『市民の古代』第9集 へ
国造制の史料批判 ーー出雲風土記における「国造と朝廷」(『古代は沈黙せず』駿々堂)
多胡碑の「羊」と羊太夫伝承 増田修(『市民の古代』第10集)へ
金石文再検討について 編集部(『市民の古代』第10集)へ


『市民の古代』第9集 1987年 市民の古代研究会編

多元史観の新発見

古田武彦

 私の話を聞きに、休みの日にお出でいただきまして、感謝いたしております。今回は、大変題目が抽象的といいますか、「多元史観の新発見」ということで、一体具体的に何を話すのか、わからないような題目でございます。にもかかわりませず、多くの方々にお集りいただいたわけですが、私、その題をつけます時には、 ーー今より何ヵ月か前にこの題をつけたわけですがーー その際には、まだ何を六月の半ばになってお話しできるのか、自分でわからなかったわけです。一つの重要なテーマ、今日最後に申し上げます。これもまあ進展が予想されていたんですけれども、しかし六月の段階でどういう状況になってるかわからないと、いうようなことで、一応抽象的な題を付けさせていただいたわけです。ところが、その後三月、四月、五月と、非常に数多くの発見に恵まれまして、しかも本日の表題に丁度ぴったりのような発見にも恵まれまして、これはどうも題が内容を、呼び寄せたんじゃなかろうかと、思うような感じでございます。
 ということで実は、今日お話ししたいテーマがあまりにもたくさんあるわけでございます。しかし時間が限られておりますのでその中で重要なものをピックアップしてお話しして、そして重要でないわけじゃないんですが、今後また発展するんでしょうが、割愛できるものはなるべく割愛して、あとで懇談会が用意されているようですから、そこでその点は補わさせていただくというかたちにせざるをえないであろう、いわば嬉しい悲鳴を感じているわけです。
 今年四月の終りから五月にかけまして、例のゴールデンウィークの前後ですが、この間に二回にわたって古代史の旅行に同行させていただきました。前半天皇誕生日の前後のところは市民の古代、関東と大阪の皆さん方、それ以外の方も来ておられましたが、ご一緒させていただいて、群馬、栃木の古墳等を巡ったわけです。そしてついで五月に入ってのゴールデンウィークの後半ですね、この時は朝日トラベルの旅行で出雲へ隠岐島や斐川町こういった所を巡ったわけです。また出雲の立石(たていわ)、“立石さん”の現地にも行ったわけです。このなかに、わたしとしましては非常に重要な発見もしくは発見の糸口というべきものに、ぶつかったわけです。
 その点をひとつひとつお話し申し上げたいんですが、先程申し上げましたように時間の関係で、なるべく割愛致しまして、ひとつだけ取りあげます。それはあの今の群馬・栃木の旅の時に、いわゆる群馬三碑といわれる山の上碑、金井沢碑、多胡碑という所に行ったわけです。後では栃木の例の那須国造碑にもいきましたが。でこの中で非常に重要な発見に遭遇したわけです。この点は是非、今日の最初のテーマとして報告させておいていただきたいと思うわけです。正直申しまして、この旅行の出発前に、私としては非常にたかをくくっておったわけです。といいますのは、群馬・栃木の旅は何回もまいりましたし、関東の四碑というようなものは何回か行っております。だからこれは別に特に予習をしなくてもいいだろうと、現地へ行って何か発見があれば見っけもんだが、という位のですね、呑気な気分で汽車に乗ったわけです。
 ところがですね、なんのなんの、今迄何回も行ったと思っていたのは正に節穴の上でみていたにすぎない。そのものの真相をまったく気づかずに見たつもりになっていたということを知ったわけです。それは多胡碑です。私の感触を申しますと、従来その関東四碑の中で一番面白くないといいますか、“面白くない”とは変ですが、“間題性を持っていない”のがこの多胡碑であるように思っていたんです。といいますのは、山の上碑の場合は、これは「佐野の三家(みや)を」或いは「三家(みやけ)を定め賜える健守命」という言葉で始まっておりまして、従来の解釈では、そこに存在しない主語ですね、「天皇家が、大和朝廷が、定め賜える佐野の三家にいた健守命」そういう読みをしてきました。東京の学者も、現地の群馬大学の尾崎さんなどの学者も揃ってそういう読みかたをしてきたわけです。
 これは私の方からみると、大変おかしいんじゃないか、というのは其処に「無い主語」を補っている。しかもそれが大してとるに足らないような主語といってはおかしいんですが、補っても大して文脈上にはさしたる影響はない“まあそんな補いもできるでしょうか”位の補いならいいんですが、しかし最も核心に触れる、或いは「核心そのもの」であるような主語を「無いもの」で補う。つまり「大和朝廷が定め賜うた」という風に、「大和朝廷」という言葉を補って解釈する、これはずいぶん乱暴なひどい話でありまして、あの文面を率直に読むかぎりは、「佐野の三家(みや)」と読むにしましても「三家(みやけ)」と読むにしましても“それを定めた”のは「健守命」といわれる人物、山の上碑を築いた人の祖先ですね ーーおそらく石碑を建てたのは、その子孫か何かそういう人でしょうがーー その祖先になる「健守命が定め賜うた」としか読めない文章なんです。
 勝手に主語を補って、しかもその補ったことによって「これは大和朝廷がここを支配しておった証拠だ」というかたちで扱ってきたわけです。まあこういうのが日本の学界、特に戦後の学界の流行でありまして、最近も例の出雲の岡田山一号墳出土の銘文入り鉄剣ですね、これはそれに対する新しい解答がみつかったというのが新聞の一面を飾りましたけど、これも「賜う」という字が判然とはみえないんですが「賜う」と解釈する。まあ賜うのなかの左側の「貝」という字の下の「只」みたいなのがみえるというので、想像でふくらまして「賜う」と解釈する。これも非常に“危ない作業”なのですが。
 貝へんの字は漢和辞典をみればごそっと並んでいますから。仮りに貝へんであるとしても貝へんのどの字であるかはわからない。また貝へんの下の部分というのは、あの下の部分を持った漢字というのは幾つも有りますからね、貝以外にも。というので夥しい可能性のなかで「賜う」とその人は想像したわけです。想像することは勝手ですけどね。これ自身がまあ単にひとつの自分の主観的な想像として、という注釈付きでなければならないところなんです。ところがその上にさらに「賜う」は誰が賜うたか書いてない。でも“書いてなくても許される”ってのが日本の学界のルールなんです。つまりそれは大和朝廷である。大和朝廷、もしくは大和政権と言い替えてありましたが、実質はちがいません。
 それを補って「大和政権が下賜した」というのが、新聞の紙面にのりました。私はすでに書いたことがあるんですが、或る新聞社の方に聞くと、要するに新聞の一面をとる秘訣は、その出土物を大和政権と結びつけることにある。そうするとデスクは一面に採用してくれるという話を聞きました。正にそれを地でいったような一面だ、と苦笑したわけです。こういうふうに、ない主語を補ったことによって“重大な政治関係が証明された”と称するという手法があるわけです。こういうことで、山の上碑ってのに興味をもっていたんです。
 それに対して金井沢碑は埼玉の稲荷山の鉄剣と、様式が似ているから興味がある。また栃木県の那須国造碑、これは非常に重要な「評」の問題、「評」制の問題のとっかかりになる、ということで非常に重大な石碑であるということは、私の『古代は輝いていた」第三巻の最後に簡略ながら述べてあるところです。井上光貞氏もこれに注目し戦後史学の出発点とした。わたしもこれに注目して井上光貞氏と真反対の結論を抱いた、ということでございます。

多胡碑

 ところがそれに対して今問題の多胡碑、多(オオ)い胡(エビス)と書いて多胡(タゴ)碑です。これは最も判り切った内容であるように思われていたんです。ご承知と思いますがこの高崎の近辺に三つの郡があった。その三つの郡の中からひとつ新しい郡をつくった。(会場にしめして)これが拓本でございますが、“片岡郡、緑野郡、甘良郡、この三つの郡のなかから一寸ずつ削りとって、三〇〇戸削りとって”そして新しい多胡郡というのをつくった。それを羊太夫という者に与えたと。それは和銅四年の三月のことである。そこで与えた大和朝廷側の官職名、人物名が四人ばかり書いてある。官職付で書いてある。というかたちになっているわけです。ですから要するに大和朝廷からその羊太夫が多胡郡の長官に任命してもらった、という内容でありますから、これは非常に明晰であって何も問題がないっていいますかね、そういう感触でした。

多胡碑碑文
弁官符上野国片岡郡緑野郡甘
良郡并三郡内三百戸郡成給羊
成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
宣左中弁正五位下多治比真人
太政官二品穂積親王左太臣正二
位石上尊右太臣正二位藤原尊

 八世紀を研究する面じゃ勿論、史料として意味があるでしょうが、問題性を“最も持たない”そういう意味では“面白くない”というか、そういうふうに私は考えていたわけです。ところが今度行きました時に教育委員会の人に連絡してありましたので今日も来ていただいている渡辺さんが、懇切に予め準備をしておいて下さったおかげなんですが、教育委員会の人が来て、鍵を開けて下さった。それで鞘堂の中に入ったわけです。三十何人くらいで入って一所懸命見たわけです。その中で高田さんっていう東京にいらっしゃる、女の方が「アッここに何か字がありますね」とおっしゃったわけです。ここに写真をのせましたがこういう石の帽子を冠った石碑です。

群馬県多胡碑

 正面を今仮に第一面とします。今拓本をお見せした、その拓本にあたる大きさのものですが、これを第一面とします。向かって左側の方を第二面、直後を第三面、向って右を第四面と、好太王碑の時と同じように名前を一応つけてみました。高田さんが「あれっ」と云われたのは、その第二面、向って左側の面です。その下の方に、何か字のようなものがある。それは田圃の「田」ともみえるし、理由の「由」ともみえる。そういう字のようなものがちらっと覗いているわけです。しかし、「誰かが悪戯書きしたんでしょうね」とおっしゃった。これはなかなか古代史に詳しい方らしい見方なんです。といいますのは、これには泣かされるんです、我々は。“あっ、字がある”と思って喜んだら実はそれはあとで悪戯書きの字であった、といったことはよくあるわけです。九州でも私、それこそ走り廻った経験がございます。
 というのは、現在は鞘堂に入ったり鍵をしたりして厳重にしてあるわけなんですけども、ところがそれはついこのあいだまでは、もう野晒し雨晒しにほっちらかされていたケースが多いわけです。そういう時に子供にしろ大人にしろ、それをみれば何か彫り付けたくなるという、人間にはそういう習癖があるらしくって、彫り付けるわけです。だからそれを見て喜んで「あっ字があった」なんてことになると笑い者になるわけです。そういう話は高田さんもよく聞いておられたとみえて、「これは悪戯書きでしょうね」と、こういわれた。で私は「どれどれ、どこですか」といってそれを見た。確かに「田」か「由」のように見えんことはないけども、しかしそれがその本来の字か、本来の字でないか、を俄かに判定し難い様子であった。「一寸待って下さいよ」とこういってわたしは三面、四面をこう見ていったわけです。それで皆で、それこそ三十何人ですから六十何個の目で一所懸命見て、議論をそこで始めたわけです。
 そのうちに私が「これはどうもあれですね、あの、あとから書かれた字じゃないかも知れませんよ」ということをいいはじめた。といいますのは、向って右側ですね。この第四面の中ほどの位置にですね、「年(トシ)」という字が判然とこれは見えたわけでございます。これは、その位置といい、またその字形といい、非常にしっかりしている。つまり位置関係も上すぎたり、下すぎたりせず、「何年」というような字があって別に不思議はないような位置です。それから何より、この字そのものが非常にきっちりした字です。的確な字です。これはわたしのまったく主観にすぎませんけど。悪戯書きする時はまあ、あんまりぴっちりとした楷書で悪戯書きする人っているんですかね。私はあまり経験がないからわからない。経験のある方にお考えいただいたらいいんですが。私なんかは失礼ですが、公衆トイレでみると、あんまり楷書でかっちりとした字で、美事な字を悪戯書きしたものなんて、あんまり拝見したことがないんですね。大体書き殴ったというか、あんまり上手でないような字が多いように思いますね。ところが、これは非常にきっちりした字で書いてあるんです。
 だからこれはどうも、という感じがしたわけです。しかしそれだけではまったく主観でありまして、中には几帳面な人がいて、悪戯書きといえども楷書できっちり書かねば気が済まないという、私なんかと違いまして、そういう人がいるかも知れない。字がぴっちりしてるか、してないかで悪戯書きであるかないかを決めるのは早計である。と、当然そういう話もそこで出たわけです。ところがそのうちに私は、これはやっぱり後からの字じゃないようですよ、とこういうことを、申したわけです。といいますのは、見ると第二面、第三面、第四面、第一面を除いて、あとの三面はほぼ全面的に剥落を生じている。

