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親鸞の伝承と史料批判

古田武彦

(二〇〇七年六月八日、大谷大学にて)

 古田武彦でございます。今年私は八〇歳になりましたが、今から四十数年前、この真宗連合学会で発表させていただいたことを懐かしく思い出しております。
 本日のテーマは親鸞の流罪についでです。親鸞は越後に流されたというのが定説で、私もそう考えていたのですが、それは間違いであったということを今年の初めに発見したのでご報告いたします。
 その理由は非常に簡単明瞭でありまして、『教行信証』後序に親鸞が遠流(おんる)に処せられたと書いてある。本人が書いているのですから、間違いありません。非常に信憑性が高い第一史料である。
 親鸞の遠流は朝廷によってなされたのですが、朝廷における遠流の制度は『続日本紀』の神亀元年、聖武天皇の所に明記されております。そこでの遠流は、伊豆、阿波、常陸、佐渡、隠岐、土佐の六国に限定されております。
 しかもその中で北陸にあるのは佐渡だけで、越後は入っていない。越後と佐渡とはもちろん別国ですから、越後は入っていない。それどこころか、越前などは中流(ちゅうる)にもなっておらず、近流(きんる)なんですね。ということですから、「越後に流されて遠流」とはとんでもない話である。
 これが混乱したのは、承久の変というのがその後ありまして、流罪の原点が一変したからです。それまでは京都の朝廷が長く流罪の張本人だったわけですが、承久の乱からは鎌倉が張本人となって、しかも親鸞や法然たちを流した朝廷の権力者が流されるという、非常に歴史の皮肉という問題に当面したわけです。
 だからここで遠流という概念が一変したわけです。いまの『続日本紀』の記事にありますように、遠流の六国の中の伊豆、安房、常陸の三国は関東です。
 しかし京都を原点としてこそ遠流ですが、鎌倉を原点としてこんなところが遠流であるはずはない。近流ですらあるはずがないですよね。ですから遠流という言葉が意味を失ったわけです。
 それに代わって、有名な言葉ですが、「遠流一種」という言葉が出来て、ともかくも遠流、中流、近流のどこでもいい、流すこと自体を遠流と呼ぶ言葉が出来て、それまでからすれば大雑把な概念を鎌倉側が作っていくわけです。
 とはいえ、親鸞は鎌倉によって流されたのではなく、京都朝廷によって流されたのです。鎌倉の遠流一種で理解するものではないのです。当然です。『続日本紀』という、朝廷がちゃんと作った制度によって理解しなければいけないのです。
 それによってみれば、親鸞は越後ではなく、佐渡に流されたと理解するほかないわけです。

