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『藝能史研究』No. 144
増田修
(1) 『琴歌譜 (きんかふ)』は、いわゆる大歌の楽譜であるが、近衛家が伝えた文書・典籍・美術工芸品などを収める「陽明文庫」所蔵の写本(巻子本)が唯一の伝本である。大正一三(一九二四)年、近衛家が京都帝国大学附属図書館に寄託した古典籍の中から、佐佐木信綱によって発見され、やつと世に知られるようになった。
『琴歌譜』の巻首には「琴歌譜」という内題が記され、巻末には「琴歌譜一巻 安家書 件書希有也仍自大歌師前丹波掾多安樹手傳寫 天元四年十月廿一日」という、天元四(九八一)年に書写したと解される奥書がある。
『琴歌譜』の序文は、漢文で書かれ、「およそ音楽の具、種類多しと雖も、其の雅旨を求むるに、琴歌に過ぎたるはなし」と説き始め、記載した琴歌の楽譜については「点句の形に依り、歌声を表す」、「甲乙六干を以て六絃に配する」などと解説する。
本文は、まず、歌曲名を掲載し、その下に歌詞を万葉仮名で二行に記している。次に、歌詞の声譜が墨書で記載され、琴譜はその右側に朱書で記されているが、和琴の絃番号が示されているのは最初の二曲のみである。歌曲数は一九曲、歌詞は二二首(うち一首は同歌)である。歌曲の記載は、以下の順序で、四つの節日別になされている(便宜、歌曲に番号を付した)。なお、1・2・13・14・17・18・19には、縁起が附されている。
(十一月節)1茲都歌・2歌返・3片降・4高橋扶理・5短埴安扶理・6伊勢神歌・7天人扶理・8継根扶理・9庭立振・10阿夫斯弖振・11山口扶理・12大直備歌(歌詞なし、3と同歌)、
(正月元日節)13余美歌・14宇吉歌・15片降(声譜なし)・16長埴安扶理、自余小歌同十一月節、
(七日節)17阿遊施*扶理(三首)、
(十六日節)18酒坐歌(二首)・19茲良宜歌、
施*は,阜偏に。JIS第四水準ユニコード9641
従って、『琴歌譜」は、一一月の新嘗会から始まって、正月元旦、同七日の青馬の節会、同一六日の踏歌の節会に奏せられる大歌の歌曲の譜と推測されている。
そして、『琴歌譜』は、その原本を「大歌師多安樹」が伝写して所持していたことから、毎年一一月の新嘗会から正月一六日の踏歌の節会に奉仕する大歌人を大歌所で教習するために、和琴歌師の家である多氏が伝えてきた「琴歌」の教本であったと考えられている。
(2) さて、『琴歌譜』の歌謡には、『古事記』・『日本書紀』の歌謡や神楽歌・催馬楽・『古今和歌集』などに見えるものがある。
1茲都歌は古事記歌謡九四番、3片降は神楽歌三六番、5短埴安扶理は年中行事秘抄(五節舞姫参入並帳台試事条)に所引の本朝月令、14宇吉歌は古事記歌謡一〇三番、15片降は古今和歌集一〇六九番・催馬楽二七番・(続日本紀歌謡一番は類歌)、18酒坐歌(二首)は最初の歌が古事記歌謡三九番・日本書紀歌謡三二番、次の歌が古事記歌謡四〇番・日本書紀歌謡三三番、19茲良宜歌は古事記歌謡七八番・日本書紀歌謡六九番と、多少の差異はあるが、それぞれ同歌である(同歌・類歌番号は、土橋寛・小西甚一『古代歌謡集』日本古典文学大系三、一九五七年による)。
そこで、『琴歌譜』の歌謡は、古来の歌謡を宮廷風に編曲したものであって、神楽歌や催馬楽の先駆をなすものと考えられている(小西・前掲書)。従って、『琴歌譜』の楽譜が解読されれば、伝統芸能・民俗芸能などの歌謡音楽の源流でもある、古代の音楽を聞くことができるのである。
ところで、『琴歌譜』は、和琴の絃番号を記した楽譜としては、我国最古のものであるが、古代文学・古代歌謡研究者の間では一般に、未だ解読されていないと信じられているようである。例えば、近藤信義「琴歌譜」(『上代文学研究事典』、一九九六年)は、「琴歌譜の解読が日本の古代音楽再現へのアプローチとなることであろうし、その音楽的解明は楽しみな一面である」という。最近では、保坂達雄「歌論・歌謡」(『古代文学研究史』古代文学講座一二、一九九八年)も、今日の古代歌謡の研究動向を解説する中で、『琴歌譜』の琴譜の旋律が解読されていないことを前提にして、横田淑子の論文「歌謡のリズム ー古代歌謡の定型を探るー」(『日本の美学』一三、一九八九年)が、古代歌謡の復元に大きな示唆を与えてくれると紹介しているに過ぎない。
しかし、『琴歌譜』の茲都歌と歌返の琴譜は、昭和六三(一九八八)年、山口庄司によって、その音階が四音音階で構成されており、六絃に四音が配された和琴によって演奏されていたことが解明され、基本的に解読されている。
本稿では、『琴歌譜』の楽譜の解読と和琴の祖型についての研究史を概観し、山口庄司の琴譜解読によって問われている、今後の研究課題を提示したい。
(1) 佐佐木信綱は、『琴歌譜』を発見し、その大略を紹介する「新たに知られたる上代の歌謡に就いて」(『芸文』一六 ー 一、一九二五年)と題する論文において、「琴歌譜一巻は、わが国の歌謡史の上に、音楽史の上に、国話学の上に、国史の上に、神道研究の上に、寄与する所の尠くない書である」と述べている。
そして、『琴歌譜』の音楽的研究は、土田杏村・田辺尚雄・宇佐美多津子・林謙三・小島美子・岸辺成雄・磯部美佐らによってなされてきた。しかし、山口庄司に至るまで、琴譜を解読しようと試みた者で、その旋律の再生に成功した者はいなかった。
その原因の第一は、『琴歌譜』の楽譜が、後代の神楽譜・催馬楽譜などとは表現方式が異なるため、その解読が困難であったことである。第二は、和琴の調絃の基本となる音階は古来からの五音音階であり、それが六絃に配されており、かつ、和琴の演奏法が絃を掻き鳴らすだけで、歌詞に合わせて旋律を奏するものではなかったために、妥当な調絃法を探り当てることが困難であったからである。
(2) 上田杏村は、「紀記歌謡に於ける新羅系歌形の研究」(『国文学の哲学的研究』三、一九二九年)において、『琴歌譜』の曲譜は、朝鮮系(新羅)歌謡の曲節と我国固有歌曲の曲節を融合同化させたものであり、その譜法は、唐代のものを伝えると考える『白石道人歌曲』(宋・姜尭章)のそれに類似していると指摘した。