二、三、四面は全面剥落か

 つまり石が傷付けられて、元の石面が無いわけです。そのなかで辛うじて、今のように字が残存しているものがあるんで、その残存部を例外としては、ほぼ全面に剥落を生じているわけです。ところがそれに対して第一面は、まったく剥落はない。これは今でもこうやって拓本にきっちり採れるんですから。美事な拓本に採れる。山の上碑なんか採りにくいんですが、こちらの方は非常に採りいい、関東四碑の中で一番採り易い、字が判然としてる。それは石面がなんら剥落も生じていないし、傷付けられていないせいなんです。そうすると、こういう剥落の生じ方というものは ーー剥落というのは削り落ちですーー 「自然状態」ではあまりでないんじゃないかと、こう考えたんです。
 といいますのはたとえば、今田圃の畔道の所に小さな川があって、そこにこの石碑をさかさにして橋替りに使っているといったことがあるわけですよ、昔は。ところがそういう場合は勿論、その上の面は傷むわけです。人間の草履で歩いた丈で傷むかどうか知りませんが、鍬でがちっとやったり、いろんな事をやったりすれば、上の面は傷みます。それでお付き合いに一寸鍬でこんこんすると、横の面も、両側の面も、多少は傷むでしょう。しかし今さっきのように“三面完壁に傷む”“完壁に剥落を生ずる”といった傷み方は一寸ありにくいんじゃないか。また田圃の中に埋もれているといったこともあります。埋もれていた場合でも、矢張り三面だけきっちり、傷付き剥落されて、第一面だけは、まったく何も傷が無いってのは、そういう自然状態ってのは私はこれは絶無とは云えないが大変難しいじゃなかろうか、有りにくいんじゃなかろうかと、そう考えます。
 それじゃ有りうるのは何かというと、いうまでもありません「人間が人工的に傷付けた」と。これだったら、幾らでも四面のうちの三面だろうが、二面だろうが、傷付けようと思う所を傷付けられるわけですから。これは当然有りうることです。そうするとどうもこの傷の付き方は剥落のし方からいうと、自然に剥落したのではなくて人為的に剥落させたと、いう可能性が非常に強いんじゃないでしょうかと、こういう事を申したわけです。
 勿論、その時、かなり時間を取ったと思います。三十人以上がわあ、わあ、わあ、わあ“こうでもないああでもない”と私を含めましていった挙げ句の、話ですから。まあこの発見というのはもう当然最初の第一声をあげられた高田さんを含めまして、当日全員の発見であると、こういうべきだということをその時も申したわけですが、その通りでございます。
 しかしとにかくその現場で見た人々 ーー皆とはいえないかもしれませんがーー の感触は私が申したことと必ずしも矛盾するところではなかったようです。それから、あまり時間をとっても後の予定があるからということで、バスに乗りこんだわけです。バスが動き出して、「御苦労様でした」といって私がマイクをとってバスの中で話し出します時に、私は先程と一種違ったニュアンスで話し出したわけです。「あれはどうもやはり後から第二面・第三面・第四面は剥落させたものだと思います」と。つまり、その主旨は変らないんですが現場の時には「これはどうも後からのもんじゃないだろうか」「どうもそういう感じが強いな」という、いわば疑問形で私及び私達はいっていたわけです。
 ところが私はバスの中では、それからもう一歩も二歩も、私のつもりでは、進めまして「あれはまず自然剥落ではない。人工剥落と考えていいと思います」と。もちろん「思います」である以上は、断定ではないかも知れませんが、私としては心証、つまり心の持ち方において現場より何倍も進んだ感じになっていたわけです。それは何故そういう気持ちに、僅かの間になったかといいますと、私は一つのことに気が付いたからです。といいますのは、さっきお見せしたこの拓本ですね、これは「完結した文面」であるというふうに考えていた。また高田さんもその時「あの一面は完結していますわね」ということをいわれたのを覚えてますが。私もそういうふうに今まで考えてきた。これは恐らく皆さんも、そう思っておられたでしょうし、今までのあらゆる学者もそういうものとして史料に使ってきた。
 ところが実は、「これは完結していない」ということに私は初めて、バスにつくまでの間に気が付いたわけです。といいますのは、その完結しているというのは「文法的には」完結してるわけです。この場合には問題なく「賜うた」のが大和朝廷であるってことは、和銅四年という大和朝廷の年号が書いてありますから、これは先程の場合と違ってそれを補うってことは決して、恣意的ではない。理の当然である。その他別に文面として、文法的に完結していないところはないわけです。だから「あれでいい」と私を含めて皆思ってきたわけです。しかし一旦この「内容」に考えを及ぼしてみますとこれは「完結していない」わけです。
 何故かといいましたら、ここでは「羊に賜う」という表現になっている。この「羊」というのが羊太夫であるわけです。そう考えている。ところが、現場に、横に、大きな教育委員会による解説板が立てられておりまして、それが詳しいだけにいいヒントを与えてくれたわけです。といいますのは、かつては「羊」というのは方角のことであると見られた。「羊の方角」ってありますね。

黒板説を検討する

 それは黒板勝美という、東京帝国大学の国史学の教授で、正に国史学の権威がおられた。国史学をやる人はあの頃、黒板さんの『国史概説』ですか、でかい本ですが、あれを読まなければ話しにならないと、いわれてきたものです。あの「国史学の権威」である黒板さんが、これを「羊の方角」と読んでる。“羊の方角に多胡郡をつくった”とこう読んだわけです。ところが現在はその解読は採用されていなくて間違いとされている。これは「羊太夫に与えた」という意味だと考えられていると。こういう解説がこの教育委員会の解説板に書かれているわけです。これは何故羊太夫か。皆さんご存じのように、北関東には、羊太夫をめぐる伝承が色濃く豊富に残されている。だからその羊太夫に賜うたんだという解釈が現在の定説になっているわけです。皆さんもそういうかたちで多胡碑をご存じの方は理解しておられたと思うんです。
 そういう意味では黒板さんの説は“既に乗り越えられた過去の説である”というふうにもいえるわけです。しかし問題は何故それじゃあ黒板さんがそのような読み方をしたかという問題を考えてみると、本当の問題はどうもまだ終っていないんじゃないか。といいますとですね、私は思うんですが、黒板さんの本を私も昔学生時代に読んだことがありますが、官職の表の解説がついていて、非常に詳しく考証のための方法が述べられてある本です。いわば文献考証学みたいな性格の非常に強いものです。だからぱあっと読める本でもないし、面白い、楽しい本でもないし、ぎちぎちぎち、官職や地名の変遷や、そういうものが細かく書いてあるような本です。けど、横に置いておいて論じなきゃあ学問的な議論にはならないといわれていた。
 つまり官職或いは文書の、中世文書とか近世文書とか、そういう文書の有り方の専門家なんですね、この人は。この黒板さんにしてみれば、「羊に賜う」という、この羊が「人名」であることは、我慢できなかったんじゃないかと思うんです。だって「羊」ってのは官職も何もない“丸裸”でしょう。普通にいわれている羊太夫という場合「太夫」は官職です。それすらないんですね。じゃ、なんにもない庶民、一庶民が多胡郡の長官に任命されるもんですかね。そんなことはまあ一寸有りうるとは考えられないでしょう。だのに「真っ裸」。これは文書として有り得る様式ではない。黒板さんはそう判断したのだろうと、私は思います。
 そうすると、「羊の方角」というのがあるから、普通「羊」という方角はこの字は書かないけど、まあこの字を書いたんだろう。そうすれば「羊の方角に賜う」と解した。次に「多胡郡をなす」と続きますから、これならまあまあよろしい、と。唯この場合は多胡郡をつくったけど、誰を長官にしたとかいう話はないことになるわけです。それはここでは触れていないと。とにかく「どこどこの方角に多胡郡をつくった」ということを書いた石碑であるというふうに黒板さんは理解されたんだと思うんです。今のように丸裸でいるという、丁度人間がストリーキングか何かで、ぱあっと裸ででたら、厳格な神経の持ち主は目をあげて我慢できないようにですね、恐らく黒板さんはそんな、丸裸で書かれた文書なんて、そういう古代文書、八世紀の文書なんてものはもう目をあげてみれおられない、と思うんです。そこにこれを方角と理解する黒板説が生まれたんだろうと、わたしは推察したわけなんです。
 さらにもう一つ考えると、確かに現地には羊太夫の伝承は色濃いわけです。現地の郷土史家の人達がそういう伝承をたくさん集めておられます。しかしこれらは私の想像になりますけど、黒板史学にとっては、そういう「在地の伝承」なんていうものは“採るに足らん”もんだったわけです。つまり「田夫野人」が無責任にいっているものであって、そんな根拠があるかどうか全くわからない。そんなものを相手にするようじゃ歴史学とはいえない、と、こういう立場に黒板さんという人はいたのじゃないかと。黒板さんの本『国史の研究』には「民間伝承」なんて章はないですからね。
 黒板さんと同じ時代に、例の柳田国男という巨大な民俗学の創始者が現れたんですが。これは当時のオーソドックスな歴史学からみると「相手にできない」と、まあ「無視」だか「軽視」だかされていたわけです。
 私の先生の村岡典嗣(つねつぐ)さんに対してわたしの先輩の原田さんって方が ーー今東北大学におられますがーー 質問されました。「柳田さんの学問についてどうお考えですか」と。すると村岡さんは、「あれは非常に大事な重要な研究だと思います」と。「しかしあれには年代がない」と。「時間の尺度が全くない」と。だから「歴史学には、現在の段階では使うことはできないと思います」と。「将来はわからないけれどもね、現在では使うことができないようです」と、こういういい方をされた。村岡さんはものを非常に広く理解する方ですから現在歴史学に使えないということと、しかし柳田学のもっている未来性というものと、二つを分けて即座に返答されたのをわたしは、原田さんと二人しか居ない所で ーー村岡さんの研究室でしたがーー 答えられたことを聞き、耳に留めました。でも、村岡さんのような人はまだ、いい方で普通の文献学者は、「柳田、それはなんじゃ」「柳田なんて」といった、そういう感じの時代だったわけです。
 だから黒板さんもそういう「時代の伝承」を全く知らなかったわけではないと思うんです。現地に行って調査しているんですから。しかしたとえそれを聞いたところで、「田夫野人」のいう「羊太夫」なるものにどんな根拠があるか、それとも単なる創作物か、そんなものは信用できない、という立場から、これを退けられたんじゃないか、というふうに私は想像するわけです。あの黒板さんにとっては、そういう官職位号というような、文書として必ず備うべきですね、その性格の方が大事なものに感じられたと、こう思うんです。するとその後羊太夫のいろいろ伝承を集める郷土史家なんか、柳田国男の影響をうけたりしたんでしょう、その結果現在どうもこれだけ色濃く、羊太夫の伝承が残っているのに、それと全く無関係にこの「羊」を考えるのは、やっぱりおかしい、というそのことで、やはりこれは羊太夫だ、という説が重きを占めて、それが現在の定説になってきているというふうに私は理解するわけです。
 研究史の成り行きはそうでしょうけど、しかし決して事は終っていない。やはり研究史というのは恐いですね。こういう経験は私は絶えずやるわけなんです。親鷺研究においても、法隆寺再建論争の問題にしましても、いつもその問題にぶつかってきてるんです。今日最後に申し上げる間題もそうかもしれませんが。
 ここで「羊太夫のことだ」ということが、現在決まったと考えます。それなら、黒板疑問ははたして全部解消したのか。全く解消していません。だってこれが羊太夫その人であるならば、丸裸で放り出されているという、事実は残るわけです。だから黒板結論、「方角だ」という、その解釈は消しさられても黒板疑問はいよいよ色濃く残っているわけです。「羊太夫である」という断定の強さに正比例してその疑間の方もまた、強く残っていると考えなきゃならないわけです。

