、ところが、三十八歳条において、醍醐寺本には万徳寺本に記載されている消息往来の記述が無い、そこで三十八歳条の目次文を十四歳条に持って行った、この条には本文に「抑信州善光寺如来々朝」という善光寺関係の記述がある、干支も「己巳」と「乙巳」で似ていて都合がよい、ということでこのようにしたのであろう。このため、醍醐寺本の目次で卅八歳条は空白(目次文が無い)となっている。

万徳寺本『聖徳太子伝』太子伝目録 醍醐寺本『聖徳太子伝記』伝記歳序次第
三歳甲午  桃花与松葉之御問答 太子 三歳甲午  桃花松葉
十四歳乙巳  守屋勝海連発向興厳寺
         善光寺如来御事
太子十四歳乙巳  守屋勝海仏法破滅
            善光寺御念仏善光寺御状遣
卅八歳己巳  製勝鬘経疏給事 
         於四天王寺七日七夜念仏事
         同善光寺如来御状并御返事
太子卅八歳己巳

 

第二章 「消息往来」の取り込み

1.はじめに

 「消息往来」は聖徳太子と善光寺如来の間に三回の書簡のやりとりがあったとする説話である。この説話は、先の分類でみると、甲類~丙類には記載されておらず、丁類の万徳寺本に見られる。また、先の分類に含まれていない抄出のような太子伝や、善光寺縁起などいくつかの仏書に記載されている。
 消息往来を記載しているこれらの史料を眺めて不審に思ったことは、書簡をやり取りした太子の年齢が一定でなく、また、書簡の日付も一定でない、ばらついていることである。太子の年齢や書簡の日付のように全くディジタルなものが何故ばらつくのか。その理由を以下のように考えた。

 

2.書簡の内容は病床にある「利」の願い

 「消息往来」は、『善光寺縁起集註』(註12)や『蔡州和伝要』(註13)などには三回にわたってなされたと記載されているが、これを記載する聖徳太子伝では、殆どの場合に、一回目のみが記載されている。これについて、当初、三回の全てを記載すると長くなるから他の二回は割愛されたのであろうと考えていたが、そうではないようである。一回目と二、三回目とは性格が異なることが知られていたためであろうと考えるに至った。すなわち、一回目は書簡のやりとりとして実際に存在したが、二回目、三回目は、別の史実を材料とした後世の編集のようである。
 その第一回目のやりとりは左記である。

聖徳太子から善光寺如来へ
  名号称揚七日巳 此斯為報広大恩 仰願本師弥陀尊 助我済度常護念
  命長七年丙子二月十三日  

善光寺如来から聖徳太子へ
  一日称揚無息留 何況七日大功徳 我待衆生心無間 汝能済度豈不護

 書簡の意味するところは、概略、聖徳太子の「念仏行を七日間にわたって行った、私を救い護りたまえ」という願いに対して、善光寺如来が「一日念仏しただけでも息が切れるのに七日も念仏したのは結構なこと、貴方は救われる、私が護らないということがあろうか」と答えたと理解される。
 ここで強調されているのは、「我を救う」と「汝を護る」の意味であって、万徳寺本などの聖徳太子伝にみられる、太子が父の用明天皇の三十三回忌のために、四天王寺の西門で七日七夜の念仏行を行い、その功徳を善光寺如来に尋ねたという説明には合わない。
 『聖徳太子伝暦』を初めとする太子の伝記には、太子が夢殿に七日七夜の間参篭したという記事があり、この「七日」の共通性が消息往来説話の太子伝への取り込みに利用されたと考える。それにしても、書簡には「菩提を弔う」とか「尋ねる」を意味するような文言が見当たらないのに、強引な結び付けである。
 この聖徳太子からの手紙とされる文書についてはすでに古賀達也氏、正木裕氏による報告がある。
 古賀氏によれば、三回の消息往来で合計六通ある書簡のうち、「この「命長七年」文書だけが本物の九州王朝系の人物によるもの」であり、その人物は多利思北孤の皇太子の「利」――すでに倭王に即位しているとみられる「利」――が病に倒れ、自らの救済を阿弥陀如来に願っているのではあるまいかとされている。 (註14)
 正木氏の報告では、日本書紀の、命長七年(六四六)の三十四年後となる天武九年(六八〇)の天皇・皇后の病気平癒記事は、九州王朝の史書からの「三十四年遡上盗用」であり、「命長七年、九州王朝の天子『利』が重病に陥り、善光寺如来への請願むなしく崩御」したことと解し、「古賀氏の考察と三十四年遡上盗用からの考察はぴたりと一致」するとされている。 (註15)
 以上の考察から、「命長七年」の九州年号を持つ書簡を差し出したのは「利」であり、聖徳太子ではないことが理解される。