そして、土田は、「『琴歌譜』の譜法の根本様式が、既に支那の其れに則つたものであるとすれば、和琴調絃の法は、やはり唐楽により影響せられた以後の其れであると見ることが出来よう。然らば、外側から絃の順序により、絃は壱越(甲)、黄鐘、壱越、盤渉、隻調、平調と数ふべきであらうか。これをト調の音階によつて現はせば、ド、レ、ミ、ソ、ラとなってシが無い」という。また、「手」の符号は、「拍板又は笏拍子の代りに手を打つたのであらう」という。その他の符号については、唐のものの影響は受けているが、その意義は相互一致しないとする。
土田は、「然らば、支那の楽譜を訓む様にして、『琴歌譜』の琴の方の曲譜を西洋式に現はすことは、大体において達せられ始めたのである。なほ、この伴奏の琴の譜がそのまま歌の譜であるかどうかは確定的に言へないことであるけれども、右の琴の譜を見れば少なくとも『琴歌譜』の歌の曲風の大体は知り得よう」という。
しかし、土田は、「以上、私は『琴歌譜』を解読する方法的準備を整へることに幾分か努力して見た。勿論、その考察は結論に達してゐないし、準備も亦解読の仕事の序曲にさへ達してゐない不完全のものである。併し、これ以上の仕事は、私などの如き日本音楽の門外漢がなすべきものでは無い」という。結局、『琴歌譜』の茲都歌・歌返の琴譜を解読できなかったのである。
土田は、唐楽の琴の音階・譜法によって、『琴歌譜』の琴譜を解読しようとした。しかし、中国の琴は、古来、五音徴調を七絃琴に配したものである。六絃の和琴が、なぜ土田のいうような音階・音列で調絃できるのか、何らの検討もしていない。土田のような方法では、『琴歌譜』の解読は不可能であることを示している。
(3) 田辺尚雄は、『日本音楽史』世界音楽講座XIII(一九三四年)において、「琴歌譜の発見によって、上代歌謡の音楽的形式が一部丈けでも知り得られるやうになつたことは日本音楽史上の劃期的の問題である」という。そして、『琴歌譜』に掲載された歌曲のうち、茲都歌・片降・余美歌・茲良宜歌について音楽的考察を加えている。
田辺は、『琴歌譜』の茲都歌に見られる歌詞にある短歌の上句だけを歌い、しかも、その第三句を六回反復している形式は、神楽歌の庭燎が上の句だけを歌うのとよく似ていると指摘する。そして、関口竹治が、国学院大学卒業論文「琴歌譜の研究」(一九三三年)において、田辺によって五線譜に採られた神楽歌の庭燎の歌譜に、『琴歌譜』の茲都歌の歌詞を当てはめて、その第三句がピタリと合うことを証明したという。
また、田辺は、庭燎と茲都歌の両者を比較・対照した五線譜を見て、茲都歌は静歌、すなわち静かに引伸ばして歌われる歌曲、であるということが明瞭であるという。
小島憲之は、「古代歌謡」(『日本文学講座』一・古代の文学・前期、一九五一年)において、「『琴歌譜』の発見によって譜を想定した例」として、田辺の前記論考を挙げる。
しかし、それらの田辺の考察は、茲都歌と庭燎の一部の詞形が似ているので同じように歌えるということに止まり、『琴歌譜』の琴譜を解読し、調絃法を解明したうえでのものではない。
(4) 林謙三は、「琴歌譜の音楽的解釈の試み」(『東洋音楽研究』一八、一九六五年)において、「琴歌譜は、平安初の大歌所に用いた歌謡の譜の一つとみなしてよいものであり、整理編集によるかなりの変形があるにせよ、そのうちに『記紀歌謡』として親しまれている上古の歌謡の、主としてうたいぶりの一面をある程度までよく保存していそうに思われる点に、歌謡文学史のみならず、日本音楽史にも資料的価値をもたらすものである」と評価する。
しかし、林は、「どれだけの音楽的研究がとげられたであろうか。それが寥々であるのは、この譜のもつ独自の表現や、それについての解説(序文)の不備や、類本の欠如などから、楽譜としてもすでに生命をまったく失った死譜と化しているからであろう」と指摘する。そして、「このような死譜を蘇生させようと夢みた音楽学者や篤学者が過去に幾人もあり、筆者も久しい以前から何度となく本譜の音楽的解説に心がけたことがある。しかしいつも成功しなかった。・・・結局この難解の楽譜は神楽譜や催馬楽譜などと表現方式を異にするところが多く、使用された当時でも、師伝なしには了解しにくく編集せられていて、後人がこの謎を解こうとするのをきびしく拒絶するかのようにみえるのである」という。
ところが、林は、『琴歌譜』の琴譜に付された注記・符号の解読を試みた倉野憲司「琴歌譜序私注」(『文学・語学』四、一九五七年)、西宮一民「琴歌譜に於ける二、三の問題」(『帝塚山学院短期大学研究年報』七、一九五九年)、宇佐美多津子「琴歌譜の基礎的事項に関する考察(正・続)」(『学習院大学国語国文学会誌』五・六、一九六一・六二年)らの論文を目にし、その中でも宇佐美の論文に興味をひかれ、琴歌譜解読の試論を発表するに至った。
林は、前掲論文「琴歌譜の音楽的解釈の試み」において、琴歌譜の概要を紹介した後、「琴歌譜とその問題点」として、「記号・符号の解釈」、「拍節の均拍・不均拍」、「歌詞を二段に分けた曲の音楽的処理」、「琴歌、和琴譜の新釈」の五項目を挙げて検討している。そして、最後の「琴歌、和琴譜の新釈」の項目において、『琴歌譜』は、「冒頭の二曲(注、茲都歌・歌返)にだけ、和琴の絃数を注記しているが、もしこの譜が後世の譜のように、単に歌謡の伴奏譜にとどまるならば、それから歌の旋律を引き出すことは初めから断念しなければならない。筆者の予想はその正反対である。・・・本譜の表現の仕方はいかにも歌の旋律を描きだそうとしているとしか見えない」という。
こうして、林は、妥当な和琴の調絃法を探り当てようと試みる。まず、古来からの和琴の調絃は、原理的に大別すると四型におさめることができるが、いずれも六本の絃に五声(そのうち一音は重複)を割り当てるとして、四型(一〇種・補遺一〇種)の調絃法を表に現わした。ただし、『琴歌譜』では、絃を外から数えるので、後世とは逆に絃をおいて調絃したのか、あるいは後世同様に調絃の姿のままを、ただ絃名だけ反対に呼んだのかの二つの解釈が成り立つので実質的には八型となる。更に、五絃だけをもって五声を組み合わせる、あらゆる型の表(和琴五声組織表・二四型一二〇種)を作成して参考とした。
