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市民の古代 第10集 1988年 市民の古代研究会編
特集2 ーーよみがえる古伝承

多胡碑の「羊」と羊太夫伝承

増田修

一、はじめに

 多胡碑の碑文中の「羊」とは何かについては、江戸時代以降今日に至るまで、説が分かれて枚挙にいとまがない位である。しかし、現在では、尾崎喜左雄氏(元群馬大学教授)が唱えた人名説が最有力となっている。尾崎氏は、「羊」とは吉井在住の新羅系の渡来人豪族の名前であるという。
 一方、多胡碑は、地元吉井の人によって、羊太夫伝説の主人公羊太夫の墓と信じられ、神様として祀られてきた。
 そして、羊太夫の子孫の第一に挙げられるのは小幡氏であり、次は多胡氏、その次は小暮(木暮)氏または甘田(天田)氏などであるといわれている。
 ところが、江戸時代に筆録された羊太夫伝説によると、羊太夫は天児屋根命の子孫であるという。また、羊太夫伝説には、羊太夫が都へ日参するときの従者八束小脛には羽が生えており、戦に破れた羊太夫は蝶に化して逃げるという神話的要素がある一方で、羊太夫の家臣および討伐軍の将士の姓名ならびに戦闘状況などが戦国時代の様相を帯びている。しかも、羊太夫の子孫と言われている小幡氏は、祖先が勅命によって羊太夫を誅伐し、羊太夫の旧領を賜わって、小幡と改姓したともいわれている。
 そこで、「羊」=新羅系渡来人説の根拠を検討し、次に、「羊」は、羊太夫伝説の羊太夫と同一人物といえるか否かを、羊太夫伝説の分布状況とその内容から検討してみよう。最後に、「羊」あるいは羊太夫の子孫は、果して小幡氏や多胡氏などかについて検討しよう。

 

二、「羊」=新羅系渡来人説

 「羊」は、新羅系渡来人であるという説は、江戸時代にも存在した。尾崎氏が第二次世界大戦後、この説を集大成し、多胡碑の所在地である吉井町をはじめとする群馬県の地方史誌では、定説的地位を占めている。

 1 新羅系渡来人説の根拠を列挙すると、次のとおりである。
(1).多胡郡は、和銅四年(七一一)に、甘楽郡から織裳・韓級・矢田・大家の四郷、緑野郡から武美郷、片岡郡から山等郷をさいて設置された。
 甘楽郡は「カラ(韓)」の郡であり、織裳・韓級のような渡来した韓人の住地とみられる郷名がある。矢田郷は、現古君(韓矢田部造)が連れ帰った渡来人を安置した所と思われる。
(2).多胡郡の胡は、外国や外国人を指す。多胡郡は、渡来人の多く住居した郡である。
(3).『日本書紀』の仁徳天皇五三年(三六五)の条に、上毛野君の祖竹葉瀬の弟田道が新羅を征し、四邑の民を捕虜にしてきたとある。田道は、この四邑の民を、本貫地上毛野に移したと推定される。
(4).『続日本紀』の天平神護二年(七六六)の条によれば、上野国の新羅人子午足ら一九三人が吉井連と賜姓された。吉井連は、その名称から吉井に居住した。戸主一九三名は、四郷にあたり、新羅の四邑の民に相当する。
(5).上野国分寺跡から出土した文字瓦に「吉井」のへら書きのあるものが見える。吉井連が、寄進したものと思われる。
(6).吉井町大字矢田字千保原から「□井連里□」という、奈良時代の文字瓦が発見された。吉井連の一族の人名ではないかとみられ、吉井連が矢田郷に住んでいた物的証拠である。
(7).上野国分寺跡から「羊」とへら書きした文字瓦が多数出土している。多胡碑の「羊」が寄進したと推定される。
(8).吉井町大字黒熊字塔之峰からは、「羊子三」というへら書きの文字瓦が出土した。
(9).古代文献にみえる人名「羊」の出自は、その大部分が渡来人である。
(10).渡来人には、氏や姓がない者が多い。「羊」は姓氏を持たないので渡来人であろう。氏や姓のない者でも、郡司に任命された例はある。
(11).「羊」・「子午足」・「羊子三」の三人の名を並べてみると、順次関係ある人物のように思える。羊は未でもあり、子と午は十二支を代表するもので、子午足を羊の子とみることもできる。羊子三は、羊の子の三番目の子とみれば、子午足の三子という意味になる。

 以上の論拠から、多胡碑の「羊」は、吉井在住の新羅系の渡来人豪族の名前である。多胡郡は、渡来人、特に新羅人を主体として、郡司には「羊」が任命されて建郡された郡である。そして、多胡碑は「羊」が建郡を祝って建てた記念碑であるという。

 2 それでは、「羊」=新羅系渡来人説の根拠を、順次検討してみよう。
(1).甘楽(良)郡の甘楽は、和名抄では「加牟良」と訓んである。甘楽に「カラ(加羅)」の名を立てるのは、「カムラ」の唱呼に背くという批判がある。
 「織裳」とは、裳を織ることで機織を指すというが、渡来人系の部といわれる錦織部・呉服部が郷名についているのとは異なる。織物の生産は、渡来人の独占ではない。魏志倭人伝では、倭国が倭錦・異文雑錦を貢献したという。
 「韓級(辛科)」にしても、シナ(科)とつく地名は更科・立科など多い。シナは樹名であって、カラシナは木綿布にも匹敵する柔軟な樹皮の名であり、信州秋山の樹皮製の衣服であるアンギンやバタも、韓人に学んだ織法ではないといわれている。
 「矢田」は、八田とも書かれ、邑楽郡にも八田郷がある。また、天平勝宝四年(七五二)上野国新田郡淡甘郷戸主矢田部根麻呂の名が、正倉院御物の墨書銘にみられる。現古君(韓矢田部造)は、新撰姓氏録によると、神功皇后時代の人で上毛野君の一族である。上毛野君の本貫は、群馬県東部(東毛)であるから、現古君の本貫も東毛にあり、連れ帰った渡来人も身近な所に安置したのではあるまいか。
 渡来人は、西毛よりむしろ東毛に在住していたと思われる。
 すなわち、勢多郡を中心として東毛には、渡来人が崇敬したと考えられる「村主」・「勝」と称する神社が九社ある。
 また、五世紀には、東毛では礫槨を主体部とする古墳が導入されるのに対し、西毛では舟形石棺を主体部とする古墳がみられるようになる。舟形石棺は、北九州の弥生期の割竹形木棺の系統を引く。東毛に本貫地を持つ上毛野君の一族は、招来した貴重な渡来人を、舟形石棺地域のような異なる文化圏に置くよりも、自己の本貫地に置いて、活用したのではなかろうか。

