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『松前史談まさきしだん』第26号(平成22年3月 愛媛県伊予郡松前町松前史談会編)から転載
平成21年7月11日 松前町西公民館に於いての講演録

真実の邪馬壹国やまいちこく

女王・卑弥呼ひみかの国は博多湾岸にあった

合田洋一

 一般的には「邪馬臺(台)国やまだいこく」と言われておりますが、このことほどわが国の古代史の中にあって、ロマンに満ち溢れ、人々を悠久の歴史の彼方へ誘いざなってくれるものは他に無い、と私は思っております。
 その場所をめぐっては “オラが古里の想い”から、日本国内外五百ヵ所に及ぶ所が、その比定地とされ、正に百家争鳴の観を呈しています。
 どうしてこのようになったのかと申しますと、『三国志』「魏志倭人伝」1 に書かれていた「女王国・邪馬壹国」迄の里程(距離)を、原文を無視し、好き勝手に解釈するからなのです。
 そのような中で1971年、『「邪馬台国」はなかった』 2 という本が、呱呱の声を上げました。著者は古田武彦氏・のち昭和薬科大学の教授になられた方です。氏はそれ以後、数多くの著作を通して、わが国古代史の“ゆがみ”を正すべく世に問うて来ました。氏の歴史観は「万世一系・大和朝廷一元史観」3 に対する「多元史観」4 であり、その学問は「古田史学」と言われております。
 私は、この古田史学を基に、これから論述させて戴きます。これにより少しでも「邪馬台国」問題の真実を知って戴ければ幸いです。なお、詳しくは『「邪馬台国」はなかった』や拙書『新説伊予の古代』 5 をご参照下さい。

 

一、 壹と臺(台)の探究

 それでは最初に、邪馬壹国か邪馬臺国かについてお話し致します。「魏志倭人伝」に、

  「南、邪馬壹国に至る。女王の都する所。」

とあります。倭人伝中、この国名が出てくるのはこの文面一個所だけです。そこには「邪馬壹国やまいちこく」と書いてあり、「邪馬臺国やまだいこく」とは書かれていません。では、なぜ「邪馬臺国」に変わったのか、歴史上「邪馬臺国」と国名が記録されたのは『三国志』の後に編纂された『後漢書』 6 です。

  「国皆王を称し、世世伝統す。其の大倭の王邪馬臺国に居す。」

 ここでは明らかに「臺」と記されています。
 『三国志』の成立は、西晋の陳寿ちんじゅが三世紀末に著わし、一方の『後漢書』は、南宋の范曄はんようが五世紀半ば近くに著わしました。この両著の間は一世紀半の開きがあります。ちなみに、国の成立は「後漢」の後が三国時代の「魏」ですが、史書の成立は、その逆で『後漢書』よりも『三国志』の方が古いのです。
 古田氏は『三国志』を徹底検証した結果、原文はあくまでも「壹」であり、「臺」ではなかったことをつきとめ、更に「壹」の字は天子に忠節を尽くす者に対して、敵対する者・二心ある者を「弐」(憎悪の対象)で表すことも証明しました。卑弥呼の後を受けた姪の「壹与」の名は、東の夷蛮(中国は世界の中心という所謂中華思想の下、周辺の国は蛮族扱い)の王で最も忠節を尽くす者としての「壹」と、中国風一字名称の「与」を組み合わせたものです。
 従って「邪馬壹国」とは、「邪馬(山)」という国名と、魏の天子に忠節を尽くす「壹」を組み合わせたものだったのです。
 一方「臺」の字は、本来は「盛土・高地」の意味から、漢代になると「宮殿」の意味での用法が目立ちますが、魏代はすべて「天子の宮殿及び天子直属の中央政庁」を意味するものでした。
  『三国志』では、魏の天子の宮殿はすべて「 ーー臺」と記されていますが、他の二国、蜀の劉備や呉の孫権の宮殿は、臺とは記されていません。つまり二人共「天子」とは認められていなかったのです。
 それでは倭国と魏の間はどうなるのでしょうか。「倭人伝」では魏と倭は対等ではなく卑弥呼は「親魏倭王」であり、臣下なのです。決して「天子」とは見做されていなかった。それ故に、魏代において崇高なる「臺」の字を、夷蛮の国に使用することなどありえなかったのです。
 ところでわが国では、誰が何故原文を改定して「壹」を「臺」に変えてしまったのでしょうか。
 それは、江戸時代初期の京都の町医者・松下見林が『異称日本伝』 7 で、「壹は臺の誤り」として原文を改定したのです。そして「臺」は「台」であり、これは「と」と読めるとして「邪馬臺やまと=大和やまと」としました。何としても「万世一系・大和朝廷一元史観」の立場から「邪馬〈臺〉国」として、近畿の大和(奈良県)に持って来たかったようです。
 それを受けて、江戸時代の学者・新井白石は、初めは『古史通或間』 8 で大和説に立ち、後年『外国之事調書』 9 で筑後山門(やまと・福岡県)であると九州説を打ち出しました。これらが半ば「定説」化され、卑弥呼の国は近畿だ九州だという争いになったのです。 