そのうえで、それらの調絃法を用いて茲都歌と歌返を五線譜に現わし、古代歌謡にふさわしい五声からなる簡素な旋律を求めて、一二の条件を付して選別した結果、『琴歌譜』の調絃法として仮説二つを掲げている。しかし、確信はなかなか持てないとして、五線譜化した音譜は発表しなかった。
ところで、林は、右論文で、「わが上古では、初めは狭い音域をもつ、せいぜい三 ー 四声のたぶん不均拍の歌 ーーー 茲都歌の一、二句は三 ー 四声だけで活動する ーーー をうたい、それが次第に五声を完備する歌謡に発展していったものであり、実際にうたわれた記紀歌謡の多くは五声程度の簡素な旋律のものであったと推定される」という。
そして、林は、右論文を『雅楽 ー古楽譜の解読ー』東洋音楽選書一〇(一九六九年)に再録するに当たって、「補説」の中で、「茲都歌の片歌がほとんど四絃四声で現わされている点を参酌して、六絃でも四声に調律した方がさらによいのではないかと、近ごろふと思いついた。・・・いずれこのことはさらに吟味の末、改めて発表することにしたい」と記し、六絃を四音に分配することを示唆している。しかし、一九七六年六月九日、林はそれを果たすことなく亡くなった。
(5) 山口庄司は、林の前記のような考察・示唆に啓発され、『琴歌譜』の茲都歌と歌返に付された奏法楽譜を解読し、その歌声・旋律を甦らせて、「琴箏の源流と古代の楽理(七・八)」(『楽道』五六三・五六四、一九八八年)に発表した。更に、山口は、右論文に補訂を加え、「弥生・古墳時代の琴箏と音楽(下)」(『季刊邦楽』五九、一九八九年)にも、ほぼ同じ内容で、『琴歌譜』の琴譜の解読結果を掲載した。
山口は、「琴歌譜』の序文に、「又以甲乙六干配於六絃」とあり、「又以十干配於六絃」、あるいは「又以甲乙丙丁戊己配於六絃」ではないことに注目した。また、六干は、横笛の相対値音関係を示す穴記号だが、古代学理では絶対値音として扱われている例が多く、六穴=壱越・宮、干穴=平調・商と認識されている。そして、序文の注では、十干の甲以下を順に、各絃に配しているので、「又以甲乙六干配於六絃」は、「また、甲(十干の始め一)=黄鐘・徴、乙(十干の次ぎ二)=盤渉・羽、六=壱越・宮、干=平調・商、からなる四音音階を以て、六絃に分配する」と解いた。
しかし、序文は、音高を表わす記号には触れていない。そこで、山口は、その論文「日本伝統音階の研究」(『日本の音階』東洋音楽選書九、一九八二年)・著書『能音楽の研究・地方と中央』(一九八七年)などで、旋律と音階を解読してきた理論を、『琴歌譜』に応用して六絃の各音高を決定した。
まず、『琴歌譜』は、踊り字を用いてシラブルを何拍延ばすか示しているので、茲都歌・歌返の音価値分布を調べた。音価値とは、旋律の中での存存時問の長短を、高低に変換した評価基準で、高いものが核音=重要な音に該当する。次に、音価値分布を対象に、陽旋律のトニカ・主音を抽出し構成音階を突き止めるための「陽音階理論」を用いて調絃抽出を行なった。
茲都歌の音価値分布は、一絃二六拍、二絃二四拍、三絃六一拍、四絃二九拍、五絃二三拍、六絃一拍であった。これを理論に照合した。そうすると、音価値の著しく高い三絃は、途中終止音にもよく使われるので主核音の黄鐘・Aラとなる。六絃は、一拍ながらも重要な終止音を奏するので、三絃と同音である。以下、途中終止音の多い五絃は核音壱越・Dレ、四絃は平調・Eミ、二絃は浮動音盤渉・Hシ、そして、一絃は五絃と同音・核音Dレとなった。歌返の音価値分布とそれを理論に照合した結果も、茲都歌と全く同じであった。
すなわち、一絃=壱越・Dレ、二絃=盤渉・Hシ、三絃=黄鐘・Aラ、四絃=平調・Eミ、五絃=壱越・Dレ、六絃=黄鐘・Aラとなった。これを、序文の「黄鐘・盤渉・壱越・平調の四音音階を以て六絃に分配する」と較べると一致し、日本音階のルーツ、律音階の祖形と見なせる壱越調徴音階、ソ・ラ・ド・レ(移動ド)が浮上したという。
山口は、序文の「依点句之形、表歌声、其句者・・・此有五種、点者・・・此有二種」に当たる、二〇種ほどの墨書き注記・符号は、微細な旋律変化、歌い方を記譜したものらしいというが、その解析は割愛している。そして、朱書きの「手」記号はリズム・アクセントの指摘記号と解き、絃の重音記号については、外側(高い方の音)を採ったが、内側(低い方の音)は装飾・前打音であろうとした。
こうして、山口は、茲都歌と歌返を五線譜に表わした。茲都歌については、歌いやすい音域であることも手伝って、「ゆったりとした、古代らしいおおらかな旋律が空間に現われ」、歌返は「茲都歌と比べて、かなり複雑な旋律を構成させていた」が、茲都歌の主パターン「ツキアマス」と歌返の「ウエツヤ」が同じパターンを用いていることなど興味深いという。山口が、前掲論文「弥生・古墳時代の琴箏と音楽(下)」に発表した『琴歌譜』の茲都歌と歌返の五線譜化した音譜を本稿の末尾に引用しておくので、解読結果を検証されたい。
山口は、『琴歌譜』の解読結果を振り返って、比較音楽学によって、次のように評価している。
1).平安中期の伝写なのに、六絃の和琴が、埋蔵文化財「やまと琴」(注、埴輪弾琴像・埴輪の琴)と同じオクターブに満たない、原始的な四音音階で構成されていた。従って、応神・仁徳以前の歌声を伝えた旋律だといえる。しかし、四音階の歌曲を六絃に無理して配した結果であろう、折角ある和琴の機能、六絃中の二絃を持て余したような特異な使い方をしていた。
2).古墳時代に五絃琴と四絃琴が共存していた理由は、『琴歌譜』の六絃四音階、あるいは『梁塵秘抄口伝集・巻一二』の和琴調絃に見る六絃五音階のように、必要に応じ核音を重複させて、五絃四音階に調絃させていたからである。
3).和琴だけで琴箏史に例のない、二列・右肩下がりの調絃については、、雅楽に組み入れるため、六絃オクターブに進化した頃になされた(注、その理由を分析して示している)。