(2).多胡碑の多胡は、タゴと読まれ、多古とも書く。片岡郡にも多胡郷がある。多胡は、駿河・信濃・加賀・越中等にもあり、田子・多古等と通じる。タゴとは、通常は桶または農夫(田を作る人)をいい、胡人が多いという意味はない。
 また、「胡」は中国の北方に住む匈奴などを指す。奈良時代に「胡」が、韓人や渡来人を意味する言葉として使用された例があるのだろうか。

(3).田道は、上毛野君の祖であるから、本貫地も東毛であったと考えられる。新羅の四邑の民も、現古君と同じく西毛の吉井ではなく、本貫地の東毛に移したのではないか。

(4).吉井の地名は、古代からあったわけではない。天正一八年(一五九〇)徳川家康から、この地を与えられた菅沼定利が、城を築き、飯吉と称していたのを、吉飯のち吉井に改めて出来たものである。
 ところで、『箕輪軍記』(一七世紀以降成立)には、永禄六年(一五六三)の武田信玄の箕輪城攻めの際に、落城した小城の一つに吉井を記している。また、『後上野志』(江戸時代の地誌)に吉井は、北条の時松田尾張守康秀が住んだという。これらは、『箕輪軍記』・『後上野志』成立時の地名、すなわち飯吉が吉井に改められた後の地名でもって書かれていると思われる。それは、『後上野志』では、吉井は公田庄といい、壘城は町の北に在り、と述べているからである。
 なお、田道が虜とした新羅の四邑の民と上野国の新羅人子午足ら一九三人は、同一の単位として比較できるのであろうか。田道の頃の新羅の邑が八世紀の日本の郷と同一単位なのか不明であるし、『続日本紀』の書き方からみると、一九三人は一九三戸ではない。

(5).上野国分寺の僧寺・尼寺の中間点の東国分寺・元総社間道路拡張工事中「吉井」と「吉」と書いた文字瓦が出土している。
 一方、この文字瓦の「吉井」と全く同一人の筆跡とみられる「吉井」という文字瓦が、新田郡九合村東矢島道風山(現、太田市)付近の畠から出土している。この外に「吉」「手」「馬甘」と書いた、国分尼寺出土の礎出土のものと同様のものが発見されている。この地は、古くから「やくじ」と呼称され、多数の瓦片を出土しており、薬師寺という寺の跡と考えられている。
 東毛には、新田郡笠懸村鹿字山際阿佐見と同字田沢に、国分寺軒瓦生産窯と目されるものがある。この瓦窯は、国分寺だけではなく近くの上植木廃寺や寺井廃寺にも、瓦を供給していたことが判明している。多胡郡から新田郡へ瓦を運ぶ必要性は全くない。
 したがって、新羅人吉井連は、西毛の吉井町ではなく、上毛野君の本貫地の東毛に在住していたと考えるべきであろう。

(6).「□井連里□」の□井は、吉井と特定できない。吉井の近くには、平井、岩井、金井などの地名がある。これらの地名の方が、吉井よりも古い地名である。吉井は、江戸時代につけられた地名である。

(7).上野国分寺跡から出土した「羊」と書かれた文字瓦を、多胡碑の「羊」が寄進したとみることは許されよう。吉井町多比良字未沢には、国分寺軒瓦生産窯と認められるものがある。

(8).「羊子三」の文字瓦は、最近では「辛子三」と読むべきであるという説が有力である。

(9).正倉院文書にみられる羊には、北九州を中心に秦部羊が多くいる。しかし、物部羊など渡来人とはみえない羊も多数おり、羊とあれば渡来人というわけではない。

(10).多胡碑の「羊」が姓氏を持っていないとは断定できない。多胡碑は、羊が一人称で書き、他の三面のいずれかに姓氏を名乗っていたと考えられる。青木昆陽は「夜話小録」(延享二年、一七四五)で、「碑文の右に大文字ありつる様に見ゆ、後ろと左の方より今の正面の文字の見ゆる所まで碑文書続けたる様なり、今の正面は元来碑の左なるべし、三面は文字欠て見へず」という。

(11).羊・子午足・羊子三は、順次関係ある人物であるという説明は想像の域を出ない。
 吉井連子午足が東毛に在住し、羊子三は辛子三となると、三者は関係がない。

(12).渡来人を以て建郡する場合には、『続日本紀』はその旨を明記している。
 すなわち、霊亀元年(七一五)七月「尾張国の人外従八位上席田君邇近及び新羅人七十四家を美濃国に貫し始めて席田郡を建つ」、霊亀二年(七一六)五月「駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野七国の高麗人千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、始めて高麗郡を置く」、天平宝字二年(七五八)八月「帰化新羅僧三十二人、尼二人、男十九人、女二十一人を武蔵国の閑地に移す。ここにおいて、始めて新羅郡を置く」とある。
 また、『日本書紀』・『続日本紀』とも、東国における新羅人の動向については、かなり詳細に記述している。
 ところが、『続日本紀』は、多胡郡を別置するに当って、新羅人には全く言及していない。

 3 以上により、多胡碑の「羊」が、新羅系の渡来人であるとするには、その根拠が極めて薄弱であるといわざるを得ない。
 なお、韓級郷(吉井町神保)の辺を百済庄といったことがあったり、天平勝宝八年(七五六)の東大寺献物帳の御屏風百畳に該当するといわれる、正倉院御物の楷布屏風の袋の墨書銘に「上野国多胡郡山那郷戸主秦人  高麻呂庸布一段」というものがあるので、多胡郡に渡来人が住んでいたことは確かであろう。しかし、これらから直ちに、多胡碑の「羊」が渡来人であるともいえない。

 

三、羊太夫伝説

 羊太夫伝説で、筆録された写本や地方史誌等に集録されているものは、私が調査しただけでも二十数種ある。
 各種の羊太夫伝説にほぼ共通するストーリーは、次のようなものである。

 昔、この地に羊太夫という者がいて、八束小脛という従者に馬を引かせて、都に日参していた。あるとき、羊太夫が昼寝をしている小脛の両脇を見ると羽が生えていたので、いたずら心から抜き捨ててしまった。そのため、羊太夫は参内できなくなった。
 朝廷は、羊太夫が姿を見せなくなったので、謀反を企てていると考え、軍勢を派遣し羊太夫を討伐した。落城間近となった羊太夫は、蝶に化して飛び去ったが、池村で自殺した。