 

二、卑弥呼の墓

 次は卑弥呼の墓についてお話しします。
 2009年5月29日に、NHKや民放各局それに新聞各社が一斉に、国立歴史民族博物館(千葉県佐倉市)の発表によるとして、奈良県桜井市にある箸墓古墳(全長280メートル)が卑弥呼の墓の可能性が強まったとして報道されました。それは同古墳の傍らから出土した土器が、「放射性炭素(C14)年代測定法」により西暦240〜260年の物と測定されたことにより、卑弥呼が「魏志倭人伝」に登場し、死亡した年代が一致した、としております。
 それでは、卑弥呼の墓について、「魏志倭人伝」には一体どのように記されていたのでしょうか。

  「卑弥呼以て死し、大いに冢ちょうを作る、径百余歩。」

とあります。これを箸墓古墳に当てはめて見ます。先ず、「径」とは円の直径を意味しますので、円墳でなければなりません。前方後円墳である箸墓古墳では全くおかしいことになります。そのため発表では円形部分だけを指すと言っております。その円形部分はおよそ150メートルなので、「百余歩」ですから一歩は約150センチメートルとなります。皆さんこのような歩幅で歩けますか。とんでもないですね。そこで何と言っているかと申しますと、片足を一歩出しそれが75センチメートル、次いでもう一歩出して75センチメートル、つまり両足動歩で一歩とするのです。
 ところが、この時代の中国では一里が300歩、一歩はその300分の1。そして、一里は77メートルの短里なので、一歩は約26センチメートルです。従って、卑弥呼の墓「径百余歩」とは、26〜30メートルとなります。
 もう一つ「魏志倭人伝」に次の記述があります。それは、倭人の風俗を記した箇所に、

  「死ぬと棺に納めるが、槨は作らず、土を盛りあげて冢をつくる。」

 とあります。中国では、冢は墓よりも小さいものを指しています。そのことを示す有名な言葉があります。すなわち、三国の一翼を担う「蜀」の皇帝劉備玄徳は、白帝城で己が死に臨み、「墓を造ることなかれ、冢で良い」と言いました。つまり冢は規模とすれば塚です。
 また、「大いに」の意は「大きい」ではありません。「大いに励む」とか「大いに○○する」で、「一所懸命○○する」の意です。これも勘違いのもとになっているのでしょう。 
 これらのことから、卑弥呼の墓は、箸墓古墳などの巨大古墳では決してありえないのです。

 

三、卑弥呼の鏡

 次に、卑弥呼が魏の皇帝(明帝)から下賜された「銅鏡百枚」についてお話し致します。
 通説は、日本各地から出土している、景初三年銘の「三角縁神獣鏡さんかくえんしんじゅうきょう」がそれである、とされています。果たして真実でしょうか。古田氏は次のように述べておられます。

  魏の明帝は景初二年に死去しているので、景初三年はない。これを徹底検証の上、この種の鏡は中国本土からは一枚も出土していないことからも、中国製ではなく日本製である。10