一人称の文体

 ところが迂闊にも私は、今までそういうかたちでこの問題を意識してこなかった。じゃあ、体何か。私がバスに移る直前に頭に閃きましたものは、これは「一人称の文体」であると。「羊」というのは「私」という意味だと。つまり「私に賜いました」と。もし書いた人が羊太夫より“目下の人”が書いたとします。石工であったところで高崎辺の学者風の人であったにしても、羊太夫より“目下”でしょう、身分上は。そういう人が書いたら「羊」なんていう呼び捨てにはできません。
 大和朝廷側からの目でも、「羊太夫」といった称号まで、当然いいわけです。まして自分自身が羊の目下ですから。当然「羊太夫」であるとか、敬称つきで呼ばなきゃいけないわけです。敬称つきで呼んだら大和朝廷が怒るってことはないでしょう。だから当然敬称がつく。
 じゃ敬称がつかなくていいケースは何かと考えてみれば「御本人が書いたケース」なら敬称つけたらおかしい。つまり自分のことを「私に」という第一人称の呼び方もあります。しかしそれだけじゃなくて、自分を名前で呼んで、「羊に賜うた」と。私でいったら「古田に賜うた」と、こういういい方ですね。「古田先生に賜うたしと私がいったらおかしいですね。私が云う時は「古田に賜うた」といわざるを得ないわけです。「武彦に賜うた」といった形になるわけです。つまりこれは“羊太夫本人が書いた”かたちの文面である。
 とすれば話はまだ終らないわけです。つまり、その羊なる者が一体何者かの説明がなきゃいかんわけです。どこになきゃいかんかというと、今いった第二面第三面第四面の所にです。どこどこの産で恐らくご本人がぱっと何かの職に就いたんじゃなくて、先祖伝来、何々の土地のとことこを支配しているという、あの有名な先祖 ーー大体こういう時は先祖は「有名」に決まっているわけですーー 。この高崎地方では少なくとも有名な、この方の子孫の、という形になってくる。 丁度戦国時代に「やあやあ遠からん者は音にも聞け」という関東武士の“名乗り”ですね。あれでも先祖から、忙しい戦争の真っ最中、直前に、やるわけですからね。あれは鎌倉の人だけがああいう好みがあったってことじゃないと思う。それ以上に古代は“名乗り好き”だったと思うんです。関東のみならずですが、関東もまた。それは早い証拠が稲荷山の鉄剣、やはり先祖から名乗っているじゃないですか。そうするとやっぱり羊太夫もこういう先祖を持った、どこどこを支配している、どういう官職を貰っている、先祖が貰った、あるいは私が貰った誰々である、それが何年何月何日、この石碑をつくったとあって、あたりまえです。
 これがそのうしろだか、横だかにあれば「羊に賜う」という文章は「完結」するわけです。それなしで、何者かわからん「羊に賜う」ではその「羊」が何者かは伝承に聞け、という。そんな書き方ってないわけです。そう考えてみますと、やっぱりさっきいいましたように文法的には一見完結してるようにみえたけども、内容的には決して完結していない、不完全文章である。こういうことに気が付いたわけです。
 そうしますと先ほどの現地の実物観察、これが一番基本ですが、その示すところと対応させると、これが一致する。つまりあるべき文章の場所がみごとに完壁に削られている。第二面第三面第四面とも、剥落している。この事実はやはり偶然ではない。ということで「物に対する観察」と「文章に対する論理性の理解」とが合致したわけです。
 私の本をお読みの方はそういうやり方はいつもでてきてご存じなわけですが、考古学的な出土物と、『三国志』魏志倭人伝、その他の文献の記載事実とが合致した時に「これは歴史事実である」と考えうるということです。としますと、次の問題は、それじゃあその削られた文面はどんな文面だったかと。これはそれが少なくとも現場でみえない以上は、何ともわからないんですが、推察はできる。
 なぜかといいますと、残っている第一面をみれば残っていない面が、どんな性格の文面であったかがわかるわけです。つまり第一面の性格は一言でいえば、「大和朝廷とそのご本人『羊』との関係」であるわけです。それは“削られていない”わけです。とすると削られた所は「大和朝廷とご本人との関係ではなかった」であろうと。じゃ何かと。たとえば、羊太夫の「太夫」という官職名は「大和朝廷の官職名」じゃないんですね。とすると、これは誰から貰ったのかというと、これはもう恐らく疑いない。といいますのは高崎のお膝元ですから、つまり上野の毛野君のお膝元ですから。この上野の毛野君がこの与え主であろうと、すぐ推察できるわけです。
 ここで思い出す、有名な話があります。『日本書紀』の安閑紀にでてくる話です。六世紀初頭の話として出てくるわけですが、『日本書紀』は、そこに書かれているからといって、その年代とは決められないんですが。とにかく武蔵の国造をめぐる話である。先ず毛野君が武蔵の国造を任命した。ところがその一族から、自分の方がなりたいのがいて、憤慨して大和朝廷にそれを訴えた。大和朝廷が軍勢を派遣して、その国造に任命されていた人物を殺した。そして訴えてきた人物を新たにその国造に任命した。という、有名な記載があるわけです。
 これは実際に行われた時代が六世紀初頭であるかどうかはわかりませんが、そういう類の事実があったことは間違いないだろう。何故かといえば、『日本書紀』という本はかなりあちこちの史料を持ってきて自分の好きな時点に挿入するという癖があるわけですが、反面自分で勝手に、小説家が小説をつくるように、お話をつくってのせるというそういう悪い癖はないんです。私の知っている限りではありません。
 そういう点からみると、今いった伝承、つまり一言でいえば毛野君と大和朝廷、もしくは大和の政権との権力争い、任命権争い、これが存在したということは恐らくは誤りないだろう。武蔵のような関東のど真ん中といいますか、そこでさえもある時点ではそういう任命権争いが行われたと。そして最終的には結局、大和政権側がその争いに勝って、そして大和朝廷というかたちで、東は関東、西は九州という支配権を樹立して行った、という歴史の一コマであろうことはですね、恐らく疑いないと。
 そうしますと、そういう例からみると、先程の羊太夫が先祖代々官職を賜うた、この背景っていいますか権力者というのは先ず高崎ですから、上野の毛野君でなければ話は全く成り立たないと。武蔵よりもっと毛野君に近いいわば真中ですからね。ですから毛野君から先祖代々が授号して貰っていた、栄えある輝かしき歴史と、称号の歴史がそこに書かれていたであろう、ということは当然推察できるわけです。それが削られているということになるわけです。
 この問題は実はまだまだ後日談がありそうでございますので、またその後の時にご報告できると思うんですが。またこれについて、非常に新たな研究をしておられる方もいらっしゃいますので、本日はそこまでの時点で一応打ち切らしていただきたいわけですが、要するに、そこ迄の時点でいいえることは、我々が今まで、これが史料だと思ってきていたものが実は「改竄された四分の一史料であった」と。史料として一番面白い史料の本領をなす所は知らずにきたと。今までのすべての学者、私の知っている範囲では、それを論じた学者を知りませんが今までのすべての学者、そして ーー今までの私が、その史料の本質的な性格を誤解してきたという、私にとっての「大発見」です。しかも金石文ですからね。おそらく私一人で行ったら気がつかなかったと思うんですが、皆さんとご一緒して頂いて三十何人の目でみて頂いて、そういう大きな「発見」に遭遇したというわけです。これは是非私としては、しっかり学術論文で、金石文の読み方が違っていた、或いは不充分だったんだということを述べたいと思ってるんですが、あらかじめ今日皆様に途中経過として報告させていただいたわけでございます。

追記
 この多胡碑については、多くの問題が残されています。問題の「年」は、果して当初からの文字か。また現地伝承として遣存する、多種多様の「羊太夫伝説」の系列・発展の姿の探究等です。これらの点、改めてふれたいと思います。なお、藤田友治さん、増田修さんなども、この問題にとりくんでおられます。