 ところで、羊太夫伝説の羊太夫が、多胡碑の「羊」と同一人物であるとするには、羊太夫伝説の分布と内容が、和銅四年(七一一)多胡郡の郡司となった「羊」にふさわしいものでなくてはならない。

 1 そこで、羊太夫についての伝承がある寺社・旧跡・地名・行事などの名称を列挙し、それらの創立年・所在地・伝承内容を紹介しておこう。

羊大夫伝承分布図

1. 若宮八幡 藤岡市牛田
 羊太夫の奥方を祀る石宮。羊太夫の家臣中尾源太宗永の子孫という中尾喜代三氏の家の前にあった。現在は、椿森神社(藤岡市本郷)に合祀。羊太夫を攻める軍勢が牛田を通り、多胡へ向ったという。
2. 宗永寺 元和元年(一六一五) 藤岡市上落合
 羊太夫の菩堤寺。中尾(長尾)宗永の開基。宗永は、この地の郷士で、織田信長に仕えたともいう。宝積寺(宝徳二年・一四五〇、甘楽町小幡、小幡氏の菩堤寺)の末寺。
3. 七輿山古墳 六世紀中期 藤岡市上落合
 羊太夫の妻妾七人が自害し、輿とともに葬り、塚を築く。羊太夫の墓ともいう。落城して、羊太夫の一族がこの地で落合ったので、落合の地名が起る。
4. 般若寺 藤岡市白石
 羊太夫自身が書写した大般若経一巻を納めた。また、普門品一巻を、白石の野塚に納めた。
5. 延命寺 文禄元年(一五九二) 吉井町黒熊
 小幡羊太夫の家臣黒熊太郎の古跡。宝勝寺(大同二年・八〇七、甘楽町金井)の末寺。
6. 随雲寺 永禄年中(一五五八〜一五七〇) 吉井町馬庭
 羊太夫の龍馬が、雲に乗って去った古跡。
7. 龍馬観世音 吉井町馬庭
 堂内に八束小脛の像がある。そばの神馬橋は、羊太夫の白馬が倒れた所。羊太夫が乗馬の調教をした所を馬庭という。
8. 今泉 吉井町今泉
 羊太夫が秘蔵した名馬を出した所。馬泉といったが、後今泉という。羊太夫の名馬を埋めた所を馬埋といったが、後今泉ともいう。
9. 多胡碑 和銅四年(七二) 吉井町池
 小幡羊太夫宗勝の遺骸を埋葬して、碑を建立した。羊太夫の墓。
10. 弥勒寺 鎌倉時代(一一九二〜一三三三) 吉井町小棚
 羊太夫真筆の大般若経の一節がある。実物は、慈光寺にある貞観一三年(八七一)安倍小水麻呂(羊の孫ともいう)が書写させた大般若経の一節。
11. 辛科神社 大宝年間(七〇一〜七〇四) 吉井町神保
 多胡郡の総鎮守。私部羊(比都自)太夫が祖神として速須佐之男命、五十猛命を祀る。明治年間、塩野光清(羊太夫の家臣)を祀る鎧神社(吉井町塩)を合併した。
12. 八束観音寺 寛永年間(一六二四〜一六四四) 吉井町神保
 羊太夫の守本尊千手観世音(伝、行基作)を祀る。明治一八年廃寺となり、仁叟寺(応永年間・一三九四〜一四二八、吉井町神保)に安置。仁叟寺には多胡碑の模刻がある。
13. 蓮勝寺 和銅年間(七〇八〜七一五) 吉井町塩
 羊太夫の菩堤寺。羊太夫が武運長久を祈らしめた。明治四〇年延命院(延徳二年・一四九〇、吉井町吉井)に合併され、延命密院となる。
14. 八束城跡 戦国期? 吉井町塩
 城山ともいう。羊太夫の居城跡。近くの東谷・塩境の山中に、羊太夫の足跡という岩がある。
15. 塩不動尊 吉井町塩
 羊太夫が、軍用金を埋めた所。
 落城して羊太夫が近くの落合(吉井町東谷)に来たときの歌が残っている。
 朝日さす夕日輝く駒行かず、小判千枚 朱が千枚。
16. 大沢不動尊 奈良時代(七一〇〜七九三) 吉井町東谷・大沢
 藤原将監勝定夫妻が、不動尊に祈願し、羊太夫宗勝が生まれた。近くに、羊太夫が乗って天から降りてきたという舟石がある。近くの城山の中腹から不動尊に、羊太夫が鳥になって通り抜けた鳥穴という長いほら穴がある。羊太夫謀反の時、官軍が朝敵討滅を祈誓した。不動尊に、鳥穴という間道があることを教えられ、ここから攻めたので、八束城が落城した。境内末社に、多治比真人を祀る多胡社がある。明治一〇年、大沢不動尊を住吉神社と改称した。
17. 長根 吉井町長根
 羊太夫がいた所。ここから牛に乗り、毎日大内裏に参観した。
18. 新屋 甘楽町新屋
 上野国権大目となった羊太夫が、新しい屋敷を建てた。羊太夫の屋敷跡がある。
19. 城山(天引山・朝日嶽) 甘楽町天引
 羊太夫が砦(望樓・城)を構えた所。
20. 萩宮神社 甘楽町小幡(善慶寺)
 羊太夫を慕って都から来た姫、小萩の方が、羊太夫の死を知って、悲嘆の余り病歿したので、村人が石碑を建て葬った。近くに、小萩の乗って来た白牛が、水を飲んだ牛井戸という所がある。八束小脛の墓ともいう。
21. 諏訪・熊野両社 霊亀年間(七一五〜七一七) 甘楽町小幡(町谷)
 境内の宗福寺の鎮守縁由・再興を記した石碑(元文五年・一七四〇)に、霊亀年中、開基小幡の宗祖安芸藤松朝臣貞行が、天引邑の小幡羊太夫を勅令によって誅伐し、上信武三国を賜わり、小幡と改姓したとある。石碑の全文は、次のとおりである。