4).和琴の絃番号の呼び方が逆なのは、雅楽への組み入れに当たって、高音側を奏者寄りに配する琴箏の歴史的決まりと異なることから、絃番号の数え方はそのままに、奏者位置を逆にした絃番号で呼ぶようにして、実質的に琴箏の歴史に合わせた。
5).古代人は、黄鐘調宮・Aを基音とするド・レ・ファ・ソ四音音階と別に、見事な理論転換で、壱越調徴・Aを基音とするソ・ラ・ド・レ徴四音音階を作り、歌い奏していた。このことは、三韓・唐楽の渡来以前、すでに律音階系で作る(四度と五度音程を持つ)旋律が日本人に好まれていたことを、決定的にした。
6).ところで、五線譜上では、この二つの音階は同じだが、音階の特性は大きく異なる。
ド・レ・ファ・ソ四音音階が、核音三・浮動音一の配分で堅固な構造なのに対して、ソ・ラ・ド・レ徴四音音階は、核音二・浮動音二の配分のため柔軟な旋律を生む特性を持つ。例えば、歌い継がれていく過程で、浮動音がそれぞれ半音下がって陰音階となり、それで出来た旋律が古墳時代に歌われていた可能性が大きく浮上する(注、古謡「子守唄」を四音音階に狭めて、その実例を示している)。
そして、このような陰旋律化されたメロディーが綿々と歌い継がれ、やがて江戸時代初期に箏・三味線と結合して、優美な音楽に変身し、都節を特徴とする近世邦楽を開花・成立させたのではないか。
(6) 山口による『琴歌譜』の琴譜解読の後も、『琴歌譜』の音楽的研究については、横田淑子・若林重栄・猪股ときわなど、幾人かの論文が見られる。しかし、それらは何れも、山口の業績を取り上げることなく、茲都歌と歌返の旋律が復元されていないことを前提にして、琴譜について論じている。
また、『琴歌譜』の文学的研究も、佐佐木信綱・武田祐吉・賀古明・土橋寛らの研究を基礎として、青木周平・猿田正祝・阿久沢武史・斎藤英喜・居駒永幸・井口樹生・矢嶋泉・神野富一らによって進められている。最近では、神野富一が中心となって、従来の研究を集大成し、「琴歌譜注釈稿」として『甲南国文』四三号(一九九六年三月号)以降に順次発表しつつある。しかし、それらの文学的研究も、『琴歌譜』の琴譜解読については、いずれも林謙三の段階までの紹介に止まり、山口の研究には何も触れていない。
山口庄司による『琴歌譜』の解読結果が無視されているのは、従来の古代音楽・古代和琴についての通念からは、受け入れ難いからであろうか? それとも、山口の前記の各論文が、視野に入らないからであろうか? ・・・
(1) ところで、林謙三が『琴歌譜』の解読に当たった当時、和琴の祖型は、どのようなものであり、どのようにして和琴に変身していったと考えられていたのであろうか?
なお、ここでは、和琴とはどのような楽器かについては、平野健次「和琴」(『日本音楽大事典』、一九八九年)に、簡潔にして要領を得た解説があるので省略する。
林は、「和琴の形態の発育経過について」(『書陵部紀要』一〇、一九五八年)において、黒沢隆朝が発見した登呂の木製板琴を始め、関東地方から出土した埴輪弾琴像・埴輪の琴は、和琴の特色の一部を見出すことができるが、絃は「五本が正式らしい」としている。
次に、『隋書』イ妥*国(倭国)伝の「楽有、五絃琴笛」という記述については、『隋書』では五絃(=五絃琵琶)の記事は多いが、我国への五絃琵琶の伝来は奈良時代に入って以後のことであるから、この記述は「五絃琴」と解釈するのが正しいとする。そして、この五絃琴は、埴輪弾琴像・埴輪の琴(以下、両者を一括して「埴輪の琴」という)のようなみすぼらしい琴ではなく、相当高度な絃楽器にまで発展していたと考えている。絃制については、奈良時代前期あたりに、五絃による五声に一声のオクターブ音の絃を加える必要を感じて、六絃が作られたのではなかろうかという。
すなわち、林は、和琴は我国固有の絃楽器であるが、弥生時代の木製板琴から古墳時代の埴輪の琴に見られる原始的な琴が、中国・朝鮮半島の文物の影響を受けて、さまざまな変遷過程をたどって、それとは根本的に差異のある六絃の和琴に発育成長していったのであろうとする。このような見解は、当時の通説といってよいであろう。
この頃までは、木製琴・埴輪の琴の出土例がまだ少なく、出土例についても集成・検討がなされていなかったので、正確な古代の琴の構造・形姿を把握することが困難な時代であった。以下、出土した木製琴・埴輪の琴を集成し、検討した主要な論文を紹介しよう。
(2) その後、水野正好は、「琴の誕生とその展開」(『考古学雑誌』六六 ー 一、一九八〇年)において、発掘された木製の古代の琴(弥生時代から古墳時代後期)を集成して、「板作りの琴」と「槽作りの琴」に分類して、琴尾の突起に五突起と六突起のものがあることを指摘し、それらの形態・構造の変遷について考察している。また、古墳から出土した埴輪の琴(古墳時代後期から六世紀代)には、右の二分類の他に「足作りの琴」があり、四絃と五絃のものが存在するという。
水野は、古墳時代後期は、絃制を始めとする琴形(絃孔を琴頭下端に穿つため琴頭は絃がなく、後に鶏尾琴と呼ばれる遊びの琴面になる)・制作技法(甲作りの採用)など諸方面に、前代と隔絶する大きな展開を見せるが、その背景には中国・朝鮮の影響を説くことができるであろうという。
そして、水野は、「碧りに輝く琴柱」(『美濃の文化』四、一九七九年)において、古墳時代には「琴の琴尾の突起の数と弦数はなお検討しなければならないにしても、四弦、五弦は一般的で、六弦も十分に考えられるところである」としている。
こうして、水野によって、出土した木製琴・埴輪の琴が集成・検討されて、木製琴の琴尾の突起に五突起と六突起のものがあり、埴輪の琴に四絃と五絃が存在することが、明確に意識されるようになった。
水野は、正倉院の和琴(六絃)は、中国の新しい文化の波をうけ、古墳時代の後期に成立し白鳳時代の沖の島の金銅製槽作りの琴(五絃)へと連綿と続き発展した琴制を否定し、明確にその存在を強調する琴制をとっているという。ここに、現在見られる和琴の祖型が成立したという。