と、そしてその後、中国の学者・王仲殊氏 11 も、三角縁神獣鏡は中国鏡(魏鏡)ではなく、日本製鏡である。
 それにもかかわらず、「邪馬台国」近畿説の人たちは、今でも、この鏡が出土すると、「これは卑弥呼の鏡」とマスコミを煽り、大ハシャギをするのです。魏の皇帝から貰ったのは100面です。ところがそれは、日本国内で既に700面以上も出土しております。これは出土している分だけなので、地下に埋もれているのは、その何倍もしくは何十倍と考えなければならないでしょう。それも殆どが近畿地方出土です。それに対して国内で170面ほどある漢式鏡(中国製)は、筑紫(福岡県)からの出土が圧倒的です。通説の「卑弥呼の鏡」は、もはや論理の外にあると言っても過言ではないでしょう。
 なお、この他の考古学的遺物として、魏の皇帝(明帝)から下賜された絹がありますが、この時代のものとして出土する所は糸島・博多湾岸の王墓のみで、近畿地方からの出土例はありません。

 

四、魏使の行程 -- 短里と長里。部分と全体。

 それでは次に、「邪馬壹国」は九州か近畿かを決める決定的な要因となる魏使の行程と邪馬壹国までの距離についてお話し致します。
景初二年(238)六月、卑弥呼の使者、難升米なんしめ・都市牛利といちごりが男生口(せいこう・奴隷?)四人・女生口六人・斑布二匹二丈の奉献物を持って洛陽(魏の都)に行きました。その年の十二月、魏の明帝は卑弥呼に詔書「親魏倭王卑弥呼に制詔す」を送り、銅鏡百枚・刀・真珠・絹などをプレゼントしたと記しています。しかしこれは実行されませんでした。この月、明帝は発病し、翌景初三年正月に急死したためです。難升米は手ぶらで帰ったのです。
 正始元年(240)明帝のあとを受けた斉王が、先の「欠礼」を復するため魏の使者、弓遵きゅうじゅん・梯儁ていしゅんを倭国へ遣わし、倭王に拝謁して、先の明帝約束の詔書・印綬・采物を卑弥呼にもたらしました。
 この使者の報告や、軍事顧問・張政(卑弥呼の依頼により、戦闘状態にあった狗奴国との調停のため魏から来ていた)の足かけ二十年間に及ぶ倭国滞在軍事報告書に基づき、国々の名前、そこに至る距離(里数)・所要日数・方角、その国内状況、そして「邪馬壹国」の女王卑弥呼のことが「魏志倭人伝」に記されることになったのです。
 ここで注目すべきは、軍事顧問・張政の報告です。二十年間も倭国に滞在して情報を集めていたのです。軍事報告の性格上、確かなものを要求されるので、決していい加減のものではありえないのです。
 ところで、魏使の行程に関する従来説は、最初に目的地(大和・山門など)を決めておき、その上で距離合わせをする。また「南」を「東」に、「陸行一月」を「陸行一日」になど勝手に原文を改定する。そしてまた、「里程」や「水行十日、陸行一月」をさまざまに解釈し、論者の都合のいいように所在地を決めてきたのです。それでは、古田氏の論証はどうであったか。以下にその概要を解説します。

(1) 中国の里程には、短里と長里があった
 周・魏・西晋朝は一里が約77メートルの短里であり、秦・漢・東晋朝は一里が約435メートルの長里だったのです。従って、倭人伝の記述は短里で表されていました。この検証をしないまま倭人伝の里程は間違っていると見做したり、また長里で計算するため、とんでもない所を比定地としていました。