 

3.聖徳太子の事跡ではない「消息往来」を伝記に取り込むときの年号の処理

 消息往来説話は、善光寺信仰を広めようとする念仏聖が、その手段の一つとして、わが国の仏法の祖とされる聖徳太子と善光寺の間に深いつながりがあったことを示すために、案出・生成されたものであろうと見られているが(註16)、その生成の過程がどのようなものであったにせよ、聖徳太子の事跡ではない「消息往来」を伝記に取り込むにあたって処理しなければならない問題がある。それは書簡の日付である。
 前項に示したように、三回にわたる消息往来の一回目の書簡には、
    「命長七年丙子二月十三日」

という、九州年号による日付が明記されている。この「命長」という年号は真宗寺院に伝来する『正法輪蔵』には存在しない。四天王寺にあった『正法輪蔵』にも存在していなかったであろう。したがって、この書簡を、善光寺の縁起や仏教の歴史などに関する文書の中で、聖徳太子の偉大さを表す一つの説話として単独で扱う場合にはそのままでもよいが、これを太子の一代を表す伝記の中に取り込む場合には、伝記の元になっている『正法輪蔵』の年次表記(第一章に示した九州年号による表示)との整合が必要となる。

 そのために次のような手法がとられている。
① 年号・干支を削除して、示さない   → 月日だけを記す        (万徳寺本『聖徳太子伝』など)
② 年号または干支を変更する      → 命長庚午二月十四日     (大谷大学蔵『聖徳太子伝秘疏』)
                        → 命長七年丁午歳ナリ    (叡山文庫本)
                        → 定光元年癸亥八月十五日  (『法隆寺の謎と秘話』)

 いくつかの伝記などを見ると、①のケースが多いのであるが、年号や干支を、改変して残すケースもある。それらの中には改変の過程を推測できるものがある。
 大谷大学蔵『聖徳太子伝秘疏』(写本、註17)の「庚午」は太子三十九歳に相当し、『正法輪蔵』の干支に合わせてあるが、年号の「命長」はそのままである。恐らく、それの持つ意味が分からなかったのであろう。
 『法隆寺の謎と秘話』(註18)では、「『聖徳太子伝秘抄』などの伝記によれば」として、太子が書簡を三回にわたって善光寺へ送ったとする伝承が紹介されている。その二回目は太子四十一歳のときで、書簡の文面は2項に示したものと同じであるが、左のように二つの日付が書かれている。
   定光元年癸亥八月十五日
   (安居庚午年二月十四日)

 これらの年号の「定光」と「安居」は第一章に示した年表には存在しない。「定光」は、恐らく、「光宛」と「定居」を合併した誤写であろう。また、「安居」は太子四十一歳が「定居」年間であるところからそれに合わせて年号を「定居」とすべきところを「安居」と誤写したと理解される。「安居」には、仏教語として、三ヶ月座禅修行するという意味もあるから筆の馴れもあったであろう。この「定光元年癸亥八月十五日」という日付は天王寺本『太子伝』でも用いられている。(前掲註11)
 このように、「命長七年丙子二月十三日」という九州年号による日付を、『正法輪蔵』の記述にあわせようとする改変、これが太子の伝記に散見される九州年号の第二の種類と考える。

 

4.九州年号をどのようにして知ったのか

 それでは、万徳寺本やその他の太子伝の作者達は、太子の年次の九州年号表記をどのようにして知ったのであろうか。彼等は、「命長七年」が『正法輪蔵』に記載されている太子の年次表記と整合しないことを知っていたから書簡の日付を改変したのである。
 輪王寺本などの書写識語によれば、四天王寺の『正法輪蔵』は、秘伝で、持ち出し不可、拝観するのは起請文を差出した一人だけ、と厳重に管理されていたので、見るのは容易ではなかったと推察される(前掲註4)。しかし、『正法輪蔵』は、もともと、絵伝の説明用台本である。彼らは、絵解きの僧が口頭で述べるそれを聞いて、その中に含まれる九州年号を知った、ということが考えられる。聞き覚えであるから、それを文書化する際に月日などの細かい部分にばらつきを生じ得る。これが、消息往来説話における日付(月日)が史料によってばらついていることの原因であろう。

 

第三章  何故九州年号が使われたのか

 第一章で、四天王寺にあった『正法輪蔵』が九州年号を用いていたと推測した。では、何故、四天王寺の『正法輪蔵』で九州年号が使われたのか。
 現在、善光寺如来から聖徳太子への返報は法隆寺にあるとされているが、永享六(一四三四)年以前成立の『神明鏡』には、消息往来に関して、次のように書かれている。(註19)