(3) 岸辺成雄は、琴に関する研究論文・発掘出土報告などに見られる出土した木製琴・埴輪の琴を実見・検討し、「和琴の祖型 ー出土品を中心にー(上・中・下)」(『雅楽界』五六・五七・五八、一九八一・八二・八三年)において、木製琴を矩形(後の和琴の祖型)・棒形・箆形・台形に分類し、埴輪の琴はすべて矩形に分類する。
そして、矩形の木製琴については、「大小」(実物か雛形か)・「造り」(一枚板・二枚板、甲造り・槽造り・箱作り・脚造り)・「響穴(音穴)」・「集弦孔」・「鵄尾と絃数」(絃数は鵄尾数と同一するとはいえない。鵄尾数は四・五・六を報告するが、四・五は残欠)・「鵄尾は尾部か頭部か」・「琴柱」などの諸点を詳細に考察している。
埴輪の琴については、「演奏像」から弾奏法について考察し、「膝上按撫」(呉床に腰掛け琴を膝の上に横たえ、琴の頭部を演奏者の右に、従って鵄尾部を左にして奏する)・「両手の使用」(両手で絃を弾くように見えるものが多い)などをその特徴として指摘した。埴輪の琴の形態についても細かく観察し、絃数については、四絃と五絃を報告している。
岸辺は、出土した木製琴・埴輪の琴の楽器としての特徴を観察した結果、和琴は単純から複雑へ展開したとは確言し難く、また、中国・朝鮮の琴の直接の影響を認めるわけには今のところ行かないし、むしろ、日本に自生の祖型をもち、自主的な展開・発達をとげて行く要素や傾向の方が多いという。この論文には、岸辺の東洋音楽研究者としての鋭い観察とその見解が明らかにされている。
(4) 山口庄司は、「琴箏の源流と古代の楽理(一・二)」(『楽道』五五二・五五三、一九八七年)において、水野正好・佐田茂・岸辺成雄らの先行研究を踏まえた上で、出土した木製琴と埴輪の琴の構造を観察・測定して、古代の琴(山口は「やまと琴」と総称する)の音階を解明した。なお、山口は、右論文とほぼ同様の内容のものを、「弥生・古墳時代の琴箏と音楽(上・中)」(『季刊邦楽』五六・五八、一九八八・八九年)と題して、発表している。
一九七六年、滋賀県守山市服部遺跡(古墳時代前期)から、六本の突起と響槽を有し、琴頭側が欠損するものの、完全に近い形の木製琴が、四個の琴柱を共伴して出土した。
山口は、この木製琴について、発掘報告書が推定する全長一五〇センチ(現在長一一五センチ)を開放絃長・基音として、仮に四絃四音音階で作る最大音程値、五度の絃長比三分の二を計算すると龍尾から五〇センチの所、五絃五音音階としても六一センチとなり、腐食部分・龍頭寄りに琴柱は立たないことになり、また、琴柱の高さが二・一センチなので、開放絃長はかなり短くなって、龍頭部の欠失は少なかったとする。
そして、琴柱が四本出土しているが、突起が六本あるので、四絃琴として良いかは難しい問題だという。しかし、「琴柱四個の共伴から、古墳時代前期、確実に音階があったことは確実だから、これと・・・埴輪の琴群が四絃優勢であることを加え、古墳時代の四絃琴の調絃法と音階を比較音楽学の手法で浮上させることは困難ではない」という。
すなわち、「三分損益法で琴箏の音階を作る場合、・・・箏類は琴柱の移動により、・・・三分損一に当たる五度の協和音と、三分益一に当たる四度の協和音を響かせながら音階を組み立てていく。そして、このような協和音を用いて絃楽器の調絃と音階を作る方法は、洋の東西を問わず太古から現代に至るまで用いられている方法である。したがって、服部遺跡に見る琴柱の存在も、琴柱の機能を知っていたからであったと言えるだろう」という。
また、山口は、前掲論文「日本伝統音階の研究」において、「音色を楽しむための楽器、バラランバラランと単一音響を奏でるものならば、人型をした柱(ジ)でなく、固定した一本のフレットがふさわしい。・・・中国と同じように・、和琴も古い時代から音階を作る楽器だったに違いない」ともいう。
こうして、山口は、まず、日本は五音音階・ペンタトニック圏に位置するから、その全音音階的五音音列から四音音列の組合せを抜き出すと、可能なものは四例のみとなる。次に、第一絃の龍頭寄りに立てた琴柱の作る音高をC(ド)と仮定、二・三・四絃の琴柱を移動させ、四度の協和音と五度の協和音を用いて、第三絃F(ファ)と第四絃G(ソ)を得る。更に、それで得たC・F・Gを用いて、四度と五度の協和音で得られる第二絃の音高を求めると、Gを基準に四度の協和音で得られるD(レ)のみとなる。従って、日本人が古来から好んでいたことが確かな律音階の祖形と見なされる、ド・レ・ファ・ソ(移動ド)の音階が浮上してくるという。
そして、千葉県山武郡芝山町所在の殿部田古墳と同県同郡横芝町所在の姫塚古墳から出土した埴輪弾琴像と比較することにより、鵄尾を左にして、外側の第一絃をC・第二絃をD・第三絃をF・第四絃をGとする、古代中国から韓国・日本に至る琴箏の調絃に順当に一致する、調絃法が確かなものになっていくという。
殿部田古墳(古墳時代後期)出土の埴輪弾琴像の琴は、長さ一七センチ・中央部の幅七センチ、五突起(一突起欠失)で、外側一突起(欠失部分)を左に、突起と突起の中間から線刻で表した四絃を龍頭端から全長の三分の一ほど手前まで平行に画いている。更に、全長の三分の一弱ほど突起に近いあたりの線刻上に、琴柱を表していること以外考えられない、直径八ミリほどの円板を張り付けた跡(現在は欠失)が並んでいる。これによって、琴柱が妥当な突起に近い所に装着されていたことを、始めて明らかにしてくれたという。
姫塚古墳(古墳時代後期)出土の埴輪弾琴像の琴は、長さ二三・五センチでわずかに鼓型、突起はなく龍尾幅七・二センチの端から、一部を欠失した龍頭幅七・四センチの手前三分の一あたりまで、四本平行にヘラ状工具で力強く引いたV状の溝(幅二ミリから三ミリ)で四絃を表す。龍尾から四分の一あたりの、それぞれの絃上に、直径一三ミリ、厚さ三ミリの円板を張り付けるが、外側が(外側のみ欠失、跡がある)最も龍尾に近く順に龍頭寄りに並べるという特徴を持つ。そうすると、円板は琴柱を表しているから、外側の開放絃が最も長く低い音を発音する第一絃、次が第二絃、次が第三絃、手前の演奏者側が最も短く高い音を発音する第四絃を表すという、琴箏の世界史に一致する配列を用いている。これによって、今まで分からなかった、「やまと琴」の琴柱の着装位置を証明することができ、その結果、調絃法と音階に加えて、絃と琴柱の並べ方まで分かったという。
