八女郡星野村行 古賀達也(『新・古代学』第6集)


倭王の「系図」と都域 八女郡星野村行 人麿神社とチンのウバ塚

古田史学会報
2001年10月 5日 No.46

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八女郡星野村行

人麿神社とチンのウバ塚

京都市 古賀達也

 この夏、父の初盆供養のため帰省したおり、また星野村へ足を運んだ。今回の目的は、チンのウバ塚を実見することと、麻生神社に合祀されている人麿神社の調査だ。弟、直樹の運転する車で、まず浮羽郡浮羽町御幸の古賀一族墓地に寄り、墓掃除を終えた後、水縄山地を山越えして星野村へ入った。昨年までは、父が運転する車に同乗し、何度も訪れたルートだった。
 一旦星野村へ入ってしまえば、星野川沿いの小さな村なので、道に迷うことはない。まず星野村中央部、標高三百メートルの山中にある麻生池に向かう。そのため、この山は「池の山」とも呼ばれ、その湖畔に麻生神社がある。麻生池は周囲七百メートルの自然湖で、干ばつの際も水が枯れたことはなく、古くから雨乞いや風鎮などが行われた所という。
 麻生神社では毎年九月十九日に近い日曜日に「反哉(はんや)舞」が奉納される。境内の一画に舞台が設けられている。摂社を捜すが、人麿神社らしきものは見当たらない。麻生池にある中島(なかのしま)には小さな社殿があり中島弁財天社と表示板にある。御祭神は市杵島姫命で、本地仏が弁財天とのこと。阿蘇山伏の峯入修行が行われていた時代には、この弁財天社にも必ず納礼していたらしい。その小さな社殿には大きすぎるほどの屋根が載せられているが、度重なる台風にも耐えてきた。
 どうしても人麿神社が見付からないので、宮司さんの家にも寄ったが、あいにくの留守で、すぐには帰らないとのこと。仕方がないので、もう一つの目的地、チンのウバ塚を探すことにした。こちらはすぐに見付かった。
 星野川沿いの一本道を矢部村の方向へ走ると、「古陶星野焼展示館」と「チンのウバ塚」の標識があり、展示館裏手の道路と川の間に塚はあった(星野村千々谷)。それは高さ二メートルほどの異様な形をした積石塚だった。説明板によると、「塚の形状は、一説に双円墳と伝えられていましたが、一辺が八・〇m以内の方墳か長方形墳と考えられます。遺物は、伝えられている鏡二面とカンザシ一本のほか土師器、陶磁器類が出土していますが、時期は平安時代から近世までと幅があります。築造年代は、二面の鏡と出土土器から平安時代初頭(八世紀末)前後と考えられます。」とある。
 近年、年輪年代測定法により従来の土器片年が百年ほど遡る可能性があり、そうするとこの塚の築造年代は七世紀末前後となり、まさに九州王朝滅亡前後の時代に相当する。そして、それは柿本人麿が活躍した時代と重なるのだ。そうなると、先の人麿神社と何等かの関係があるかもしれない。なお、二面の鏡(海獣葡萄鏡)のうち、白銅鏡は中国製、青銅鏡は国産と説明板にはあったが、その根拠までは記されていない。現在は東京国立博物館収蔵となっているこの鏡についても実物に当たっての調査が必要だ。なお、レプリカが星野村土穴の大円寺にあることを後で知った(銀のカンザシは行方不明)。
 チンのウバ塚のことを星野村教育委員会の栗秋恵二氏に電話でうかがったところ、ある郷土史家の説として、ウバとは仏教信徒を意味する優婆塞・優婆夷のことではないかとする見解があることを教えていただいた。確かに検討に値するかもしれない。また、古田先生からうかがったことだが、福岡県小郡市に「北のウバ塚」「南のウバ塚」という字地名があり、「ウバ塚」という特定の概念があるのではないかということであった。今後の研究課題としたい。
 ところで、わたしが星野村に人麿神社があることを知ったのは、国武久義著『筑後星野風流「はんや舞」の研究(1) 』に紹介されていた『福岡県神社誌・中巻(2) 』の次の記事からだった。

「神社 麻生神社
祭神 建磐龍命 柿本人麿
由緒 不詳 或伝に祭神懐良親王
 祭神柿本人麿は同大字石原無格社人麿 神社として祭祀ありしを明治四十四年 一月十三日合併許可。昭和七年七月十 九日村社に列せらる。」