 それは事実、地元の伝承とも符合することです。と言いますのは、現地で居多ヶ浜(ごたがはま)という所が上越市の直江津のそばにあります。伝承では親鸞聖人がそこへ舟で着かれたといういうことなっている。ところが不思議なことにその前は、糸魚川市の姫川にも舟で上陸し、そこから舟で来られたという。それは、現地の親鸞研究をされている大場厚順さんも、不思議がっておられるわけです。
 これは従来の考えでは理解できない。つまり京都からずっと行ったと考えると理解できないのです。つまり、京都からずっと行ったと考えると、糸魚川の姫川から直江津まではすぐ近くで、わざわざ姫川で上陸する必要はない。そこで私は、親鸞が佐渡から舟でまっすぐ行ったのではなくて、まず野積(のづみ)、つまり寺泊(てらどまり)へ舟で行ったと思いました。
 そしてそこから海岸沿いに舟で国府のある直江津に来ようとしたのです。ところが風が強い時期でーー 時期はだいたい分かります。海流はいつも四六時中西から東へ対馬海流は流れているのですが、ところが風が東から西へ流れる時期があるわけです。これが今の一〇月、一一月の頃です。だからその風に乗って東から西へ行く場合は、風も潮流も逆のところへ行こうというのは当時の船では無理です。
 だからこれは季節も選ばないといけないし、そしてうまくどんつきの寺泊へ来て、そこから海岸沿いに風に押されながら行くというわけです。
 ところがその場合、暴風雨だと、目的の直江津を越えて西の糸魚川(姫川)に着いてしまう。そういうケースもあるわけです。わたしも今年(二〇〇七年)の一月七日、直江津に行ったとき、すさまじい暴風雨に遭いました。おそらく今夜は汽車が来ないから今晩は早くお帰りなさいと大場さんや橘さんにお勧めいただいたのですが、その暴風雨のなかで居多ケ浜の海岸に立ちましたが、目も開けていられないすさまじい暴風雨でした。汽車も止まるような暴風雨でした。私の場合は陸地だったからよかったものの、親鸞の場合は囚人船に乗せられて行ったから、通り過ぎてしまって、また元へ微調整して直江津に帰ってきた。こう考えると非常に現地伝承と合うのです。
 それでは、なぜ越後に来たかというと、ここからは史料がないから私の想像ですが、結局は囚人労働のためですね。とにかく囚人というのは、何も働かさなかったら支配者が損をするわけです。食べられるだけになるから、当然、食べる量以上に働かせなかったら、支配者としては困るわけです。縄文の越の国の頃でしたら五色の美しい石が出ているような土地です。また江戸時代前後は大判・小判のための黄金の採掘で囚人労働がさんざん使われたわけです。働きながらどんどん死んで行くわけですから、いくら囚人がいても足らないのです。
 ところが親鸞の生きた鎌貪時代はどっちでもなかった。つまり佐渡ではたいした労働をさせられないわけです。だから国府のある越後へ運ばれた。そこで農耕もあるでしょうし、また後で述べますが、高い身分の僧侶の輿を担いで坂を上がっていく労働。そういったものを被差別民、囚人たちがやらされていた。それに親鸞も使われるべく、今の上越地方へ連れてこられた。
 現在の直江津に草庵と言われるものが二カ所ありますけれども、草庵と言えばいかにも風流な言葉で、月を見て歌を作っているかのような感じがしますけれども、事実はそんなものではなく、囚人労働ですね。被差別民と同じ過酷な労働をさせに連れてこられた。私はそう考えます。
 だからこの点、ここで一言を挟みますと、かつて服部之總氏のように、プロレタリアート親鸞を「娘を売った」かのように描いて得意になっていた時期がありましたが、とんでもない誤読だと赤松俊秀さんが見事に指摘されましたよね。ところが最近では逆に、親鸞の流罪はたいしたことないのだと、身内や家族による庇護があったので、たいして苦しくはなかったという「上流流罪」、「恵まれ流罪」だったという捉え方が多いように感じるわけです。こうした意見は大分前から出されているのを私もよく知っておりますが、最近その系列の意見が強くなっている気がします。松野純孝さんあたりの説を受けているのだと思います。
 しかし、歴史に対する私の考え方は、右でも左でもイデオロギーはだめということです。イデオロギーで史料を解釈しても長続きは絶対にしない。これは敗戦を経てきた私は痛感をしています。やはりイデオロギーではなく、事実に基づいて真実を追究する。それだけが私は歴史学であると考えております。

 そこで、いまのことの関連で、関山(せきやま)というところが直江津から長野へ行く途中、上越市の板倉にあり、その関山に洞窟がある。そこに親鸞聖人が住んでおられたという伝承が現地では根強くあります。それを私は板倉出身の人から聞いたのですが、「自分の母親は朝起きてから寝るまで念仏なしでは生きておられないような人だったが、親鸞聖人はあの洞窟に住んでおられたといつも言っていた」と。これは、私も含めて、今までの親鸞研究からすればとんでもない話ですね。しかしさきほどの囚人労働という話でいえば、全然おかしくないのです。
 この現地に行ってみましたら、今年の一月七日、ちょうど猛吹雪の日で、あっという間に二メートル、三メートルという雪が積もるのを初めて見ましたが、そこで関山の洞窟に行きましたが、その中は軽く一〇人位は入れるほどで、囚人を詰め込めば二〇〜三〇人は入れるかもしれない。そこに入れられていた中に親鸞がいた。ここは「ひじりのいわや」とも呼ばれていますが、聖(ひじり)とは親鸞のことだと私は思います。聖の解釈をしだすと長くなりますが、愚禿(ぐとく)親鸞というのは聖のことですよね。