「区間里程」概念図 邪馬壱国の行程図 合田洋一 『奪われた国歌「君が代」』古田武彦より

(2) 「部分と全体」
 「倭人伝」には、魏使が行く国と国の間の里程が詳しく記載されています。そこで、その国と国の部分里程をすべて足した里程は、総里程(12000余里)となります。つまり、部分の総和=全体です。
 このことから帯方郡治(韓国・京城附近)から不弥国まで、「魏志倭人伝」に記された部分里程を全て足した里程は10700余里であって、総里程12000余里に1300里足りないことが解りました。従来説は足りないまま論証していたのです。
 このうち伊都国から奴国までの100里は、直線行程(主線行程)ではない横道に逸れた、つまり傍線行程であると位置付けたため、その結果1400里足りなくなりました。この「足し落し」部分を「島めぐり・半周読法」12 により、対海国(対馬・下県郡)800余里と一大国(壱岐)600里の計1400里を見つけることが出来たのです。
 次に「水行十日・陸行一月」については、「水行十日」は帯方郡治より邪馬壹国までの海路の総日程であり、「陸行一月」は帯方郡治から邪馬壹国までの陸路の総日程だったことを証明しました。
 従来説は不弥国から邪馬「台」国まで「水行十日陸行一月」と解釈していたため、女王国の位置が遥か彼方の国内および国外に比定することになってしまったのです。
 また、不弥国から邪馬壹国までは、里程が書かれいないため、これも大きな混乱を招く要因となってました。それは、「部分」の「区間距離」が不弥国で終わっているからです。つまりその区間の里程は「0」 であり、従って「0の論理」により不弥国は邪馬壹国の玄関であった、と位置付けました。
 そして、朝鮮半島内の里程は、「魏志倭人伝」の記述「韓国を歴るに乍たちまち南し、乍ち東し、その北岸狗邪韓国こやかんこくに至る7000余里」を忠実に読んで「階段式読法」で算出しました。右の古田説の論証をまとめて見ますと、次のようになります。

 帯方郡治 -- 狗邪韓国(朝鮮半島内、水・陸行)7000里
 狗邪韓国 -- 対海国(水行)            1000里
 対海国(半周、陸行)                  800里
 対海国 -- 一大国(水行)              1000里
 一大国(半周、陸行)                 600里
 一大国 -- 末盧国(水行)              1000里
 末盧国 -- 伊都国(陸行)               500里
 伊都国 -- 不弥国(陸行)               100里
不弥国 -- 邪馬壹(玄関)                  0里

 以上、帯方郡治から邪馬壹国までの総里程 -- 12000余里。総日程 -- 水行十日・陸行一月となります。
 この陸行一月は、魏使が自らの足で踏破したものであり、当時の「魏」は既に「一倍年暦」であるので実数です。もしこれが倭人からの伝聞であるならば、「二倍月暦」(月の満ち欠けにより半月で一ヵ月)で半月という考え方にもなるのです。
なお、狗邪韓国は韓国南岸にあった倭人の国。末盧まつら国は松浦湾の唐津附近。このほか傍線行程として、伊都国 ーー 奴国100里。不弥ふみ国 ーー 投馬つま国水行二十日。投馬国は薩摩国の現・鹿児島市近辺。また邪馬壹国との交戦国狗奴この国の所在地は、「銅鐸王朝」圈内(河内国・摂津国辺りか)にあり大阪府交野かたの市にある交野山このやまの「この」がそれに通じる、としております。


五、邪馬壹国の所在地

 それでは、女王・卑弥呼の国「邪馬壹国」の所在地を古田説に基づきお話しします。
 邪馬壹国の玄関・不弥国は、伊都国から東へ100里、つまり7.7キロメートルです。基準となる伊都国は旧怡土村、今の前原市か糸島神社あたりとしますと、不弥国は今宿か姪の浜あたりです。そこが博多湾岸への西からの入り口、つまり玄関となるので、邪馬壹国は博多湾岸一帯となるのです。志賀島から朝倉までの線上の中心域がそれで、春日市を中心に博多駅から太宰府までの間は、数多の王墓や考古学上の豪華な出土物の密集地帯、いわゆる弥生のゴールデンベルトなのです。従来の論者は、ここを3番目の大国「奴国」に当てていますが、じつはこの地こそ「魏志倭人伝」が記す第一の大国、戸数七万戸に最もふさわしい所、女王の都する国だったのです。

 

六、女王・卑弥呼ひみか

 「魏志倭人伝」に描かれた女王・卑弥呼の人物像は次のようです。

  「邪馬壹国は元は男王でしたが、その70〜80年後(二倍年暦であり、実際は35〜40年)、倭国が乱れ、何年も互いに攻伐し合ったので、皆で相談して、一女子を立てて王としました。名づけて卑弥呼と言います。卑弥呼は、シャーマンつまり巫女でした。「年すでに長大」は、『三国志』の「長大」の用法をすべて検証した結果、30歳ぐらいのことを長大と言っていたことが解りました(従来説の「老人」ではない)。独身で弟が政治を補佐していました。いわゆる姉弟統治です。王となってからは見る者も少なく、婢千人をはべらせて、唯一人の男性が飲食の世話をし、言葉を伝えるため居室に出入りしたと言っております。宮殿・物見楼・城柵を厳重にして常に兵が守っていました。」