山口は、これを一歩進めて、五絃の音階について考察した。楽理から見た序列として、四絃琴が先にあって、五絃琴に進化したはずであり、たとえ逆だとしても、両者の音階構造が異なるとは考えられないという。従って、歴史的に見て、日本人が好んだ律音階の祖形に当たる、ド・レ・ファ・ソ(移動ド)よりも一層律音階の形に近づく、第二絃Dを基準に五度の協和音によって得られる、第五絃A(ラ)を加えたド・レ・ファ・ソ・ラ(移動ド)が理論的に抽出される。これが五絃琴の妥当な音階であるという。
山口は、林謙三が六弦に四声を配分することを示唆していることに注目し、かつ、埴輪の四絃琴の音階が四音音階であることを解析していたので、論理の導くままに何の違和感もなく『琴歌譜』の琴譜が四音音階で構成されていることを解読できたのである。
(5) 増田修は、「古代の琴 ー正倉院の和琴への飛躍ー」(『市民の古代』一一、一九八九年)および「『常陸国風土記』に現れた楽器」(『市民の古代』一三、一九九一年)において、水野正好が集成した以降のものも加えて、五〇数例の出土した木製琴・埴輪の琴・金属製雛型琴について、その構造と特徴を分析し、かつ、琴の絃数の持つ政治的・文化的意義を考察した。
木製琴の絃数については、基本的には突起と突起の間に絃を出し、六突起のものは、五絃であることを論証した。そして、六突起の木製琴(五絃)と五絃の埴輪の琴は、主として九州から近畿にかけて分布し、四絃の埴輪の琴は、関東(常陸を除く)に濃密に分布していることに注目した。この分布については、例外もあるが、それらは各地の交流を示していると考えられる。
我国の古代の琴は、元来は王者の宝器で、祭祀に用いられる神聖な楽器であった。古墳時代の琴の絃数の相違は、山口庄司が解析したように、異なった音数で、異なる音域の音楽を演奏していたことを証明している。この事実は、古代日本には、異なった祭祀圏=政治圏が、存在していたことを示唆している。従って、四絃の琴は、関東の大王の政治・文化圏で主として用いられたものであり、五絃の琴は、倭国(筑紫)の政治・文化圏を中心として用いられたものと推定した。
埼玉県行田市所在の稲荷山古墳からは、一一五の黄金文字の銘文が刻され、「辛亥年」(四七一年に該当か)の干支を持つ鉄剣が出土しているが、四絃の埴輪の琴も出土しているのである。この鉄剣に「・・・今獲加多支大王寺、在斯鬼宮時・・・」と刻まれた「大王」は、栃木県下都賀郡藤岡町字磯城宮に所在する大前神社(延喜式以前の名称を磯城宮という)の地に君臨していたと思われる(古田武彦『関東に大王あり ー稲荷山鉄剣の密室ー』、一九七九年・新泉社版一九八七年)。通説は、「獲加多支大王」は雄略天皇であるとするが、雄略が宮殿を置いたのは、長谷(泊瀬)の朝倉宮であって斯鬼宮(磯城宮)ではない。
イ妥(たい)国のイ妥*は、人偏に妥。ユニコード番号4FCO
『隋書』イ妥*国伝には、「楽有、五絃琴笛」とある。イ妥*国は、大委(大倭)国の意であろう。中華書局版では、「五絃・琴・笛」と文字を区切っているが、我国では一般に「五絃琴」と続けて呼んでいる。しかし、『隋書』においては、他の個所では、五絃は総て五絃琵琶を指している。また、倭国の「五絃琴」であれば「柱」があるので、中国における楽器名で「五絃箏」と記録されるであろう。更に、この個所は、倭国の総ての楽器を記録しているわけではない。他の個所には、倭王が、隋の使者裴清を「鼓角」を鳴らして迎えたという記事もある。従って、ここでは、「五絃」は五絃琵琶、「琴」は七絃琴、「笛」は横笛を指していると考えられる。倭国は、すでに中国と同じ楽器も用い、五音音階の文化圏に入っていたと思われる。
ところで、『隋書』イ妥*国伝に見える倭国には阿蘇山があり、その倭王・阿毎多利思北孤は、日出づる処の天子と名乗り、妻(鶏弥)を有し、その後宮には女性が六、七百人いる。従って、この倭王は、女王・推古天皇や摂政・聖徳大子ではあり得ず、九州(筑紫)の王者であろう(古田武彦『失われた九州王朝』、一九七三年・朝日文庫版一九九三年)。
『旧唐書』は、日本列島内に二つの王朝ありとし、一方を倭国伝、他方を日本伝としており、「日本国は倭国の別種なり、・・・倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本と為す、・・・日本は旧小国、倭国の地を併せたり」と記述している。そして、『三国史記』文武王一〇(六七〇)年条には、倭国が国号を日本と改めたという記事がある。
古田武彦は、『旧唐書』に見える倭国は九州王朝、日本国は近畿天皇家を指し倭国の分流(分家)であるという。そして、大宝元(七〇一)年、近畿天皇家は、白村江における百済救国の戦い(六六三年)で唐・新羅の連合軍に完敗して衰微した九州王朝を併呑して、新たに大宝律令を制定したという。大宝二(七〇二)年には、日本国は、遣唐使を派遣し唐王朝によって日本列島の代表王者として承認されたという(前掲『失われた九州王朝』)。
近畿天皇家は、日本国を創建し、諸制度を制定・整備するなかで、琴制については四絃・五絃を廃して、大嘗祭・新嘗祭で使用される大和朝廷独自の神聖な楽器として、新たな六絃の和琴の制を採るようになったのであろう。
ここで刮目されるのは、『琴歌譜』に見られるように、初期の六絃の和琴が四音音階で構成されていたことである。すなわち、和琴は、関東(あづま)の大王の四絃の琴に、その淵源を持つと考えられるのである。「あづま」は和琴の惣名であるとは、よくぞ言ったものである。この事実は、近畿天皇家が日本国創建に当たり、前記稲荷山古墳出土の鉄剣銘に刻まれた大王の後喬による、少なからぬ援護を受けていたことを物語っているように思われる。