 さて、そのことの証拠が、皆さんよくご存じの「正像末和讃愚禿悲歎述懐」にあります。実はこの和讃は私が大変好きなもので、親鸞研究をしている時でも、絶えずこれを呟いておりました。呟いていながら、八〇歳になるまで本当の意味を知らずにいたという非常に恥ずかしい思いをしております。
 この和讃の十三番に、「旡戒名字(むかいみょうじ)の比丘(びく)なれど」とあります。戒が無くて藤井善信(ふじいよしざね)という世俗の名前を与えられた比丘であるけれども。 ーー日本語だから主語を略すことがありますけれども、主語を補えば「私は旡戒名字の比丘であるけれども」とこう言っているのです。つまり、社会評論を親鸞がやっているわけではなく、自分の経験を言っているのです。だから「私は」という主語を補うべきなのです。
 そして同じ和讃の十五番には、「末法悪世(まっぽうあくせ)のかなしみは 南都北嶺(なんとほくれい)の佛法者の 輿(こし)かく僧達力者法師 高位をもてなす名としたり」。そして十六番には、「比丘比丘尼を奴婢として 僕従(ぼくじゅう)ものの名としたり」というくだりがあります。ということは、つまり比丘や比丘尼を奴婢として扱っている。そして僕従として扱っているということです。
 ところが先ほど申しましたように、自分は旡戒名字の比丘であると言っている。それは奴婢として生活をさせられていて、僕従として扱われており、高い位の僧の輿(こし)を担ぐ役に使われていたということを言っているのです。もう非常にはっきりしているんですが、今までは全く気がつかなかった。というようなことですから、今のような状況を親鸞自身が完全に告白している。
 それで一番の肝心なところはこの和讃の十四番、「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」。「罪業」というのは、変な難癖を付けられた。女色に乱れているとか大嘘っぱちのことを言われたが、それは全く意昧のないことだ。事実に反する。「妄想顛倒のなせるなり」。上皇が男として、政治的な側面もあったろうけれども、同時に男であったわけです。だから宮中の女が念仏しているというので、嫉妬でムラムラと狂った。そういう男の嫉妬狂い。その妄想顛倒がなしたものである。それが我々師弟に対する流罪である。
 「心性もとよりきよけれど」。私の心は誠に清いものである。しかしこの世、この「世」は世の中ではなく、立身出世の世、つまり上級社会を意味しているのですが、この現代の上級社会に真の人はいない。上皇、天皇たち、みんな偽物だ。これだけはっきりと言われていることに八〇歳になるまで気がつかなかったのです。恥ずかしい次第です。
 それでは、なぜ従来の説が一般化していたかといえば、『歎異抄』の流罪記録。私も散々論文で利用させてもらったものなのですが、これはしかし流罪問題に関して言えば、第一史料ではなく、第二史料。しかも承久の変以後の史料である。だから流罪一種の史料である。遠流、近流もごちゃまぜで遠流と書いているんです。これはれっきたる承久の変以後の概念で書いている証拠なのです。これでまず我々は理解したわけです。それで第一史料である『教行信証』に出てくる「遠流にされた」ということを、第二史料をもとに解釈してきたわけです。だから話がおかしくなってきた。現地伝承とも合わなかったわけです。以上のことを私は改めて知りました。