出雲風土記の朝廷は出雲か大和か

 さてそれでは次のテーマに移らせていただきます。大阪の皆さまには「倭人伝を徹底して読む」という二年間にわたって、ご聴講をいただいた講義の最終回に、到達したテーマでございますが、それがその後進展をみてまいりました。しかも重大な進展をみてまいりましたのでその件について申させていただきたいと思います。もちろん朝日カルチャーの「倭人伝を徹底して読む」の会に出ていらっしゃらなかった方も現在来ていただいているわけですから、簡略にその経緯を最初から追わせていただきたいと思います。といいますのは、一昨年三五八本のいわゆる「銅剣」、私がいいます「出雲矛」、これが出土しまして、さらに去年、六個の銅鐸、十六本の筑紫矛ですが出土しまして俄かに出雲に対して新たな関心と注目がよせられてきたことはご存じのところでございます。
 私もそのシンポジウムに出ました。去年の七月斐川町につづき、今年の三月は東京の有楽町のマリオンのシンポジウム(朝日新聞社と斐川町主催)。そこで自分でも、史料を整備したり考えたりする機会が多かったわけでございます。その中で今年の一月上旬頃に私は重大な問題にぶつかったと感じたわけです。それは、『出雲風土記』に「朝廷」という言葉が二回出てまいります。「みかど」というような仮名を振って読まれたりしておりますが、漢字自身はこの「朝廷」という文字でございます。それは二回とも、国造という言葉と関連して出てまいります。この国造、つまり「くにつくり」が「神吉事」つまり「神様のよいこと」これを申すために「朝廷に参り向う時に」といったタイプのフレーズで二回とも出てくるわけです。
 ところがこれに対して従来はほぼ例外なく「大和朝廷」としてこの「朝廷」を理解してきた。そして「国造」を「出雲国造」とこういうふうに理解してきました。したがって出雲と大和との、いわば“家来出雲とご主人大和”との関係を示す史料として、考古学者、国文学者、歴史学者を問わず、理解して使ってきたわけです。ところが私は、「待てよ」と。「これはそうではないんではないか」と。つまり、この「朝廷」というのは「大和朝廷」ではなくて「出雲朝廷」なのではないか、という疑いを持ったわけです。もっとも今まででもそういうことで書かれたものが絶無ではないんです。案外明治の頃に「出雲朝廷」なんて言葉を使ったりしている人があるようですが。しかしそれは格別今日、私が申し上げるような「論証」を経てのものではないようであります。
 少なくとも大学の学者や岩波の古典文学大系の注釈とか、その他の『出雲風土記』の注釈なんかでは、すべてこれを「大和朝廷」と注釈し、理解してきたことは間違いないところですが、どうもそれはおかしいんじゃないか。というふうに感じたわけです。その理由は、『出雲国風土記』の中にでてくる人物、人物といっても、神様ですが。それをマークしていきますと、ここにスーパースターともいうべき人、神様がいる。それは有名な大穴持命です。「天の下をしらしし大神」という肩書きつきで大穴持命、これは大国主命と同じ神様だというんですが。この神様が繰り返しでてくる。三十四回出現する。
 これに対して第二位といいますか、頻繁にでてくるのは須佐之男命、これは有名な神様ですね。もう一人は「神魂命」と書いて「かもすのみこと」。この二柱の神も十二回ないし八回登場する。
 つまり第一位と第二、三位とでは、かなり数が違います。あとは五回とか三回とかですね。一回なんてたくさんありますね。ですから登場頻度からいいますと、第一位がいて、第二位も第三位も第四位も第五位もなくて、第七位か第八位の所へやっと二人現れる、というようなそういう感じです。ですから全く文字通りのスーパースターであるわけなんです。
 ところがこのスーパースターの子供で「御子」と書いたのが六回でてくる。「御子」と書いてないが同一人物という神名をあわせますと、十回前後でてくるわけです。ところがその孫ですね大穴持の孫に当る人物ーー もちろん神様ですがーー これも、二回位しか出てこない。ということは一体、何を意味するか。
 考えてみると、私なんか今年還暦をむかえるわけですが、私ぐらいの年代になると、ぼつぼつそういう話になってくるわけです。子供はわたしの場合、そんなに子供はいませんけど、“子供が五、六人いる、ところが孫は一人か二人”だと、いう時間帯にいらっしゃる方もここにいらっしゃると思うんです。それが、もう少し時間がたってくると、孫が四、五人になり、七、八人になり、子供の数より増えて当り前ですね。というふうになっていくわけです。しかし、或る時間帯には子供は数人いるが、孫は一人か二人だという、そういう段階が必ずあるわけです。私と同年位の方でも、恐らく女のお子さんが多い方は、もう既にそういう状況にある方もあると思うんです。
 つまりその大穴持命の晩年の或る時点において、全体のストーリーはストップしている。それ以後のストーリーはない。そうでしょう。それ以後の時間帯を含めるのなら、孫がもっと増えてきて曽孫も出てくるわけです。曽孫はゼロですから。曽孫がゼロで孫が僅かに一人か二人というんですから。そういう時間帯以前のストーリーしかない、以後のストーリーは扱われていないと、こういう事実に気が付いたわけです。これは、「説」ではなくて「事実」であります。
 そうしますと『出雲風土記』のストーリーには「下限」がある。上の方は国引き神話とかいろいろありますから、この国が開けた開闢(かいびゃく)みたいな話も出てきますから、「上限」はわからないとしましても、少なくとも「下限」の方は判然と存在する。それは大穴持命の晩年である。こういうことがわかってきたわけでございます。とすると大穴持の晩年以前の時間帯の中で「朝廷」という言葉が二回ともでてくるわけですから。そうすると、この朝廷というのは、出雲の朝廷、つまりスーパースターの大穴持のいる場所、それを朝廷と呼んでいるのではないかという、そういう疑いを持ったわけです。
 さてその後「倭人伝を徹底して読む」の最終会の直前、三月の後半に一つのポイントを見つけました。一つは、『三国志』を見ていきますと、ここで朝廷という、言葉が何回も出てきますが、これが漢と魏、これを「朝廷」と呼んでいる。これはもう、当り前です。その記述対象ですから。第一巻の武帝紀なんかは、後漢の献帝の時、「武帝」とよばれている曹操は、「天子」ではありませんから、当然そこにでてくる朝廷は漢の朝廷。三国の時代は魏が中心で書かれているから、魏の朝廷は当り前。なお意外だったのは、呉を「朝廷」と呼ふ例が直接法の中ではありますが、出てきていたこと、間接には蜀を「朝廷」と呼んだ痕跡もあらわれていたこと。もちろん事実としては、魏、呉、蜀、それぞれ自分のことを「朝廷」とよんでいたからこそ「三国対立」なんです。しかし『三国志』という、魏をうけた西晋の立場で書かれた正史がそういうかたちの、いわば朝廷多元説のようなかたちで書かれているのは、一寸意外でした。
 しかしそれ以上に重大な問題は、西晋朝、つまり魏をうけついだ西晋朝。このときに『三国志』は書かれたわけですが、執筆時点が西晋、この西晋の史官陳寿が書いたのが「三国志』ですから、西晋が執筆時の「朝廷」であることは、もう疑いないんです。意外だったのは、この西晋朝を「朝廷」と呼んでいる例が全くなかったことなんです。“西晋の天子がこう云った”とか“西晋の年号の何年に”といった言葉は何回か、例外的にですが出てくるんです。にかかわらず西晋朝を「朝廷」とよんだ例は全く出てこなかった。言いかえれば歴史書として当り前かもしれませんが、「朝廷」という言葉は執筆対象の権力中心を指して使われている。執筆時点の権力中心を指しては使われてはいないと。この事実です。これも「説」ではなくて「事実」ですが、確認したわけなんです。
 ということは、こういう東アジアの歴史書のあり方から『出雲風土記』を見た場合、執筆対象はさっきいいましたように大穴持の晩年以前である。執筆時点は、これはいうまでもなく八世紀、大和朝廷の時代である。例外的には景行天皇の時とか欽明天皇の時二回、天武天皇の時一回と出てきます。例外的にはそういうのがでてくるが、基本をなすストーリーはさっきいったように大穴持の晩年以前である。だから例外的に執筆時点の天皇の話や名前がでてくるという点まで『三国志』と共通しているんです。
 ところがこの立場でもし見たらどうなるかというと、『出雲風土記』の朝廷は執筆時点の、「大和朝廷」ではなくて、執筆対象の「出雲朝廷」、大穴持命のいる場所を「朝廷」とよんでいる、とこうなるわけです。私はつくづく思うんですが、今まで江戸時代以来、ちっとは迷ってもよかったのじゃないかと。この「朝廷」が果たして出雲か、大和か、どっちだろうというような論争くらいはね、もし論争でなくても、自分でちっとは書く時に“迷って”みて、やっぱり大和朝廷だろう、というような人がいてもいいと思うんです。
 まったく迷ってないんですよ、誰も。そりゃそうです。考えてみると。最初から大和ですよ。賀茂真渕や本居宣長から始まってるわけですから。国学の人達です。あの人達の古典研究は単なる文献いじりじゃなかった。要するに天皇家がいかに我が国では永遠の昔から中心であり、尊いかということを証明することが出発点であり、また到着点であったわけですね。「目標」であったわけです、だからそういう人達にとって“この「朝廷」はどこの朝廷でしょう”なんていう問い自身が、もう“禁じ手中の禁じ手”、不遜極まりないものと見られたと思います。だから彼等は何の疑いもなく「大和朝廷」と考えた。
 それはやむをえないともいえますけど、それをその孫弟子だか曾孫弟子だか、明治の国語学者、国文学者、歴史学者が、その大先生達の教えをそのままうけついだ。そのまた子弟子、孫弟子達が今の各大学の国語学者、国文学者、考古学者なんでしょう。だから岩波古典文学大系その他をみても誰も迷うことなく「大和朝廷」と注記しているわけです。これはやはり行き過ぎっていうか、おかしいんじゃないか、という風に私は感じたわけです。

国ゆずりの神話

 さて決め手は『出雲風土記』自身から出てまいりました。といいますのは、その大穴持が三十四回出てくる最初に、“デビュー”する箇所が、先頭の方にあります。そこで大穴持は越の国を征伐して来てそこで語るわけです。「吾が、造り坐して命(し)らす国」は皇御孫命、「すめみまのみこと」です。これは「ニニギノミコト」だと思うんですが、彼にゆずる。そして自分は出雲に引退すると、こういうことをいうわけですね。いわゆる「国ゆずり」のテーマが、大穴持のしょっぱなに出てくるところに語られているわけです。
 今朝、私が発見したことなんですけれども、それを次にのべます。
 『古事記』、『日本書紀』の「国ゆずり神話」と「出雲風土記」とは“全然違う”という話が戦後いわれてます。そこで「出雲風土記は信用できるが、古事記、日本書紀の神話は信用できない」というのが“戦後の流行”のようになっています。ところが本当にそうか、と見てみるとどうもそうではないんではないか。「すめみまのみこと」というのは、私は出雲の“大国主の子孫”というふうに考えたこともあるんですがそういうお話しを申し上げたこともあるかも知れませんが今度見直してみるとやっぱりそうじゃなくて、これはやはり「ニニギ」であろう。
 なぜかといえば、その後に「自分は出雲で引退する」と書いてあるのと、それから何よりもさっきわたしがみたように大穴持の晩年の或る時点、最晩年になると普通は子供より孫の方が多くなるんですがね、最晩年までいかない、晩年の「或る時点」でストーリーがストップしている。この引退するといった時点から後の“ストーリー”はない、ということを意味しているわけです。「自分の本当の孫」に譲るんだったら、ストーリーがストップする理由はないわけです。という点からみても、やはり「ニニギ」です。
 さて『古事記』・『日本書紀』の神話では事代主・建御名方というのは大変重要な位置を占めています。初め大国主のとこへいって「国をゆずれ」といったら「自分は引退するからもう何ともいえない。子供に聞いてくれ」と。子供というのは事代主です。美保の関で会って聞いたら「承知します」とOKしてあと海へとびこんで死んだ。次に次男の建御名方を追って、諏訪湖のところで遂に承知させた、というのは有名な話。
 ところがその話が『出雲風土記』には全くない。ないのみか事代主・建御名方の存在自身がない。大穴持命の「御子」がたくさん出てきてるのにね。事代主や建御名方なんか全然現われないわけです。大穴持がニニギに譲って後はストーリーがストップしているのですから。つまり譲って後、この話はつくられてるんですね。伝承してる人は、決して事代主が伝承してるわけでもなければ建御名方が伝承してるわけでもない。事代主はもう死んでしまったし、建御名方は諏訪湖にこもって、もうここからでませんと言っているんですから。
 要するに他の子供達が出雲を統治するわけですね。筑紫に支配された、出雲を統治するわけですね。その時点の伝承として語っているわけです。だからそこでは事代主や建御名方は除外した形で語られるんです。今日も後で出てくる阿遅須似高日子(あじすきたかひこ)という、初めに小さい時“唖”だったという。ああいう子供がクローズアップされ、語られているわけです。だからいってみれば「AとBが一致している」という場合 ーーこれが今朝考えたことですがーー 一致している、という場合に「A=Bだ」というケース、つまりAとBとはここも、ここも、すべて、共通しているという、そういう対応の仕方もあるわけです。ところがそうじゃない対応の仕方もあるんです。
 つまり、この「凸A」と「凹A」と、あの実物と鋳型との対応のタイプです。つまり凸と凹と相補う形のソックリさんです。凸と凹とは、全く似ていないわけです。見たとこでは全然真反対。ところがその凸と凹を合わせるとぴっちり合うわけです。これはやっぱり対応しているわけです。『古事記』『日本書紀』の「国ゆずり神話」と『出雲風土記』の「国ゆずり神話」とは、合うわけです。こういうふうに事代主死し、建御名方去りし後の姿にぴしゃっと合うわけです。そういう一致の仕方、対応の仕方をしているということを、私はそれに今朝気がついて「あっ、そうだったのか」という感じを持ったわけです。
 さてそこで本筋へ戻りますと、大穴持がいってる「国」は当然国々の意味だろう。単数・複数は日本語、中国語とも同形ですから形だけではわかりませんが、意味内容から考えると、「越の国」を征伐してますし、少なくとも出雲と越との二つ国があります。ところが、そういう国だけではないわけです。『出雲風土記』の中であっちこっちに出てまいりますが、八世紀段階では「郡」に当るようなものを「国」として大穴持は発言しています。だから八世紀段階では「郡」であったものが、大穴持段階では「国」とよばれているのです。そういう意味で幾つもの「国」が寄り集まって「出雲国」という大きな国を成立させている。当然「越の国」の中にも、小さな「国」がたくさん寄り集まって「越の国」ができあがっている。「筑紫国」についてもそうでしょう。吉備あたりの方についてもそうでしょう。そういうのを全部統治してるから、先程のべました大穴持のあの称号の「天の下しらしし大神」となっているわけです。
 つまり「天の下」というのは一つの「国」が「天の下」じゃないわけで、“統治し、支配した、すべての国々”が一言でいえば「天の下」とよばれている。こう考えざるをえないわけです。これが『出雲風土記』の構造だとしますと「くにつくり」という言葉は、いってみればこれは「一国造り」のことである。つまり今でいえば郡に当るような、そういう国を支配し統治している人物が「国造(くにつく)り」である。
 それに対して「天下造り」「天の下造り」です。これがつまり、大穴持です。こういうふうに考えざるを得ないわけです。そうするとさっきいった「国造りが朝廷に参り向う時」というのは、当然「一国造り」の意味と考えられるわけです。とすると「朝廷」というのはこの「天下造り」の居る場所が「朝廷」と考えざるを得ない。つまり大穴持がいる所が「朝廷」です。これに対して“我が日本列島中では天皇家しか朝廷はあり得ない”という「絶対概念」を持ちこんでやみくもに読んでしまうのではなくて、あくまで『出雲風土記』の術語の使い方、『出雲風土記』の構造に立って、その文章を理解する。当り前の「文章の理解の仕方」だと思うんですが。それに従うかぎりは、こう考えざるを得ない。そして、その挙げ句は今日あとでいいます問題です。