(6) 宮崎まゆみは、「埴輪に表現された楽器についての調査概報(その1・2)」(『武蔵野音楽大学研究紀要』二一・二二、一九八九・九一)において、三四例の埴輪の琴・埴輪の撥を整理して、「出土地」・「制作年代」・「コトの大きさ」・「頭部の形」・「尾端の形」・「絃孔・「絃数」・「コト板の構造」・「コト柱など」・「演奏法」・「弾琴人物の人物像」などについて検討し、多くの問題を提起している。この論文は、後に『埴輪の楽器 〔楽器史からみた考古資料〕』(一九九三年)に収録された。宮崎の右著書には、集成した総ての埴輪の琴の写真も紹介されており、必読の文献である。
宮崎は、「埴輪に表現されているコトは、他のコトと区別される儀式用のコト(注、小型のもの)ではないだろうか。・・・その音楽とは、現代の我々が想像するようなメロディックな音楽でなく、単なる音の連続であった可能性が高い」という。そして、現行和琴と、埴輪表現されているコトとは、その構造から見て、関係があるのではないだろうかと指摘し、「現行和琴の基本的演奏方法は、右手に小さなヘラ状のピックを持ち、それで全部の絃を一気に引っ掻く。左手は、絃を並んでいる順番にピチカートする。いずれにしてもいろいろなメロディを弾くのでは無く、各絃を順番に鳴らす単純な奏法である。この特徴もまた、埴輪に表現されているコトの奏法を推測した結果と一致する」という。
宮崎は、一方、それでは出土した古代の木製大型コトは、音楽的演奏を目的とした楽器だったのか、と問われると、それも疑問に思う」という。そして、宮崎は、山口庄司が『楽道』に連載中の前掲論文「琴箏の源流と古代の楽理」も、楽器埴輪資料の収集に当たって情報収集開始の手がかりとしているから(宮崎前掲書「注書」2参照)、山口の論文を読んでいる。そうすると、宮崎は、出土した木製琴・埴輪の琴は歌に沿った旋律を奏でる楽器であるという山口の見解を、疑問視していると思われる。
(7) 笠原潔は、「縄文時代の楽器」・「弥生・古墳時代の楽器」(放送大学教材『音楽の歴史と音楽観』、一九九二年)において、出土した木製琴・埴輪の琴を集成し、解説している。笠原の右著書は、放送大学において柴田南雄が用いた放送大学教材『改訂版 音楽史と音楽論』(一九八八年)の後継教科書である。それは、また、柴田の「古代の楽器遺産」(岩波講座『日本の音楽・アジアの音楽」五、一九八九年)を、更に充実させたものでもある。
この笠原の著書には、「表9 琴」の木製琴の一覧表の注記には、「琴に関する文献は多数に上がるため、省略する。増田修「古代の琴 ー正倉院の和琴への飛躍ー」(『市民の古代』第十一集、一九八九)に詳細な文献表がある」と記されている。また、「表10 弾琴埴輪・埴輪琴」の一覧表については、宮崎まゆみの前掲論文に基づくと注記されているが、宮崎前掲書に掲載されていない埴輪の琴も収録されている。
更に、笠原は、「出土琴の研究(1・2)」(『放送大学研究年報』一二・一三、一九九五・九六年〕において、弥生時代以降の出土琴を対象に、五〇例の木製琴を集成した。そして、「板作りの琴」・「槽作りの琴」・「棒状の琴」に三分類し、「雅楽で用いられる和琴は、これらの琴のうち、槽(共鳴槽)を持つものから発展してきたものと考えられている」として、時代・サイズ・外形・突起数・集絃機構・材質・文献との対応などについて検討している。
この笠原の論文は、現在のところ最も詳細な、古代の木製琴を集成・検討した論考である。木製琴の写真・図面は掲載されていないが、発掘出土報告書など出典が記載されているので、それらによって参照することができる。笠原の論文・著書も、必読の文献である。
(1) 山口庄司による『琴歌譜』の琴譜の解読結果は、古代の和琴が四音音階で四音を六絃に分配しているという、予想も出来なかったものであって、従来の通念からは受け入れ難いであろう。しかし、山口の右解読結果は、次のような問題を提起している。それらの問題は、無視して済ませることができるような性質のものではない。
1). まず、山口が解読した『琴歌譜』の琴譜による琴の伴奏で、茲都歌と歌返が歌われるのを聞けば、古代の歌謡に相応しいものであると感じ取ることができる。もっとも、男性が歌うには、音域をもう少し低くとる必要があろう。そして、声譜(注記・符号)を解読し、歌い方に反映させることも必要である。
山口が再現した琴歌譜の歌謡は、林謙三が「『琴歌譜』の復元」(吉川英史編『日本音楽文化史』、一九八九年)において想定していたような、「上代の歌には、ごく狭い音域の旋律を用いたようです。・・・『琴歌譜』茲都歌の第一、第二句は、わずか三声の朗詠体であるのも、その古い名残りかと思います。・・・上代人の耳に歌の言葉がよくわかる程度の速さは必要だったと思います」というものに該当する。また、それは、小島美子が「古代歌謡のフシのこと」(『日本音楽の古層』、一九八二年)で想定していた、フシ・リズム・メロディなどによる、琴歌譜の歌謡の歌い方の範囲の内に入ると思われる。
2). 次に、山口が、『琴歌譜』の琴譜を解読するに至った過程で適用した理論と方法は、客観的に検証でき、その当否を判定できる。
この点については、小泉文夫が、『日本の音階』東洋音楽選書九(一九八二年)の「解題」において、山口の前掲論文「日本伝統音階の研究」を、「山口氏の研究から教えられる所が多く、非常に示唆に富んだ内容を随所に見出すことが出来る。しかし、アイディアとして新鮮であるが、山口氏の所論の通りに納得できない点も多く、とくに厳密な科学性を志向する余り、かえって数値にたより過ぎる傾向も見られる」と批評したように、『琴歌譜』の琴譜の解読についても、同じような批判が出されるであろう。
しかし、山口が復元した『琴歌譜』の歌謡は、無理なく自然に歌え、かつ、古代の歌謡の特色を備えていることからも、琴譜解読に用いた理論・方法論が、正しかったことを裏付けているのではあるまいか。
3). 更に、山口の『琴歌譜』の琴譜の解読は、和琴の祖型と考えられる古代の木製琴・埴輪の琴についての考古学的資料と音階理論が支持している。
勿論、出土した木製琴・埴輪の琴についての観察結果やその解釈について見解が分かれる点は、多々あろう。しかし、すでに木製琴は五〇例、埴輪の琴は三四例をそれぞれ超えている現在、自らそれらを再検討し、考察することが可能な時代なのである。