と。謎に包まれた女王卑弥呼は、古来、天照大神あまてらすおおみかみ・神功皇后じんぐうこうごう・倭姫命やまとひめのみこと・倭迹迹日百襲姫命やまとととひももそひめのみことなどに当てられてきました。これについて古田氏は、『よみがえる卑弥呼』 13 で次のように述べておられます。

   「天照大神では時代が全く合わない。卑弥呼は中国錦や倭国錦をまとった「錦の女王」であり(なお、この当時の近畿地方からは絹の出土例はないので、このことからも近畿は後進地帯と言える)、天照大神は布の時代「布の女神」である。神功皇后は『日本書紀』では「神功皇后=卑弥呼+壹与」の立場で「魏志」を引文しているが、卑弥呼は3世紀前半ないし中葉、神功皇后は4世紀前半ないし中葉の人物であり、卑弥呼に当てはめようにも到底無理である。倭姫命・倭迹迹日百襲姫命は、いずれも中心の権力者ではない。従って該当しえない。」

 それではいよいよ卑弥呼の正体は如何に。
 『筑後国風土記』逸文に「筑紫君」や「肥君」の祖「甕依姫みかよりひめ」が出ている。この甕依姫が卑弥呼であった。そして、「ヒミコ」と読むのではなく「ヒミカ」である、と。


七、侏儒国しゅじゅこく -- その痕跡を沖の島(宿毛)にみた

 「魏志倭人伝」に、

  「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。皆倭種。又、侏儒国有り。其の南に在り。人長三、四尺。女王を去ること四千余里。」

とあり、「侏儒国」(中国では小人のことを侏儒という)について、古田氏はその地として足摺岬近辺から豊後水道の四国側の東岸領域を比定しております。
 そこで私は、この中で近世までは周りと接触が少なく隔絶していたであろう閉鎖的土地柄、そのような地に侏儒の遺伝的形態が保存されているのではないかと考え、実地調査をしたところ、その痕跡を宇和海と黒潮がぶつかる周囲23キロメートルの孤島「沖の島」(高知県)に発見しました。
 島在住の人や島から転出している人、また先祖を含めて家族のことを証言してくれた年配の人の中には、身長が140〜150センチメートル、あるいはそれ以下の極めて背丈が低い人が少なからずいましたし、「この島は身長が150センチ以下でも、恥ずかしくない土地柄です」との証言もありました。
 このように比定地を具体的に提示したものの、何分にも身体的特徴を調査・検証することは、差別・人権侵害に繋がる恐れがあるため、未だ統計学的な論証はできていないことをお断りした上で、更に論述を進めます。 
 魏使は「投馬国」(薩摩国)へ行く途中、この「侏儒国」を己が目で見て確認したものと考えます。従って、「倭人伝」に登場する国々の中で、読んで字の如く「侏儒(小人)国」は全く特殊な国です。また「倭種」との記載はないので「異人種」です。     
 この「侏儒」は遺伝的形態のピグミー(男子の平均身長が150センチメートル以下の人種の総称 -- 『広辞苑』)であったと考えました。
 そこで、小人種すなわちピグミーについて『日本大百科全書』では、

  ピグミーには、アフリカ系のネグリロとアジア系のネグリトの二種がいて、この内フィリピンにはネグリトに属する先住民族「アエタ」がいる。このアエタは(中略)山岳地帯に住み、焼畑農業や弓矢を使っての狩猟・漁労が生業である。

と記しています。
 この記述から私は、侏儒の人々はフィリピンから黒潮に乗ってやって来たであろうと推測しました。というのは、江戸時代の地誌『沖島の記』 14 に、島人の習俗について次の記述があるからです。

  「人物常ニ月代セズ、着用短ク紐帯ナリ、色黒ク目多ク丸シ、夜ナドハ男女見別ガタキコトアリ、人物ヲ難シタルコト他言無用トゾ、水田子薪ハ頭ニ置キ往来ス、雨中ニ傘ナシ下駄モ不用石ノ上ヲ往テ不濡、岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ。」