 結局、人麿神社を見つけられないまま、星野村を後にしたのだが、その日の夜、麻生神社宮司の氷室説義(とくよし)氏に電話がつながり、詳しくお聞きすることができた。人麿神社は社殿横にあった小さな石の祠がそれで、何も表示がないので探しても判らないはずとのことであった。そう言われれば確かに社殿横に小さな石の祠が二つあったが、まさかその内のひとつが人麿神社だったとは思いもしなかった。
 人麿神社はもともとは山の下の集落にあったもので、四〜五軒の家で祭っていたものを昭和十年頃麻生神社に合祀したものらしい。今でも毎年十月一日にお祭りをするとのこと。伝承として、火災を人麿が和歌を詠んでくい止めたことにより、火災避けとして祭っていたことをうかがった。この伝承は恐らく、人麿(火止まる)の語呂合わせから発生したものと思われるが、興味深い伝承だ。
 もっと詳しい話しを聞くために、人麿神社を祭っている家の長老格である江良節男氏をご紹介いただいた。そして後日、江良氏より次のようなお話を聞くことができた。人麿神社を祭っている家は、江良家・森松家(二軒)・高木家・江田家の五軒で、ずっと昔から祭っていた。今はなくなったがご神体は丸石だった。江良家のお墓は浮羽郡吉井町にあり、おそらく元々は吉井町の方に住んでいたものと思われる。高木家は星野村の旧家である。以上のようで、人麿神社祭祀の由来は不明とのことだった。ただ、以前は現星野村役場付近にあったもので、工事のため生神社に合祀してもらうことになったとのこと。
 このように現地での伝承などは絶えてしまったようだが、人麿の妻の依羅(よさみ)娘子の依羅が音読みでエラとも読めることから、江良家と何等かの関係があるのかもしれない。これも今後の楽しみな研究課題だ。

 そしてやはり、ここで問題となるのが『万葉集』の次の歌だ。

  天の海に 雲の波立ち 月の船
  星の林に こぎ隠る見ゆ
   右の一首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出でたり。
     (『万葉集』巻七、一〇六八)

 この歌にある「星の林」は星野村と関係があるのではないか、とは古田先生からうかがった話しだが、どうやらその可能性の高いことがわかってきた。その根拠として、一つは『万葉集』の同じく人麿の次の歌だ。

  大船に 真楫(まかじ)しじぬき 海原を漕ぎ出て渡る 月人壯子(をとこ)
  右は、柿本朝臣人麿の歌なり。
   (『万葉集』巻十五、三六一一)

 そして、もう一つは『肥前国風土記』養父郡曰理(わたり)郷に見える次の地名説話だ。

 曰理の郷 郡の南にあり。 昔者、筑後国の御井川の渡瀬、甚だ広く、人畜渡り難し。ここに、纏向の日代の宮の御宇麻天皇、巡狩の時、生葉山に就きて船山と爲し、高羅山に就きて梶山と爲して、船を造り備へて、人物を漕ぎ渡しき。因りて曰理の郷といふ。

 水縄山地の東の生葉山を船山に、西の高良(羅)山を梶山に見立てているが、高良山に鎮座する高良大社の祭神、高良玉垂命は月神(3) とされており、先の人麿の歌にある真楫を漕ぐ「月人をとこ」と見事に対応している。この「月人をとこ」とは、安曇族を中心とする、月神(高良玉垂命)を信仰する船乗りたちのことではないだろうか。たとえば、玉垂命巡行説話の舞台でもある大川市酒見(旧三潴郡)にある風浪宮の祭神は、少童命・八幡大神・高良玉垂命であり、神職の酒見氏は安曇磯良の子孫といわれる。境内には磯良塚もある。また、この地方一帯は濃密な玉垂命信仰圏でもある。

 このように、人麿の歌や『肥前国風土記』に筑後地方の地名や神名が取り込まれているのだ。したがって、同じ人麿の一〇六八番歌の「星の林」も、同様に地名の星野が詠み込まれていると見ても問題ないように思われる。
 そうすると、これら二首の作歌場所は筑後国と考えざるを得ない。人麿はやはり筑後国に来たことがあるのだ。おそらく星野村にも。もしかすると、あのチンのウバ塚の被葬者を知っていたかも知れない。あるいは、葬儀にも参列したのではないか。もちろん、まだ空想に過ぎないが、そうであっても不思議ではない。