當山鎮守之縁由

   當山鎭守之縁由再興之記
蓋案當山鎭守熊野三所懽*現者當寺開基小幡之宗租*安
藝藤松朝臣貞行
人從碓氷勸請*也又諏訪上下明神右之
城主當子元正天皇靈亀年中恭敕命而誅伐天弓邑小幡
羊太夫宗勝
(雄)士之後四邑建立上下神殿是其一
於是從朝廷賜貞行上信武三箇國姓改小幡云云□□
□□立二宮共□記草當固有故乎考和漢合(避)等(鍵)
元正天皇靈亀年中至元文年中凡□□□餘年也傳聞兩
社*之神宮創建之後□□年□而□□顛*倒也是故貞行公
末孫小幡左衛門尉高行人將造営佛□□□村再修□□
□□□□□□而及干荒廃也以此當邑之願主同其志欲
再修造之而應其分量持処再(禹*)以為工人之料也於
時元文五申年使同(秋畑村)匠人中條清臣全斧□鑿
之功矣伏願依此功不(中)力(□)土長□□□□
□□不侵當所安穏而千祥永生也       詞白

兩社神宮三所殿  造營再就既千
願依不宰功勲力  餘祐永傳万〃年
 元文五庚申稔九月吉祥日小幡山崇福*禪
 寺嗣法小沙門 播龍祖*快謹誌

當山鎮守之縁由再興之記

図の「再興之記」を見て確認して下さい。
懽*は、阜偏の代わりに木編。
顛*の別字。JIS第3水準ユニコード985A
請*、禹*は表示できず。
租*、社*、福*、祖*の禾偏は、示編です。

22. 厳島神社 養老年間(七一七〜七二四) 甘楽町小幡(轟)
 安芸広島の人、広島宿弥が、小幡羊太夫を討滅し、厳島より勧請した。
23. 国峰城跡 甘楽町秋畑
 始め羊太夫、後に小幡氏が住んだ所。秋畑の枇杷沢から片角という所に行く途中の川の沿岸に、大磐石があり、羊太夫の足跡があった(現在は、砕かれてない)。
24. 羊太夫の産湯の井戸 甘楽町秋畑(内久保)
 羊太夫が産湯をつかった井戸。近くの宇野明神のあたりが、羊太夫の誕生地。羊太夫は、八束小脛ともいわれる。羊太夫は成長後、田篠に住み、一族が機織に従事したので、小幡と呼ぶようになった。
25. 那須の獅子舞 甘楽町那須
 羊太夫は、那須で獅子舞をやった。藤岡市小柏下組、下野田その他藤岡市近辺では、羊太夫に獅子舞の伝授を受けた部落は多い。
26. 牛田城跡 甘楽町額部
 羊太夫の居城、後牛田太郎に留守させた。
27. 城山百八燈の火祭 富岡市高瀬(大島)
 羊太夫は大島に築城し、山城を神農原・野上に築いた。毎年、盆の一六日夜、城山に百八燈をともして、羊太夫一族の供養をしている。
28. 七日市 富岡市七日市
 羊太夫が滅亡した時、配下の者が椿森に住みつき、この森で七のつく日に物々交換の市を開いた。
29. 貫前神社 教倒四年(五三四) 富岡市一宮
 神主小幡(一宮)氏は、羊太夫の子孫ともいう。しかし、貫前小幡文書には、その様な記載はない。一二月一二日の御戸開祭の前夜には、つじう団子(ひつじ団子)を作り、小萩の枝にさし神仏に供える。
30. 南蛇井 富岡市南蛇井
 服部連は、百済から伝わった仏像を難波の堀に投げ込んだ罪で、那佐郷(南蛇井)に流された。この地で服部連と妻玉照姫との間に生まれた菊連の子が羊太夫である。羊太夫は、南蛇井三郎に愛馬を引かせて、八束小脛と共に南都に日観した。南蛇井三郎は、羊太夫の一番西の南蛇井の城を守った人。その居趾という所がある。
31. 野殿 安中市野殿
 討伐軍の大将安芸国住人広島宿弥長利が本営を設けたことに由来する。
32. 羊神社 安中市中野谷
 氏子の多胡氏は四〇戸あり、羊太夫を祀る。多胡宮羊太夫宗勝神儀位の石碑がある。
33. 羊太夫の墓 寛政九年(一七九七)安中市下秋間
 石の小祀で、多胡寿男家の墓地にある。多胡碑全文を刻した石碑も、近くの公民館裏にある。この地には、多胡姓が一〇余戸ある。
34. 多胡神社 榛名町上里見(東間野)
 上里見の間野・谷ケ沢・上神には、多胡姓が多い。この多胡氏の氏神・多胡羊太夫を祀る。多胡宮羊宗勝神儀位の石碑(寛延元年・一七四八)がある。
 落城間近、羊太夫は嫡子宗顕、孫宗量の二人を派遣して、仮屋二軒を作って、一族の到着を待ち受けさせた(「二ツ屋」と呼ぶ)所が、近くにある。鳶に化けた羊太夫主従三人が飛んできて落ちついた「一ノ鳶」「二ノ鳶」「三ノ鳶」という地名が近くにある。
35. 権田 栗毛倉淵村
 権田(倉淵村)の長者が、羊太夫の仁徳を聞いて、栗毛の駿馬を献上した。
 権田栗毛は、天子谷の観音(吉井町)となった。
36. 釈迦尊寺 朱鳥二年(六八七) 前橋市元総社
 羊太夫の墓がある。中臣羽鳥連・妻玉照姫・子菊野連は、守屋大連の一味同心として、蒼海(元総社)に流罪となる。後、大赦を受け、菊野連の子青海(中臣)羊太夫は、玉照姫が聖徳太子から譲り受けた釈迦牟尼仏の安置所として、釈迦尊寺を建立した。羊太夫は、南都へ日帰し、名産落合芹を献じ、和銅年中、片岡・緑野・甘楽三郡に多胡郡を添えて賜与された。多胡郡に移り、小幡羊太夫と改姓した。
37. 八束脛三社宮 寛文七年(一六六七) 月夜野町後閑
 八束脛命を祀る。羊太夫の兵尾瀬八束が逃げのびた洞窟がある。
38. 六句(供)村 前橋市六供
 小幡城主安芸守熊出将監が、神亀二年(七二五)長男須二郎に城を譲り、旅に出てここに居住。翌年正月庭先で前多胡郡領主羊太夫の守本尊千手観音を発見し、羊太夫にならって六ケ寺を建立して六句村と号した。
39. 羊山(ツジ山) 埼玉県児玉町河内(神子沢)
 採鉄鉱跡と和銅遺跡がある。羊太夫が採掘した。
40. 門平 皆野町門平
 城峰山の東側中腹の部落門平は、羊様が毎朝上州から来て、黒谷で鉱山を掘り、夕方には帰って行った所である。
41. 聖神社 和銅元年(七〇八) 秩父市黒谷
 自然銅を神体として金山彦を祀る。上州では、羊太夫を祀るという。羊太夫は、秩父の高麗若光にざん言されて、多治比真人や藤松朝臣貞行の大軍に攻められて、池田城で自殺した。
42. 妙音寺 聖武天皇の時代(七二四〜七四九) 秩父市栃谷
 近くの経塚山の頂上にあった経塚を、境内に再興、立札に「一説に羊太夫の納経とも言われている」とある。
43. 法性寺 小鹿野町長留
 池村から秩父に移り住んだ羊太夫が、般若一六の地で、一六善神の助筆により大般若経を書写し、その残巻六巻がある。慈光寺のものとは異なる。
44. 御塚 小鹿野町般若
 上円下方墳。羊太夫の墓。少し離れた旗居にある満留山様も、羊太夫の墓という。御塚の東方、道路を隔てて麦畑の辺が、羊太夫の邸宅の跡。
45. 石宮様 小鹿野町般若
 石宮を祀り、現在は長若神社という。そばに羊太夫の墓がある。
46. 慈光寺 白鳳二年(六七三) 都幾川村西平
 貞観二二年(八七一)前上野国権大目従六位下安倍小水麻呂(羊太夫の孫という)が、願主となって書写させた、大般若波羅密多経一部六〇〇巻のうち一五二巻が残されている。
47. 諏訪神社 甘楽町天引
 羊太夫が勧請した。羊太夫の氏神。近くに羊太夫の屋敷跡がある。