 この著者は対岸の幡多地方小尽浦こづくしうらの庄屋浜田魚臣ですが、同じ幡多郡内にありながら、島人をまるで異人種であるかのように描写しております。この中には背丈の記述はありませんが、「色黒ク目多ク丸シ」は、私も多く見知っているフィリピンの低身長の人たちの特徴を良く現しています。そして、「岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ」は正に山岳地帯に住む狩猟民族を思わせます。従って、これは「アエタ」の名残に違いないと考えました。
 そして、この書には多くの「沖の島」の言語が収録されています。同じ幡多郡内にありながら、言語が土佐弁・幡多弁とは違うことから、ここに収録したものと思われます。
 また、地名にも母島もしま地区に「アシロクロミ山」 15 と言う意味不明な如何にも不思議な名前が遺っており、「沖の島」の言語と「アエタ」語との共通性を検証することが今後の課題となるでしょう。
 さて、古代に立ち返って、「侏儒国」の比定地とその範囲を考えて見ます。
 海流の動きを考えれば、太古の昔、彼らがフィリピンから幡多地方一円にやって来て定着していた可能性は否定できません。つまり、「沖の島」にある痕跡を見る限り、魏使の見た「侏儒国」は幡多地方西岸一帯であったと見做します。
 そのように考えると、弥生時代にあって体格の上で不利な侏儒が、その騒擾・動乱の時代をとても乗り切れなかったと思われることから、やがて次第に追詰められて九州王朝の支配化に入り、その一部が「沖の島」に封じ込められたという見方もできるのではないでしょうか。
 ただ時代を経るにつけ、四国や九州からも人々が入島して混血も進み、背丈も伸びてきたものと思われます。現在その痕跡は認められるものの、若い人は普通と変わりません。
 因みに、『今昔物語集』「土佐国妹兄行住不知島語第十」に登場する「妹兄の島(妹背の島)」はこの「沖の島」のことです。

 

八、裸国らこく・黒歯国こくしこく

 次は、縄文・弥生時代に倭人は南米のペルー・エクアドルと往来していた、というお話しです。

裸国・黒歯国あり、またその東南にあり、船行一年にして至るべし。(「魏志倭人伝」)
建武中元二年・・・、倭国南界を極めるや。光武、賜うに印綬を以てす。(「後漢書倭伝」)
侏儒より東南船を行ること一年。裸国・黒歯国に至る。使駅の伝うる所ここに極まる。(同書)」

とあります。ここに書かれている「船行一年」は、二倍年暦であり、実際は半年となります。裸国・黒歯国は南米ペルー・エクアドルであると古田氏は『「邪馬台国」はなかった』で仮説を立てていました。
その後、氏の仮説を裏付ける事実が次々と明らかになりました。氏の著書『海の古代史』 16 には、

 第一は、ペルー・エクアドルから大量の縄文式土器と土偶が出土(バルディビア遺跡)。エストラーダ氏(エクアドル)の「縄文土器の南米渡来」説。その後の研究を引き継いだエヴァンズ・メガーズ夫妻(米国スミソニアン博物館)によって世界に発信。

 第二は、1994年の日本ガン学会において、田島和雄氏(愛知ガンセンター疫学部長)によって報告がなされた。それによると、日本列島の太平洋岸の住民に分布する、HTLV1型のガンウイルスと同一のウイルスが、南米北・中部山地のインディオの中にも濃密に発見された。その結果、両者が「共通の祖先」をもつことが推定されるに至った。

 第三は、「寄生虫の論証」で、ブラジルの寄生虫研究の学者達が、南米各地で発見されたミイラの糞便から日本人特有の寄生虫を検出。この寄生虫は寒さに弱く、摂氏22度以下では死滅する。従って通常考えられやすい「ベーリング海峡経由ルート」では不可能である。

 そして、2007年2月に、「古田武彦氏と南米エクアドル・ペルーの古代史探究旅行」の一行25名が、バルディビア遺跡等を訪ねました。これについて、大下隆司氏の報告17,18 を要約しますと、