 最新の古田先生の万葉集研究によれば、人麿はあの白村江戦に参加しているらしいとのこと。もし、そのとおりであれば、人麿を乗せた「月人をとこ」たちが漕ぐ大船は、筑後川を下り、河口の熟田津(にきたつ 佐賀県諸富町新北、下山昌孝説)より有明海から白村江へと向かったのではないか。その時、船乗りたちの長、額田王が歌ったのがあの熟田津の歌ではなかったか。

 熟田津に 船乗りせむと月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな
     (『万葉集』巻一、八)

 ここにもやはり「月」が詠み込まれている。目に浮かぶような光景だ。こうして、わたしの星野村歴史探訪は柿本人麿の人生と折り重なりながら、いよいよ佳境へと船出したようだ。

※本稿の内容は八月十八日、古田史学の会・関西例会にて発表したものである。

(注)
1 国武久義『筑後星野風流「はんや舞」の研究』昭和六三年、葦書房。本書を大円寺御住職より御紹介いただいた。

2 昭和十九年刊。

3 『高良記』『八幡愚童訓』になどに、玉垂命は月神であり、神功皇后の船を先導したと記されている。


倭王の「系図」と都域

  京都市 古賀達也

 わたしが九州王朝研究を始めた当初、その主なテーマは九州王朝の伝承や末裔についてであった。その成果の一端として、鹿児島県に伝わる大宮姫伝説が最後の九州王朝の王、筑紫の君薩夜麻とその王妃の伝承であるとする説や、佐賀県に伝わる與止姫伝説が邪馬壹国の壱與の伝承であるとする説、そして、『続日本後紀』に見える筑紫公文公貞雄と貞直兄弟を九州王朝王族の末裔とする説などを発表してきた(注1

 また、九州王朝の子孫を探求すべく、「筑紫」を名乗る一族、たとえば戦国武将筑紫広門の系図調査なども試みたが、この面ではさしたる成果も得られず、研究は前進しなかった。ところが、古田武彦氏により二つの大きな研究成果が発表され、俄然、九州王朝史研究は進展を見たのである。その一つは、筑後国風土記逸文に見える甕依姫が卑弥呼のことであったこと、そしてもう一つは、高良玉垂命の末裔である稲員家系図の「発見」と紹介であった。後者については拙稿「九州王朝の筑後遷宮─高良玉垂命考」(注2)にて詳論したとおり、歴代の高良玉垂命が倭の五王であったとする説にまで研究を進展させることができた。
 前者の、甕依姫と卑弥呼を同定した古田氏の説(注3)は、九州王朝史を概観するうえで重要な指摘であったが、この論証の持つ意味について、多元史観研究者・古田学派はもっと十分に留意するべきである。というのも、近年、倭国内の分王朝併存説や易姓革命説(注4)などが出され、それら仮説が必要にして十分な論証を経ないまま、更に別の仮説の根拠に使用されるという、「仮説の重構」現象が散見されるからである。これらは学問の方法として危険な方法であり、論証をその生命とする古田史学とは異質ではあるまいか。
 すでに「倭国易姓革命説」に対しては、安藤哲朗氏が「『倭国の易姓革命』について」(注5)において、その用語使用の厳密性の指摘と、中国史書の内容から批判されているが、先の古田氏による筑後国風土記逸文の史料批判からも、少なくとも卑弥呼以後の易姓革命説は成立し難いと言わざるを得ない。
 古田氏の論証によれば、筑後国風土記逸文には、風土記編纂時点(注6)の筑紫君等の祖は甕依姫(卑弥呼)であると記されている。

 「昔、此の堺の上に麁猛神あり、往来の人、半ば生き、半ば死にき。其の数極く多なりき。因りて人の命尽の神と曰ひき。時に、筑紫君・肥君等占へて、今の筑紫君等が祖甕依姫を祝と為して祭る。爾より以降、路行く人、神に害はれず。是を以ちて、筑紫の神と曰ふ。」