 2 以上のように、羊太夫伝説は、主として群馬県西南部を西から東に流れる鏑川流域に沿った地域と秩父地方が、主要な舞台となっている。
 この羊太夫伝説の分布と伝承内容を検討すると、次のような疑問がわいてくる。
(1).羊太夫は、甘楽郡に生まれ、主として甘楽郡に居を構え、甘楽郡から多胡郡にかけて城砦を築き、何の障害もなく秩父で銅の採掘をし、かつ住居を持ち、甘楽・多胡・秩父の三郡の支配者であるかのように振るまっている。和銅・養老の頃に、甘楽・秩父には、他に郡司はいなかったのであろうか?
 羊太夫伝説では、羊太夫は広域・大規模な反乱を起しているのに、『続日本紀』に記録されていないのは何故なのか?

(2).羊太夫は、小幡から奈良の都へ日参したという。史実であるとすると、奈良の都への日参は不可能である。しかし、千里馬のような駿馬に乗れば、関東の王者の都へなら日参は可能であろう。例えば、あの稲荷山鉄剣銘にあるカタシロ(通説ではワカタケル)大王のシキの宮(栃木県藤岡町ーー古田武彦氏の説)は、甘楽郡から、四〇キロ位の所にある。

(3).羊太夫の従者八束小脛は、羽が生えており、羊太夫は落城間近になると蝶(または鳶)となって飛んで逃げたという。
 この神話的英雄の姿は、『日本書紀』神功皇后九年(二〇九)の条の「荷持田村に、羽白熊鷲という者有り。其の為人、強く健し、亦身に翼有して、能く飛びて高く翔る。・・・層増岐野に至りて、即ち兵を挙りて羽白熊鷲を撃ちて滅しつ。」という説話を想起させる。古田武彦氏は、羽白熊鷲を撃滅した女王に、卑弥呼以前の筑紫統合の始源の女王の姿を見、『日本書紀』の編者が「日本旧記」から切り取り、神功との接合を企図したものであるという。羽白熊鷲撃滅譚は、筑紫における神話の時代の説話であろう。そうすると、羊太夫伝説も、関東における神話の時代の説話ではないか?
 羊太夫伝説の中にも「神代か人皇の代かはっきりしないほど昔、羊の大夫という人があって、この方は天下を総べられる王様の血統をひく尊いご身分であられたが、何かわけがあって都からはなれたこちらの地方へお下りになり」というものがある。

(4).羊太夫の配下が逃れ住んだという七日市は、碓氷峠を越えて討伐に来た軍勢が侵攻してきた方角である。また、七日市は、吉井町・甘楽町のすぐ近くで、大敗北を喫した後の隠れ場所としては適切ではない。これらは、羊太夫は大和朝廷の派遣軍に討伐されたのではないことを物語っている。一方、羊太夫の妻女は、七輿山古墳の方向へ逃げたというが、そちらは関東の王者の都の方角である。関東の王者から攻撃されたのであれば、逃げ出す方角ではない。そうすると、羊太夫は、それらの王者によって討たれたのではなく、近くの豪族によって討たれたと思われる。その豪族は、羊太夫を討つ大義名分を得るために、関東の王者の了解をとりつけたであろう。
 これに対応するかのように、羊太夫伝説のなかには、「羊太夫の力が強くなると、恐れられて、近くの大将に攻められ、つぎつぎに城が攻め落され、最後に残った大島の城も落されてしまった」というものがある。この近くの大将に該当する者として、戦国期の上州武士として名高い小幡氏の遠い祖先をあげてみたい。小幡氏には羊太夫を討ったという伝承があるからである。
 この場合、霊亀年間(七一五〜七一七)あるいは養老三年(七一九)小幡氏の宗祖安芸国藤松朝臣貞行(あるいは安芸住人広島宿弥長利)が、討伐軍の総大将として安芸国から派遣されたという伝承が問題である。
 しかし、これは小幡氏の系図のなかに、始祖氏家の父を赤松播摩守則景とするものがあり、則景が安芸国に在った時、源頼朝が伊豆国で挙兵したので、はせ参じ関東にとどまったとしていること、および文和元年(一三五二)頃に小幡右衛門尉が安芸国兼武名に知行を持っていたことの反映と思われる。小幡氏自身は、奈良時代に安芸国から移住してきたとは主張していないし、小幡在住の古来からの家系であるという。
 また一方で、小幡氏は羊太夫の子孫であるという伝承もある。ただし、小幡氏のどの系図にも、羊の子孫と書かれたものはない。
 これらは、小幡氏の祖先が羊太夫を討った後の一時期、羊太夫のかつての領地を治めるには、朝命によって誅伐したという大義名分だけでは足りず、羊太夫の子孫であるといわなければ(そのためには、生き残った羊太夫の一族と婚姻関係を持ったであろう)領民を統治できない位、小幡羊太夫の名声が高く、かつ一族の力が強かったことを示唆しているように思える。