阿遲須枳高日子命

 三澤郡(三津)のケースで、その事はさらに確認されるわけです。岩波の「古典文学大系」では三澤とありますが、これは原文は三津。

「三津の郷。郡家の西南の方二五里なり。大神大穴持命(例の大穴持です)の御子阿遲須枳高日子(あじすきたかひこ)命、御須髪八握(みいげやつか)に生(お)ふるまで、書夜哭(な)きまして、み辞(こと)通わざりき。その時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十嶋(やそしま)を率(い)て巡りてうらがし給へども猶哭き止みまさざりき。大神夢に願(ね)ぎ給ひしく『御子の突く由を告らせ』と夢に願ぎませば、その夜、御子み辞通ふと夢見ましき。則ち、寤(さ)めて問ひ給へば、その時「御津』と申したまひき(みつという方がいいですね)。その時『何処と然いふ」と問ひ給へば、即て、御祖の前を立ち去り出でまして、石川を渡り、坂の上に至り留まり『此処ぞ』ともうしたまひき。その時、其の澤の水活(なが)れ出でて、御身沐浴みましき(其沢水活出而御身沐浴坐)」。
 とあるが、これは原文を大分直してありまして写本に忠実によみますと「其の津の水に御身沐浴し坐すにて治す」(其津水治而御身沐浴坐)と。漢文として一寸、妙な考えられない漢文ですが、私はこういう変則漢文であろうと思うんです。
 キーポイントは「治す」という言葉が写本にはありますので、ここで治ったとその病気が治った、という結論になっていることが重要です。「くにのみやつこ」という読み方は、私は大嫌いですね。これは八世紀の近畿の天皇家がつけた読みをここへ持ちこんで読みをつけているんですから、とんでもない話です。
「くにづくりが神吉事奏しに」朝廷に参向う時「其の水活れ出でて用ゐ初むるなり」とこうなるわけです。つまりこの話を概略申しますと、大穴持の子供の阿遲須枳高日子命が大きくなるまで口がきけなかった。いわゆる「唖」といいますか、そういう病状を示していた。「そこで父親としては非常に心配して子供を船に乗せて、八十嶋、あちこちの嶋を連れて廻った。けれども哭いてばかりいて、口をきくことが依然できなかった。それで彼は或る宿舎で、旅の或る夜に夢でその神様に祈った」と。
 我々は大穴持というと神様だと思っていますが、彼は生きている時は人間で、彼にとっての神様がいたらしくて神様に祈った。「『なんでこんなに哭いてばかりいて口が利けないか教えて下さい』と。神様が『よろしい。直してやろう』と。こういわれて『よかった』と思ったら、目が覚めた。それで直ぐ隣に寝てる子供に声をかけたら、その子供が『三津』と初めて言葉を喋った。わあわあ哭いている以外の『発音』をしたわけです。『どこのことを三津っていうんだ』と聞いたところ、その子供がぱあっと父親の前へ立ち上がってすっと走りだしたと。川を渡って坂の上にきてここっ、といった。そこの水をつかっているうちに病気が治った」と。
 こういうふうにかかれているわけ。で問題はその次です。
 「故、国造り、神吉事奏しに朝廷に参向うふ時、其の水活れ出でて用ゐ初むるなり」と。この時に朝廷にその大穴持がいて、この間まで口がきけなかったのがその水のおかげで治った。その子供がいて、そこへ仁多の国造りが「今朝あの三津の水で、体を沐浴してきました」「ああそうかそうか、あの水は実にいい、霊験あらたかないい水じゃ」と大穴持がいうわけです。そこで両者の交流がなされるわけでしょう。つまり全ストーリーは非常に自然な流れの話になるわけです。
 ところがいきなり「大和朝廷」だったら、何も関係がない大和朝廷、“こんなもの、何をうろたえたか”という感じです。それなのに、文章としての流れをまったくぶったぎってまで、大和朝廷を持ちこんで、従来誰も疑わずに読んできたわけです。文脈の流れというのはやっぱり一番大事です。文章の流れはどうでもいい、読め読め、というのなら誰でも読めます。
 しかしその流れによるかぎりは「朝廷」は大穴持のいる所ですね。でこの点は、現地へ五月の終りに行ったんですが、そこで気がつきました。というのは、現地へいくまでには、この「国造」というのを”出雲国の中の凡ての一国造り達”というふうに理解していたんですよ。ということは出雲国の中で「一国造り」は出雲大社の大穴持のいる所へいく時には、ここに寄って体を洗っていく、というふうに理解していたんです。
 ところが出雲空港からタクシーで一時間十分くらいかかって、そこからさらに三十分くらいかかっていきましたが、非常に入りくんだ山奥なんです。だから今の出雲の中の国造りだってですね、西寄りの廻り道の山中まで行って、そこから大和朝廷へいくなんてのはむろん大変なことです。地理的にね。この点、出雲の各地の国造でもそうです。わざわざ出雲大社は近いのにそこへ行く前に、水だけあびにいくと“それが宗教的に大事なんだ”って理屈をつければいいようだけども、なんとなくおかしいわけです。
 ところが現地で私、やっと気がつくんですけども「是はにたしき小国なりと詔りたまひき。故(かれ)、仁多といふ。」これは仁多郡の項目です。この仁多郡のところで、これは大穴持がこう仰しゃったという言葉が出てくるんです。“湿地の多い小国であると、こういうふうにおっしやった、だから仁多というんだ”という地名説話です。ということは、つまり仁多郡を「仁多国」、小さいけど「仁多国」だ、とこういってる話から始まってるわけです。
 それからすぐあとに例の説話です。そうすると「国造り」というのは、これは「仁多の国造り」なんですね、これは。そうとしか読めない、初めから読んでいけば、「仁多の国造」なら、地理的に何の不思議もないわけです。その水のところまでは同じ三澤の村の中ですから、まあ二、三十分くらい朝早く起きれば、すぐいけるわけです。水を浴びられるわけです。然もそのすぐ側には、斐の川が流れている。斐の川の上流ですから、ここは。斐の川で船へ乗ったら、船というのは上流から下流へいくときは快適な、スピーディな乗り物ですから、恐らくわたしは数時間かからずに出雲大社に着けるだろうと思いますね。
 これは今のタクシーより、或る意味では、もっと便利かも知れません。さーっと船に乗って川を下ればね。要するに朝その霊泉で水浴みして、お昼過ぎには大穴持とその子供に「拝謁」できるという、そういう話になっている。話は実にスムーズです。何の無理もしてない話です。それを今までのように、出雲国諸国の国造たちであるとか、いわんや出雲国造が大和朝廷へいく時にここに寄るということになると、もう地理的条件を無茶苦茶におし曲げて読んでしまっていたわけです。
 私のいいたいところは要するに、この『出雲風土記』に出てくる二回の「朝廷」はやはり「出雲朝廷」であった、という結論でございます。術語としての性格からみても、単語としての統一からいっても、またストーリーの必然性からいってもこれは「大和朝廷」ではありえない、「出雲朝廷」であると。これはもう“疑問”ではなくて私は断言しうるというふうに現在考えるに至ったわけでございます。これはもちろん私にとっては非常に大きな発見でありました。
 なぜとなれば多元史観というものは、一元史観に対するものである。一元史観というのはいうまでもなく「我が国では朝廷といえば天皇家以外になし」と、こういう国学以来の信念に基づいて文献を読むことでした。どんなに地理的に無理がおきようと文脈に無理がおきようと、意に解しないと。大事なのは「皇室を尊崇する」ことであって、古典もそのためにはねじ曲げても止むをえないと。ちょうどこれは邪馬壱国とあるのを邪馬台国とねじ曲げてもかまわない、という精神と江戸時代の同じ立場の学問精神に基づいたものです。“近世的”学風なんです。
 要するに出雲朝廷は、大穴持の晩年をもって終ったわけで、次はニニギの「筑紫朝廷」に移るという形でちゃんと書いてあるわけです。だからまだまだ出雲朝廷以外は大和朝廷だけ、なんてわけにはいきません。その筑紫朝廷の一端の日向から、大和朝廷の遥か先祖すなわち“九州に絶望した”日向の地方豪族の末端たる、神武たちが出発したと、こういう話になっていくわけです。では、出雲と筑紫と大和だけかといえば、そんなことはありません。「朝廷」という言葉を使わないだけで関東にも、或いは東北、北海道にも或いは沖縄にも「朝廷」に当る存在は当然存在しえたはずです。ということで多元史観というイメ-ジを史料批判上、文献上、明確に立証できたケースとして、わたしは是非とも学術論文を以て報告したい、とこういうふうに思っているわけです。