 従来説では、「今」を「令」と読み換えて、筑紫君等が甕依姫に祭らせたとしてきたが、原文は「今」であり、原文改定による従来説は誤りと指摘されたのである。そして、この古田氏の新読解により、卑弥呼(甕依姫)から風土記成立時期(今)の筑紫君まで、倭国王家は基本的には連続していたと見なさざるを得ないのである。他方、『隋書』に見える倭国の記述も、卑弥呼以降連綿と続いているように記しており、易姓革命によるような断絶をうかがわせる記述はない。
 なお、卑弥呼共立に至る倭国の内乱を福永氏は易姓革命に相当する事態と捉えられているが、「易姓革命」という定義がこの場合妥当かどうかは別として、この時期に倭国王権の質的変化が進んだことは考えられよう。この点、今後の実証的な研究が待たれる。なお、付言すれぱ、倭国王族内での権力抗争(注7)などは起きたであろうが、王朝そのものが交替するような事態は、七〇一年における倭国から大和朝廷への列島代表者の交代しか、卑弥呼以後は見当たらない。
 次に、倭国内部における「分王朝併存」という説について見てみると、これもやはり史料根拠が不十分であり、論証も成立しているようには見えない。未だアイデア段階の域を出ておらず、現時点では作業仮説として問題提起に留めておくのが賢明ではあるまいか。
たとえば、北部九州における神籠石の分布図を見ても、これら神籠石群が防御しようとしている中枢地域は太宰府と筑後川中流域であり、豊前などではない。神籠石が築城され続けた五〜七世紀の期間、倭国の中枢は太宰府(筑前)と筑後川流域(筑後)と見なさざるを得ず、それらに匹敵する、あるいは準ずる領域の存在を神籠石の分布図は示さないのである。
 更に、太宰府に匹敵するような政庁を持つ大都市遺構もまた九州からは発見されておらず、この点からも倭国内分王朝併存説は成立困難である。同時にこの考古学的事実は、倭国「遷都」説をも成立困難なものとしている。

 わたしは倭国の筑後遷宮(注8)というテーマを発表したが、そこにおいて「遷都」ではなく、「遷宮」の一語を用いたのも、理由のひとつに三瀦あるいは筑後地方に条坊制を持つ太宰府のような大都市遺構が存在しないことであった。遷都とは王族のみならず、文武百官ならびにそれらの生活を支える多くの人々の移動を伴うものである。当然、それら大人口を受け入れられるだけの大都市の存在、あるいは新都建造を抜きにしてはありえない。この点、遷宮であれば王宮とそれを支え守る程度の人々の移動だけでも可能である。こうした判断から、わたしは筑後遷都ではなく、筑後遷宮と表記したのであった(注9)。このような観点からすれば、京都郡(豊前)などの地名も、遷宮の可能性を検討されるべきであろう。
 九州王朝研究において、様々な視点から仮説が提起されることは、もとより好ましいことであるが、同時に論証が成立しているか否か客観的な判断をもって論を進めるべきであろう。古田史学・多元史観を発展させるためにも、自説・他説にかかわらず、アイデア段階の作業仮説と既に論証が成立した安定な説とを峻別する力量と節度(学問的謙虚さ)が問わているのではあるまいか。

(注)
1 「最後の九州王朝─鹿児島県『大宮姫伝説』の分析」『市民の古代』第一〇集所収。一九八八年、新泉社。
  「よみがえる壹與─佐賀県『與止姫伝説』の分析」『市民の古代』第十一集所収。一九八九年、新泉社。
  「九州王朝の末裔たち─『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』第十二集所収。一九九〇年、新泉社。

2 『新・古代学』第四集所収。一九九九年、新泉社。

3 古田武彦『よみがえる卑弥呼』一九八七年、駸々堂。現在、朝日文庫に収録。卑弥呼の比定ーー「甕依姫」説の新展開

4 福永晋三「新・九州王朝の論理」─邪馬壹国を滅ぼし邪馬臺国成る」『新・古代学』第五集所収。二〇〇一年、新 泉社。

5 『多元』No. 四四、二〇〇一年四月。 なお、安藤氏は福永説として、卑弥呼と壱与間の易姓革命説を批判されているが、福永氏は卑弥呼・壱与(邪馬壹国)と倭王旨(神功皇后・邪馬臺国)間の断絶(易姓革命)と述べられており、この点、安藤氏の誤解であろう。

6 この筑後風土記逸文が、九州王朝編纂になる「縣」風土記であれば、その編纂時期は六〜七世紀と思われる。あるいは大和朝廷が編纂した「郡」風土記であれば、八世紀の編纂と考えられるが、現時点ではいずれとも断定し難い。

7 いわゆる「磐井の乱」、古田氏のいうところの「継体の反乱」を倭国王族内部の権力闘争として捉える仮説も、一度は考えてみたい視点であるが、わたし自身は残念ながら史料根拠に基づいた論証が提示できないため、その当否を慎重に留保している段階である。

8 「九州王朝の筑後遷宮─高良玉垂命考」『新・古代学』第四集所収。一九九九年、新泉社。

9 遷都・遷宮問題については、古田武彦氏のご注意を得た。

〔編集部〕本稿は『多元』VOL.45、二〇〇一年十月発行より転載させていただいたものです。


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