(5).『神道集』(文和・延文年間・一三五二〜一三六一)においては、羊太夫は、履中天皇の時代(四〇〇〜四〇五)の人として登場する。すなわち「赤城大明神の事」の中で、「群馬郡の地頭伊香保大夫は、利根川より西の七郡中、最も足早で有名な羊の大夫という人を呼び出して、手紙を書き、二人の姫君と父大将の自殺のことを都へ報告した。」「この羊の大夫は、午の時(正午)に上野国の多胡庄を出発して都へ上れば、未の時(午後二時)には都の指令を受けて、申の時(午後四時)には国もとへ帰着するので羊の大夫と呼ばれる」と紹介されている。
 小幡氏については、『神道集』の「那波八郎大明神の事」の中で、光仁天皇の時代(七七〇〜七八一)の上野国甘楽郡尾幡庄の地頭尾幡権守宗岡として現われる。宗岡の娘尾幡姫が高井の岩屋の大蛇の餌として献げられるところを三条の宮内大夫藤原朝臣宗成(保延四年・一一三八死去)の子の宮内判官宗光に助けられる。宗光は上野国司となり、宗岡は目代となる。そして、多胡郡の鎮守辛科大明神は、宗光のことであり、本地は文殊菩薩であるという。
 『神道集』は、比叡山東塔の竹林院の里坊である安居院によって、唱導の材料とするために編集されたものであるといわれている。その評価は、「伊香保大明神の事」の中で、「大宝二年(七〇二)壬寅の年より延文三年(一三五八)戊戌の年に至るまで七百一年なり」のように年数計算が合わない個所が多いため、荒唐無稽なものとされている。
 しかし、『神道集』に現われる羊太夫と小幡氏の時代設定と人物像の相対的比較はできるであろう。これらの物語を聞く西上州の民衆にとって、この二名は著名な人物であったはずで、時代設定と人物像が当時の伝承と異なっては、聞くに耐えないものとなる。
 そうすると、『神道集』が編集された一四世紀中葉には、羊太夫は、多胡碑の「羊」のような奈良時代の初期の人とは異なり、もっともっと古い時代の超能力を有する神話の世界に出てくるような人物と理解されていたことを示している。これに対して、小幡氏の描写は、羊太夫に比べて極めて現実的で、当時、小幡氏が奈良時代には甘楽郡の在地豪族であると思われていたことを反映している。

(6).羊太夫伝説では、羊太夫は養老五年(七二一)頃滅亡する。しかし、多胡碑の「羊」は、上野国分寺に羊の文字瓦を寄進している。上野国分寺は、天平一三年(七四一)頃、聖武天皇が国分寺・国分尼寺の造営を発願した後、天平勝宝元年(七四九)碓氷郡の石上部君諸弟、勢多郡の上毛野朝臣足人の両人が上野国分寺に智識物を献じ、共に外従五位下を賜わっているので、その前後には完成し、その後は補修がなされていると思われる。そうすると、「羊」は、養老五年(七二一)頃に滅亡しているどころか、上野国分寺に羊の文字瓦を寄進する位、益々繁栄していたのではないか?

3 以上から、羊太夫伝説の羊太夫と多胡碑の「羊」は、同一人物ではなく、存在した時代、支配圏、臣従した王者が異なっているといえよう。
 すなわち、羊太夫は、関東における神話の時代の人、あえていえば、弥生時代から『神道集』にいう五世紀初頭までの間のどこかに存在した人物であろう。
 古田武彦氏は、羊とは日辻ではないかという。あたかも、卑弥呼を日甕(ヒミカ)と読むように。名古屋市北区辻町(山田庄辻村)に、延喜式内社羊神社があり、土地の人は、羊を要路の辻でもあったように考えていたことから、羊を日辻と考えてもよいのではあるまいか。
 羊太夫(大夫ともいう)の「大夫」については、魏志倭人伝に「古より以来、其の使中国に詣るに、皆大夫と称す」とある。大夫は、関東の王者の下での称号でもあったのであろうか。

4 羊太夫伝説は、『神道集』に取り上げられる以前から、西上州の民衆に親しまれていたと思われる。しかし、羊太夫伝説の羊太夫が、多胡碑の「羊」と結びつけられて語られるようになり、その内容も素朴なものから修飾過剰な戦記物へと変化したのは、多胡碑が一八世紀初頭土中から掘り出されて世間の注目を浴びるようになってからである。江戸時代に筆録された羊太夫伝説で、一八世紀以前に遡るものは一つもない。
 江戸時代に筆録された、羊太夫伝説は、天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉の小田原攻めの時、北条方に味方して、甘楽の所領を失った小幡氏を偲び、羊太夫没落の姿と二重写しにして書作されたと思われる徴憑が至る所に認められる。
 羊太夫の家臣の名前は、主として地名から取られている。塩野小太郎光清は吉井町塩、南蛇井三郎忠綱は富岡市南蛇井、山中六郎清次は神流川谷の山中領、鮎川七郎経政は藤岡市鮎川、中尾源太宗永は藤岡市の宗永寺のように、武田信玄が西毛に侵攻して来る以前の小幡氏の勢力圏を暗示している。羊太夫討伐軍の碓氷峠越の攻撃状況の描写は、永禄九年(一五六六)の信玄による西上州七郡の攻略や、天正一八年(一五九〇)小田原の役の際の秀吉の北陸支隊が碓氷峠から攻め込み、西毛を席巻し、小幡氏の国峰城を落城させた有様などを下敷としているようである。
 そして、勅命によって小幡羊太夫を討ち、甘楽郡とその周辺の土地を朝廷から賜わり、小幡と改姓したということによって、江戸時代の今も小幡氏が甘楽一帯を支配する大義名分を持っていると、暗に主張しようとしているようにみえる。
 江戸時代に筆録された羊太夫伝説は、小幡氏に深く心を寄せていた地元の人々によって、その原型が作り出されたように思われる。

 

四、羊・羊太夫の子孫

 小幡氏は、羊太夫の子孫の第一に挙げられているが、すでに述べたように、むしろ羊太夫を討伐した側であろう。多胡碑の「羊」でないことも明らかである。
 小幡氏の出自から現在までの系譜については、白石元昭氏が「関東武士上野国小幡氏の研究」(昭和五六年)などで、実証的な研究成果を次々と発表している。
 同氏は、1).羊太夫伝説を通じて、地元では小幡氏を極めて古い家系と認識している、2).小幡氏は、古代より甘楽地方に居住した地方豪族郡司層に発する、3).小幡氏は、鎌倉時代を通じて表面的にはさしたる勢力ではなかった、という。
 次に、小暮(木暮)氏については、その系譜に羊太夫に関する伝説を掲げているものがあるという程度ということしか判明していない。甘田(天田)氏については、小幡氏の家臣にいたということ位で、見当もつかない。
 そこで、多胡氏が羊・羊太夫の子孫といえるか、検討してみよう。
 西毛における多胡氏には、二流ある。一つは、片岡郡多胡郷(榛名町上里見)の多胡氏である。もう一つは、多胡郡(吉井町)に発する鎌倉武士として著名な多胡氏である。