『古事記』序文を読み直す

 さて、ここからの副産物といえばあまりにも大きすぎるんですが、大きな発見が続いてまいりました。というのは『古事記』の序文でございます。これは今年の四月に立川の朝日カルチャーで、第一回の講義を始めました。その時に『古事記』を基本的なテキストにしてということだったんで『古事記』序文を見ておりました。
 わたしは東北大学に入ってすぐ村岡典嗣さんにゼミナールみたいな形で、学生が二人でしたけど、教わってたのがこの『古事記』序文でございます。昭和二十年私の十八才の時。だから古事記序文はもう先刻御承知だと高を括っておったんですが、これはやはりわたしの大きな思い違い、まことに浅ましいところでありまして、全然今まで『古事記』序文を私は読めていなかった、ということを感じたわけです。
 これは、天武の言葉で、「朕聞かくは」、まあ「朕聞く」と切ってもいいんですが、「諸家の齎*(もた)る帝紀と本辞と既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふといへり。今の時に当りて、その失を改めずば、いまだ幾年(いくとせ)を経ずして、その旨滅びなむとす。」とこうありまして、それで「姓は稗田、名は阿禮」というのを見出だしてきて、そして彼に「勅語して、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまひき」となっていきます。これに対して昔からいろいろな説が出ているんですが、武田祐吉さんという京大の学者が戦前から戦後にかけて出されました、『帝紀考』という有名な論文がでまして、それによって大体戦後の学説は、統一とまでいきませんけど、多数説が形成されてきたわけです。

齎*は、(もたら)すの意味。強いていえば[喪]の下が貝編、士編に口二つ入れます。ユニコード8CF7、齎の略字。この字は有名な字です。

 それは「帝皇の日継(ひつぎ)」と「帝紀」とは、イコールである。また「先代の旧辞」と「本辞」とはイコールである。だから「帝紀」というのは天皇家の系譜である。「本辞」とか「旧辞」とかいうのはそれ以外の説話である。こういう分析です。非常に明快な分析です。だから現在の『古事記』、「日本書紀」は何れも帝紀と本紀に分類できると。つまりあの中で天皇の系図、系譜に属するものが「帝紀」である。それ以外が凡て「本辞」である。というんですから、大変うまく“腑分け”できている。一種快適な有効性もありまして、現在「通説」に近い位置を占めてるといってもいいだろうと思うんです。
 ところがこの非常に明快な通説には実は根本的な弱点がある。何かといいますと、この「帝紀」という言葉は天武天皇がつくった言葉じゃないんで、東アジアの術語である。丁度さっきの「朝廷」という言葉は、やっぱり東アジアの術語であった。だから東アジアの術語の「朝廷」というのを中国の歴史書における「朝廷の使い方」を無視してね、日本列島では「朝廷は大和朝廷に限っている」みたいなやり方は、本当に夜郎自大という感じのやり方だったわけです。考古学から現在の学者、私まで含めまして“夜郎自大”できていたわけです。
 やっぱり「朝廷」という東アジアの術語を使う限りは、「朝廷」って言葉をどういう形で中国の歴史書は使っているか、という、そういう文脈の中で理解してこちらの場合も判断すべきだったんです。それを無視してきた。同じように、この「帝紀」というのもやっぱり「朝廷」に劣らぬ重要な術語なわけです。つまり『史記』、『漢書』どれをみても、「帝紀」が先頭にあるわけです。どういうものかといえば、当然天子の名前があげてあって、その天子の治世に行われた事績の記事が「帝紀」です。それがすんだら「列伝」になるわけ。つまりその天子の家来の豪族達の名前を挙げて、その時生じた記事を書いている。「列伝」に入る前は「帝紀」なんです。これは何の疑いもない。『史記』、『漢書』その他あらゆる中国の歴史書の定式です。その定式を完全に無視しているわけです。だって系図だけの帝紀なんて東アジアどこにもないわけです。日本側の従来の「通説」は東アジアの用例を完全に無視するという弱点を持っていた。なまじっかの弱点ではない。
 そこで私は今度これを考えてみて、「あっ」と思いました。それは先程の『出雲風土記』の経験があったからです。つまり『出雲風土記』では風土記という名前に誤魔化されていた。これは八世紀に天皇家がつけた名前でね。全国のものにあわせて風土記とよんだだけのことでしょう。その実体をみれば、これ、完全に「帝紀」です。「朝廷」があって、で「天の下しらしし大神」というのが三十四回も頑張って出てきていて、しかもそれが「国を譲った」途端にストーリーが断絶する。その途端に出雲が全然“お話にもならない国”になったなんてありえないわけでしょ。にもかかわらずストーリーは断絶するんです。

倭武天皇は倭建命に非ず

 言い換えれば「帝紀」である範囲でのみ語られているそういう話が『出雲風土記』の内容なんです。そこから後は、いわば「筑紫帝紀」に移るわけです。だから恐らく『古事記』・『日本書紀』神代の巻などは「筑紫帝紀」の中の神代の巻でしょう。筑紫中心に語られていますからね。だから『出雲風土記』は実は「帝紀」である。そういう問題がでてきた。『出雲風土記』だけじゃありません。たとえば『常陸風土記』。ここにもスーパースターがいます。倭武天皇。倭武天皇というスーパースターが繰り返し巻き返し現われてきます。これをすべての注釈で、例によって例の如くで、これを倭建命と結びつけております。ところがおよそこの人物程、倭建と似ない存在はない、といってもいいくらいです。
 なぜかというと『古事記』によると建は東京湾の南辺は渡ったがそこから先ではさしたる業績はなかったという形で語られている。わずかに山梨へいって、その歌の中で、その辺の記憶らしいものが歌われているんですが。しかしそれはそういう歌が他の人によってすでにつくられていて、その歌をそこで歌ってみただけかも知れない。説話内容そのもので千葉県や茨城県を活躍してまわったことを示す話は『古事記』にはまったくないわけ。いきなり「吾嬬はや」となってくわけです。それに対して「日本書紀」の方では、東北迄足をのばしたような感じで語られていますが、両者を比較してみると『古事記』の方が本来の姿で『日本書紀』の方は他の人物、恐らくは常陸の王者、いわば「東北侵略」といいますかそういうものを語った英雄譚を倭建の説話として『日本書紀』が“プラス”したものである、という分析はこの会でもすでに申しあげましたし、去年、徳間書店から出していただいた『古代の霧の中から」にも収録されました。この『市民の古代』の文章が収録されたわけです。それをご覧頂ければ明らかなところでございます。
 大きな違いは ーーこれは誰も忘れられない話ですがーー 倭建の奥さん弟橘姫は東京湾で死んだと。走水の海ですか。そこで竜神に対する人身御供として死んだと、語られている。ところが倭武天皇は奥さんがいて大橘の姫という。彼女が倭からやってきて、常陸の周りを二人で巡幸して歩いている。時にはボートの船遊びみたいな感じで海の上に浮かんだみたいな話まであって、たのしく両者が巡幸して歩いているわけです。だから「大橘」と「弟橘」と。橘が一字似ているから向者同一ってわけにいかない。片方は海底に沈んでいる。片方は遊び廻っている。一字似ていれば同一人物ということなら、この部屋の中にも同一人物はたくさんいらっしゃるんじゃないか。「古田」と「山田」と「田」が一緒でももういいわけですから。同一人物になれるわけです。資格あり、というわけです。そんな馬鹿な話はないわけですよ。ですから先入観を去ってみれば、そういう名前が一字似ていれば天皇家の誰かだという、具体的な姿の説話が違っているのは「異伝である」と、あの流儀でやってきたからです。それで今まで通ってきた。
 しかしAという人物とBという人物がイコールかどうかは名前が一字似ている、二字似ている、というようなことで決めるべきものじゃなくて、その「行動様式のアリバイ」とでもいいますか、それで決めるべきものです。そしたらどう見たってあれは両者同一にはならない。一番はっきりした話は、片方の倭建は一回も「天皇になったことはない」。これは判り切ったことで、ナンバー2で一生を終った。他の一方は「天皇」と終始かいてあるわけですから。天皇というのは、ナンバー1ですから。ナンバー1とナンバー2がイコールということはそもそもありえないわけです。あんまりはっきりしていることはみんな無視するらしい。男と女とが違うというのを無視するという、あの「日出づる処の天子」の問題と同じようにね。あんまり違いがはっきりしていれば、みんなで無視してかかる。こういう癖があるようでございます。
 ということで冷静に、クールに考えれば倭武天皇が「倭建でない」ことは、もう自明、避けることのできない結論である、というふうに私には考えられました。ところがこの人物は、ではどういう人物かと。最初は、わたしはこれを常陸の英雄といいますか、常陸の五者と考えました。丁度廻っているところが水戸辺りを空白にしまして周りをずっとほとんど全部巡行しておりますので、常陸の王者ではなかろうかと、こう考えた時期がありました。
 ところがその時にやはり私の頭に突き刺さって離れない疑問があったわけです。それは何かというと、その奥さんの大橘姫というのが「倭から来た」とこう書いてある。その「倭」とはどこかと。普通に考えれば、これは当然大和である。ところが大和から来たというと、倭建に大橘という后はいない。弟橘以外いないし、いわんや関東に行って一緒に遊び廻ったような后もいない。倭建以外の天皇や皇子に関しても、そのような后はいない。そうするとこの「倭」を大和と考えることはどうも考えられない。ということで、疑間に残っていたわけです。
 ところがその後、まあ何年も経っての話ですが。「倭」の問題を追跡しているうちに「倭にはふた通りの倭がある」と。で本来の「倭」は「倭イコール筑紫」の「倭」であると。『古事記』の中にある ーー「大国古事記」とわたしがよびました大国主をめぐる一連の説話ーー この中にでてくる倭は二つとも「筑紫」を指す倭である。という結論に到達してきたわけです。東大の史学会でも発表しましたが、「古代は輝いていた」の中でも終りの方にそのテーマが述べられております。そうなりますと「倭」という字があった場合、第一次の倭は筑紫、第二次的に派生した倭は大和である。今文献に現われた、その「倭」はどちらの倭であるかを判定しなければいけない、ということになってきたわけです。
 従来の人は全然判定せずにみんな大和として読んできていたわけですがそれではいけないんだ、ということになってきた。そういう立場に立ちましたさいに、今問題の大橘が来たという「倭」は何処か、と。先ほど言いましたように「大和イコール倭」の倭ではあり得ない。そうすると二つのうちの一つではあり得ないんですから、残る所は第一次のほうとして、つまり「筑紫イコール倭」の倭と考えざるをえない。この「大橘は筑紫からきた」とまあ論理的にそう導かれていったわけです。この論理はさらに連鎖反応を最も重大なところへ及ぼします。とすると、倭武天皇の「倭」もまた「筑紫の倭」でなければならない。こういう重大なところへ逆戻りといいますか、心臓部に戻ってきたわけです。
 この倭が筑紫であるとすると、この天皇というのは筑紫の王者である。筑紫の王者で倭武とこうなりますと、私はかねてより「倭の五王」というものを近畿の天皇家ではなくて「筑紫の王者」 ーーまあ現地音では「ちくし」ですがーー 「筑紫の王者」と考えてきていた。その最後が倭王武すなわち倭武である。その倭武がこの『常陸風土記」にでてくる倭武天皇であると。こういうまあ非常にわたしはその時は頭が“苦しかった”んですが、そういう結論に辿り着かざるをえなかったわけです。ところがその後調べてみると実はこの常陸には、九州の痕跡は非常に色濃く存在した。例えば虎塚。明らかに装飾古墳の各部分をなすデザインが非常に整理・整頓されて美事に表現されている。それはただ虎塚だけではありません。常陸から今度は福島県にかけて横穴古墳などに夥しく面をなして装飾古墳と同じデザインの、連続三角文とか、二重丸とか、そういう類のものが刻まれていたことを知ったわけです。ということでわたしが苦しみながら到達した文献解読は実は虚像ではなかった、という感じを持ったわけです。
 なおその常陸における最大の前方後円墳が被葬者の名前だけはわかっているという、非常に不思議な例があります。その名前が「つくしとねの命」というふうに現地の石柱に刻まれております。「とね」は名前か官職名の類だろうと思いますが、どうも筑紫と関係があるような感じです。その人の事績がわかっておりませんけど。以上の点から見ますと私の分析も、あながち荒唐無稽ではなかったんだな、というふうに感じたわけです。このことは既に『古代は輝いていた』に二巻と三巻に分けて出てきているテーマでありますが、今の問題についてみますとこの『常陸国風土記』もまた「帝紀」である。それは今の倭武天皇、これは第一の権力者ですから。これは「筑紫朝廷」の倭の王者、中心の王者です。
 たしかあそこでもやはりまた「巡行」という言葉が繰り返し書かれております、倭武天皇が行動することを「巡行」という形でかかれております。「天下巡行」ですかね。ということですからこれは「筑紫朝廷」を原点にする「帝紀」の一節である、ということになってくるわけです。また九州の風土記に二種類ある。郡の「こおり風土記」は全国共通の行政単位だが、県の「あがた風土記」については、九州を原点にする風土記であった、ということも今まで繰り返し講演でもお話し申し、角川選書の『よみがえる九州王朝』或は『古代は輝いていた」でも述べたところです。ということは言い換えると、阿蘇山を天下の中心として描いた、この『県風土記』は「筑紫朝廷」を原点とする風土記である。ということになります。つまり筑紫の「帝紀」をバックに持った風土記であるということにならざるをえないわけでございます。