 さて、私がこういう問題、第二史料は第一史料に基づいて考えるべきだという、実に当たり前のことに、なぜ今になって気がついたのかには理由があります。それは去年十一月十日、八王子にある大学セミナーハウスで二日間にわたる講演をした際、その前の晩に「東日流外三郡誌」寛政原本にお目にかかったのです。持ってきた人に見せていただいて寛政原本だと気がついたのです。
 そして講演が終わった十四日にタクシーでそこを出た。そしてタクシーの運転手が板倉出身の方で、自分の出身の関山には親鸞聖人が住んでおられた洞窟があると言われる。私はそれでちょっかいを掛けまして、「親鸞聖人はその時佐渡から来られたことはありませんか」と尋ねてみたところ、「そうですよ。親鸞聖人は佐渡から来られたんです」と答えられてびっくりしたのです。
 私はなぜそういうふっかけをやったかというと、『東日流外三郡誌』の「金光抄」に、金光(こんこう)上人が佐渡にいた親鸞と問答をしたことが書かれている。その問答が私の眼から見ると、あの時期の親鸞に非常にふさわしいんですね。関東や京都の親鸞ではありえないことですが、ふさわしい。
 ところが問題は、佐渡にいた、と書いてあることです。これは単純な、浅い史料批判でいけば、これだけですでにおかしいとなるわけです。しかし親鸞が越後に流されていたのは常識中の常識でしょう。そんなことを間違えて書くはずがないのです。それでそこには何かあるんじゃないかというのが疑問として持っていたのです。
 しかもそのことが載っている『東日流外三郡誌』は偽書説にさらされていたわけですが、江戸時代の寛政原本の原写本が出てきた。その直後ですから、もしかしたら、と思って聞いてみたら、板倉の人の常識では、佐渡から来られた。そこで私は帰ってから『教行信証』を読み返してみたところ、なんだこれは佐渡に決まっているんじゃないかということになってきたわけです。

 さて、浄土宗が六年ほど前に出した『金光上人関係伝承資料』という立派な本には、金光上人に関する資料がまとめられています。この資料集を作る際には、金光上人に関係する文書が沢山収められている、和田家文書の『東日流外三郡誌』のなかで写真を一五九点でしたか、マイクロフィルムで撮ったと書いてある。
 ところがそれを一切採用していない。なぜかといえば、偽書説の嵐が吹いており、それに騙されてしまい、これらを資料として載せなかったのです。それはやっぱり情けないですよ。これが史料集である以上は、本物か偽物かという判断は見る人に委ねればいいわけで、編集者が偽書説の人の本を挙げて、この人たちが偽物だと言っているから、そしてその意見が本当だと思うから史料として載せないというのは、情けない態度を取られたと思います。
 秋田孝季(たかすえ)という人は、自分が書いたものが嘘か本当かはわからない。意見も対立している。しかし後世の人に判断してもらうためにここに記録した、と何回も書かれている。これが本当の学問精神である。しかしこの資料集を作る際には学問精神が発揮されていない。法然上人という人は清濁併せのむ人柄で、非常に尊敬しているのですが、その末流がこれでは困るなと、悪く言うつもりはないんですが、そう思います。幸いマイクロフィルムで一五九点も撮ったわけですから、新編資料集として改めてまた出されたら浄土宗のためにも大変名誉なことだと思います。この本の中にも私が見た以外にも親鸞との関わりが出てくる可能性があります。
 なお、いま申しました寛政原本ですが、そのカラー写真を何点か載せた雑誌『なかった ーー真実の歴史学』の第三号がちょうど数日前に刊行されました。また寛政原本全部のコロタイプ版は七月以降(二〇〇八年三月)に出ますから、ご関心のある方はこれらをご覧いただければ幸いです。

 最後になりますが、いま松本郁子さんという若い研究者が、西本願寺の太田覚眠(かくみん)という、昭和十九年に亡くなられた僧侶の研究をしておられる。その人は現在のウラジオストックに行き、モンゴルに行っているわけです。そうした太田覚眠の行動は、親鸞が佐渡に行ったのと何か関係があるのではないでしょうかと松本さんが言われたので、そんなことはないでしょうと、そのときは答えておりました。
 しかし気がついてみたら、太田覚眠という人は終世西本願寺派の僧侶であったのに、坂東曲(ばんどうぶし)をいつもやっていたと言っている。坂東曲というのは御承知のように東本願寺だけでやるものですよね。西本願寺の僧侶なのに坂東曲をいつもやっていた。何か、海を越えて舟に揺られていくというイメージを、覚眠はもったのではないでしょうか。最初はそんなことは・・・ と言っていたのですが、それは訂正しないといけないな、と現在は思っています。
 まだまだお話したいことは沢山ありますが、もう時間がまいりました。どうもご静聴ありがとうございました。


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