 1 片岡郡多胡郷の多胡氏
 倭名抄の片岡郡の条に多胡郷がみえる。この多胡の名は、群馬郡榛名町大字上里見字多胡(碓氷郡里見村大字多子)に残存しているといわれている。字名の多胡・多子は、現在は資料を探しても見当らないが、多胡郷は鳥川右岸の現群馬郡榛名町里見一帯(特に、上里見)とされている。里見は、あの『里見八犬伝』で有名な安房国の里見氏の発祥の地である。
 里見氏は、新田源氏の支族であるが、中世の里見氏の系譜の中に多胡氏の部将名がみえるという。この多胡氏と、多胡碑の「羊」や羊太夫伝説の羊太夫と結びつける伝承があったのかどうかは、不明である。
 榛名町上里見の多胡氏は、いつ頃からこの地に住みついているのか判らないが、このほか、安中市下秋間と安中市中野谷に多胡氏がまとまって住んでいる。群馬県では、この三ケ所が多胡氏の多い地域である。
 この多胡氏は、羊太夫の子孫と称し、「多胡羊大夫由来記」という江戸時代に筆録された伝説本を持ち、間野の多胡神社に羊太夫を祀り、三月九日の多胡郡建郡の日には同族祭を行なっている。また、多胡神社の境内には、寛延元年(一七四八)建造の多胡碑文を彫った多胡宮霊羊宗勝神儀位という石碑がある。しかし、系図は持っていないし、先祖の墓石銘も江戸時代以前のものはない。
 現在のところ、この多胡氏が、多胡碑の「羊」や羊太夫伝説の羊太夫の子孫であるという確実な証拠はないといえよう。

 2 多胡郡の多胡氏
 『吾妻鏡』には、多胡の地名を苗字とする鎌倉幕府の御家人が何人かみえる。これらの多胡郡出自と考えられている多胡氏が、「羊」の子孫であるという説は、従来みられないが、検討してみよう。

(1).『万葉集』には、多胡の地名を読み込んだものが二首あるが、奈良時代の多胡郡について記録したものはほとんどない。
 ただ、天平一〇年(七三八)多胡郡山部郷五十戸が法隆寺食封となったこと、天平一三年(七四一)多古郡八□郷の上毛野朝臣甥が調布を貢進したこと、天平勝宝八年(七五六)多胡郡山那郷戸主秦人□□高磨が調布を貢進したこと、がみえる位である。
 平安時代末期になると、仁平三年(一一五三)源義賢(為義の二男、義朝の弟)が、多胡庄を領し、多胡先生と呼ばれていたことが知られている。
 義賢は、秩父二郎大夫重隆の養君となって、武蔵国児玉郡帯刀に住し、次いで武蔵国比企郡鎌形大蔵館に居し、都へ通ったという。義賢は、大蔵館で久寿二年(一一五五)悪源太義平(義賢の甥、頼朝の兄)に殺された。その時、義賢の子義仲は、二歳であった。
 治承四年(一一八〇)源頼政が、平氏打倒の兵を挙げたのに呼応して、頼朝や木曽義仲をはじめとする各地の武士が挙兵した。義仲は、亡父義賢のゆかりの地多胡庄へ入ったが、関東には頼朝がいるので、勢力を張るのを断念して、信濃に退去した。多胡氏の中には、多胡次郎家包のように、義仲に従って行ったものがみえる。

(2).多胡氏は、鎌倉時代には御家人として登場する。この鎌倉期の多胡氏が、義仲の頃の多胡氏と系譜を同じくするかは、多少問題もあろう。多胡氏の鎌倉期から以降の動向は、次のとおりである。
 文治元年(一一八五)勝長寿院供養に、頼朝の随兵中に多胡宗太の名がある。
 建久六年(一一九五)奈良東大寺供養にも、頼朝の随兵中に多胡宗太の名がある。
 承久三年(一二二一)宇治合戦で手柄をあげた者に多胡宗内がいる。
 嘉禎四年(一二三八)将軍藤原頼経が入洛の際、随兵中に多胡宗内左衛門太郎の名がみえる。
 正嘉二年(一二五八)将軍宗尊親王が二所に参る時、随兵中に多胡宮内左衛門跡多比良小次郎がいる。小次郎は、多胡氏の同族で、跡目を継いだものであろう。多比良は、多胡と隣接する地名である。
 元弘三年(一三三三)楠木正成の蜂起に対し、幕府は追討軍を編成したが、その中に多胡庄の多相(胡)宗次跡がみえる。
 観応二年(一三五一)足利尊氏派の武将佐々木高氏が多胡庄の地頭となったが、神保・小串・瀬下らの国人衆が入部を阻止し、その後も争っている。
 その後、多胡氏がみえるのは、永祿四年(一五六一)上杉謙信が関東諸豪二五一家の家紋を集祿した「関東幕注文」の中に惣社衆として、多胡(二ひきりやう)とあるのが最後である。多比良氏は、二ひきりやうすそこ、と出ている。

(3).多胡郡の多胡氏は、有道姓児玉党の系譜に属するといわれている。有道氏の祖遠峯(延久元年・一〇六九死去)は、藤原伊周の子で伊周左遷の時、武蔵に下向して有道氏を称した。多子(多胡)氏は、遠峯の孫保義の系統に入っている。小幡氏も、遠峯の孫行重の系統である。また、児玉党と秩父氏は、同族関係にある。
 児玉党の系譜は、婚姻関係と地縁による緩い結びつきによって、在地豪族が貴種を盟主として、一族の政治的保身を図ったもので、血族関係を示すものではないという。
 小幡氏が古代からの在地豪族であるように、多胡氏もその可能性が高いと思われる。
 多胡氏は、西上州の名門であったとみえ、摂関家流藤原氏の流れをくむ大中臣氏と婚姻関係を結んでいる。大中臣氏は、中世中期頃までに作成された「大中臣氏略系図」(桐村家所蔵)によると、常陸国中軍荘、那珂東西郡の地頭である。