序文は多元的朝廷を証明

 というようなことから見てまいりますと、ここで天武が言っているところの「帝紀」というのは、文字通り「帝紀」。つまり各地の権力中心に依る、権力中心の歴史、それを「帝紀」とよんでいるんだ。ここで解けてまいりましたのは、実は『古事記伝』で本居宣長が非常に悩みましたのは、そこにかいてある「諸家の齎*(もた)る」という言葉 ーー「齎*る」という変な字ですけとも、これを非常になやんだ。漢和辞典で引けば、すぐわかりますように、これは「もたらす」という読みでありまして、つまり「BRING」“外部から内部に持ってくる”という意味しかないわけです。ところが、天皇の系図を、天皇家の外部の人間が天皇家へ持ってくるというなんて、変な話ですね。それで宣長は悩んだ結果、これに「もたる」という奇妙きてれつな読みをつけるわけです。つまり「諸家が持っていた」という意味に変えてしまうわけです。「BRING」“外部から持ってきた”という字を完全につかっているのを宣長が“読み換え”をやったわけです。一元主義による読み換えです。漢字をそんなに違う意味に変えて読むというのは、やはり「古典を尊重する」態度じゃないんです。宣長が古典を尊重してその通りに読んだ、なんて、一種のコマーシャルソングでありまして実際は天皇家のためならば、幾らでも“改竄(かいざん)”し“読み換え”もやったわけです。
 ということで、それを今度は読み換えしないで、理解できるわけです。つまり諸家とは各地の権力者と考えざるをえない。普通に考えて。各地の権力者は「帝紀」を持っていた。それを天武は見ていたわけです。読んだわけです。そこで「この話では困る。大和中心の、我々中心の歴史をつくらなければいかん」とこう言っているわけです。それが『古事記』・『日本書紀』の編纂というところへつながっていくと、こういうわけです。だから天武は後々の皇国史観の持ち主のようには認識の目はつふされてはいなかった。むしろそういう日本列島各地の複数の「帝紀」を目にしたからこそ「古事記」・「日本書紀」というものの成立を渇望し願望し、そのために惜しみなく彼の力を使おうとした。ということを初めてわたしはこれを知ったわけです。
 だから今まで私は「古事記」序文は何回も目を通しながら、少年時代以来通しながら、実はその内容を全く理解せずにきていた、ということです。この問題はまたいろいろな副産物をもたらすでございましょう。たとえば古事記偽書説と、古事記本文は偽書ではないけど序文は偽書だという、偽作だという説は、大和岩雄さん始め、かなり強く主張する人があるわけですが、今のように文章を理解してきますと、これはどうも無理じゃないですかね。「日本列島に多元的に朝廷があった」というそういう意味の文章なんか、後代の偽作者に書けるはずのもんじゃないですからね。そうするとやはりこれは天武が抱いた危機感である。そして白村江の九州王朝の「敗戦」で、ついに「我々の時代がきた」という、その時点においての天武の発言とすれば理解できる。ところが、天皇家の一元的な権力が確立していた、平安朝あたりの偽作者に考えつきうる文章ではないであろうというような、副次的な、しかし重要な問題も派生してくるようでございます。

荷田春満の「出雲風土記」巻頭の改竄

 後半に移らしていただきます。エドガー・アラン・ポーの名作で『盗まれた手紙』というのがありますが、そのテーマは一番大事なものというのは、一番目の前に置かれているとみんな気がつかない、というテーマでございます。最近もその作品を繰り返し読んだのですが。同じようなことが、実は『出雲風土記』にもあったわけでございます。前半で申しましたように『出雲風土記』の中心は「出雲朝廷」大穴持の場所を中心に描かれているんではないかということに辿り着いてきたわけです。ところが、そんなにごたごた辿らなくてもよかったわけです。実は『出雲風土記』の先頭にそのように書かれてあったわけです。

1). 岩波版「古典文学大系」〔活字本〕
出雲國風土記
國之大體 首震尾坤 東南山 西北屬海 東西
一百卅九里一百九歩 南北一百八十三里一百七十三歩
             二 百 里   一十七里
(一百歩)
(七十三里卅二歩)
(得而難可誤)

2). 倉野氏本(倉郎憲司博士所蔵)〔以下、古写本〕)
出雲国風土記
国之大體首震尾坤東南宮北屬海
東一百卅七里一十九歩南北一百八
十二里一百九十三
 一百歩
 七十三里卅二歩
  得而難可誤

3). 細川氏本(細川護貞氏所蔵)
出雲国風土記
 国之大體首震尾坤東南宮北屬海
 東一百卅七里一十九歩南北一百八
 十二里一百九十三

4). 松下氏本(成簣堂文庫所蔵)
出雲国風土記
            山西
 国之大體首震尾坤東南宮北屬
  西
 東一百卅七里一十九歩南北一百
 八十三里一百九十三歩

5). 萬葉緯本(三手文庫所蔵)
出雲国風土記
             陸呼      西
 国之大體首震尾坤東南宮北屬海東一
 百州七里一十九歩南北一百八十三里
 一百九十三歩

6). 桑原氏本(桑原羊次郎氏所蔵)
出雲国風土記
 国之大體首震尾坤東南宮北屬海東一百
 卅七里一十九歩南北一百八十三里一百
 九十三

7). 河村氏本(京都大学所蔵)
出雲国風土記
 国之大體首震尾坤東南宮北屬海
  西
 東一百八卅七里一十九歩南北一百八〔この行の上欄に「東下疑有脱字」と書込み有り〕
 十三里一百九十三

8). 日御碕本(日御碕神社所蔵)
出雲国風土記
 国之大體首震尾坤東南宮北屬海
 東一百卅七里一十九歩南北一百八十三
 里一百九十三
( 2).〜 8). は田中卓著『出雲国風土記の研究』出雲大社、皇学館大学出版部刊、昭28初版、昭49再版より)

 活字本の1). では、「出雲国の風土記。国の大き體は震(ひむがし)を首とし坤(にしみなみ)のかたを尾とす。」「震」が東で、「坤」が西南をさしています。だから東が頭で西南が尻尾である。「東と南とは山にして、西と北とは海に属けり」「東西」は何里何歩「南北」は何里何歩と書いてあります。
 ところが、この文章には内容的におかしいところがあるわけです。といいますのは「東と南とは山にして」とありますね。確かに出雲は「南」は山です。ところが「東」は、美保の関の向うは海ですね。米子の方もあれは米子平野で、平野でありまして決して「山」ではない。だからあくまで「南」は中国山脈で山であるけれど、「東」は海ないしは平野です。だから「東は山」というのは大体嘘です。
 その上、もっと基本的におかしいのは、今読んだような文章は、『出雲風土記』には「全くない」という事実なんですね。何を言っているか、と皆さんお思いでしょうけども『出雲風土記』の古写本には、今読んだような文章は皆無であるというこの事実です。皆さんも恐らく、今初耳だろうと思うんですが、私も初めて知ってびっくりしました。“動転”しました。資料で見ますと、倉野本( 2). )というのは、これは非常にいい古写本だといわれてるんですが「国之大體首震尾坤」の次に「東南宮北屬海」さっきの文章には「宮」なんていう言葉は出てこなかった。次に「北属海」です。次は『東』。「東西」とさっきいいましたね。ところが古写本には「西」という字はないわけです。次は「南北」この「北」はありますよ、ですから先ほどの字は「宮」という字を何と「山西」という字に“直して”あるわけです。ひどいもんですね。一字を二字に直すなんて。「東」というのも、「東西」に直すわけ。
 「西が欠けたにちがいない」ということでしょうかね。こういうふうに次々と手直ししてつくった文章が、われわれの従来知っていた文面なんです。じゃ、次を見ていきましょう。次は細川本( 3). )。これも非常にいい古写本、もっとも古い写本だといわれているものなんですが、ここでも「東南」の下は「宮」、ちゃんと「宮」という字があります。これを「山西」に直したんですよ。今度は2行目の先頭「東」でしょ。「東西」じゃないでしょ。ここを「東西」に直してます。次は松下本( 4). )。ここでね、「宮」という字がありまして、その右に「山西」と書いてある。これは「山西」という写本があったのではないんでして、これを「山西」と直した注釈家がいるということです。これは後で申しますが荷田春満という国学の大家が、この「宮」は「山西」と直した方がいいんじゃないかと書き、後の学者がそれを受け継いでそこに註記しているわけです。また「東」を「東西」に直した方がいいんじゃないかという案、だから「西」を小さな字で書いているのは、これは写本の字ではない、ということをしめした配慮なんです。
 次に萬葉緯本( 5). )。そこは「宮」という字を、この人の別のアイデアで「陸」という字に直したらどうかというアイデアを右に書いている。面白いのはここに「陸乎」と書いているんです。これは大事でして、この「乎」というのは、要するに「これは陸という字の間違いか」ということ、「これは、わたしのアイデアだが」ということ、もとの古写本にあった言葉じゃない、ということをしめしているのでこれはやはりいい言葉です。「東」はやはり、東の右下に小さな字で「西」とあって、そのような「説」のあることをしめしているわけ。
 桑原本( 6). )。ここでもやはり「宮」でしょう。「山西」じゃないですね。同じ行の最後は「東」です。「西」はない。次は河村本( 7). )。これも「宮」。「山西」ではない。二行目の初め「東」で小さな字で「西」とこういう註記を入れています。それから最後、やはり非常にいい写本なんですが日御碕本( 8). )。例の出雲大社の西北の海に面した所に日御碕神社というのがありますが、そこに伝えられた『出雲風土記』です。いわば現地に伝えられた『出雲風土記』なんですが、ここでは一行目にやはり「宮」です。で二行目の先頭もやはり「東」です。さっき私が読んだような文面は全く存在しない。つまりどの古写本を採りましても今初めに読みましたような、岩波古典文学大系のような文章はないわけです。
 この資料は田中卓さんの『出雲国風土記の研究』の先頭に載っているものです。神宮皇学館大学の学長をしておられると思うんですが、昔からわたしはよく存じあげてる人ですけども、この方の出雲風土記の研究が大変詳しい、というのは学界に定評があるんですが、この本でも完全に荷田春満の訂正によって本文をつくっております。また加藤義成という出雲現地で出雲風土記の研究の権威といわれている人です。二、三年前にお亡くなりになりましたが、この方の『校注出雲国風土記』も、荷田春満のアイデアによる“直した文章”を本文としています。というふうに、いかなる『出雲風土記』も、皆さんお宅へお帰りになってご覧になれば、みな荷田春満の改訂によって本文をつくっているわけです。
 その荷田春満さんの文章を見ますと、はっきりと彼は「今案ずるに」と書き出して「宮」は「山西」と直したらよかろう、ということを書いている。「これは自分のアイデアですよ」「古写本にあるんじゃないんだが、私の考えではこう直した方が本当であろう、いい文章になる」「だからこう考えるんだ」ということをはっきりと書いてあるわけです。しかしこれはもう皆様おわかりのように、どの古写本にも全くない文章、学者がわたしの頭ではこういう文章に直した方がよろしいと手直してそれ以後、これを「本文」として、みんなが疑わずに使うというのは、これはずいぶん“異状な姿”だとは思われませんか。
 私の立場はご存じのように、「原文は尊重すべきである」「軽々しく古典を改訂してはならない」「改竄してはならない」とこういう立場なんです。しかもその「改竄したもの」はさっきもいったように非常に不合理がある。地形からみても合わないわけです。それでは、その原文通りで合うか、どうか、というのが端的な問題になってきたんです。地図を見ながら、あのわたしの原文通りの読み下しを御覧下さい。「国の大体は震を首とし、坤を尾とす。東と南なり。宮の北は海に屬す。東、何里何歩、南北、何里何歩。」というわけです。だからこの場合キーポイントをなすもの、いわゆるキーワードは「宮」である。