太子御文ヲハ善光寺ノ宝蔵ニ納メケルヲ、度々ノ火災失セケルトナン。如来ノ御報ハ天王寺第一宝トテ宝蔵納メテ今ニ有リ

 すなわち、聖徳太子の書簡は火災で失われたが、善光寺如来の返報は天王寺にあるとされている。これから次のように考える。
 聖徳太子の書簡とされるものは、第二章で述べたように、九州王朝の「利」から善光寺如来へ送られたものであるから、如来の返報は病に伏す「利」の許へ届けられたはずである。それでは、「利」はどこで病床にあったのか。如来の返報が天王寺の宝蔵に納められていたということは、その近くに返報が届けられた、すなわち、「利」が、その近辺で病床に臥していたことを意味する。
 さらに、「二中歴」の倭京の項に「二年難波天王寺聖徳建」とある(前掲註6)。これは、九州王朝とゆかりのある「聖徳」という人物が天王寺を建立したと理解される。したがって、九州王朝と天王寺の間に行き来があり、「利」が天王寺またはその近辺に滞在または病に臥していたとしてもおかしくはない。四天王寺はそのように九州王朝と深い関わりを持つ施設だったので、彼の死後、如来の返報を含む遺品が四天王寺に納められ、また、その記憶または残像として、四天王寺の『正法輪蔵』に九州年号が使われたのではなかろうか。

 

第四章 終わりに


 今回の考察により、聖徳太子の伝記類の中に散見される九州年号の由来を明らかにし得たと考える。ただし、万徳寺本に見られる「願転」は『正法輪蔵』とは別の系統の史料からの引用のようで、『正法輪蔵』からはその由来を明らかに出来なかった。
 この報告の「『正法輪蔵』の中の九州年号」の章は古田史学会報No.114で報告したものを大幅に加筆修正したものである。また、「「消息往来」の取り込み」の章は同じくNo.116で報告したものである。会報No.114掲載の報告においては、『正法輪蔵』の編者を、伝本に名前のある「専空」とする説(前掲註2)に沿って考察を進めたが、その後、阿部隆一氏の報告(前掲註7)を読んで、四天王寺に既に『正法輪蔵』があったとするのが妥当である考え、これに沿って伝本に関する考察を行った。ただし、この修正によって、本論文の主題である「聖徳太子の伝記の中の九州年号は『正法輪蔵』由来である」とする結論は影響されない。

 

註1.小山正文「真宗と九州年号――『正法輪蔵』をめぐって――」(「市民の古代」第四集 一九八二年)

註2.「聖法輪蔵」(『真宗史料集成』第四巻所収 同朋舎 一九八二年)

註3.「正法輪蔵」(『日本庶民文化史料集成』第二巻所収 三一書房 一九七四年)

註4.阿部泰郎「仏法最初弘仁伝解題」(『真福寺善本叢刊』第五巻所収 臨川書店 二〇〇六年)

註5.渡辺信勝『聖徳太子説話の研究』(新典社 二〇一二年)

註6.古田武彦『失われた九州王朝』(ミネルバ書房 二〇一〇年)

註7.阿部隆一「室町以前成立聖徳太子伝記類書誌」(『聖徳太子論集』所収 平楽寺書店 一九七一年)

註8.安部泰郎「『正法輪蔵』東大寺図書館本」(「芸能史研究」〈八二〉一九八三年)

註9.渡辺信勝ら「万徳寺蔵『聖徳太子伝』翻刻」(同朋学園仏教文化研究所紀要第二号 一九八〇年)

註10.渡辺信勝「文保聖徳太子伝記」(「国文学 解釈と鑑賞」第五四巻一〇号 一九八九年)

註11.慶応義塾大学付属研究所斯道文庫編『中世聖徳太子伝集成』(勉誠出版 二〇〇五年)

註12.『大日本仏教全書 第一二〇巻』

註13.『大日本仏教全書 第 六六巻』

註14.古賀達也「九州王朝仏教史の研究」(『「九州年号」の研究』所収 ミネルバ書房 二〇一二年)

註15.正木裕「隠された改元」(『「九州年号」の研究』所収 ミネルバ書房 二〇一二年)

註16.嶋口儀秋「聖徳太子信仰と善光寺」(蒲池勢至編『民衆宗教史叢書』第三十二巻所収 雄山閣 一九九九年)

註17.利円『聖徳太子伝秘疏』(大谷大学図書館 余大三七五七 延宝五〈一六七七〉年)

註18.高田良信『法隆寺の謎と秘話』(小学館 一九九三年)

註19.『神明鏡』(続群書類従 巻八百五十二 上 雑部二)

 


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