(4).ところで、辛科神社には、源頼朝が寄進したと伝えられる懸仏がある。
 この懸仏には、左側隅の円板の縁にそって建久八年(一一九七)大戈丁巳十二月二十六日、その内側に源大将頼朝と刻まれている。右側には大勧進惟宗入道小勧進清原国包とある。したがって、寄進者は惟宗氏と清原氏である。
 この惟宗氏については、従来、吾妻鏡や正木文書に名がみえる鎌倉幕府の要職にある者と推定されている。そして、惟宗氏は、渡来人である秦氏の子孫であるから、辛科神社は渡来人によって崇敬されていたという。
 しかし、武蔵国小代(勝代)郷(東松山市正代)の児玉党武士である小代氏の系図には、小代重泰右衛門次郎の母は、多胡宗内左衛門尉惟宗親時女と書かれている。多胡氏は、惟宗姓との複姓である。多胡氏は、惟宗氏と主従関係を結んでいたのであろう。
 小代重泰の父重俊は、宝治元年(一二四七)北条氏が三浦氏一族を全滅させた宝治合戦の時の勲功の賞として、肥後国野原荘の地頭に任命され、以後その地の在地豪族として活動している。
 そうすると、多胡宗内左衛門尉惟宗親時は、辛科神社の懸仏を寄進した惟宗入道と時代的に近く、同一人である可能性があろう。そうでなくても、仏門に入った多胡氏のなかの一人が、地元の辛科神社に、その本地文殊菩薩の懸仏を寄進したと考えてよいのではあるまいか。

(5).さて、武蔵国比企郡多比良村(埼玉県比企郡都幾川村西平)の慈光寺には、「羊の大般若経」といわれるものが、一五二巻現存する。
 「天台別院都幾山慈光寺実録」(享和元年・一八〇一)によると、前上野国権大目従六位下安倍朝臣小水麻呂が、祖父「羊」の志を継ぎ、貞観一三年(八七一)大般若経六百巻の書写を完結して、慈光寺に納めたという。しかし、上野国権大目であった小水麻呂が、なぜ武蔵国の寺院に奉納したのか、疑問がある。
 小水麻呂は、権大目という地位からみて上野国在地の人であろう。そして、「羊」の孫であるとすれば、「羊の大般若経」は本来、上野国多胡郡内の寺院に奉納されたと思われる。吉井町には、奈良時代の寺院跡と推定される所として、池字岡、馬庭字東、黒熊字塔之峰などがあり、瓦が多量に出土している。
 そして、慈光寺の所在地多比良が、多胡郡の多比良と同じ地名であることは、古くから注目されていた。源義賢の大蔵館があった鎌形は、慈光寺のある都幾山への唯一の登山口に当り、距離的にも近く、比企郡多比良は義賢の所領の一部であったと思われる。義賢は多胡庄も領していたので、多胡庄の住人多比良氏が慈光寺の所在地一帯を開き、多比良と命名したのであろう。
 「羊の大般若経」は、多胡氏と同族で跡目を継いだ多比良氏によって、戦乱を避けて多胡郡から慈光寺へもたらされたのではないだろうか。
 多比良氏は、多比良豊後守友定が、天正一八年(一五九〇)の小田原の役の際、上杉景勝の先鉾藤田能登守信吉に降り、滅亡した。

(6).「羊の大般若経」を書写した、安倍朝臣小水麻呂が、多胡碑の「羊」の孫であるという資料は、前述の「慈光寺実録」以外にはない。
 安倍朝臣と上野国の関係は、弘仁六年(八一五)から元慶八年(八八四)にかけて、上野介などに任ぜられていることが『三代実録』などにみえる。その中で、注目すべきは、安倍朝臣貞行が、貞観七年(八六五)上野介に任ぜられ、同八年には、百姓を使役して四四七町の水田を開発していることである。
 推測すれば、「羊」の孫小水麻呂らも水田開発に協力し、安倍朝臣を名乗るようになったのであろう。そして、古代の郡司層など在地豪族は、苗字を変えながら後世に至っていることから、安倍朝臣も地名の多胡へと変化していったのであろう。
 多胡碑の「羊」と鎌倉武士の多胡氏とを結ぶ確かな糸は、まだ見出せない。しかし、従来、多胡氏については、ほとんど研究がなされていないので、今後、徹底的に研究してみる価値があるといえよう。

五、おわりに

 多胡碑の「羊」の解明に当っては、甘楽・多胡の古墳時代の状況も検討する必要がある。古墳時代のこの地の豪族が八世紀以降も引き続き勢力を有していたと考えられるからである。小幡氏は、まさにそのような在地豪族であろう。多胡氏も同様と思われる。しかし、ここでは紙数の都合もあるので、問題点を指摘するにとどめる。
 尾崎喜左雄氏は、その著書『上野国の古墳と文化』(昭和五二年)の中で、甘楽・多胡は渡来人が開発・居住したという前提に立って、この地の古墳の型・石室・出土物を検討しているが、渡来人がそれらの古墳を築造したと断定できず困惑している。例えば、尾崎氏は、甘楽郡の初期古墳である北山茶臼山古墳からは、三角縁画文帯盤龍鏡・玉類・刀類と三種の神器様のものがセットで出土しているので、渡来人が造ったものか疑問であるとしながら、一方で渡来人との関係を無下に否定することはできないであろうと、説明に窮している。
 吉井町多比良の「先祖の塚」古墳からも、玉類・刀・鏡が出土している。五〜六世紀になると、甘楽・多胡には舟形石棺がみられる。その後も、渡来人独得のもので、渡来人によるものとしか説明できないような古墳はない。三種の神器様のセットや舟形石棺が北九州に淵源するものであることを承認できれば、古墳時代の甘楽・多胡は、倭人勢力の影響下にあったといえよう。
 多胡碑の「羊」は、新羅系渡来人というより、むしろ倭人であろう。多胡碑は、永正六年(一五〇九)釈宗長の『東路の津登』に、その存在が記録されている。その後、戦国時代の戦乱の中で忘れ去られたのであろう。一八世紀初頭に至って、土中から掘り出されたときには、すでに碑文の「羊」とは何かについては、伝承を失っていた。多胡碑の研究に当っては、「羊」=新羅系渡来人説にとらわれることなく、新たな視点から取り組まなければならない時期がきているといえよう。

(注)この研究に当っては、多胡碑と羊太夫伝説に関する文献三百数十点を、柳川美紀子さんと横山妙子さんの協力で収集した。また、吉井町馬庭在住の井上清氏からは、多胡碑の拓本の見方をはじめとして、多くの教示をいただいた。


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