『出雲風土記』の「宮」=出雲大社

出雲風土記地図

 『出雲風土記』で「宮」といえば何処をさすか。これは杵築のことです。「天の下造らしし大神の宮」「諸の皇神等宮處に参集ひて」の「宮」というのは、いずれも杵築の宮つまり出雲大社です。疑いないです。これに対し、「五十足る天の日栖の宮」に似せて「天の下造らしし大神の宮」を作った、というところにも、「宮」があります。また「大神の宮の御装束の楯を造り始め給ひし所、是なり、と。仍りて、今に至るまで楯・桙をつくり、皇神等に奉る」と。こうありまして「宮」といえば必ずしも一つとは限らない。先ほどの「五十足る天の日栖の宮」というのは、出雲の隠岐島の海土町、海士村にある「縄文宮殿」であろうという、今までの学者が聞いたら“仰天する”か“笑いだす”かするような結論に私は到着しました。去年出した『古代の霧の中から』という本でも述べてあります。興味のある方はそれでご覧いただければいいので論じませんけども、「宮」といえばいろいろあるけれども、しかし「大神の宮」といえば、これはもう当然大穴持のいる杵築の宮です。
 言い換えれば、何の注釈もなく、ただ「宮」といえばこれは杵築の宮、つまり出雲大社ですと。というのが「出雲風土記の常識」と考えていいだろうと思います。変な話ですが、私の学生時代は大学なんかで「党」といえば、もう日本共産党にきまっていたんですね。社会党も、自由党もあったんですけれども、そういうのを「党」なんていっても、もう笑われてしまう感じで、「党」といえばもう共産党以外に「党」とは言わなかった。現在でも恐らく、財界なんかでは「党」といえば自民党にきまっているんではないか、他の政党のことをいきなり「党」とは言わないんだろう。私は財界に行ったことないんですが、財界のサロンヘ行けば、恐らくそうじゃないかと思うんです。
 同じように、その地域へいけばもう「宮」といえば、きまり、というのがあるわけですね。そういう例でいえば、この『出雲風土記』の世界で何もいわずに「宮」といえば、他の宮ではない杵築の宮、すなわち、大穴持の宮であると。こういうのが『出雲風土記』の常識であると、こういって恐らく反対なさる方はそれほどないだろうと思います。とするとここで「宮の北」といってる「宮」は杵築の宮であると。こういうふうに理解するのが私は筋であろうと思うんです。さてその意味で地図をもう一回ご覧下さい。そこに杵築の宮の所に二重丸をしてありますね。“「震」つまり東を首とし「坤」つまり西南を尾とする”というのは、杵築の宮を原点にしますと、東は美保の関の方が頭である。そして西南の方が尻尾であると、こういってるわけですね。
 次に、「東と南なり」大体において“東側へと南側へと、出雲の大地は広がっているんだ”と、ね。杵築の宮を中心にすると大体そういう感じになります。次は、「宮の北は海に属す」。宮の北側は日本海ですから、これは海に属している。問題はこの次。「東」つまり杵築の宮から西はないでしょ。だから杵築の宮を原点にしたら「東西」と書いたらおかしい。「東」だけでいいわけです。「東」何里何歩、「南北」こちらは北が一寸あるでしょう。だから「南北」です。「南北何里何歩」。なんにもおかしくない。ところが、「宮」を消してしまったから実に変な現地の地形に合わないということになってしまった。原文通りにやれば地形にドンピシャリなんです。
 つまり『出雲風土記』は“「宮」中心の記述法”になっていると。つまり「杵築の宮中心叙法」になっている。そういうことであったわけです。だから「以下、杵築の宮中心に読んで下さいよ」と、そういう前触れで「出雲風土記」は始まっていたのです。ところがそれを荷田春満が打ち消して、「宮」を抹殺してしまったわけです。以後、明治・大正・昭和とそれに従ってきたわけです。そこでこの「朝廷」はもしかしたら「出雲朝廷」じゃあないでしょうか、大穴持がそこにいる所じゃないでしょうかなと ーー と辿りつつ、試行錯誤してきたのですけれど、そんなのは、もう初めから、ちゃんと「そう読んでくださいよ。この『宮』中心にこの後のストーリーを読んで下さいよ」とちゃんと書いてあったわけです。それを消してしまったから、ややこしくなったのです。そういうことがわかってきた。
 荷田春満にすれば、そこでは説明していないけども、恐らく彼の考え方では、この精神ははっきりしているわけです。その証拠に、もしこれが伊勢皇大神宮中心叙法だったらこんなに簡単に“消す”なんて絶対にしない。また天皇の皇居中心叙法だったら“こんなの書き変えろ”なんて絶対に、口が裂けてもいいません。しかしここは伊勢皇大神宮でもなく、天皇の皇居でもない、そんな一地方の杵築の宮ごときを「中心」にというのは不穏当である。だからそれは“消せ”。「山西」ならいいだろう、という感じです。だから「山西に直す」とか、「東西に直す」などと、遠慮なく原文を改訂して「天皇家中心の風土記」らしく“書き改めた”わけです。それが江戸の学風であるわけです。それにまたそういう江戸の学風に、明治の考古学、国文学、歴史学の大家たちはお弟子さんのお弟子さんたちですから、みなそれに従い、そのまたお弟子さんのお弟子さんたち、現在の考古学者、国語学者、歴史学者も露これを疑わずに、『出雲風土記』を論じていたわけです。エドガア・アラン・ポオじゃありませんけど、あんまり先頭から、あんまり見事に消されると、誰も疑わない。万人が疑わずにきた、という恐るべき「レター」がここに存在した、ということにやっと気が付いたわけです。

公害病は弥生時代から発生

 さて次に、この三月以来私が夢中になってきておりますテーマに移ります。これも言いだすと非常に長い時間がいるんですが、今はキーポイントだけを申さしていただきます。それは三津の郷の問題でございます。「朝廷」問題にひかれて、ここを読んでおりますうちに、わたしは、はたとわたしの目が止まった。それは次の個所です。「此に依りて、今も産まる婦は、彼の村の稲を食はず、若し食ふ者あらば、生るるもの已に云はざるなり、と。」ーー この一言です。つまり妊産婦が、この村の稲を食べるとご本人は何でもないが、生まれてくる胎児が口がきけない子供として生まれてくる、と。こういう異様な説話があるわけです。
 これはこの二、三十年来日本列島に住んでいる人なら、恐らく誰でもピンとくる文章です。そうですね、水俣です。水銀汚染。公害病です。私は早速この三月から四月にかけて、医学書を買い漁って、読み漁ったわけです。公害病の本を。そうしましたら、本当にこれと関連する記述がありました。それも、ドンピシャリ一致しているのに驚きました。例えば東大の医学部の教授の和田攻(おさむ)さん。この方の『金属とヒト』という、かなり分厚い専門的な書物がありますが、これに各金属の汚染が書かれている。その中でたとえば砒素の汚染、ここでは「乳幼児の中枢神経が冒される」と、こうかかれてあります。またメチル水銀のところではメチル水銀を摂取すると、視野狭窄。目が直線的に前の方しかみえなくなる、周りの方がみえなくなる。口が十分にきけなくなる。要するに「唖」というような状況になる。
 しかも最も注目すべき点は“胎児を持つ母親がこれを摂取すると、本人は何でもないけども、生まれてくる胎児が、今いった様な症状を持って生まれてくる”と。こう書かれているわけです。しかもその摂取量が一定量以下の場合は、これは「治癒可能」である。ところが一定量を越えると、「不可逆性」である。「不可逆性」、つまりもう治らない。そういうふうに書かれている。大国主の子供は“治った”わけですからね。ところが今も、“摂取量が「一定量以下」の場合は治る”と、こう書いてある。それにも一致すると。そのようなことで、これだけ一致するっていうことは、これは八世紀などのお話づくりの人が、小説のように、勝手にこの神話をつくった、それが二十世紀の医学書の症状に偶然一致したと、こんなことは私にはありうるとは思えなかったのです。
 では、何故か。というと、答えは一つ。実際に弥生時代前後に公害病が存在した。その事実を反映した説話である。そう考えるほかはない。私にはそう思われました。この点、改めて詳しく報告させていただきたい、と思います。
(和田攻『金属とヒト ーーエコトキシコロジーと臨床』朝倉書店、一九八五年四月刊、参照)

 本講演は市民の古代研究会主催で、一九八六年六月十五日、関西の茨木労働セッツルメントで行なわれたものです。


国造制の史料批判 ーー出雲風土記における「国造と朝廷」(『古代は沈黙せず』駿々堂)

多胡碑の「羊」と羊太夫伝承 増田修(『市民の古代』第10集)へ

金石文再検討について 編集部(『市民の古代』第10集)へ

『市民の古代』第9集 へ

ホームページへ


新古代学の扉 インターネット事務局 E-mail sinkodai@furutasigaku.jp

Created & Maintaince by“ Yukio Yokota”