初期の和琴が、四音音階で調絃されていたことは、古墳時代には四絃の埴輪の琴が存在していたことからも、あり得ることなのである。また、我国の古代の関東に、四音音階の琴があっても不思議はない。黒沢隆朝は、『音階の発生よりみた音楽起源論』(一九七八年)において、第二次世界大戦前には、インドネシア・台湾に四音音階の音楽が存在していたことを調査・研究し、五音音階は四音音階から発展したことを論証している。
4). そして、『琴歌譜』の文学的研究に関しては、茲都歌と歌返が、山口が比較音楽学によって評価したように、「応神、仁徳大王以前の歌声を伝えた音楽」であるとすると、『琴歌譜』の原本の成立年代や収録されている歌謡の成立年代、歌謡の解釈などについて、再検討する必要があろう。
そのためには、山口が行った『琴歌譜』解読結果の比較音楽学による評価を検証・再検討することが、最初にしなければならない今後の研究課題である。
5). しかも、古墳時代の我国に、四音音階の地域(関東)と五音音階の地域(九州から近畿)が存在していた事実は、当時の我国には異なった祭祀圏=政治圏が存在していたことを示唆している。従って、近畿天皇家が、八世紀初頭には、正倉院の和琴に見られるように六絃の和琴(しかも、初期の和琴は四音音階)を用いるようになり、四絃・五絃の琴が消滅していった事実は、その頃、近畿天皇家が九州から関東にかけて日本列島を統一したことを窺わせる。
そうすると、それまでの古代の日本列島には多元的な王国・王権が存在したと思われ、従来の『琴歌譜』の文学的研究の前提も問い直す必要があろう。
勿論、埼玉県行田市所在の稲荷山古墳から出土した鉄剣の金象眼銘に出現する「大王」が関東の大王であるという説、および大宝元(七〇一)年に近畿天皇家が我国を統一するに至るまで、筑紫に日本列島の代表王者が先在したという九州王朝説は、容易に受け入れられることはないであろう。しかし、近畿天皇家一元史観では合理的な説明ができない記録が、中国の正史『隋書』イ妥*国伝、『旧唐書』倭国伝・日本伝、その他『日本書紀』自体にも見られるのである(古田武彦「多元的古代の成立」)・『史学雑誌』九一 ー 七、一九八二年。後に『多元的古代の成立』上巻 ー邪馬壹国の方法ー、一九八三年に収録)。
以上のように、山口庄司による『琴歌譜』の琴譜解読は、我国の古代音楽を、古代の琴は歌のメロディに沿って弾くこともないというような、幼稚なレベルにあるものと捉えていた通念のみならず、近畿天皇家一元史観から組み立てられている古代文学・古代音楽研究の枠組みに対しても、根底から再検討を迫るものである。
ここまでは、『琴歌譜』に関する研究史として、引用した著書・論文等の筆者名について敬称を省略したが、御寛恕を願うものである。
(2) 私が、このような『琴歌譜』の琴譜の解読と和琴の祖型についての研究史を書くに至った経緯は、次の通りである。
一九八八年五月、古代の琴についての論文を書く準備のため、神奈川県横須賀市所在の蓼原古墳から出土した埴輪弾琴像を観察しに、横須賀市人文博物館を訪問した。その際、同博物館の大塚真弘氏から、右埴輪弾琴像の四絃琴を復元して演奏しておられる、新倉喜作氏(湘南古典音楽研究会主宰)・新倉原子氏(一絃琴・京極流箏曲・中国古箏・古琴演奏家)夫妻を紹介された。
それからしばらく経って、古代の琴に関する。主要な報告書・論文の検索・収集は終わりに近づいたように思った頃、新倉涼子氏の演奏会の日に、新倉喜作氏から岸辺成雄氏に紹介していただいた。岸辺氏に、古代の琴の研究に当たり、更に読むべき論文について教えを請うたところ、山口庄司氏が『楽道』に連載中の「琴箏の源流と古代の楽理」を読むようにと勧められた。
山口氏の『琴歌譜』の琴譜解読については、その翌年五月に書き上げた前掲論文「古代の琴 ー正倉院の和琴への飛躍ー」に援用した。その後、少しずつ『琴歌譜』に関する論文を収集して読んではいたものの、他の関心事に心を奪われている間に、約一〇年過ぎ去ってしまった。その間、古代文学・古代歌謡の研究者の間では、『琴歌譜』の琴譜の解読が待たれていながら、何故か山口氏の研究は取り上げられることもなく今日に至った。
そこで、『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型についての研究史を纏めてみた。各分野の研究者、特に若い研究者が、本稿によって古代文学・古代音楽に対する探究心を刺激されて、新たな視点から『琴歌譜』の研究に取り組むことを期待したい。
なお、「『琴歌譜』研究・参考文献目録」は、横山妙子氏の協力により文献を収集し、共同して作成したものである。
History of the Performing Arts No.144
January 1999
Articles
An Analysis of Kinka-fu: Toward the Reconstruction of Ancient Ballads of Japan
MASUDA, 0samu
The Japanese Society for History of the performing Arts Research
Kyoto,Japan
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(注)
「古代の琴」は、そのご研究を続け、「研究史・『琴歌譜』に記された楽譜の解読と和琴の祖型」と題する論文になり、『芸能史研究』第144号(芸能史研究会・1999年1月)に掲載されました。
「芸能史研究会」は、林屋辰三郎先生が会の代表者をしていた、芸能史の研究会です。(住所・電話番号は略)
追伸
増田修氏より、うえのような連絡をいただき、さらに藝能史研究会から掲載の承認を受けました。
2008年 7月 7日 インターネット事務局 横田
「古代の琴」(『市民の古代』11集)へ
『常陸国風土記』に現われた楽器(『市民の古代』第13集)へ
「楽府」の成立 -- 「来目歌」から「久米舞」へ 冨川ケイ子(『古代に真実を求めて』第七集