  「エクアドルで「甕棺」が出土している。時代は紀元前五百年で、このことは、弥生時代にも九州との交流があったことを証明している。次いで、「黒曜石の鏡」「能面“翁”に似た人面」の出土、および「トリタ・ハマ・マナビ・アリカ」など、現地に残る古代日本語の発見。また、「チチカカ湖」は現地語で「神聖な神の水」であり、縄文語と同じ意味となる。黒歯国では、古代バルディビアのシャーマンが、アンデスから取り寄せたコカの葉を灰などと混ぜて口に含んで儀式を執り行った。それにより口の中は真っ黒に染まったので、黒歯国の名はこれに起因している可能性あり。」

と。これらのことから、なんと倭人は南米まで航海を重ね、移住もしていたことになります。
 そして、「魏志倭人伝」のこの記事は、行って帰って来た人からの伝聞であり、それが魏使に伝えられ、「魏志倭人伝」や「後漢書倭伝」に載ったのです。
 古田氏は「倭国南界を極めた」に注目しました。

  「つまり中国から見れば、東南の果ての地である「裸国・黒歯国」は倭人の住む土地であり、倭国は中国の冊封体制下にあるので、この地まで中国の影響下にあることを誇示したいがためであろう。そして、魏使の目的地は女王国ではなく東の果てを極めるところにある。西の果て(安息国=パルチアコク・現在のイラン)を極めた『漢書』の班固に対し、陳寿は『三国志』で東の果てを極めた、と言おうとした。」19

と述べておられます。
 この侏儒国・裸国・黒歯国の比定地については、邪馬壹国の所在地から一連に考察しなければなりません。そうでなければ、『三国志』「魏志倭人伝」に記された邪馬壹国問題の帰結には到らないことを、最後に申し上げておきたいと思います。

 注
1、『三国志』は、後漢のあとの魏・蜀・呉の三国の事跡を記した史書である。「魏志倭人伝」は魏史に含まれるもので、魏の冊封体制下にあった倭国を魏使が見聞した記録である。西晋の陳寿が3世紀末に著わした。

2,『「邪馬台国」はなかった』古田武彦著 1971年11月 朝日新聞社 79年角川文庫(絶版) 93年朝日文庫

3、「万世一系・大和朝廷一元史観」とは、現・天皇家が古代より連綿と続いて、近畿の大和の地に君臨し、日本列島を統治していたとする考え方を言う。

4,「多元史観」とは、古代(西暦700年まで)においては各地に王国・王朝があったという古田武彦氏の説。

5、『新説伊予の古代』合田洋一著 2008年11月 創風社出版

6、『後漢書』後漢に関する史書。南宋の范曄(はんよう)が5世紀半ばに著わした。

7,『異称日本伝』松下見林著 (『改定史籍集覧第廿冊』所収 近藤瓶城編 昭和59年 臨川書店)

8、『古史通或間』新井白石著 正徳六年(『日本の名著15 新井白石』所収 桑原武夫編 昭和44年 中央公論社)   

9、『外国之事調書』 新井白石著 1722年 (『新井白石全集』所収 1977年6月 国書刊行会)

10、 4に同じ(『「邪馬台国」はなかった』)

11、『関于日本三角縁神獣鏡的問題』昭和56年

12、「島めぐり・半周読法」とは、対海国(比定地は対馬の下県郡〈南島〉)は方400余里、一大国(一支国・壱岐島)は方300里と書かれていることから、半周はそれぞれ800余里と600里となる。

13、『よみがえる卑弥呼』古田武彦著 1992年6月 朝日文庫

14、『沖島の記』天保十四年頃〈1843〉 浜田魚臣著 (『柏島記』北原敏鎌著に収録されている。宿毛市史資料九)

15、『角川地名大辞典』「高知県小字一覧」

16、『海の古代史』古田武彦著 1996年10月 原書房

17、『古代に真実を求めて』第十一集所載 「エクアドルの大型甕棺」 大下隆司論稿 2008年3月

18、『なかった 真実の歴史学』古田武彦直接編集 第4号所載 「特集 最新の南米の調査 エクアドルで報道された特集記事」大下隆司訳 2008年2月

19、『なかった 真実の歴史学』古田武彦直接編集 第4号「特集 最新の南米の調査 南米の古代日本語地名」2008年2月


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『吉野ヶ里の秘密』古田武彦 へ

『海の古代史』古田武彦(一九九六年十月 原書房) へ

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